これがおれのくだり道
「なぜだ! なぜ車検に入らない!」
五分後に台車を押して坂道を上ってきたエンツォ先輩がおれに食ってかかる勢いで、詰め寄っていた。なぜといわれても困る。
「いや、どう考えてもおかしいでしょ。台車乗って坂道をくだる遊びで世界がどうとか。つうか、そんな世界一、きいたことないですって!」
おれの反論にエンツォ先輩は肩をすくめながら手の平を上にむけ、首を振る。なんでおれのほうががわかってねぇなぁ、みたいな感じになってるんだ?
「わかってねぇなぁ」
そのまんまかよ!
「いいか、ハンドトラックライド、ハントラはれっきとした競技だ。ハンドトラックライディングインターナショナルコミッショナー、いわゆるHTRICの世界大会だって開催されているんだ!」
「知らないですよ。そんな組織!」
「ではきくが、君はこの世界のなにをどれだけ知っているというんだ? 自分はすべてを知っていると思うのは昔からの君の悪い癖だ」
エンツォは腕組みをして憤然としている。でもなんで、おれが怒られてるの? というか、あんたこそおれのなにを知ってるんだよ、といいたい。
「とにかく、おれはハントラとかいうのはやらないし、先輩たちの荷車検査部とかにも入るつもりはないです。そもそも、なんで荷車検査部なんですか? ハンドトラックライド部とかハントラ部とかにすればいいじゃないですか」
「馬鹿だな。そんなクラブ名にしたら『台車レースをする部活動は認められません』って学校側にいわれて承認されないだろうが」
荷車検査部だって認められてるのが奇跡だと思うけど。つうか、自分たちでやってることがおかしいってわかってるんじゃねぇか。おれは、もうどこにツッコめばいいのか、完全に迷子状態だ。
「それに、さっきコウバン先輩が合わないと思ったら入る必要はない、っていったじゃないですか」
「ああ、確かにいったね」とコウバン先輩が認める。「けれど、その判断をするにはいかんせん拙速すぎやしないかい?」
いや、あんなもん、一瞬見ただけでわかるわ。ただの馬鹿だって。
とはいえ、ここで「入れ」「嫌だ」の押し問答をしているのでは埒が明かない。きっぱり断らないと、あとあとで面倒になる。それこそ、訪問販売で血液さらさらになる布団を100万円で買わされるおばあさん状態だ。部活動に入るまで帰りませんよって。
あの人たちが多少強引に引き留めをしても、それを振り切ってここから逃げ出さないと、おれの虹色の青春の日々は、ただの馬鹿の一員として過ごすことになりかねない。意を決しておれは「とにかく、おれはこれで失礼します」とはっきり入部を断って、さっき先輩たちが台車レースをした坂道をくだろうと歩きだした。そのとき、坂の下のほうから
「おーい、みんな来てるぅ?」
と、妙に明るい声が聞こえてきた。なんだろうと目をやると、さっきエンツォ先輩が台車とともに消えた遊歩道の曲がり角から、パステルピンクのジャージを着た一人の女の子が空の台車を押しながら坂道を登ってくるところだった。
おれはこのとき、二つの間違いを犯した。
まず、おれはなにがなんでもこの場を離れているべきだったこと。
そしてもう一つ。おれは、その女の子に一目惚れをしてしまっていたことだ。
艶のある烏羽色の長い髪を春風になびかせた姿がスローモーションとなっておれの網膜を焼き尽くしていく。切りそろえた前髪が小さな輪郭によく似合っていて、くるんと上をむいた長いまつ毛と、オリーブグレーに近い色をした大きな瞳はエキゾチックな妖艶さを放ち、小さな顔のなかでも特に目立って美しかった。
馬鹿みたいに突っ立ってそのジャージ姿の女子に見とれているうちに、その子は車検の三人のもとへやってきていた。
「エンツォ、遅くなってごめんね。台車が修理から帰ってきていたから、引き取りに行ってきたよ」
「サンキュー、カオル。これでようやく本格的に練習再開できるな」
「やっぱりタイムもレース形式じゃないとね」
