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 フクシアは我に帰った。

 口の中に広がっていく、甘い、溶けるような、食感とソース。今まで食べてきたどんな食べ物よりも、スイーツよりも、どの人間よりも美味しい、ティエラのうなじ。

 しかしフクシアはそれを咀嚼して味わうよりも先に、ティエラの首筋から口を離し、思わず後ずさった。血と唾液とが、糸を引いていつまでも離れない。

「ティエラ……」

 食べてしまった。フクシアは思った。

 "食べてしまった"。

 それはその命を奪うという事。今まで当たり前のように行ってきた事。しかし今フクシアはそれを始めて、後悔していた。あれだけ欲していたティエラの肢体を、肉を目の前にして、唾液を溢れさせながらも、なお食欲よりも別の感情がフクシアを支配し始めていた。

 ティエラは力が抜けたかのように左手で床をつきながら崩れ落ち、深く噛みつかれた首を右の手で押さえ、肩で荒く息をしながら、フクシアを見つめ返す。自責の念に駆られ始めたフクシアよりも、芯のある目つきで。

 フクシアは血まみれで立ち尽くしていた。その変化した、花びらのような、怪物のような、少女のそれよりも一回り大きく、アンバランスな赤紫色をした腕をだらんと、垂らして。そしてその目は再び立ち上がるティエラから視線を外せない。

「ティエラ、ごめん……」

 フクシアの言葉を聞いたティエラは首筋を押さえた血に濡れる手を外すと、深く、深く深く息を吐いた。ため息のように、力なく、けだるく。

 フクシアは、ティエラのその甘美な血に染まった首を見つめながら、自らの目を疑っていた。

 ティエラの首筋、たった今自分が噛み付き、その脈を切り裂いたはずのその首筋から鮮血は溢れ出していなかった。代わりに、水色の結晶のような……いや、花びらのような、細長い何かが連なってその傷口から生えるように、傷口を埋めるように、密になっていた。

 フクシアは一瞬の動揺の後、言葉に出来ない喜びを感じた。

 あたしと同じだ。

 自分以外にも、自分以外にも自分と同じような、足元で骸となっている脆い人間とは違う、そんな存在。今目の前にあるのは、まさしくそんな、そんな、孤独のトンネルのそのずっと先から一筋の光が見えたかのような、そんな、言葉に出来ない喜び。

 しかし、そのフクシアの耳に届いたのは、ティエラの冷たい言葉だった。

「やはりもう駄目です、ご主人様」


「ああ、やっぱり駄目か。報告ありがとう、ティエラ」

 がちゃりと寝室に入ってきたのは、1人の男性と、その後ろから青褪めた顔をしたアグワだった。

「ソ、ソル……」

 アグワはフクシアの足元の"それ"を見て、震えていた。ついさっきまで生きていたソルが、ばらばらになったたんぱく質に成り下がった光景が、強烈すぎた。

「フクシア、君は駄目だ。失敗だよ。悲しいな、2年間も君に費やしてきたというのに。今日でこの部屋ともお別れだね」

 残念そうに首を振るその男を見開いた眼で見ながら、フクシアは状況が全く分からないという風に、声を震わせた。

「どういう事……? "お父様"」

 お父様、と言われたその男は、顔色変えずに返事を返す。

「どうもこうも、そういう事さ。この部屋は今日からティエラの……いや違うな、今日からお前の名前は"ニゲラ"だ。ニゲラの部屋だ」

「ニゲラ……分かりました、ご主人様」

「お父様……どういう事、なの」

「どうも何もないさ。フクシア、君はもう用済みという事だよ。"実験は失敗だった"」

 男は、フクシアに臆する事なく、ゆっくりと血を含んだカーペットを踏みながら、歩み寄る。

「フクシア、君は"成功作"だったはずだった。だからこそこんな待遇をさせながら君の行動や生態をつぶさに"観察"していた。2年間、従者を食い殺したりしても、君の身体には期待をしていたから"処分"せずにこれまでやってきた。だがニゲラが来てから君はおかしくなってしまったな。なくても良い感情が芽生えてしまった。もし、今君が本気でティエラを殺していたならば、"合格"だったのだが。躊躇ってしまったね」

「フクシア様は、恐らく私に……親近感というものを抱いたのだと、思います」

 いつもと変わらない表情で呟く、"ニゲラ"。

「それが駄目なんだよ、ニゲラ。自分と似た存在は――"自分と同じ実験体"だという事に本能的に勘づいて、排除するくらいじゃないと」

「ご主人様……どういう、どういう事ですか」

 ニゲラは目の前の状況とその言葉に頭が働かず、ただ口からそう訊く事しかできない。

「そういう事だよ、ニゲラ。フクシアもティエラも同じ"実験作"だ。基本的に同じ"造り方"をした。フクシアが2年経ってもなかなか自分の生まれた使命を自覚してくれなくてね。その間に研究は重ねていたから痺れを切らして"造った"のがニゲラだ。完成度も安定度も高い。ただ大量の血による暴走は懸念されていたから、それを感知したら"意識を失う"ようにプログラムさせているがね。ニゲラ、これくらいなら大丈夫かい」

「はい、これくらいなら何とか……"暴れずには済みます"」

 ニゲラは口を拭いながら答える。

「実験……一体、何の、いや、あたしは……」

 フクシアはその血に染まる花弁のような手で頭を抱えて、処理しきれない情報を処理しようとする。そんなフクシアの前まで歩み寄った男は、耳元であやすように囁く。

「まだ"2歳"そこらの頭じゃ分からなくて当然だな。君には機械的に知識を植え付けたが、やはりきちんと時間をかけて教育をしなければな。それにニゲラは君とは違ってきちんと人間として胎から産まれた後、実験を行ったからな。理性によるコントロールが格段にしやすくなった」

 男は立ち尽くすフクシアの顎を伝う血を指で掬い取りながら、顔を背後のニゲラに向ける。

「……それにしてもニゲラ、君は何故私が指示したように、そこにいるアグワを連れて行かなかったのかい?」

「いえ、ご主人様。どちらが死んだところで"特に大差はない"と思いましたので。世話係として動いてもらううえでは、どちらが生きていても変わらないじゃないですか。仕事のこなす量も。変わりませんし。なので、私の独断と偏見で、ソルに死んでもらいました」

「そうか……まあ、"実際そうだから"別に良かったんだがね。君がやりやすいならそれでいいよ」

 ニゲラは血の気が引いたアグワの方をちら、と見た。そして、微笑む。

「ソルよりはあなたの方が、私にとって幾分か"まし"だと思いましたので」

 アグワはかたかたと身体を震わせながら、必死に声を出した。

「ティエラ、お前、何者なんだ……」

「アグワさん。私の名前はニゲラですよ。もうそんな名前じゃないです」

 ニゲラはアグワの顎を手で掴む。

「これからあなたは、私の世話係です。今のような口の利き方は、もうしないでください、ね?」

「…………」

「あなたなんか、簡単に殺せますので」

 ニゲラはにやりと笑った。その顔は凄惨で、とても楽しそうで、フクシアと瓜二つだった。

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