3話 兄と弟
「ただいま」
形式的な帰宅の言葉を、アウルが小さく呟く。
しかし『おかえり』は返ってこない。
少しだけ冷えた自宅の玄関は、どことなく寂しさを感じさせた。だが少年にとってそれは慣れきった光景である。特に気に留めることもなく、アウルは履いていたブーツを脱ぎ始めた。
(……まあ、誰もいないのは解りきってることだしね)
脱いだブーツをきちんと並べると、アウルは廊下に面したリビングへと足を運んだ。帰宅後にする事と言えば夕食まで寝るか、趣味の読書にでも耽るかが、アウルにとっての普段である。
(ソファで少し寝て、晩ごはんの後にでもちょっとだけ剣術を練習してみようかな……)
それを実行に移すかは別として、この後の予定を軽く脳内で組み立てながら、アウルはリビングへと足を運んだ。
「アウル、おかえり」
「っっ――!?」
突然の呼び声。家には自分以外誰も居ないはず。そう確信しきっていたアウルの心臓が、大きく跳ね上がる。
「あ、兄貴……」
動揺を隠すことの出来ぬままアウルが呼び返す。
男は、食卓テーブルの上に脚を組んで腰掛けていた。
キチンとセットされた短めの金髪とダークブラウンの瞳。カジュアルな革のコートに身を包み、身なりの良い姿をした精悍な顔つきのこの男の名は、〝クルーイル・ピースキーパー〟という。そのラストネームが示す通り、アウルの家族にして実兄であった。
「久々だな、元気にしてたか?」
「……うん」
彼の経歴を少しだけ並べると――。
二十年前――ピースキーパー家の長男としてクルーイルは生まれ、名家の嫡子としての英才教育を父から受けて育った彼は、学武術園へと入学をする。
アウルとは違い、他を寄せ付けぬほどの群を抜いた成績を誇っていたクルーイルは、主席にて卒業。その後は当然、国軍へと入隊を果たした。
入隊をしてからの彼は、新兵ながらも数々の戦果を挙げ続け、名家の嫡子に相応しき活躍を披露していた。
更には、ゼレスティアを統べるマルロスローニ家の十代目当主にして現在の国王陛下――ヤスミヌク・マルロスローニが、国の防衛強化の為と称し銘を打って結成された十数人からなる精鋭部隊、『親衛士団』の団員にも十八歳の若さで抜擢されるという快挙を成し遂げたのだ。
そんな、弟のアウルとは対照的な華々しいキャリアを築いてきた兄、クルーイル。
何か一つ問題があるとするのなら――。
「――こうやってまともに顔を合わせて話すのは大体ニ年ぶりくらいか? 少し背が伸びたようだな」
「兄貴は、そんなに変わって……ないね」
腹の内を探りでもするように、他愛もない話題を振る兄。対してアウルは声が上擦り、うっすらと金に輝く瞳を横へ行ったり来たりと、視線の置き所に悩んでいた。
「フ……俺はもう二十歳になったんだぞ? 大きな変化なんてあるわけがないだろ」
「そう、だね。ハハ、は……」
愛想笑いで返したアウルは、こめかみに冷や汗が一筋流れたことに気付く。しかし、今の少年の精神状態では拭う余裕などなかった。それほど、実兄に対し心の底から畏怖していたのだ。
「どうした? そんな所にいつまでも立ってないで座ったらどうだ?」
クルーイルが声を掛けると共に、顎で指す。指された先には、三人掛けの黒い皮張りのソファーがあった。
「…………っ」
アウルは兄に言われるがまま、恐る恐るとそこに座る。続くようにクルーイルも、少年の隣にスッと腰を下ろした。
「学園はどうだ? 上手くやってるのか」
「まあ……それなりに」
「それなりに……か」
兄からの質問に対し、当たり障りのない返答をしたつもりのアウルだったが――。
「――っっ!?」
