これがおれの初ライド⁉
「ボクとテーブンは、ここからすぐ近くの中学校に通っていたんだ」
カオルの柔らかな声がおれの背後から聞こえる。過去を語る口調には、特にこれといった感情は含まれていないようで、彼女(?)の押す台車は相変わらずゆっくりと坂道をくだっていく。キャスターがアスファルトを転がるゴトゴトとした小さな振動が足の裏に伝わってくる。
「テーブンってさ。ぱっと見、怖いでしょ?」
「え? まあ、正直いうと、そうですね。怖いです」
「でもね。彼、実は心の中は女の子なの」
「え゛!?」
あまりの衝撃におれは振りむいた。そのせいで台車は急激にコントロールを失って、またもくるんとスピンしてしまった。今回は吹っ飛ばされこそしなかったものの、おれは荷台から転げ落ちた。しかし、そのことよりもむしろカオルのカミングアウトに驚きを隠せずにいた。
「大丈夫?」
にこにこと微笑みを浮かべておれを引き起こすと、あっけらかんとした口調で、カオルは続ける。
「それで、ボクもこんなでしょ? テーブンとはどこか通じるところがあったんだよね」
それはわからんでもない。ただ、顔の作りは真逆ですけどね。
「それで、仲良くなったんだけど、ボクたちが中学一年生の夏休みのことだった。ボクとテーブンの二人で街に出て遊んでいたところを、ガラの悪そうな高校生に囲まれちゃったんだ。きっと、テーブンとボクがカップルでイチャイチャしてるんだって勘違いしちゃったんだね。相手は五人、みんなそれこそ、漫画のヤンキーみたいに『よう、兄ちゃん。見せつけてくれるじゃねえか。ちょっとそこでお話しようぜ』みたいな因縁をつけてきたんだ」
カオルが女の子の格好をしていたののだとしたら、わからんでもない。これが、男同士だと知ったらさぞ驚いたことだろう。
「テーブンは見た目は怖いけれど、気は優しいし、中身がまるで女の子だから、もう恐怖で震えてるんだ。ボクだっておんなじ。このままこの人たちにボコボコにされちゃうんじゃないかってそう思った。そのときだった」
カオルは台車を停めた。ちょうど、遊歩道の上から大きな音を立ててエンツォの乗った台車がおれたちの脇を風のように駆け抜けていった。
「今みたいに、風のように現れたエンツォの台車が見事に高校生の頭にヒットしたんだ。いまだにどうやってあんな高さまで台車でジャンプしたのか、ボクにもわからない。でも、あっという間に、ボクたちの前に五人の男がのびていたんだ」
ふたたびカオルは台車を押して坂道を下る。おれも自然とコーナーの大きさに合わせて荷重移動をして、カーブをクリアする。
「彼は隅っこで震えていたボクたちにいったの。『だれにも負けないものが、お前たちを強くする。強くなれ』って」
「エンツォさん、何気にいいところあるんですね」
「そうだね。特にテーブンにとってはヒーローだよ。それで、テーブンはエンツォに、自分は心の中が女の子で、そんな自分が認めてもらえる世界があるのかって聞いた」
「そうしたら?」
「『ハントラは速い者が強い。速い者に男も女も関係ない』って。それ以来、テーブンはエンツォにハントラの教えを乞うようになった。そして、自分の中にある『女性』の部分は、外見を怖く飾り、極力ほかの人との接触を避けることで守ろうとしたの。だから、彼をよく知らない人は彼に安易に近づかないの。お互い、近づかなければ傷つかないでしょ? でもね、内面はものすごく女子力高いんだよ。いつも部室の掃除をしたり、きれいな小物を飾ってくれるのもテーブンなんだ。ハントラをしているときはテーブンは本当の自分に戻れるんだよ」
あ、とおれは思い出す。今日テイブン先輩が呼んでいた本、部室に飾られていた花や刺しゅうの額。あれらはテイブン先輩があの部室の中でだけ垣間見せた内面だったんだ。そして、彼がいった「ハントラに青春のすべてをかけている」という言葉。それは、彼がこの世界で誰よりも速くなりたいという、思いの現れだったんだと。
「あれ、じゃあどうしてカオルさんはハントラじゃなくてアームレスリングを?」
「ハントラってどうしても転倒とかで怪我が多いでしょ? ボク、こう見えても『CUTEEN』の雑誌モデルとかちょくちょくやってるからさ」
ああ、やっていてもおかしくないですね。しかも、それ、思いっきり女子中高生むけですよね。
「それで、なるべく外見に影響しない部分で強くなるって決めたの。それで、アームレスリングを始めたら、いつの間にか世界ジュニアチャンピオンになっちゃった」
あはは、と声をあげてカオルは笑った。カオルもテイブン先輩も、ハントラやアームレスリングを通して自分の中に抱えていた葛藤を克服したんだ。そして、そのきっかけを与えたのがエンツォだった、というわけか。
すべてに納得がいったわけではないけれど、少しだけエンツォのいうハントラの世界が垣間見えた気がする。
コースになっている遊歩道を下りきったところで、突如おれたちの耳に怒声がとどく。それは明らかにおれたちの部員以外が発する声だった。
おれとカオルは目を合わせると、慌ててその声の聞こえたほうに駆け出していた。
そこにはエンツォとテイブン先輩、コウバン先輩が並び、そして三人とむかい合うようにおれの見たことのない男が五人ほど立っていた。大声をあげているのはその五人の真ん中にいた男だった。
髪が伸びて根本が染まっていない金髪のロングヘア。見るからに「おれは不良です」とアピールせんばかりのピアスじゃらじゃらの耳。どこからどうみても、おれの友達には遠慮したい人種だ。
「だから、さっさとコースあけろつってんだろ!」
「おい、聞いてるのか?」
複数の男たちが口々に喚き散らし詰め寄っているのを、エンツォは手をかざして制する。
「まあ、落ち着け」
「なんだ、この野郎」
男たちは大げさに顔面をゆがめて、エンツォをにらんでいる。
「まず、お前たちにオレたちがコースを譲る義理はない」
いいきった。けど、なんでこの人、火に油注いでんの?
