70.生者のこれから
どこまでも続くような長い廊下と、その先に広がる六角形の部屋。その場所は、この世のものとは思えないほど真っ白だった。
ひんやりとした床も、周りを囲む高い壁も、すべて艶のない白で覆われている。それらは石とも玉ともつかない材質でできており、継ぎ目はどこにも見当たらず、一塊のそれを今の形に削り出したかのようだった。
硬質な印象の部屋の中で、唯一柔らかそうな椅子が広間の中央に置かれている。それもまた、目に痛いほどの白であった。
玉座のようなその上で、一人の女が目を閉じて座っていた。
6シャト(※約180センチ)はあろうかという背の高い女だ。ほっそりとしていて長い影法師のようにも見える。かかとまで伸ばした髪は部屋と同じ色をしていて、灰色の肌は元よりも暗く見えた。
不意に女は目を開けた。黒地の眼球の中に赤い瞳が灯っている。その目が、部屋に入ってきたものを捉えた。
「おかえりなさい、ベギーアデ」
廊下の向こうから歩いてきた、かかとの高い靴を履いた女を見て、彼女は立ち上がってそれを迎えた。
「しくじったようね」
チッ、とベギーアデは舌打ちを響かせる。
「デジールは?」
「あの子なら、もう『精神調整』に入っているわ。仲良しのサイラス師に裏切られて、参っているようだから」
「やらかしてくれたよな、あいつも……」
髪の長い女は口元を歪めた。笑みの形に似ていたが、その感情を読み取るのが難しい程に、赤い瞳が見開かれている。
「やらかしたのは本当に、サイラス師かしら?」
ぎくりとベギーアデは身じろぎする。
「え、エピテミア、違うんだよ……」
背の高いエピテミアは、おもむろに右の手の平をベギーアデに向ける。ひっ、と悲鳴を上げる間もなく、ベギーアデの体が後ろへ大きく吹き飛んだ。
長い回廊を吹き飛ばされ、どこかの壁に当たったのか「ぎゃっ!」という声が小さく聞こえた。
エピテミアは右手を返し、人差し指と中指を人を招くように動かした。
「ひぃやあぁ!?」
回廊から見えない腕に引っ張られるように、ベギーアデが戻ってくる。床に叩きつけられ、彼女は激しく咳き込んだ。
「あなたがわたしの意に反する行動をとったのは、これで何度目?」
灰色の肌に大汗をかき、激しく息をするベギーアデを見下ろして、エピテミアは平坦な口調で問う。
「592回よ。この287年で。平均して年に2度以上逆らっているということ」
両腕を床につき、四つん這いになって呼吸を整えるベギーアデの背を、エピテミアは長い足で踏みつける。
「いい加減、学習しなさいな。自分は短慮な諜報員で、お姉さまの指示がなければ、お使い一つできませんって」
「あ、あ……」
みしり、と嫌な音がしてベギーアデは床に這いつくばる。エピテミアの足から強い力場が発生しており、それが彼女の体を床に押し付けているのだ。
「サイラス師は死に、その娘の『異世界転生者』は生き残る。しかも我々の情報を聞かれたっていうじゃない? 無茶苦茶よ。生死が逆ならまだよかったのに……」
聞いてる? とベギーアデの背へ更に圧力をかける。
「あが、があぁあ……!」
「『神玉』のことは仕方ないわ。わたしも許可を出したし。でもね、サイラス師には、まだまだやってもらいたいことがあったのよ? デジールとも仲が良かったし……」
大きな音を立てて、ベギーアデの髪を結んでいた紐がちぎれ飛ぶ。体が変形するほどの強い圧力を受けながら、ベギーアデはどうにか言葉を紡ぐ。
「ご、ごべ、ごべんな……ざ……い……」
長い息をついて、エピテミアは妹の背から足をどけた。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
髪を振り乱し、荒い呼吸をするベギーアデに、エピテミアはしゃがんで顔を寄せる。
「今から言うことを繰り返しなさい、ベギーアデ」
あごを摘んで顔を上げさせ、一言一句を噛んで言い含めるような口調で告げる。