硬い物体同士が激突した、重く鈍い音が静かなリビング中に響く。音の正体は、アウルが頭髪を思いきり鷲掴みにされ、そのまま硬い床板に額から叩き付けられたことに依るものだった。前のめりに叩き付けられた額からは真っ赤な血が流れ出し、床板の木目を伝っていく。
「あ、兄貴……! なにす――」
「お前のっっ! お前のそれなりって一体どの程度なんだ!? なぁアウル……答えてみろっ!」
開いた瞳孔に血走った両眼。とても血を分けた兄弟に向ける顔つきではなかった。
凶相とでも言うべき表情を浮かべ、弟の顔面を床板に押し付けたまま、クルーイルは大声で叱咤を続ける。
「俺はな……お前と違って、今までピースキーパー家の長男としてっ、親父の名に恥じないよう死ぬほど努力してきたっていうのにっ……どうしてお前は、その程度の出来でのうのうと生きていられるんだよっ!」
「兄貴っ、一回落ち着こうよ……!」
転げ回りたいほどに額がジンジンと痛むのを堪えながら、アウルはクルーイルの拘束を無理矢理とほどく。ブチブチと毛髪が何本か抜ける感触があったが、意に介している暇などない。
「どうしたんだよ兄貴……なにかあったの?」
「なにがあったかお前は知ってるんじゃないのか!? あぁっ!?」
アウルは宥めるようにして尋ねてみたが、怒声まじりに突っ返されてしまう。兄の口振りから察するに、何かがあったのは確かなのだろう。
しかし、アウルには全く心当たりが無かったのだ。
「し、知らないよ」
「嘘をつくなっ!」
今度は、左頬にクルーイルの拳が刺さる。
「……っ!」
重たい衝撃に殴り飛ばされ、アウルは背中から壁にぶつかった。殴られた箇所が熱を伴った激痛が襲い、意識を卒倒させそうになる。だが必死の思いでなんとか身体を起こし、リビングから脱兎の如く飛び出す。
「アウルっ! 待てっ!」
(待つわけないじゃん……くそっ! またこれだ……!)
悠長に靴を履いている暇は無いと一瞬で判断をしたアウルは、ブーツを拾い上げて素足のまま玄関から家を出た。
「逃げるのかアウルっ! お前は昔から逃げてばっかだなぁ!」
追い掛けながら尚も言うクルーイルだったが、弟の逃げ足の速さを熟知しているため、深追いを諦めた。
アウルは命からがら、何とか逃げ果せたのであった――。
◇◆◇◆
「――痛ったぁ、相変わらず本気で殴るんだもんなあ……」
自宅からひとしきり遠くへと逃げることに成功したアウルは、アーカム市の街中を歩いていた。痛む頬と額をさすり、奥歯の方から涌き出てくる血をペッと吐き出すと、兄への不満をこぼす。
(ニ年振りに帰ってきたと思ったら……なんであんなに荒れてるんだよ……)
親衛士団の団員は四六時中任務で忙しいため、団員によっては自宅に帰らない者もいる。クルーイルもその内の一人で、団士になってからのニ年は生活の殆どを任務で明け暮れさせ、家をずっと留守にしていたのだった。
(おまけに情緒不安定なところもちっとも直ってないしさ……)
ただニ年も経ち齢も二十を迎えれば、癇癪持ちの性格も少しは改善し、仲良く過ごせるんじゃないかという淡い期待をアウルは抱いていた。しかし結局のところ、その期待は呆気もなく打ち砕かれてしまった。
(確かに俺は兄貴の言う通り、一族始まって以来の落ちこぼれだよ。数術に限らず学術全般ダメだし、武術も魔術も平均以下。だけど――)
「いだっ!」
物思いに耽りながら雑踏の中を歩いていたアウルだったが、曲がり角から現れた大男と不意に衝突してしまい、石畳へと強かに尻もちをつく。
「おお、すまんな。大丈夫か……ってお前さん、アウルか?」
「……ん?」
低く太い声で心配をすると共に、アウルの名を呼んだ大男。アウルも声に聞き覚えがあり、反射的に顔を見上げた。
「バズさん……?」
見上げた先に立っていたのは、クルーイルが所属する『親衛士団』の副団長――〝バズムント・ネスロイド〟という名の男であった。