「その上で、お前たちがコースを使いたいのなら、それなりにものを頼む態度というのがあるだろう? もっと腰を低くするべきだな」
「なんだと、テメー! ふざけてんのか!」
「はっはっは」エンツォは愉快そうに笑った。「このコースはオレたちが先に使っていたんだ。後からきて使わせてくれというのは、虫が良すぎるな」
「ナメてんじゃねえぞ! 大体、ここは公園の遊歩道だ! お前たちが占有していい場所じゃねえ!」
不良相手に正論を突き付けられてどうする。
「例え、そうだとしてもなぜおまえたちに譲る必要がある?」と、暢気なエンツォの声。
「テメー! ふざけやがって!」
まさに怒髪天。顔を真っ赤にして殴り掛からんとした金髪男を「待て!」というよく通る低い声が制した。
「ジョージさん」と金髪男が振りむいた先、悠々と腕組みをした背の高い男がいた。こいつがやつらのボスか。
「あんたたち、確か入舟高校だな。おれたちは大熊高校、ハンドトラックライド部だ。なんでも、あんたたちは『荷車検査部』なんてふざけた名前で活動しているらしいな。そもそも本気でハントラをやる気があるのか?」
あからさまな挑発だ。しかし、エンツォは飄々としてその挑発も春風とともに受け流した。
「名前でレースするわけじゃないからな」
「自信がある、ということか? いいだろう。こういうことでどうだ。今からハントラで勝負する。勝ったほうがコースを使う権利がある」
「……いいだろう」
あっさりと挑発にのってるじゃねえか! 案の定、しめたものだといわんばかりに、ジョージと呼ばれた男はぐにゃり、と口元を吊り上げた。
「勝負はシングル、シングル、タンデムの三本勝負。このうち二本とれば勝ちだ。これならば文句はあるまい」
「ああ」
エンツォは悠然と腕組みをして返事をした。大丈夫かよ……
「勝負は三十分後。午後五時スタートだ。ラップタイマーは持っているか?」
「すでに設置してある」
「なら、今回はあんあたたちのラップタイマーを使わせてもらうが、いいな」
「異論ない」
そこまでいって、ジョージはエンツォの前に歩み出た。長身のエンツォがジョージに見下ろされるほどだ。やつは威圧感たっぷりにいう。
「まあ、せいぜい、頑張るんだな」
勝ち誇ったように笑いながらジョージは一団を引き連れて、台車を押しながら遊歩道を上っていく。その姿を見送ると、おれとカオルはエンツォのもとに駆け寄った。
「大丈夫? エンツォ」カオルが心配そうにたずねる。
「はは、大したことない。小物がキャンキャン吠えただけのことだ」
「で、でも……」テイブン先輩が握った両手を胸の前で合わせていた。なんか乙女チック。「大熊高校のハントラ部といえば、県大会でも優勝したことのある強豪校よ。大丈夫? それに、シングルはいいとしてタンデムは?」
「タンデム?」
おれがオウム返しに聞くと、エンツォが答えた。
「二人乗りのライドスタイルだ。さっきパヤオが練習していたみたいに、一人がトラックに乗って操縦士、つまりハンドラーを務め、もう一人がカートの加減速を担当するスラスターを務めるというわけだ」
「ちょっと待って。そうすると、シングルの二人はいいとして、タンデムはだれが乗るの? おれ、まだ基本の乗り方さえちゃんとできないよ」
「はっはっは……」エンツォは腰に手をやり高笑いをする。なにか秘策でもある様子だ。すると突然、握りこぶしを作って叫んだ。
「汚ねえぞっ! やつら、初心者がいるのを知っていて、オレたちをハメやがったな!」
「気づくの遅っ! まんまと相手の挑発に乗ってしまってるじゃん! どうするつもりなの? この場所は車検の練習場なんでしょ!?」
「はは。そう焦らなくても大丈夫。オレとコウバンは大抵のやつには負けないからな。パヤオにまで出番が回ることはないさ」
「それだといいけど……でも、相手だいぶ強そうでしたよ?」
そういうと、エンツォはあきれたように鼻で笑った。
「強そうなやつが勝つんじゃないさ。速いやつが勝つのさ」
本当に大丈夫かな……一抹の不安が胸をよぎるものの、一方ではエンツォたちならなんとかするのではないか、という漠然とした期待があるのも事実だった。
スタート時刻の午後五時が近づいていた。