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19.「彼女」について

 

 

 湯煙に霞む星空の下、広い湯船の真ん中あたりに浸かり、ザゴスは大きく息を吐いた。温かい湯が身体の中に浸み込んで、疲れを癒してくれるようだ。


 大きな岩で囲まれた湯船は、大人50人が入っても余裕がある広さだ。それを贅沢に使える上に、頭上には瞬く満天の星、ザゴスならずともゆったりした気持ちになるだろう。


 意外といいもんだな。湯を出してる口が、ヒロキ・ヤマダの彫像じゃなきゃ、もっとよかったんだが。ザゴスは温泉の端から湯を吐き出し続けている300年前の勇者の顔を見て、眉をしかめた。自分の顔がこんな風に使われているとは、さしもの勇者も思うまい。


 じゃぶじゃぶとザゴスは顔を洗い、端の方にいるフィオに声をかけた。


「おい、いつまでいじけてんだ?」

「うるさい。そこの岩よりこっちに入ってくるなよ」


 やれやれ、とザゴスはかぶりを振った。


 先日の魔獣の襲撃のせいで男湯の方の岩風呂が壊されてしまい、「銀の狐亭」は今日は混浴となっていた。時間が遅いことと宿泊客が少ないことで、他に人の姿はない。


 泉質の関係か、温泉の湯は白く濁っている。肩まで浸かっていれば、近づいても見えない。


 それなのに、「近付くな!」とは自意識過剰ではないか。ザゴスは口を尖らす。


「お前、女だって隠しとくつもりだったのか?」

「……そんなつもりはなかった」


 というか気付いていると思っていた。そう言われて、ザゴスは「むぅ」と唸った。


「俺は自慢じゃねえが鈍いんだよ。そんなのわかるか! 男の格好してりゃ男だし、女の格好なら女なんだよ!」

「単純なヤツだな」


 ちっ、とザゴスは舌打ちした。


「……男の格好してんのは、何か理由あんのかよ?」


 返事はない。何だよ、とザゴスが湯から上がろうとした時、湯煙の向こうから近づいてくる影があった。


「人にこっち来るなって言っておいて、お前自分から……」

「ザゴス」


 湯煙の向こうから聞こえた声は真剣で、だからザゴスは言葉を途中で切った。


「……んだよ?」

「少し身の上話をさせてくれ」

「話好きか、テメェは」


 昨夜のことも指しているのだろうザゴスの言に、そうかもしれんな、とフィオは微笑む。


 ほんのり上気し汗ばんだ肌と相まって、ザゴスは少しドキッとした。女と意識してみると、結構な上玉じゃねえか。ニヤリとしてすぐ、「クサンみたいなことを考えるのは止めよう」と振り払った。


「これを見てくれ」


 フィオは顔の左半分を覆い隠す前髪をかき上げた。


「お前、それ……」


 そこには大きな傷跡があった。歴戦の冒険者であるザゴスも思わず息をのむほどに、痛々しいものだ。鋭い爪か刃で切り裂かれたようなそれは、額から瞼を通って顎の辺りまで真っ直ぐ走っている。


「この傷を受けたのは8年前、ボクが10歳の頃だ。幸い眼球は潰れなかったが……」


 乱れた髪の間から傷跡をのぞかせながら、フィオは淡々と語り始めた。




 私は冒険者故に勇者になれた。冒険者であることは、勇者たる第一の条件だ。


 史書に記録された、ヒロキ・ヤマダの言葉である。


 市井ではこれが転じて、「冒険者は誰でも勇者足り得る」と解釈されており、その影響で「ゴロツキまがい」であった冒険者の地位は、如実に向上した。


 この言葉は、ヒロキ・ヤマダの子孫である「五大聖女」の家系では、少々異なった意味を持つ。というのは、「冒険者として活動することが勇者の子孫の務め」と解釈されたからだ。そのことから、嫡子を一度は冒険者にさせる風習ができた。


 ダンケルス家もこの風習に従い、代々嫡子を冒険者として送り出していた。


「それでお前、冒険者になったってわけか」


 ザゴスの言葉にフィオは一つうなずいた。


「家が没落する前は、嫡子を冒険者稼業で亡くすわけにはいけないから、形式的な風習だったそうだ。だが、収入が乏しい今となっては、ボクは冒険者になって出稼ぎをしているようなものだな」


