底辺を生きるということ
逃げた。
逃げて、逃げて、逃げ続けた。
あの場所に一秒も居たくないと。
肺が悲鳴を上げるのも無視して、走り続けた。
ひたすらトヴァレの東に向かって突き進む。
トヴァレの北には未踏領域への門やギルドの本部があり、南には大陸へと繋がる巨大な橋がある。
西には職人街や商業区、居住区などがある。
そして東にはクランのホームなどが建ち並ぶが、僕はクランに入っていない。
レベル1の《エターナル・ワン》なんか、どこのクランも仲間にしようなんて思わないだろう。
目的は別の場所だ。
この先にダンジョンがある。
ダンジョンといっても、もう攻略されていて、魔物も財宝も何も無いただの地下迷宮に成り下がった場所だ。
初めはこのダンジョンの周囲に街ができて、どんどん大きくなり、トヴァレとして今の形になったのだが、攻略されてからは用無しになっている。
今では入り口にギルドが立てた木の柵で立ち入り禁止になっているけど、お金の無い僕は宿にも泊まれず、ここを生活の拠点にしていた。
ギルドに見つかったらどんな目に遭うが分からないけど、生きていくためには仕方ないって自分を納得させている。
そうして後少しで地下迷宮への入り口に辿り着くと思った瞬間、盛大に何かに躓いた。
「あっ!? ぐっ!」
突然のことで受け身すら取れず、顔から地面へ衝突する。
口の中には砂利の感触と血の味が広がる。
何かに躓いたのだと後方を確認すると、物陰で死角になった場所から片足を出している男と、その取り巻きと思われる二人の男がニヤニヤと嫌な笑みをこちらへ向けていた。
またやられた……。
悔しさが沸き、僕は男達に聞こえないように舌打ちをする。
この三人は冒険者で、こうして時折、僕に嫌がらせをしてくるのだ。
たぶん狙いはお金だ。
いつも取られているから分かる。
関わるのも面倒なので、僕は無言で懐から小袋を取り出し、男達へ突き出す。
その態度が気に食わなかったのか、にやついていた男達の顔から笑みが消えた。
向けられるのは、煮えたぎった怒りと殺意だった。
「おい、シフォンよ。何だそれは?」
「……僕の、全財産です」
「そんなはした金は要らねぇんだよ! 決めた、お前サンドバックの刑な」
「うひょー! 間違って殺してしまうかもな!」
「別に良いんじゃね。トヴァレで《エターナル・ワン》が死んでも誰も気にしねぇよ」
「な!? ちょっとま──」
言い終わる前に顔を蹴られた。
たったそれだけで体は簡単に吹き飛び、地面を情けなく転がり回る。
空、地、空と視界は激しく切り替わり、気分が悪くなりそうだ。
それに痛いし、苦しい。
レベル差のある蹴りを受ければ一撃でも気を失いそうになるっていうのに、そこからはひたすらボコボコにされた。
何で生きてんだよとか、せめて金くらい稼げよとか、俺達のおかげでお前みたいな奴が能天気に暮らせているって分かってるのかとか、蹴りと拳の合間に散々言われた。
早く意識飛べよと思うのに、今日はなかなかそうはならない。
あぁ、痛いのは嫌だっていうのに……。
◇
「いっ、たぁ……」
全身の痛みで目を覚ました。
視界には夜空が広がっている。
どうやら随分長い時間倒れていたようで、立ち上がると体のあちこちが悲鳴を上げていた。
こんな理不尽に何を言っても意味はない。
トヴァレは荒くれ者の街。
強い奴が絶対なのだ。
鉛が付いたように体は重く、痛みは激しくなる中、おぼつかない足取りで用無し迷宮へ入る。
中は石造りになっていて、石と石の継ぎ目からは淡い光が漏れていた。
地下一階へ降りた僕は隅の方へ移動すると、自前の物が乱雑に置かれた壁際へ座り込んだ。
ひんやりとした石の壁へ寄り掛かり、膝を抱える。
漏れ聞こえるのは、ため息だけだ。
「……つらいなぁ。いっそ村へ帰った方が楽になれるのかな……」
頭ではその方が良いって分かっているのに、何故かその気にはなれなかった。
たぶんトヴァレに意地でもしがみついてないと、本当に全てが終わってしまう気がしていたからだ。
いつも用無し迷宮で感じる異質な視線にすら気に留める余裕もなく、その日はすぐに眠りについた。
◇
次の日。
ボロボロの体を引き摺り、今日も今日とてガレヴァン大森林で魔物と対峙していた。
だけど、今日の相手は分が悪い。
「ゴオオォ!」
「くっ!?」
威嚇の咆哮を食らっただけで怯み、逃げ出したくなる。
目の前にいるのはゴブリンの上位種、ホブゴブリンだ。
背丈が成人男性と同じくらいになっただけでなく、筋肉量が増えたことで髄力がゴブリンの比ではない。
一発でもまともに食らえば、待つのは死のみ。
過剰な緊張感と共に僕は剣を構え、ホブゴブリンは無造作に手斧を持ち上げた。
はっきりいって、まったく勝てる気がしない。
体は逃げろと言っているのに、その気にはなれなかった。
きっと昨日、リタに会ったからだろう。
行き場を無くしたグチャグチャの感情が、破壊衝動へ変換されて、僕に囁く。
ぶっ潰せと。
「……あぁ、良いよ。その通りにしてやるよ。どうせ勝てなきゃ死ぬんだ。醜くても生にしがみついてやる……!」
曇り空の中、頬へ落ちてきた雨粒を開戦の合図として、僕は飛び出した。