「ベギーアデはダメな妹です。お姉さまのご指導ご鞭撻がなければ何もできない愚か者です。それでもどうか許してください。家族としてこの場所に置いてください――」
屈服の言葉を述べる妹を、気持ちよさそうに眺めて、初めてエピテミアは微笑んだ。髪を掴んでベギーアデを乱暴に立たせると、6つの壁の内の1枚に声をかける。
継ぎ目のないはずの壁の一角が扉のように開き、白い三角の頭巾を被った二人組が姿を見せた。頭巾には、六角形の紋章――「欲望の邪神」の印がついていた。
「悪いけど、この子を『精神調整』にかけてくれる?」
虚ろな目で荒い息を吐くベギーアデを、ゴミを投げ捨てるように床に転がして、エピテミアは二人に言った。
「はっ!」
二人組は胸の前に右手を回してそう応じると、ベギーアデを抱え上げて扉の奥へ戻って行った。
再び一人になったエピテミアは玉座に戻ると、またため息をついた。
「お母様。我々の勇者はまだまだ遠いようですわ……」
「異世界転生者」は「ゴッコーズ」の勇者たり得ない。召喚はあと100年の間隔を開けねば不可能。「愛の神玉」は力を半減させ、そこまで強力な「ゴッコーズ」を与えることはできない。
「だとすると……」
ふわりと玉座の下から手の平に乗るほどの、小さな球が浮き上がってくる。彼女らの手にある最後の「神玉」だ。
「別の方策をとるのも、手かもしれないわね」
エピテミアの手に収まった「海の神玉」は、仄かな光を放っていた。
※ ※ ※
遠く西の空へ陽は沈み、バックストリアの街にも夜が降りてきた。
エッタは、宿屋2階のバルコニーから、見てくれだけはどうにか元の姿を取り戻した街並みを見下ろしていた。
エッタが目を覚まして、明日で3日となる。明朝にバックストリアを発ち、ヤーマディスへ帰ることになっていた。
(『オドネルの民』に関しては、僕らで調べておきます。何かわかりましたら、連絡いたしますね)
今朝、エクセライ領「スアン高原」へ戻ったスヴェンは、そう言っていた。造魔獣の核には特殊な材料が使われており、その入手ルートから「オドネルの民」の足取りを追うそうだ。
バルコニーに吹く風が、ネグリジェの裾を揺らす。穏やかな夜だ。それなのに、心がざわつくのは何故だろう。
信頼していた師――いや養父は、目的のためならわたしを犠牲にすることを厭わない男だった。非情な人でなしが彼の正体? しかし、犠牲を強いても目的が達成できないと知ると、わたしの命を助けてくれた。
どちらが本当のサイラス・エクセライなのだろう。いくら考えても答えが出ない。どちらも本当だ、なんていうおためごかしにすがるのは簡単だが、それで割り切れない感情が胸の奥をちくちくと刺す。この一週間、エッタは同じ問いを繰り返してきた。
わたしは彼に怒ればいいのか。それとも、感謝すればいいのか。感情のやり場がわからなくなって、こうして空を見上げるしかない。
この国の、いやこの世界の空の星は、「天の神」が空に置いた灯りだという。
エッタがかつていた世界の常識で考えれば、星々は別の星系の恒星だ。地上からなら星よりも大きく見える太陽よりも、圧倒的に巨大な天体がいくつもあるらしい。
そんな話をこの世界の人にしても、きっと理解できないだろう。あるいはもしかしたら、この世界の星々は本当に「天の神」が置いた灯りなのかもしれないし。
エッタのいた世界の古代の哲学者は、離れた地点間での星の見え方が違うことや月食の仕組みを解明する中で、自分たちの住む大地が丸いことを知ったと聞いたことがある。また別の学者は、夏至の太陽の位置と2地点間の距離から自分の住む天体の大きさを測ったという。
星空を見上げても、エッタには何もわからない。この世界が扁球の天体の上にあるのか、それとも遥か古代人が夢想したような、球形のドームの下の円盤上にあるのか。それすらも、推定する方法がわからない。スマートフォンなんてなくても、思いつくことのはずなのに。
