169.本当の言葉
エッタの下に「旅の神」が訪れていたのと同じころ、クロエはアマヌスの部屋を訪ねていた。
既に外は暗い。砂漠の西の端に太陽が大きく傾いている。下男にパンを持たせエッタの下にやったが、あれだけで足りただろうか、とクロエはふと心配になった。
「アマヌス様、よろしいでしょうか?」
神殿の居住部分、その最奥にアマヌスの部屋はあった。彼がただの神官であった頃から使っている質素な部屋だ。
「おお、クロエ聖か!」
どたどたと足音をさせてアマヌスが扉を開けた。
「少しお話したいことがございまして」
「ああ、ああ! いいとも! ささ、上がってくれ! 汚いところだが!」
やけにはしゃいでいる。一礼して、クロエは中に入った。
「ささ、そこに座ってくれ! すまないな、椅子は一つしかないが、俺は寝台に座るから。ああ、そうだ。葡萄酒を用意させようか?」
「いえ、お構いなく」
丁重に断って、クロエはさっさと本題に入ることにする。
「ヘンリエッタ師のことですが……」
「あ……、ああ、そのことか……」
見るからに元気がなくなった。激高するのではなくしょげてしまったのは、シナオサ聖から厳しく叱られたせいだろう。
クロエがこうしてアマヌスの部屋を訪ねたのは、そのシナオサに命じられたからだった。
街に出入りする商人に物資の輸送のことで交渉に赴いていた老神官は、つい四半刻ほど前に神殿に戻ってきたばかりだ。
神兵隊士から「ヘンリエッタ師をアマヌスが投獄した」と聞いて青ざめ、すぐさま「異界の門」にいたアマヌスを激しく叱責した。
神殿の責任者たるシナオサからすれば、異国の使者を一時の感情で投獄したアマヌスの行動は、当然信じられないものである。それが一国の王になろうというものの振る舞いならば尚のことであろう。
(王になるなどと言いながら、そのような勝手な行動! 許されると思っているのか!)
そう怒鳴る声が部屋の外まで聞こえてきた。シナオサは、アマヌスにとって神殿での親代わりだ。普段から口うるさく、今回の王位継承問題に関してもアマヌスの行動に表立って反対することはないが、決していい顔はしていない。
(その行いが王にふさわしいか、今一度省みてみよ!)
怒り心頭に発した様子で「異界の門」を後にしたシナオサは、その足でクロエのところにやってきてこう言ったのだ。
(少し叱り過ぎた、お前が慰めてきてくれ。わしはヘンリエッタ師に謝罪してくる故)
「おかわいそうなアマヌス様……」
寝台に座り俯く彼の隣に、クロエは腰かけた。
「元気を出してください」
「クロエ聖……」
その背を撫でられ、アマヌスはどぎまぎとクロエの顔を横目で見やる。
アドニス王国を追放され、行く当てもなくモウジ神国に流れ着いたクロエを拾ったのはシナオサであった。
どうもシナオサは、クロエに「こういう役割」を期待して神殿に入れた節がある。でなければ、どこの駱駝の骨とも知れぬ女を、こんな時期に神官として迎えるはずがない。今回の「慰めてこい」も、多分にそういう要素を含んだ物言いであった。
それがここでの役割ならばこなして見せよう。クロエはそう割り切っている。
しかし。
「いや、いかん……。いかんぞ、クロエ聖……!」
ハッと我に返り、アマヌスは跳ねるようにクロエの手から逃れる。
「申し訳ございません。ご無礼をいたしました……」
「い、いや! そ、そうではなくてだな!」
好かれている手応えはあるのだが、この男はどうも奥手でヘタレだ。これまで幾度も好機を与えてやったのに、まったく乗ってこない。
できる時にしない。やはり王の器ではないな、とクロエは妙なところでその確信を深めた。
「う、嬉しいのだが、そういうことはだな、その……」
「いえ、わたしの方もアマヌス様を子供のように扱ってしまい、失礼を働きました」
当然これは皮肉である。が、アマヌスは気付かず、「そういうことではなくて、いや、これは俺がいかんのか……?」などともごもご言っている。
「……その、ともかく」
一つ咳払いをして、アマヌスは居住まいを正す。
「シナオサ聖にまた叱られてしまったよ。感情に振り回される俺に王の資格はない、と」
どうなのだろう、とまたアマヌスは俯いた。
「俺は本当に王足り得るのか? クロエ聖はどう思う?」
その問いに対するクロエの返答は決まっていた。
「予言の賢者様があなたを選んだのならば、あなた様こそが真のこの国の王です」
こう言ってほしいのだろう。いつもクロエは同じように答えていた。
当然、本音は違う。クロエにしてみれば、この返事がアマヌスに対する「よそ行き」であった。ほとんどの男は「よそ行き」の彼女の方を好ましいと言うから、そうしているのと同じことだ。
「いや、違う」
だが、今日はそれでは治まらないらしい。
「俺が聞きたいのは、クロエ聖自身がどう思っているかだ……」
ヘンリエッタのせいか、余計なことを。クロエは内心で舌打ちする。
「わかっているんだ、本当は。ヘンリエッタ師の言っていることの方が正しい、と」
先々代の王ラムタの末子、八男としてアマヌスは生まれた。
ラムタ王は子が多く、それ故に継承権争いは熾烈を極めた。先王でありトモテの父であるギラッカは四男で、それ以外の兄弟は既に命を落としていると言えば想像がつくだろう。
息子たちの熾烈な継承権争いを、ラムタ王はどう見ていたのか。末子のアマヌスを、早々に神殿に預けたのは、「この子だけは骨肉を食む争いに巻き込まれてほしくない」という親心だったのかもしれない。
