151.信じられるもの
壊れている。
ヒロキ・ヤマダは内心で、レナのことをそう評した。
では、彼女が「壊れた」のはいつのことだったろうか。
未完星譚により、300年の時を生きていく中でだろうか。
いや、それ以前、死んでは生き返りを繰り返した中でだろうか。
10回? 50回? 100回? あるいはそれ以上? どれほどの「死に戻り」を彼女がしたのか、それは最早定かではない。
あるいはもっと以前、異世界召喚される前からその兆候はあったのかもしれない。
確かなのは、その危ういレナの心の中で支えになっていたのが、ヒロキ・ヤマダという「勇者」だったことだ。
自分の次に呼ばれる勇者が、すべてを解決してくれる。すべてを解決して、この「永遠の生」という苦しみに終止符を打ってくれる。
思慕とも信仰ともとれるその思いは、やがてヒロキが本当に魔王を倒してしまったことで、新たな局面を迎えてしまう。
戦うべき魔王がいなくなったのに、どうしてわたしは死ねないのだろう。
きっと、物語が間違っているからだ。
自分が死なない理由をそこに求めたレナは、それから300年、正しい物語を王国中、いや世界中に広め、もう一度ヒロキを迎える準備をした。
この正しい物語に則ってヒロキが魔王を倒したなら、わたしはこの未完星譚から脱出できるのだ。そう妄信して。
そして今、永い時をかけてきた「妄想」は否定され、自らは「道具」と思っていた娘の手によって地に沈んだ。
あまつさえ、その娘の手を最も恋焦がれた男が取ろうとしている。自分が伸べた手には触れようともせず、斬りかかろうとさえしたくせに。
何かが、決定的な何かがレナの中で切れた。
それは「ゴッコーズ」に作用し、彼女の体を大きく変化させた。
これこそが、300年前の魔王と呼ばれた異世界転生者の身に、あるいは「天神武闘祭」の会場でタクト・ジンノの身に起こったのと同じ現象――「魔人化」である。
未完星譚は、周囲の「存在する力」を少しずつ集めて、その所持者をこの世に「居続け」させる「ゴッコーズ」である。
今、レナの魔人化により暴走した未完星譚は、大量の魔素を含んだ白輝石と造魔人を飲み込み、更にその「存在する力」を膨らましていくのだった。
◆ ◇ ◆
「六欲の間」は小刻みに揺れていた。
白輝石の壁や床は白い輝きを失ってもろくなり、みしみしと音を立てている。その揺れと言えば、ちょっとした地震のようですらあった。
振動の原因は、部屋の中心からその壁や床に何十本もの触手を伸ばしている塊にあった。
レナは、エピテミアを完全に取り込み、瑠璃色の繭のような蛹のような姿に変わっていた。
その変容をどうすることもできず、ヒロキはただ立ち尽くすしかなかった。
「ヒロキ!」
「無事なようですね」
その背中に声がかかる。振り返ると、見知った顔が並んでいる。
「フィオ、それにスヴェンさんも……」
ザゴスとフィオ、エッタとクロエ、そしてスヴェンとグレースの六人であった。
「途中で合流したんです。それで、こちらは……?」
「何か、とんでもねェことになってんじゃねェか」
まあね、と肩をすくめ、ヒロキはここで起こったあらましを説明した。
一度「六欲の間」を出て、部屋へと続く狭い廊下で一同はここまでの戦いを報告し合った。
中でも、ヒロキの語ったことは皆に衝撃を与えた。
「五大聖女」の一人のはずのレナ・ヴィーダーが生きていたこと、それもヒロキと同時代に異世界召喚された勇者であったこと。更に300年生きて「オドネルの民」の首魁となっていたこと。その目的が「ヒロキともう一度出会うこと」などという卑近なものであったこと……。
だが、それに気を取られている場合ではないのも確かである。
「夜明けの戦星団」の面々は、とにかく今目の前にあるものへの対処について話し合うことにした。
「その現象、魔人化だな」
ヒロキからレナの身に起こった変化について説明を受け、フィオはそう断じた。
「っていうと、あのガキがなったヤツか……」
「精神の動揺が『ゴッコーズ』を通じて肉体にも作用するという、例のあれですわね」
ザゴスの言葉にエッタもうなずいた。
「その時はどうやって倒したんだ?」
