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夕食の買い出しをしにコンビニに行った帰り、駐車場で〈魔術師〉の戦いに遭遇した。
一人はローブを着たおそらく連盟の〈魔術師〉であろう若い男で、もう一人はシャツにジーパンとラフな格好をした〈魔導士〉と思しき男だった。
見たところ、ローブを着ている方は〈怠惰〉、私服の方は〈色情〉の属性の魔術を使っているようだった。
ローブの〈魔術師〉が、身に着けている腕時計を動かす。すると、道路を走っていた車の速度が緩やかになり、歩道の脇に避けて〈魔術師〉の戦いを見ていた野次馬たちの動作が緩慢になり、咆える犬の声が、水の中を伝うように駐車場一帯に鈍く響き渡った。
対する〈魔導士〉と思しき魔術の使い手は、動きが遅くなる前に、自らの身体に香水を振りかけた。その行為は一見すると意味不明な行動のように思えるかもしれないが、れっきとした魔術だ。自らに香水を振りかけた彼は、緩慢になった時間の流れの中、一人だけいつもと変わらぬ動きをしていた。
物心ついたころからこんな光景は見飽きているため、俺はそれほど驚きもせずにその二人の戦いを見物する。
おそらく、〈魔導士〉を見つけた〈魔術師〉が、敵を捕らえるために戦闘を仕掛けたのだろう。こんな街の外れの人目につくところで、〈魔導士〉が決闘を挑むメリットはない。
ローブの〈魔術師〉が、再び時計をいじる。今度は、さっきよりも多くの時間を操作したようだ。周囲の動きが先ほどよりも遅くなり、〈魔導士〉の動きも鈍くなる。より多くの魔力を消費して〈怠惰〉の魔術を使ったのだろう。
〈魔導士〉の男は、もう一度懐から香水を出そうとしたが、動きが鈍くなっているため、懐に手を入れた時点で、ローブの〈魔術師〉に捕えられてしまった。
〈魔導士〉を捕えた〈魔術師〉は、男の腕を拘束し、時計をした腕を上下に振る。すると、緩慢だった周囲の動きが元の速さに戻った。
〈魔導士〉は自分の魔術発動のトリガーである香水を〈魔術師〉に取り上げられ、魔術を発動できなくなり、対抗する術を失う。
そして、〈魔導士〉を捕えた〈魔術師〉が〈魔導士〉の男を拘束したまま、携帯を取り出し連盟支部に連絡を入れようとした。
まさにその時だった。拘束されていた〈魔導士〉が、隙が出来て力の緩んだ〈魔術師〉の手を振りほどいて、ポケットに隠し持っていたナイフで、なんとローブの〈魔術師〉の腹を突き刺したのだ。
〈魔導士〉が魔術を発動できなくなっていたため油断したのだろう。刺された〈魔術師〉は腹から血を流し地面に倒れる。野次馬たちの人垣がサッと後ろに退いた。
これは……ヤバいんじゃないの? と、俺が思ったのも束の間、〈魔導士〉の男は血の滴るナイフを握ったまま、血走った眼を俺の方へと向けた。
俺は咄嗟に左腕を抑える。どうする? 〈憐憫の偽手〉で、〈魔導士〉のナイフを奪ってしまおうか。しかし、それで相手が興奮して暴れまわったりしたら始末に負えないぞ。
などと考えている間に、男はどんどんこちらに近づいてくる。俺は後ろのコンビニに逃げ込もうかとも思ったが、店に迷惑をかけるわけにいかないし……
と逡巡しているうちに、男は俺の目の前に来ていた。そして、俺にナイフを突き付けようとしたその瞬間――――
「おじさんが行くのは、どうやら連盟じゃなくて警察の方みたいだね」
自動ドアが開いて、中から御影美里が姿を現した。
ヘッドホンを装着していた御影は、〈魔導士〉の男の肩に触れる。すると、男の顔からみるみる内に生気が抜けていく。そして、顔から生気が抜けきり、ミイラのような風貌になると、〈魔導士〉の男は気を失い、その場に崩れ落ちた。
「タイミングを計ってやがったなこのストーカー野郎」
俺は後ろにいる御影に悪態をつく。
「交渉を有利に進めるため、貸しを作っておくのは悪い方法じゃないと思わないかい?」
御影は装着していたヘッドホンを外して、先ほど刺された〈魔術師〉の前に屈んだ。
そして〈魔術師〉の、ナイフで刺された傷口に手をかざした。すると、ローブの男の出血が止まり、顔色が健康な時のそれに戻って行った。
これが、〈暴食〉の魔術属性を持つ御影の能力だった。
御影は気を失っている〈魔術師〉の手から、携帯を取り上げ、代わりに電話に出る。
「連盟の方ですか? 〈魔導士〉は確保しましたんで、至急針葉区のトンクスの前まで引き取りに来てください。え? 僕ですか? 名乗るほどの者じゃありませんよ」
そう言って、御影は通話を切ると、ローブの男の手に戻した。
「それで、君は協力してくれる気になったかな?」
「あれくらいなら俺だって何とかできた。お前に借りなんてねえ」
「全く恩知らずだね。僕が現れる直前まで、ビビッて動けなかったくせに」
「コンビニに迷惑かけて、店に入りづらくなるのが嫌だっただけだ」
