5.ハチミツください
「おらぁッッ!」
鬱蒼とした木々の間にザゴスの胴間声が響き渡る。雄叫びと共に放たれた斧の一撃が、魔獣ヨロイグマの首筋を深々と切り裂く。黒い魔素を吹き上げて、悲鳴と共に魔獣は倒れた。
「ふーっ、手こずらせやがって」
頰に滲んだ血を手の甲で乱暴にぬぐい、ザゴスは顔をしかめた。
ザゴスの足元には、今倒れたものも含めて3頭のヨロイグマの死骸が転がっている。それらは風に飛ばされる砂のごとく、黒い粉となって崩れ始めていた。
強い魔力に当てられ変質した動植物が、魔獣と呼ばれるものの正体だ。彼らは一様に魔に魅入られ、人を始めとした他の動物を襲う。その身体は、魔力の最小単位である魔素によって再構成されており、死ねば結合が解けるのか崩れていくのが常である。
ヨロイグマはその名の通り、魔力の影響を受けたクマに鎧のような硬い部位が生成されたものだ。元々クマが人の手に余る獣であるため、生半可な冒険者が単身で相手取るには危険な存在である。
こういう連中がいるってことは、近いな。
ザゴスは「魔剤」と呼ばれる回復薬を飲み、木々の間に薄っすらと見える獣道をにらむ。
3頭のクマはこの奥からやってきた。すなわち、この奥は魔力の濃い「魔力だまり」になっている。ニギブオオミツバチは、「魔力だまり」に巣を作る性質がある。外敵から身を守るための防衛本能だそうだが、そのお陰で作る蜜には魔力が宿って甘くなり、より人に狙われやすくなったとは皮肉な話である。
何よりクマはハチミツが好きだ。「魔剤」の容器を腰の袋にしまって、ザゴスは獣道の奥へ足を――
「ッ!?」
不意に感じた上からの気配に、ザゴスは身を仰け反らせる。黒く素早いものが鼻先をかすめて落ちてきた。
魔獣だ。小型ですばしっこい。種類は……? 考えを巡らせながら後ずさろうとしたその時、左脛に激痛が走る。
鮮血が舞い、ザゴスの巨体が倒れた。
やられた、カマイタチか。草むらに伏せる小さな魔獣が、赤い目を光らせている。革の脛当てをつけていたのだが、それごと切り裂かれた。いや、脛当てがあったから骨ごと断たれずに済んだのか。
カマイタチは名の通り、両前足に鎌状の刃を備えたイタチが元になった魔獣だ。木の上から落下し人の首を狙う。鎌の切れ味もさることながら、最も恐ろしいのは……。
ザゴスの耳に、チィチィという鳴き声がいくつも聞こえた。木の上に無数の赤い光が灯っている。
(小さい魔獣ってのは、群れで行動することが多い。特に、『ニギブの森』にいるカマイタチってのは、ちょっと厄介だぜ)
かつてパーティを組んでいた探索士の言葉が、ザゴスの脳裏によみがえる。
(連中は必ず3匹一組で行動する。しかも、それが常に複数のグループで動くってんだから、始末が悪ぃ。最大で6グループはいる、って覚悟しておいた方がいいだろうなぁ)
ザゴスは地上に降りたカマイタチと目を合わせたまま、ゆっくりと身を起こす。左足の傷は深いが、事前に「魔剤」を飲んでいたお陰で痛みは抑えられている。
参ったぜ、こいつは。ただでさえ小さい的は苦手だってのに。
見た目通り、ちまちました戦いが好きな男ではない。好みを除いても、今は不利な状況であることに変わりはないが。
逃げるか。すぐにその選択肢が頭に浮かぶ。
「魔剤」は体力回復や痛みの緩和の他に、傷の治りを早くするはたらきがある。深く斬られたが、少し時間を稼げればまた走れるようになるだろう。
ザゴスはカマイタチと目を合わせたまま、じりじりと後ろに下がる。カマイタチは後ろ足で立ち、両足の鎌を上げた威嚇するようなポーズでザゴスを観察しているようだ。
左足はまだ感覚が戻らない。金を払ってでも、もっと高級な「魔剤」を入れるんだった、とザゴスは歯噛みした。カマイタチは飛びかかってこない。この個体と組んでいるはずの残る2匹も降りてくる気配はなく、下のにらみ合いを警戒しているようだ。
ザゴスはじわじわと後ろに下がり、元来た道へ差し掛かる。
