145.生の縁で
ここは、どこだ?
気が付くとザゴスは森の中にいた。
深い森だ。木々の葉の色は濃く、足元の道は微かで人の出入りが少ないことがわかる。
何なんだ? 何かのまやかしか? 俺は――。
背後からの殺気を感じ、ザゴスは咄嗟に腰の斧に手をかけ身構えた。
草むらが激しく揺れ、そこから6シャト(※約180センチ)ほどの大きな影が姿を現す。
茶色い毛に覆われた体に、石の色をした鎧のようなものがかぶさっている。
魔獣・ヨロイグマだ。
ヨロイグマは鋭い爪を振りかざし、ザゴスに躍りかかってくる。その爪を斧を抜いて受け止めた。
斧の手応えに、ザゴスは微かな違和感を覚えた。うまく力が伝わらないような、それでいいような、不思議な感覚だ。
構うか、今は。目の前のことに集中せねば。
ヨロイグマの前足を押し返し、ザゴスは鎧に覆われていない柔らかい腹を狙って斧を振るう。
深い手応え、ヨロイグマが悲鳴のような声を上げた。
石色の鎧の中に体を入れるように、ヨロイグマは丸まってザゴスの攻撃を凌ごうとする。ザゴスは姿勢を低くしたクマの顎を蹴り上げると、露わになった首筋にもう一太刀を浴びせた。
巨体のヨロイグマは大きな音を立てて倒れ、その体は魔素へと分解されていく。
ふーっ、と大きく息をついてザゴスが斧を下ろした時だった。
「危ない、後ろだ!」
声を受けてザゴスが振り返ると、別のヨロイグマがこちらに向けて、今正に爪を振り下ろさんとしているところだった。
「ぬおっ!?」
ザゴスが斧を振り上げるよりも一瞬早く、ヨロイグマの腹から緑色の光を纏った刀身が生えた。風属性の魔法剣であろう。
声にならぬ声を残して、ヨロイグマの体は魔素へと還っていく。
黒い塵となって消えて行く魔獣の向こうに、剣の持ち主の姿が見えた。剣を引き、それを背中の鞘に納めたのは、ザゴスの知る顔だった。
「間一髪だったな、ザゴス殿」
そう言って微笑む顔に、ザゴスは大きく目を見開いた。
「ヨロイグマほどの魔獣が複数辺りにいるということは、ニギブオオミツバチの巣は近いということだ。意外に早く、この『クエスト』は終わりそうだな」
そう言って微笑む剣士の、彼女の名をザゴスは呼んだ。声が震えるのが止まらなかった。
「カタリナ――」
死んだはずだ。あの時、あの場所で。首が落ちて、それで――。
動揺した様子のザゴスに怪訝な顔を向けて、女剣士は――カタリナは首を傾げる。
「どうしたと言うのだ、ザゴス殿。死人が蘇ってきたかのような顔をしているぞ」
パーティメンバーをそんな目で見るものではない、とカタリナは苦笑を浮かべた。
◆ ◇ ◆
荒い呼吸を続けながら、フィオは自分の目の前に転がる「それ」から目を離せずにいた。
バツの字に肩から斬り裂かれた、大きな体。うつぶせに倒れたその姿は、あのヤーマディス襲撃の翌日に目にしたドルフのそれと重なる。
ただ、あの時と決定的に違うのは。
濡れた手の感触が、鼻をつく血の匂いが、視界の端で揺れる血に染まった自らの剣が、フィオには自分を責めているように感じていた。
ボクがやったのだ。
ザゴスを、その背中から斬り裂いて。
「よくやったよフィオ。さすがは、私の妹だ――」
震えるその肩に手をかけたのは、フレデリックだった。
懐かしい顔、懐かしい声音、優しい手の平の感触、すべてがあの兄のもので、フィオは心が安らいでいくような感覚を覚えていた。
駄目だ。これが兄であっても、今は敵なのだ。心のどこかが、そう抗っている。
けれど同時に、このままでいいじゃないか、と思っている自分もいた。
兄は喜んでくれている。この大男を斬り殺したことで、兄は満足してくれた。それでいいじゃないか、自分のせいで死んでしまった兄が、こうして生きてくれている。褒めてくれている。それ以上に、自分にとって価値があることがこの世にあるか?
