154.帰還
紺碧の海の上、浮かんだ武装フリュート船の甲板からフィオは沈み行く「魔王の島」を眺め続けていた。舳先に近い場所で手すりの上に握りしめた拳を載せ、厳しい表情であった。
「フィオ……」
気遣うようにその名を呼ぶエッタに、フィオは振り向きもしなかった。ただ、その目に焼き付けようとするかのように、身じろぎもせず海を見つめている。
「魔王の島」は、船からでもあの地下から生えた水晶樹がよく見えた。魔王の城よりも高く伸びたそれも、徐々に海に没している。
「忘れないことだ」
誰ともなしに、ぽつりとクロエは言った。
「忘れないでいろ。自分のせいであの男が死んだことを」
「ちょっと、あなたね!」
じろりとエッタがにらむのにも構わず、クロエは続ける。
「刻み付けて覚えておくんだ。そうすれば、あの男はお前の中で永遠に生き続ける。わたしの罪が、そうであるようにな……」
フィオは返事をしなかった。ただ、拳を解いて手すりを握りしめた。その手は震えていた。
「お前は大して悲しそうではないな」
にらまれた仕返しか、ちくりとクロエはエッタに言う。
「もちろん、悲しいですわ」
エッタは素直に認めた。もっとも、「あんな山賊崩れであっても」と付け加えるのを忘れなかったが。
「だけど、一番悲しい人の前で泣き叫ぶほど、わたくしも『悪役』ではありませんわ」
「そうか……」
ええ、とエッタはうなずいてフィオの背中を見やった。
「……あ!」
近寄り難いのか、フィオとは甲板を挟んで逆の手すりにもたれていたヒロキが、ふと声を上げて手を打った。
「どうしたの?」
「クサンさん、忘れてね?」
あ、とグレースも口元に手をあてた。
「そう言えばそうだな。ザゴスくんと共に惜しい男を亡くした……」
「ええ」
「何か、軽くね……?」
性分なのだろうが、バジルの評は冷静過ぎて「惜しい」と思っている気持ちが伝わってこない。グレースの口調も平坦で、悲痛な表情を浮かべていたザゴスの時とは大違いである。
「まあ、俺も今更気付いたから言えた義理じゃないけど……」
「そんなことより、島が沈もうっていうのにこの海域を脱出しなくていいのかしら?」
そんなことって、と呆れつつヒロキはスヴェンの方を見やる。
船室の扉の前で、スヴェンはルイーズと何か話し込んでいた。
「測量士によれば、この辺りで島からおよそ3.2マルン(※約4.8キロメートル)だそうです」
「ありがとうございます。もう少しこの海域にとどまってもらえますか?」
構いませんが、と言いつつルイーズは「魔王の島」の方を振り返る。
「島が沈むのに巻き込まれませんか?」
「巻き込まれるかもしれませんね」
でも、とスヴェンは自身も「魔王の島」に目をやった。
「もう少しだけ待ってください。僕の考えが正しければ――」
◆ ◇ ◆
「――本当にそれでいいのかよ?」
沈み行く「魔王の島」、その地下「六欲の間」の水晶樹の根本で、部屋に響いた新たな声を聞いてザゴスは再び立ち上がった。
「お前……!」
声の主は赤毛の小男――クサンであった。革袋を提げ、「へへっ」と笑ってその団子鼻をこすった。
「いたのか?」
「はぁ!? いたわ!」
「別行動とってたんだろ? いたんなら手伝えや」
「手伝っただろ!」
ん? ザゴスは太い眉を寄せる。デジールの作戦が始まった時、クサンの姿はなかったように思ったが……。
「まあ確かに最初はいなかったぜ? でも、途中から合流してたんだよ。フィオさんが危なかった時、声かけただろが」
「ああ……!」
そう言えば声がしていた、とザゴスは思い出した。その声で、ザゴスは咄嗟に斧を投げフィオの危機を救ったのだ。