結局のところ、「人に尽くす」しか能のない無才な田辺恵理であっても、「天才」と呼ばれる悪辣なほど才覚に優れたヘンリエッタ・レーゲンボーゲンであっても、自分の本質的な部分は何も変わらない。
わからないままでいるのだ。自分の住んでいる世界のことも、親に感謝したらいいのか怒ったらいいのかも、一切合財。
「エッタ、眠らないのか?」
背後からかかった声に振り向くと、隣のベッドでフィオが身を起こしている。
「明日は早い。それに、ドルフ候に報告をせねばならない。眠った方がいい」
「3日ほど寝続けていましたから。眠りがわたくしの身体から逃げてしまっているのです」
強がってそう笑うと、フィオはベッドから降りて、バルコニーに入ってきた。
「ずっと眠っていないんだろう?」
「ご存知でしたの?」
ああ、とうなずいてフィオはエッタの隣にくる。
狭いバルコニーで、二人は並んで星を見上げた。アドニス王国には星座という概念はないらしい。しかし、明るく輝くいくつかの星は、旅人や船乗りの標になっているそうだ。
「なあ、エッタ……」
フィオは手すりに背を預け、ふと口を開く。
「君は『転生』をする前の記憶が残っているのだろう? どんな世界だったんだ?」
「もっと早く聞かれるかと思っていましたわ」
ある意味で待ち構えていた質問に、エッタは「そうですわね……」と笑った。
「この世界と比べると、馬鹿みたいに物が多くて、知り合いきれない程に人も多くて、嘘みたいに情報過多で、四六時中誰かと繋がれる……」
だけど、とエッタはバルコニーの向こうに広がる街並みに背を向けた。
「この世界よりも、ずっと人間は孤独なのかもしれません」
人の数が何十億といるから、簡単につながる手段があるから。だからこそ、独りきりであることが際立ってしまう。その際立った孤独の真っ只中に、神野拓人も蛭田真奈もいたのかもしれない。
少なくとも、田辺恵理はそうだった。
「その世界には、戻りたいとは思わないのか?」
フィオの問いに、エッタは「ええ」とうなずいた。
「それは、孤独だからか?」
「どちらがいいか、という話ではないんです。ただ、わたくしが今いる場所はここなんです。このアドニス王国で、フィオがいて――まあ百歩譲ってザゴスもいて、その場所を選んだ、そういう話なんです」
ねえ、いいんですよ、今晩は。エッタは振り返って部屋の中、いやドアの向こうに声をかける。すると、恐る恐るといった調子でドアが開き、大男が顔を出した。
「ザゴス、立ち聞きは行儀がよろしくなくってよ」
「悪かったよ……。ずっと、寝られてねぇって聞いてたからよ……」
弁解しながら、ザゴスは大股でバルコニーへ歩いてくる。
「それで、ドアの外で聞き耳を立てていた、と。それでどうするおつもりだったんです?」
「いや、まあ、その……」
面目なさそうに、ザゴスは自分のうなじに手をやった。心配して様子をうかがっていたが、どうすることもできずに手をこまねいていたらしい。そのことに、クスリとエッタは笑った。
「お前、ちょっとその、無理とか……してねぇか?」
「無理?」
そうだ、とフィオがザゴスの言葉を継ぐ。
「辛いなら、この仕事を降りてもいい。陛下からの『クエスト』を受けたのは、あくまでボクだ。君はその手伝いというだけだから……」
「やめてくださいよ、そういうの」
らしからぬ口調に、フィオは言葉を切った。
「確かに、このお話をドルフ様からお受けした時、わたしはお手伝いするような気分でしたわ。フィオの助けになることだけを考えていました」
けれど、今は違う。このバックストリアと「マーガン前哨跡」で起こったすべての出来事が、エッタとこの「クエスト」の関係を変えてしまった。
「今回のことで、この『クエスト』はわたしにとっても宿命的なものになりました。だから、無理をするんです。途中で止めてしまうことの方が、よっぽど無理ですから」