何度か攻撃してはみたが、非常に堅固なため普通に戦うのは難しい、という見解をヒロキは示していた。
「『ゴッコーズ』そのものを取り上げたのだ」
貴殿なら知っているだろう、とフィオは続ける。
「『ゴッコーズ』を使うには、神の祝福が二つ要る。そして、それを受け入れられる精神器官が必要だ。逆に言えば、神の祝福が二つなければ「ゴッコーズ」は使用できない……」
「なるほど、タクトって子の冒険者登録を消し、『旅の神』の祝福を無効化したってわけか」
「となると、今回同じ方法は使えませんね……」
だろうな、とヒロキはうなずく。
「恐らく、レナが持っている祝福は『欲望の邪神』と『健康の神』の二つ。冒険者登録云々の話じゃない」
「ならばいかかがしましょう、ヒロキ様? 僭越ながら、やはりここは実力で突破するしかないように思えますが……」
「それができればなあ……」
クロエの提案に、ヒロキは渋い顔で面々を見回す。「欲望の三姉妹弟」らと既に一戦交えた後だ、一様に疲労の色が濃い。
「いっそのこと、放っておいて帰るというのはどうですか?」
「あんた、ホント無茶苦茶言うわね……」
エッタの身も蓋もない提案に、グレースは呆れたようにかぶりを振る。
「いや、いい提案かもしれん。ここは絶海の孤島だしな。周りに人里もない」
「そうだな。引ける時は引くべきだろう」
ヒロキの言葉にフィオもうなずいた。
レナの繭は「六欲の間」の中央に座し、他よりも太い触腕を何本も束ねて木の根のように床に突き刺したまま動かない。近づけば、他の壁から魔素を吸い取っている触腕が迎撃してくるが、今のザゴスらのように遠くにいれば何もしてこないのだ。
「それはやめた方がいいだろうね」
そこに新たな声が入ってきた。全員が声のした方を向き、目を見張った。
「バジル!」
「それに、一緒にいんのは……!」
「デジール……?」
グレースに名を呼ばれ、バジルは一つうなずいた。そして、肩を貸していた細身の白い髪の青年――デジールを下ろし、床に座らせる。
「ちょっと、何でこいつと一緒にいるんです!?」
一番反発を見せたのは、エッタであった。バックストリアの街や「マーガン前哨」で、この姿のデジールに痛い目に遭わされた経験があるからだろう。
同じように、マッコイの神殿の地下で同胞を殺されたクロエも、穏やかならぬ視線を向けていた。
「バジルさん、説明してもらえますか?」
「スヴェンくん、エッタくん、みんな、彼の話を聞いてやってくれないか?」
バジルの言葉はいつも通り真面目でしっかりとしていた。操られたり、絆されているわけではないと、皆その実直な口調から感じ取っていた。
「わかりました。では、デジールさん」
スヴェンに名を呼ばれ少し目を伏せると、デジールは口を開く。
「どうやら、母さんが魔人化してしまったようだね……」
「ある程度状況はわかってるってことか?」
ヒロキの問いに、いいや、とデジールは首を横に振った。
「僕にわかっているのは、母さんが魔人化したこと、原因は姉さんと揉めたことだろうということ。そして、魔人化した母さんの危険性、この三つだけさ」
母娘喧嘩の気配を感じ取って、この場にやってきたという。
「まさか、姉さんが母さんに逆らうなんて……」
「レナは、お前らのことを『道具』だって言っていた」
ヒロキはレナとエピテミアの間であったすれ違いと戦いについて、かいつまんで語って聞かせた。
レナの真の目的を、デジールも知らなかったのだろう。だが、辛そうに顔をしかめるだけで、激昂することも言葉を疑う様子もなかった。
「僕らの分まできっと、姉さんが怒ってくれただろう。それに、姉さんと母さんで喧嘩になったという事実が、君が真実を語っている証拠だ」
「それで、魔人化したレナ・ヴィーダーの危険性ってなんですの? あなた、話すと言っておいてヒロキの話を聞いてばかりではないですか」
エッタにそうせっつかれ、手厳しいとデジールは少し苦い笑みを浮かべた。
「魔人化は『ゴッコーズ』の暴走だ。300年前の魔王も、その暴走によって力を手に入れた。このことはヒロキ・ヤマダから聞いているよね?」
魔人化後の力は元の「ゴッコーズ」を拡張したようなものになる、とデジールは説明する。「神玉」を研究する中で得た知見だ、とも。