 収入は自身の生活費をのぞいて、仕送りしているそうだ。世知辛ぇな、とザゴスは苦笑う。笑って、「ん?」と首をかしげる。


「ちゃくしって、つまりは長男長女だよな?」


 アドニス王国では、家督の継承権は男性に限らない。出生順が何よりも優先される。特に「五大聖女」の家系では、その成り立ちゆえに、女性が家を継ぐことは珍しくない。


「お前、兄貴いるって言ってなかったか?」


 昨夜、肩を落として酒場を出て行ったフィオから、その兄の言葉を聞いたのをザゴスは思い出した。


「……ああ、いる」

「兄貴も冒険者になったんだよな? 兄貴の稼ぎじゃ足りないから、お前も冒険者になったってことか?」

「いや……」


 フィオは温泉の濁った湯に目を落としている。いや、そこに映る自分の顔を見ていた。


「……死んだんだ、兄は」


 ポツリとフィオはつぶやくように言った。


「ボクをかばって、10年前にな」


 10年前、つまりはフィオの顔に傷がついた時のことだ。


「兄は、フレデリックはヤーマディスでは名うての冒険者だった」


 当時のフレデリックは、冒険者になって4年目ながら多くの難しい「クエスト」をこなし、人望もあって界隈では名がよく知られていた。


「兄はボクの誇りだった。半年に一度戻ってくる兄の土産話を聞くのが楽しみだった」


 フレデリックもまた、年の離れた妹を特にかわいがったという。


「いつしか自分も、兄のような冒険者になりたいと思うようになった。父に無理を言って、魔法を学び始めたりもした」


 兄の活躍のおかげで、家の財政状況もよくなってきていたという。先代の残した借金も、徐々に返済できはじめていた。


「10年前の夏、『太陽祭』の頃のことだ」


 「太陽祭」とは、八柱神の一柱にして「天の神」の妻「豊穣の女神」の祭りである。国を挙げて5日から7日ほどの休みが取られ、奉公人や出稼ぎの労働者は郷里に帰る期間とされた。


「ボクはその年、初めて攻撃魔法を覚えた」


 帰って来た兄に見せようと楽しみにしていたのだが、そこでふと思いつく。


 ただ見せるだけではダメだ、魔法で魔獣を倒すんだ。


 幼かったフィオには、それはとてもいい思いつきに感じられた。


「実家の裏には、ごく弱い魔獣の出る森があったんだ」


 アドイック周辺で言えば「ニギブの森」のような場所であろうそこは、普段は立ち入りが禁じられているのだが、フィオはこっそり忍び込んだ。


「それまでも内緒で森に入ったことが何度かあったから、軽く見ていたんだ」

「とんだお転婆だったわけか」


 そうだな、とフィオは自嘲気味に口の端を歪めた。


「そのお転婆さが、幼さが兄を殺したんだ」


 森に入り、身につけた雷の魔法で弱い魔獣を倒した。しかし、弱い魔獣は死ぬとすぐに「魔素」に分解され、倒した証拠が残らない。「クエストチケット」のような行動記録媒体があれば別だが、冒険者でもない当時のフィオがそんなものを持っているはずもない。


 大きく強い魔獣ならば、確か証となるようなものが残るはずだ。魔法を教えてもらっていた家庭教師や、兄の土産話が胸に蘇る。


 フィオは森の奥へ足を踏み入れた。奥にいる魔獣はきっと強いはずだ、と。


「ボクは覚えたての自分の魔法を過信していたのだ。小さなツノウサギやハネネズミなら簡単に倒せたから、自惚れてしまったんだ」


 幼いフィオが森の奥で出会ったのは、体高7シャト(※約210センチ)はあろうかという巨大なイタチのような魔獣だった。


「ノロイカマイタチ、というそうだ。後で知った」


 それは一昨日、「ニギブの森」でザゴスが出くわしたカマイタチの最上位種であった。手練れの冒険者でも一人ではまず倒せない相手だ。ましてや、魔法を覚えたての10歳の子どもでは……。


「魔法は簡単にかわされ、ボクは顔を斬られた」


 カマイタチ種の魔獣は、弱い獲物を狩る際には残酷に嬲る性質がある。最初は浅くかすめるように切って、徐々に深い傷を与えて追い詰めるのだ。


「ボクは泣き叫んだ。兄の名を呼び、死に物狂いで逃げようとした」


 手足にも傷を負い、フィオは追い詰められた。次は腕か足か、どこかを斬り飛ばされるのではないか、身をすくめたところに、彼はやって来たのだ。


「兄だった。帰ってきてすぐ、姿の見えないボクを心配して、探しにきてくれていた」


 フレデリックとノロイカマイタチの死闘が始まった。

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