「あれがなかったら、デジールもあの繭には辿り着いてないだろうし、お前もフィオさん助けられたし、まあこの俺こそが真の英雄ってことだな」
がっはっは、とクサンは大笑する。
「つーかテメェ、どっから入ってきたんだよ?」
「そこの隠し扉だ」
クサンは「六欲の間」の奥、玉座のように鎮座している椅子の隣の壁を指した。そこに隠し扉があるらしいが――。
「いや、崩れてんじゃねェか!」
「誰もそっから脱出するとか言ってねェよ!」
つーかよ、とクサンはザゴスの眼前に人差し指を突きつけた。
「お前、『これでよかった』とか言っときながら、やーっぱり、脱出できるもんならしたいんじゃねェか!」
「誰もしたかねェとは言ってねェだろ!」
まあそうだ、とクサンは両腕を広げて肩をすくめる。
「……で、何か手あんのか?」
長い付き合いだ、ザゴスはクサンの表情を見るだけで、彼がなにがしかの手段を隠していることに気付いていた。
にやりと笑ってクサンは提げていた革袋に手を入れる。
「お前はついてるぜ……、何せこの俺と一緒に取り残されたんだからな」
こいつを使う、とクサンが取り出したのは硬貨のような大きさの丸く黒い板だった。
「これが何かわかるか?」
「『オドネルの民』の連中が使ってた、何か靄が出てくるやつだろ、黒い……。その、転移魔法がどうたらっていう」
「曖昧も曖昧だが、テメェ基準なら満点の答えだ」
クサンはうなずく。別行動をとっていたのは、できるだけ多くこの黒い硬貨のような転移魔法の媒体を集めてくるよう、スヴェンから密命を受けていたためだという。
バカにしやがって、と舌打ちしてからザゴスは「けどよ」と続ける。
「それの転移魔法でなんやかんやして帰る、ってんなら無理じゃねェか? 確か、造魔人しか使えねェとか、スヴェンが言ってやがった気がするんだが」
ハッ、とクサンは笑った。
「お前凄ェな、ちゃんとわかってんじゃねェか」
急に頭よくなりやがって、と嬉しそうに肘でつつかれ、ザゴスはそれを振り払う。
「ってことは無理なんじゃねェか!」
「無理とは言ってねェだろ!」
怒鳴り返して、「まあ任せな」とクサンは不敵に微笑む。
「ヒロキの世界の言葉じゃな、反則的に強かったり凄かったりするヤツのことを、『チート』って言うらしいぜ」
「それがどうしたんだよ?」
「そいつらが見たら言うだろうな、このクサン様こそが、本当の『チート』だってよ!」
夜更けの空のように黒い硬貨の周囲が、ほのかな光を放ち始めた。
◆ ◇ ◆
島が沈むその揺れは、フリュート船にまで伝わってきていた。
「スヴェンさん、そろそろ離脱した方がいいんじゃないか?」
「ええ。わたしも勇者様と同意見です」
ヒロキの言葉にルイーズもうなずく。だが、スヴェンは首を縦に振らない。
「もう少しだけ待ちましょう」
「一体何を待ってるの?」
口を挟んだグレースに、「それは……」とスヴェンが応えかけた時、船室への扉が開け放たれ、大きな声が響いた。
「それはこの俺様をだぜ!」
姿を見せたのはくすんだ赤毛と無精ひげの男――クサンであった。
島に置いきぼりにされたはずの探索士の帰還に、甲板中の視線が集まる。
「クサンくん!」
「クサンさん、いたのか!?」
違ェよ、とバジルとヒロキに軽く応じて、クサンはスヴェンに革袋を突き出した。
「持って帰ってきたぜ、大漁だ」
「ありがとうございます。これで転移魔法の研究もはかどります」
恭しく、スヴェンはその革袋を受け取った。
「え、あなたいつの間に乗り込んでたんです?」
「違うんだなあ、エッタ様。なあ、スヴェン」