そういってくつくつと笑う彼女(カオルって呼んでいたな)をぼけーっと眺めていたところ、不意に彼女と目が合った。
「あれ、君。新顔だね? もしかして、新入部員?」
ぱっと瞳を輝かせてカオルがおれのそばに駆け寄ってきた。
「あ、あの。おれ……」
どぎまぎしていると、エンツォがいった。
「そいつは見学に来たんだがな。残念ながら入部はしないそうだ」
「え?」
カオルは一瞬エンツォをみて、もう一度おれの顔をみた。それまでの彼女の輝くような表情は影をひそめ、その大きな瞳が悲しみに曇っていた。おれは急に気まずくなって、「いや……その」と言葉にならない声を吐き出すことしかできずにいた。カオルは一歩前に進み出ると、うつむき加減のおれの顔を覗き込む。
「どうしても、入部しないの?」
彼女がそういうのと同時におれの指先に柔らかな感触が伝わってくる。彼女の両手がおれの指先をやさしく包み込んでいた。おれの心臓が一度、どきんと強く跳ね上がった。
はっきりいおう。おれは女の子と手をつないだことはない。その柔らかな指先の感触も温度も、おれの目をじっと見つめるその潤んだ瞳も、なにもかもが初めての体験だ。
この状況で美女の誘いを断れる男はいると思うか? そう、普通のお盛んな高校生諸君なら舞い上がってすんなりOKしてしまうところだろう。けれど、いっときのスケベ心と引き換えに、おれの三年間の虹色ライフを失うわけにはいかない、と厳しく自分を律する。
もちろん、美女を目の前にして(しかもめちゃくちゃタイプ)そのお願いを断ることは、簡単なことじゃない。おれの中のもうひとりのおれも「いいじゃん、YOUやっちゃいなヨ、ハントラやっちゃいなYO!」とはやし立てている。けれど、台車乗りなんて馬鹿げたことを高校生にもなってやっているなんて知れたら、それこそまわりからどんな扱いを受けるか分かったものじゃない。針の筵は中学生のときに懲りたのだ。
「せっかく見学に来たんでしょ、体験入部だけでもいいから」
カオルはそういって体をおれのほうへと寄せる。彼女の美しい髪から甘いバニラの香りがした。
だが断る。
そう心を決めた次の瞬間。彼女はつないでいた指先から右手をほどき、その手をおれの下半身へと伸ばしていた。えっ、と思ったときには、彼女の右手はおれの股間を制服の上から弄っていた。
ちょっとまって、こんなところで、まさか……そんなプレ……
「いッ……てぇぇーっ!」
尾上山の展望台におれの絶叫が響き渡る。
彼女は右手にぐっと力を込めて服の上からおれの睾丸をガッチリ握っていた。おれは言葉通り、押しつぶされそうな痛みから逃げようとして身をよじるが、彼女の右手は食いついたスッポンのごとく、おれの股間を離すことはなく、それどころか、気付いたときにはおれは背中から地面に押し倒され、彼女にマウントポジションを取られたうえに、右手は股間、左手は肩をがっちり押さえつけられて身動きが取れなくなっていた。
「ねえ、君も一緒にハントラやろうよ?」
「い……嫌ですよっ!」
股間が爆発したのかと思うほどの激痛が走る。カオルはじわじわと力を加えていく。なんだ? なんなんだこの女!
目の前に繰り広げられるこの珍妙な取っ組み合いにはこれっぽっちの関心も示さずに、腕組みをしながらエンツォが飄々といった。
「ああ、シュンくん。紹介が遅くなったけれど、いま君に乗っかっている子は、うちのマネージャーをやってくれている名足馨くん。ちなみに、アームレスリングの世界王者だ」
「よろしくね、シュンくん」
股間を握ったままカオルは満面の笑顔でいった。お願い、右手に力をこめないで。
「どうだ、来道シュン。おれたちの車検に入ってみないか?」
「……はい……おねがいします……」
ハエの羽音のような声をあげると、ようやくおれの股間はカオルの右手から解放された。
これで、晴れておれも馬鹿の仲間入り。さようなら、おれの虹色デイズ。こんにちは、おれのくだり道人生。