しめた、ここまで戻れば別の冒険者のパーティと合流できるかもしれない。人に頼るのは好かないザゴスだが、今は背に腹は変えられない。こっちに近づいてくる足音も聞こえている。冒険者にしては、不用心な足取りだが……。
「あれ? ザゴスじゃん。何やってんの?」
草むらをかき分け、背後から聞こえたのんきな声に、ザゴスは聞き覚えがあった。
「テメェ、昨夜の探索士か」
振り返らずに、ザゴスは応じる。カマイタチは、新たな人間の登場を受けてか姿勢を低くした。昨夜の探索士――ビビは怪訝な顔でザゴスを見やる。
「え、何? あんな小さい魔獣にやられてんの?」
「……小さいが、厄介な相手だ。数も多い」
へー、とビビは気の抜けた返事をする。
「へー、じゃねえぞお前。探索士のクセになんでそんな警戒心がないんだよ」
「だってー、そんなことする必要ないし」
あぁ? とザゴスが聞き返した時、こちらに近づいてくる3つの足音に気づく。一つは歩幅や音から警戒した歩き方とわかるが、残る二つは魔獣の巣食う森を歩くものとは思えない、不用心にもほどがあるものだった。
「ビビさん、どうしました? その人は?」
初めて聞く少女の声、それに続いたのはザゴスの中の嫌な記憶を思い起こさせるものだった。
「ビビ、先に行き過ぎだよ」
「この声、昨日のガキか……!」
振り返らなくともわかる。ザゴスの背後にいたのは、タクト・ジンノその人だった。
「タクト殿、知り合いか?」
ザゴスの背後から聞こえた3つ目の声は、少し落ち着いた女のものだった。タクトは「いや、知らないけど」と応じた。
「昨日、あんたが吹っ飛ばしたヤツだよ」
ビビに言われて、ようやくタクトは「ああ」と思い当たったようだった。
「なんだ、あのザコか」
ザゴスは怒鳴り返したくなったが、珍しくじっと我慢した。無警戒に現れたタクトらのせいで、にわかにカマイタチの群れが浮き足立ち始めたのだ。
ここで下手にカマイタチどもから意識を外したら。
飛び掛かられて、一瞬で全員死ぬ。
「タクト殿、年上の冒険者に対してそういう態度をとるのはよくないぞ」
落ち着いた女の声がタクトをたしなめる。唯一警戒した足取りだったのはこの女だろう、とザゴスは当たりをつけた。声も聞き覚えがある。組んだことはないが、アドイックのギルドに長く在籍している女剣士だ。
「しかし、タクトさんにケンカを売ってきたのはこちらの方と聞いています。年上だからと言って、敬える方ではないような……」
「そうそう。それにこいつ、こんなちっちゃいのに苦戦してんのよ」
ビビが嘲るように言って、無警戒にカマイタチへ近づく。
「止まれ!」
「危ない!」
ザゴスと女剣士の声が重なった時、木の上にいた無数のカマイタチが木の葉が降るように降り立つ。その数はザッと見た限りでも20を超えている。
「え、ちょ、こんなにいたの!?」
「ちっ、バカヤロが!」
傷はまだ塞がり切ってはいないが、ザゴスは無理矢理に立ち上がって斧を構える。同時に、女剣士も進み出てくる。
「下がっていろ、ビビ!」
「わきゃっ!?」
女剣士はビビの首根っこを捕まえて、後ろに放り投げる。
「タクト殿! ビビとアリアを連れて離れろ! ここはわたしが食い止める!」
あるものは鎌を振り上げ、あるものは飛びかかる構えを見せ、カマイタチの群れは既に臨戦状態にあるようだ。縦に3匹ずつ並び、波状攻撃を仕掛けて来るのが見て取れる。
「貴殿もケガをしているのだろう。ここは……」
「下がれるかバカヤロォ! こいつらは俺を狙って来てんだしよぉ……!」
「! すまない、わたしのパーティメンバーが……」
「謝んのは後にしろ、来るぞ!」
ザゴスがそう告げるのと、最前列のカマイタチたちが飛びかかって来るのは同時だった。
半拍遅れて女剣士が一歩踏み込もうとした時、背後から聞き覚えのある声が響いた。
「超光星剣!」
野生の勘というか、咄嗟にザゴスは女剣士の腕を掴み、引き寄せて仰向けに倒れた。背後を気にせず倒れ込んだせいで、ザゴスは木に強か首筋をぶつける。
薄れゆく意識の中ザゴスが見たのは、女剣士の鎧をかすめて飛んでいく強烈な力を帯びた光と、それに飲み込まれるカマイタチの群れだった。