エッタは二人に向き直った。フィオは厳しい表情で、ザゴスはどこか困惑したようにこちらを見ている。
「わたくしは、知りたいんです。サイラス師――お父様が目指した『新しい世界』、それが娘を犠牲にしてもいいと思えるぐらいに、良いものだったのかどうか」
どんなに良いものでも犠牲になる気はないですが、とエッタは言い足して続ける。
「決着をつけたいんです。わたくしはお父様に感謝すればいいのか、それとも恨めばいいのか、全然今わからない状態ですから」
だって、とエッタは目頭の熱を感じていた。それをこぼさないように、少し顔を上げて続ける。
「わたくし、死んでたんですよ? お父様がいなかったら、こうしてフィオとも出会うことがなかった。この世界に生まれ変わって、どうしていいかわからなかったわたしが今ここにいるのは、お父様がいたからなんですよ。わたくしにとっては、そういう『クエスト』になったんです」
三人の間に、沈黙が横たわった。微かな夜風が髪を揺らし、フィオは深く息を吐いた。
「……そうか」
ならばもう何も言わない。フィオはそう宣言した。
「まあ、お前がいないとあの襲撃の夜もヤバかったしな。俺らだけじゃどうにもならないことも、これから出てくるだろうしよぉ」
ザゴスの言葉にフィオはうなずいた。
「それに――」
エッタを見据えるフィオの視線がふと和らぐ。
「ボクのあるところ、ヘンリエッタ・レーゲンボーゲンあり、なのだろう?」
「もちろんですわ」
大きくうなずいて、エッタは笑った。
※ ※ ※
翌朝、ザゴスは目を覚ますとすぐに荷物をまとめ、1階のフロントへ降りた。昼過ぎにはヤーマディスに着くよう出発する予定であったが、少し寝過ごしてしまった。
昨夜、エッタがかつていた世界の話をしていたせいか、妙な夢を見た。闇夜の中、ビカビカと光る高い建物の間を走る夢だった。あいつらがいたのは、きっとああいう景色の世界なんだろう、とザゴスは勝手にそう考えている。
急いで降りてきたが、フロントにはフィオの姿もエッタの姿もなかった。何だよ、と口を尖らせ、ザゴスは待つことにした。
それから程なくして、フィオが姿を見せる。
「すまない、待たせたな」
「エッタはどうしたよ?」
「準備に時間がかかっているようなのでな、先に降りてきたんだ」
フィオは応じて、上階を振り仰ぐ。
「準備っつたって、大して荷物持って来てねえだろ」
「色々あるんだ、女にはな」
柄にもないことを、と思ったがザゴスは口に出さなかった。
一行の財布を預かっているフィオが、チェックアウトの手続きをしている間に、エッタも姿を見せた。
「おはようございます」
遅れてきたことに対する遠慮を全く感じさせない、優雅にも見える素振りでエッタは一礼する。
「お前、それ……」
「何かおかしなことでも?」
エッタは、見覚えのある深い青のマントを身に付けていた。頭には、同色のコーンハットを被っている。
「サイラス師のマントと帽子……身に付けることにしたのか?」
「マーガン前哨跡」でエッタが包まれていたマントと、遺跡内部に転がっていた帽子、どちらもスヴェンが回収して、彼女に届けたものだった。
「ええ。何にせよ、守ってくれたことは確かですから」
フィオにそう笑いかける。その表情は、マントや帽子ほど単純な色合いではなかったが。
「半分だけでも、信じられることは信じようと思ったのです。もう半分は、これから先を見て決めようかと」
おかしいですか、と問われフィオは首を横に振った。
「いや、それはボクが言うことじゃない」
だな、とザゴスもうなずいて見せた。
「では、参りましょうか」
言って、エッタは外へ続くドアを開く。朝の陽ざしが照らす街並みに、一歩を踏み出した。
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