渇望
枕元の柔らかいテーブルライトが淡い部屋を照らす中、フクシアは眠りに就けずにいた。目を閉じて、何も考えずに寝ようと必死だった。けれど眠気はやってこない。仕方なく開けた目は紅く、光っている。
空腹感がある。晩ご飯だって沢山食べたはずで、満たしたはずだったのに、それでも満たされない気持ちを抱える。ため息から香るミントの香り。ここ最近感じてない香り、鉄にも似たあの香り。
ああ、だめだ考えては。フクシアは思ったが、その事がずっと頭の片隅にあって、どんどん大きくなりつつあるのを感じていた。なにせ何度も感じてきた気分だったから、これを抑えきれない事も、知っている。
口に広がる、肉の味。
フクシアの口腔に、どばっと唾液が溢れた。頭の中で思い起こされる、最後にとった"特別な食事"。ひたすらに良かった、あの食事。ひたすらに。
フクシアは声を出しながらベッドから飛び起きた。一糸纏わぬ肌に銀色の髪が流れる。窓に向かう。鍵がかかってる事は分かっていても、窓も割る事が出来ない特殊な材質である事を知っていても、フクシアは窓を開けようとし、窓を叩く。叩く。叩く。殴る。外に出て、誰か、誰かを食べたい。口寂しいなんてものじゃない。強烈な飢餓にも似た、直接脳が訴えているような感覚。
ベッドの枕を掴む。掴んで、噛み付く。尖った歯を食い込ませ、びりびりと引き千切った。ふわあと中の羽毛が舞い散っていく。何度も何度も何度も、噛み千切る。
フクシアはいらいらした様子で枕の残骸を壁に投げつけた。そして口に指を突っ込んで、中に入り込んだ羽毛を掻き出す。うーっと唸る口から、唾液が糸を引いて零れていく。味気ない枕を噛みしめた所で、欲はむしろ膨れ上がるのみだった。疲れ切って眠るまで、この苦しみが続く事を知っていたフクシアは、早く逃れたくて、早く満たされたくて、自らの欲求が、自分自身が、こう思った。
あの時、ティエラを食べておけばよかった、と。
フクシアの喉が、とめどなく分泌される唾液をごくりと飲んで、動く。虚空を見つめて、思いを巡らせる。
あんなに弱そうで、あんなに柔らかそうで、あんなに愛おしくて、あんなに美味しそうな人間を見たのは、フクシアにとって初めての事だった。最近ティエラをよく身近に置いてしまうのは、きっとそういう意味なのだろう。それに、真逆にも思えるティエラに、フクシアは何故か自分と似たものを感じていた。それが何なのかは全く分からないが、本能的に思っていた。
「ティエラぁ!」
気付くとフクシアは部屋の扉を開けようとしていた。しかし当然、鍵がかかっている。毎回こうなる事が分かっているから、その前にフクシアは自ら侍従に期間を定めて部屋を開けられないように指示している。しかし衝動に駆られているこの間は、そう指示した自分を呪っていた。
自分の手に収まりそうに細かった、弱々しいあの首。力が抜けて、自分を見つめる事しか出来なかったあの顔。
ティエラが今、欲しい。
フクシアはドアを叩いて、叩いて、蹴って、椅子を持って、ドアに叩きつけて、椅子が砕けて、ドアを叩いて、叩いて、テーブルライトを持って、コードが勢いで引き抜かれて、テーブルライトをドアに叩きつけて、暗くなった部屋で電球が割れる音がして、ドアを叩いて、叩いて、叩いて、
「うぅぅぁ……」
フクシアは満たされない苦しみに声を漏らした。足の裏に鋭い痛みが走り、電球か何かの破片が刺さっているのだろうと思ったが、そんな事はどうでもよかった。
ふらりとぼろぼろのベッドに戻る。その上でへたりとアヒル座りをする。ばさりと顔にかかった髪の毛の間から潤む瞳を覗かせながら、食べたいと、ティエラを食べたいと渇望する。きっと、きっと今までで1番、格別で、美味しいはず……でも、折角なら綺麗に、整えられた料理のように丁寧に、食べてみたい。いつも怯えてるような、可愛い顔を、崩したくない。自分と同じくらい艶やかな肌だって、散らかしたくない。そう、例えば……。
フクシアは自らの足に突き刺さっていた大きな電球の破片を引き抜いた。血の玉が出来る間もなく血が流れ出す。そして身体を前屈みにしながらその鋭い先端を自分のみぞおちに突き立て、ずぐ、と突き刺した。
痛みは、別の感覚によって掻き消され塗り潰され、じわりと温かく身体の芯に広がり始める。そう、こうやって優しく腹を裂いて……。フクシアはティエラの肢体を想いながら破片を突き刺したまま、ずずずず……と下腹部へと運んでいく。きっとあの身体はこれ以上にもずっと柔らかい感触で……。自ら傷つける傷の軌跡からは血が滲み、溢れ、肌を流れ、シーツを汚し始めた。手に力が入り、破片を持った手の皮膚も切れる。フクシアは背筋が震えた。それは負傷による悪寒ではなく、初めて覚える、名前も知らない感情によるものだった。血の零れる自分の腹部を小さくなった瞳で見つめるフクシアの半開きの唇からは吐息の音が漏れ、だらりと唾液が落ちる。
フクシアは止まらない食欲にも勝る、今まで感じた事のなかった欲を闇の中、瞳を爛々(らんらん)と輝かせながら一心不乱に満たしていた。