これでいいのだ。これが正しい行いなのだ。自分は間違っていた。兄は現に――。
「私の言葉に疑うことなく従っていれば、それでいいんだよ、フィオ。それで間違いはないのだ。感じるまま何も考える必要はない――」
「ッッ――!」
フィオは息をのんだ。微かな違和感、引っ掛かりとも言えない引っ掛かり。
それは大きくなって、シミのように広がっていく。
兄の声で囁かれた、兄らしからぬ一言。
それがもたらした疑念は、フィオの心の中で小さくなっていた気持ちを、膨らませていく。
いや、新たな感情を確信をもって立ち上げていた。
震える体は動かず、思う通りの言葉を紡ぐのさえも難しい。
「貴様は――」
だが、呪縛に抗って口に出した言葉は、目の前にいる「それ」を大きく揺り動かした。
「兄では、フレデリックではないな――!」
◆ ◇ ◆
「ふう……。これでよし、と」
「ニギブの森」の奥、ヨロイグマを倒したその先の藪の奥で、ザゴスとカタリナはニギブオオミツバチの巣を見つけた。
群がるハチをカタリナは魔法で風を起こして吹き飛ばし、首尾よく巣を袋に包む。
「かなり大きな巣だ。これならば褒賞を弾んでもらえるかもしれんな」
明るく笑うカタリナに、ザゴスは「ああ……」と気の抜けた返事をしてしまう。
「どうしたんだザゴス殿、さっきからおかしいぞ」
カタリナは首をかしげると、ザゴスに近づいてその体に触れた。
「この辺りの魔素にあてられたか? 少し回復魔法をかけておこう」
錬魔を行い、カタリナがザゴスに手をかざすと、柔らかな光が彼を包んだ。
「ありがとよ……」
光が晴れると、体と気持ちが少しが軽くなった気がして、ザゴスは礼を言った。
何かがおかしい。そんな感覚はまだ心のどこかに引っかかっている。
だが、何がおかしいのかはわからない。これが自分の人生だ、と言えばそうだし、ずっとこういう生活をしてきたのは確かなのだから。
「では戻ろう」
「ああ、持ってやるよ」
カタリナから巣の入った包みを受け取り、ザゴスはそれを背負った。
二人は並んで歩き始める。森の中でも魔素の濃い辺りを抜けた辺りで、警戒を解いたのかカタリナが話しかけてきた。
「なあ、ザゴス殿」
「何だよ?」
「今回の『クエスト』の報酬で、その……、『天神武闘祭』の券を買おうと思うのだが、一緒にどうだろうか?」
「天神武闘祭」。その単語を聞いて、ザゴスの心の中にあった引っ掛かりが、急に大きくなった気がした。何でだ? 何でこんなに気になる? 「天神武闘祭」なんて、観戦以外に縁はないはずだ。
「お金のことなら心配しなくていい。最近は神殿に寄進してくれる人も多いそうだ。妹の頑張りのお陰だな……」
妹、と聞いて「あの顔がそっくりのか」とザゴスはそう相槌を打とうとしてやめた。
会ったこともないのに、何で顔がそっくりだと知っているんだ? とそんな疑問が立ち上がってきて、言葉を引っ張り戻したのだ。
「ザゴス殿? 聞いているか?」
「あ、ああ……、いいんじゃねェか? 俺も毎年見に行ってるしよ」
「天神武闘祭」の座席には「ギルド枠」と呼ばれる席がある。等級としては最低の二等席だが、ギルドの会員は優先してその席を買えるため、多くの冒険者が利用していた。
「今年は二人一組で雌雄を決するそうだ。我がアドイック代表のバジル殿は今年こそ優勝してほしいな。一緒に出るグレース殿も張り切っていた」
「そうだな。去年まで優勝できてねェのがおかしいぐらいだからな、あいつは」
話したことねェけど、と付け足しかけて、ザゴスはそれを思いとどまった。何故か、それを口に出すことがはばかられたのだ。
「バジル殿がヤツを倒してくれれば、わたしとしては最高なのだがな」
「ヤツ?」
ああ、とカタリナは少し眉間にしわを寄せる。
「今年のヤーマディスの代表が、あのダンケルス家の嫡子だそうだ」
「ダンケルス……」
そうだ、とカタリナの口調に熱がこもる。
「勇者の末裔であるにもかかわらず、わたしの実家である『戦の神殿』を自分たちの領土から追い出し、今ものさばっているあのダンケルス家だ」
ダンケルス、とカタリナが発するたび、ザゴスの胸は知らずに痛んだ。心を針の先で撫でられるような、微かな痛みであった。
「しかも、そのパートナーというのがヤーマディスでも素行不良で評判の悪い、『七色の魔道士』だというじゃないか。知っているかザゴス殿、『七色の魔道士』は街中でも平気で攻撃魔法を行使し、あまつさえ無辜の人間に向けて放つのだぞ?」
「ああ、あの女は最悪だ。俺も何回ぶっ飛ばされたかわかりゃ……し、ねェ……」
ザゴスは口元に手を当てた。どうして名前も知らないヤツにぶっ飛ばされた記憶がある? それもかなり鮮明に。何の魔法を使われたかまではっきりわかっている。
「あんな連中は神聖なる『天神武闘祭』にはふさわしくない。わたしとザゴス殿とで出られていれば、断罪してやれたのに」
なあ、そうだろう、とカタリナはザゴスの顔をすくい上げるように見た。
「い、いや、俺なんかとてもじゃねェが出られねェよ……。これと言って実績もねェし……、お前だって言っちゃ悪ィがそうだろ?」
バカな、とカタリナは首を横に振った。
「ザゴス殿ならば出場どころか優勝だってできるさ。それだけの力がある」
「いや、そんなこたァ――」
ただ、とカタリナは目を伏せて立ち止まった。
「それは『わたしと共に』ではなかったがな」
どういう意味だ、と問おうとしたザゴスの頭に、突如として激痛が走る。
「ぬうっ!?」
割れるように痛い。ザゴスは背中の荷物を取り落とし、頭を抱えてうずくまった。
「ザゴス殿」
激しい痛みの中をカタリナの声が反響する。
「思い出すんだ、貴殿が今何をすべきなのかを――」
「クエスト」を受けハチミツを取りに来た? そのハチミツを納入して報告して、一杯飲んで――、いや違う。
確かにこれまでそういう生活はしてきた。
だが、今の俺の人生はそれで正解なのか?
面識のないはずのカタリナの妹のことを、よく知っている気がするのは何故だ?
バジルとグレースなんて話したこともないなのに、親しみを感じているのは何故だ?
知らないはずの魔道士に攻撃された記憶があるのは? 一緒に戦った記憶があるのは?
「天神武闘祭」は関係ない? 毎年観戦するだけの縁遠い大会?
いや、そんなことはない。
出たんだ、俺は。そして優勝したんだ。あいつと組んで、「ゴッコーズ」にも負けなかった。
「思い出せ、でなければ――」
森の景色が大きく揺らめいていた。明るい木漏れ日はかすれて消えて、いつしか周囲は暗い水底に沈んでいる。
「このまま、海底に消えることになる」
日も届かぬ闇の中、カタリナの声がザゴスを意識を揺り動かした。