ええ、とスヴェンはうなずき革袋から一枚の黒い硬貨を取り出して見せた。
「この、『オドネルの民』の転移魔法媒体を用いたんです」
「どういうことだ? それは人には使えないのでは?」
この黒い硬貨のような魔法道具が、人間には使えないという情報は「夜明けの戦星団」の間では共有されている。
「このままでは使えませんが、探索士の帰還という魔法と組み合わせることで、人間でも転移が可能ではないかと考えましてね」
帰還は、帰還地点と呼ばれる魔力杭を打ち込んだ場所に一瞬で戻るもので、探索魔法の中でも最上級とされる難易度の高い魔法であった。帰還地点の維持に常に魔力を割かねばならず、また帰還できる有効範囲も狭いなど、効果的に使うのが難しい魔法でもある。
この魔法をクサンが使えると知り、スヴェンは「オドネルの民」の黒い硬貨を媒介にした際に有効範囲を大きくできるか、実験に協力するよう依頼したのだ。それが、ヤーマディスにいた時にクサンが「特訓」していた新魔法である。
「大変だったぜアレはよぉ……。失敗したら街の端から走って戻ってたし……」
「その際の実験で、有効範囲がおよそ半径にして3.2マルン(※約4.8キロメートル)程度だと判明しましてね」
クサンの帰還を信じ、その範囲内に船を留めておいたのだという。
「もしかして、その帰還地点って、わたしの船室の隣?」
「ええ。空き船室だったので、そこに作ってもらいました」
覗きや聞き耳を立てるために籠っていたのではなかったのか、とグレースは自分の疑いを恥じると同時に、クサンのことを少し見直した。
「一回作ったら用がないはずなのに、ずっと入り浸っていたのは謎ですけどね」
「あんた、結局……!」
「だ、だって、そりゃ美人が横に籠ってたら覗くだろ!」
「やめろ、グレース。クサンくんも褒めてくれているし」
いや褒めてるわけじゃないから、とグレースは頭を抱える。
「まあ、ともかくだ……」
フィオさん。クサンは遠巻きにこちらを見ているフィオに声をかけた。
「クサン……」
二、三歩進み出て、フィオは言葉を探すように少し俯いた。
「その、無事でよかった……」
「そいつは嬉しいけどよ、フィオさんがそれを言うのは俺じゃなくて……」
クサンは船室の扉の前からサッと横に避けた。開け放たれた扉の向こうから、のっそりと大きな影が姿を現す。
「よう、みんな……」
二本角の兜、6シャト(※約180センチ)をゆうに超える大柄な体躯、岩のような顔……。
「ザゴス!」
その姿を見止め、エッタが声を上げた。それを見て、クロエは瞑目し微笑んだ。
グレースは目を驚いた様子で目を見開き、バジルは一つうなずき、スヴェンはどこかわかっていた風な様子で、ヒロキはホッとした様子で嘆息する。
「もったいぶってんじゃねェぞ、おい」
「テメェがどかねェからだろが!」
クサンとそう言葉を交わすと、ザゴスは正面に立つフィオを見据える。
「おう、その……」
立ち尽くしていたフィオは、その言葉でふらふらと足を前に出した。最初はおぼつかなく、しかしすぐにしっかりとした足取りで駆け出し、ザゴスに飛びついた。
「ザゴス!」
「ぬおっ!?」
ほとんど突進のような勢いに、ザゴスは尻餅をついた。起こした上体をフィオはひしと抱きしめた。
「よかった……、本当に……、お前を喪わなくて……」
「フィオ……」
腕を回し、ザゴスはフィオの背を撫でた。
「二度とするなよ、こんなこと……」
「わかったよ。もう俺一人で死んだりしねェ……。一緒にいるよ」
波に揺れる船の上、それは誓いの言葉にも似て聞こえた。