「未完星譚とは、周りを取り込んで限りなく存在し続ける力だ。独占的にこの世界に居続け、他者の存在を許さない。このまま放置すれば、この島を飲み込み、海を渡って国々を飲み込み、やがてこの世界そのものを取り込んでしまうだろう」
この世界にいるのが「自分だけ」になるまで。
「つまり、放っておいたら危ねェってことか」
相変わらず理屈はよくわからなかったが、ザゴスはそう認識した。
「そうさ。むしろ、今しか倒せないかもしれない」
これ以上、レナの繭が持つ「存在する力」が大きくなれば、傷つけることすらできなくなる永劫不変のものに変わってしまうだろう、とデジールは予想を述べた。
「今でだって大分硬いんだが……」
「何とか、僕が繭に到達するまで凌いでくれればいい。近づけば、僕がとどめを刺せる」
デジールは作戦を話した。その見通しは納得できるものではあったが――。
「あなたが語ったことがすべて正しいと仮定した場合、ですがね」
スヴェンは難色を示した。グレースやクロエも、気が進まないという様子であった。ヒロキは難しい顔で首を傾げている。
「あなたは敵だった。何かを企んでいないという保証はありません。僕は部隊長として、その危険を冒すわけにはいかない」
無理もない、とデジールは肩を落とす。
「ならば、僕一人で何とかしよう」
デジールはそう言って立ち上がった。
「君たちは先に逃げた方がいい」
「デジールくん……!」
「六欲の間」へ向かうその背にバジルが声をかけた。
「連れてきてくれたことには感謝する。だが、ここからは――」
「信じますわよ」
エッタの一言に、その場の全員の視線が集まる。
「貴様、こいつが来た時一番嫌がっていたくせに、何を言う」
確かにそうですわね、とクロエの言葉にエッタは肩をすくめた。
「だけど、この中で彼のことを一番知っているのも、多分わたくしですわ。そのわたくしから見て、彼は嘘をついていない。いえ、嘘をつくような造魔人ではない。そう思うのです」
「ヘンリエッタ・レーゲンボーゲン……」
エッタはデジールに微笑みかけた。
「よかったですわね、『マーガン前哨跡』でわたくしと会っていて」
「え……?」
デジールは「精神調整」によってその時の記憶を失くしている。きょとんとする彼に構わず、エッタは続ける。
「サイラス師が、お義父さまが信じたあなたを、今わたくしも信じましょう」
皆さんはどうですか? 今度はエッタが周囲を見回す番だった。
それを受けて、大きく息を吐きフィオが立ち上がった。
「まったく、君は勝手なことばかりだ」
「ああ、出会ってからこっち、勝手じゃなかったことなんて一回もねェよ、こいつは」
うなずいて、ザゴスも腰を上げた。
「デジールの言うことをすべて信じろ、と言われてもボクには難しい」
だが、とフィオは続ける。
「いつものように君の勝手に付き合おうじゃないか、エッタ。いいな、ザゴス?」
「ま、慣れっこだからな」
どうだよ勇者はよォ、とザゴスに視線を向けられ、ヒロキは苦笑う。
「そうだな、バジルさんと一緒に来たってことは、俺らを頼ってくれてるってことだしな」
「君ならばそう言ってくれると思っていた」
「ヒロキ様がおっしゃるなら異論はございません」
応じたヒロキの背中をバジルが叩き、クロエはころりと意見を変える。
「あなたねぇ……」
エッタのじっとりとした視線にもクロエに動じた様子はない。
「まあ、貴様の意見も汲んでやらんこともない」
「お人好しの一団ね、まったく……」
呆れた調子で言って、グレースはスヴェンを振り返る。
「で、どうするの団長さんとしては?」
ため息と共にスヴェンも腰を上げた。
「何もせずに立ち去るよりは、余程マシかもしれませんね……」
それに、とスヴェンは曖昧な笑みでデジールに顔を向ける。
「僕もサイラス師にはお世話になりました。君のその穴だらけの作戦を放置したままでは、さすがに寝覚めが悪いですね」
意見はまとまった。デジールは「夜明けの戦星団」を見回して、改めて礼を言う。
「ありがとう……。僕らが起こしたこの戦い、僕が必ず終わらせるよ……」
決意と共に拳を握り、デジールは「六欲の間」をにらんだ。