ギラッカ以外の継承者が亡くなった直後、ラムタ王は順番が来たかのようにその生涯を閉じた。そして、ギラッカが王となった。
だが、ギラッカ王には長らく子がなく、アマヌスには継承権が残ったままだった。
兄たちは皆病気や事故で命を落としたが、その裏には常に黒い噂がつきまとっていた。
ラムタ王のこともそうだ。すべてギラッカが手を下した訳ではないだろうが、アマヌスにはまったく関係がないとも思えない。
そんなギラッカが、何故神殿にいるアマヌスにだけは手を下さなかったのか。自分の息子に並ぶ継承権を持っているにも関わらず、だ。
「思えば、俺がそんな器ではないと兄には、ギラッカにはわかっていたんだ。アマヌスは王の器ではない。わざわざ殺す価値もない、とな」
だからギラッカの急逝直後は、アマヌスはトモテが次の王位を継ぐことに異存はなかった。
「すぐに継承権を破棄しようとしたのだが、シナオサ聖が言ったんだ。『破棄を盾に神殿への締め付けを緩めさせよう』とな。確かに、ユーワンらのせいで神殿は苦しかったし、そういう使われ方もいいと思っていたんだが――」
その矢先だった。「異界の門」にエイト・ミウラが、予言の賢者が現れたのは。
「これだ、と思ったんだ。殺されるほどの価値さえない凡庸以下の俺が、王になれる最初で最後の好機、それが訪れたのだと」
「異界の門」にぽつねんと座っていたエイトの言葉を、シナオサをはじめとした神官や神兵隊士たちは信じなかった。あまつさえ、彼を騙りだと殺そうとした神官さえいた。
それをアマヌスはかばった。予言の賢者が自分を次の王に指名するように。
「打算はあったよ、当然な」
アマヌスだけがエイトの言葉を信じ、「ゴッコーズ」に感心し、魔法銃を褒めたことで、計算通り彼の心をがっちりと掴んだ。
「だけどな、段々変わってきたんだよ。俺の中で、気持ちがさ」
自分を褒めそやし保護してくれるアマヌスを、エイトは純粋に慕ってくれている。そして、何よりも。
「同じなんだよ、俺とエイトは。あいつは元の世界に戻ればただの人だとよく言うが、それは俺も同じだ。エイトがいなければ、俺はこの世界でただの人なのさ。あいつがいるから、俺は次の王でいられる」
価値が得られるんだ。
そう重ねながらもアマヌスの表情は暗い。
「俺は馬鹿野郎さ。自分が王足らぬと知りながら、希望を捨てられない。ヘンリエッタ師に言われずとも、無暗に国を乱してしまっているともわかっているのに……」
アマヌスは何度もかぶりを振って続ける。
「だけど、エイトは本気で俺が王にふさわしいと信じてくれている。それを裏切るわけにはいかん。あいつは俺の、大事な民だから……」
なるほどな、とここまでの独白を黙って聞いていたクロエは内心でうなずく。
「よそ行き」の答えが通用しないはずだ。リオットとの対立は長引き、「三日月」が暗躍し、異国からの使者がやってきた今、アマヌスの心は大きく揺れている。
ここまでの独白はすべて剥き出しの本心、そこに人目を気にした皮の入り込む余地はない。
「アマヌス様は――」
俯いて黙ってしまったアマヌスに、クロエはそう声を掛ける。
「エイト様のことがお好きなんですね」
「そうだな……」
そう応じて、「いや、その、そういうことでは……」などと弁解するアマヌスに、クロエは続けて語り掛ける。
「先ほど『異界の門』で、ヘンリエッタ師がした偽勇者のお話、覚えてらっしゃいますか?」
「ああ。確か、君の家族が……」
「わたしの姉は、偽勇者を信じ、それに力を貸していました」
「何と!?」
クロエは、神託を受けて偽勇者に自分の姉が付き従ってしまったこと、その最期は偽勇者の手にかかってしまったことを語った。
無論、その偽勇者に姉が付き従うよう仕向けた自分の陰謀のことは隠して、だが。
「わたしには姉がどんな気持ちで勇者に従っていたのか、わかりませんでした。純粋な信仰心からか、それとも功名心もあったのか……」
あるいは「戦の神殿」の、クロエの企みに薄々感づきながらも自分の役割を果たそうとしていたのか。内心でそう付け加えて続けた。
「けれど、アマヌス様の話を聞いて、姉も同じような気持ちだったのかと思いました。結果的にあちらは偽物でしたが、姉もまたあの勇者をどこかで愛していたのだろう、と」
無論、男女のそれの話ではない。自分が勇者の戦士たろうと、彼を勇者として純粋に導こうと考えていた。アマヌスの独白を聞いた今ならば、クロエは素直にそう飲み込めるのだ。
「辛い経験をしたんだな……」
クロエは目を伏せた。どうしてこの男の話で、カタリナのことを思い出さねばならないのか。忌々しい、と口に出して舌打ちしたい気分だった。
「それがきっかけで故郷を捨てて、流浪の旅に出たのか」
「ええ……」
アマヌスの勝手な解釈に乗っかって、クロエはしれっとうなずいた。
外の風を入れるのはおしまいだ。すっぽりとまた「よそ行き」の皮をかぶっておこう。これ以上、踏み込まれたくはない。それは、そこまでは望まれた役割ではないのだから。
「いや、語ってくれてありがとう。俺も――」
アマヌスが言いかけた時、廊下から大きな声がした。
「クロエ! クロエ! どこにいるんですか!?」
この声は、と二人は顔を見合わせる。
「ヘンリエッタ師か。シナオサが牢から出したようだな」
「相変わらず騒がしい。申し訳ありません、何の用か聞いて参ります」
一礼して、クロエは部屋の扉を開けた。