「なら、なおさら僕に感謝すべきじゃないかな? 明日もまたここのジャンクフードが食べられるのは、僕が穏便にことを済ませたおかげなんだからさ」
この嫌味な野郎はどうしても自分の手柄ということにしたいらしい。俺は片手を振って、虫を払うような素振りをする。
「手柄ならくれてやる。それで貸し借りなしだ」
「素直じゃないなあ。でもさ、これで分かったんじゃない?」
「お前が嫌な奴であることはとっくに知ってる」
「違うよ。この世界における弱者の立ち位置ってヤツがさ」
俺は首を傾げる。御影の言いたいことが分からない。
「どういうことだよ?」
「周囲の人たちの反応だよ。君も見ただろ?」
俺はさっきの野次馬たちの行動を思い出す。際立って変なところは思い浮かばない。
「〈魔術師〉同士が戦っているというのに、特に怖がる様子もなかっただろ?」
「それがどうした? 〈魔術師〉憲章が制定されてから20年。別に珍しい光景でもなくなったってだけだろ?」
「そこだよ。慣れたとは言っても、あれは紛れもなく人間同士の戦いなのに、どうして誰も止めようとはしない?」
そんなの、素質のないものにとって、魔術は理解の外にあるものだからだろう。
「さっきだって、〈怠惰〉の魔術によって時の流れが緩やかになったというのに、誰も違和感を覚えない。〈魔導士〉の男がナイフで人を刺した時には流石にどよめいたが、それ以外には何も感じていなかった」
「だから、それがどうしたって言うんだよ?」
「慣れ過ぎてないか? 変化することに」
〈偽典の魔術師〉は、憂いを帯びた声で言った。
「慣れ過ぎている?」
「そうさ、人間は魔術によって変化してしまうことに、適応し過ぎてる。僕はそれが時々怖くなるんだ」
そう言って、御影は俯く。
「もしかしたら、居ても居なくてもいい人間が魔術によって消し去られてしまったとしても、誰も気づかないんじゃないかってね。魔術によってごくわずかだけした変化に、存在の薄い者は、かき消されてしまうんじゃないかと、僕は時々思うんだ」
生まれた時から魔術も争いもごく身近にあった俺は、そんなことなど今まで考えたこともなかったので、御影の口ぶりに驚いた。
「生まれつき病弱な妹が居るから怖いんだ。もし彼女が、魔術によって命を落とすことがあったとしても、僕や彼女の周囲に居た人間は、それに気付けるだろうかってね。妹が死んでも何食わぬ顔をして、また毎日同じような生活を送る自分を想像すると、たまらなく不安になるよ」
御影は自分の手を見つめて、握り拳を作る。
「だから、考えてみて欲しいんだ。睥睨坂さんにとって、君が一体どんな存在として認識されているのかということを。作戦に協力することを無理強いはしない。だけど、もし自分に自信がなくなったら、僕は君に道を提示してあげられる」
「俺の、存在……」
「君が魔術によって変化する世界に、ただかき消されたくなかったら、ぜひ僕と一緒に戦ってほしい。そして、君がここに居るんだってことを、世界に証明してほしい」
と、そんなことを話している間に、制服のローブを着た連盟の〈魔術師〉が、コンビニの前にやってくる。
面倒なことは嫌だったので、俺と御影は素知らぬフリをして、足早に店の前から立ち去った。
また幼い頃の夢だ。これは、咲哉が両親を失くしてすぐの頃、俺が彼女の見舞いに行った時の記憶だろう。
咲哉が沈鬱な表情で膝を抱え、部屋の隅で黙り込んでいる。
俺は一時間ほど咲哉の傍にいたが、彼女にかける言葉が浮かばなくて、結局何もせずにそのまま家に帰ったのだった。
何もしてやれない、何もすることがない、何もできないという無力感ばかりが募って、返ってから俺は、部屋の壁を叩いた覚えがある。
それでも現状を変えたくて、とにかく咲哉の家に押しかけては、何もしないまま帰る日々が続いたのだっけ。
そして次第に彼女に会うのが辛くなっていって、やがては家の前に行くだけで引き返すようになっていったのだった。
今、俺が咲哉のために〈眷属〉を引き受けているのは、その時の気持ちを引きずっているからだろうか?
違う、とも言い切れない。無力感はまだあるからだ。
だけど、そうじゃない気持ちもあるような気がする。なぜなら、俺は今咲哉のことが好きで、彼女に自分の気持ちが伝わればいい、とも思っているからだ。
――――君がここにいるんだってことを、世界に証明してほしい
御影の言葉が思い起こされる。魔術によって世界が書き換えられて、もし俺が消えて無くなっても、咲哉にだけは気付かれたい。そういう気持ちが俺の中にあるのだろうか?
だから、俺は〈眷属〉になると誓ったんだっけ?
やはり違う。〈眷属〉になると魔女に誓った時、俺は永遠に、咲哉とは分かり合えなくなると覚悟したのだから。
強者と弱者、住む世界の違う両者が、分かり合うことはない。
故に、そのことを知りつつ認めた俺は、咲哉と心を通わせたいから戦いを始めたというわけではないのだろう。
だったら、だとしたら、俺は一体何のために戦っているんだ?
早朝、まだ日も登らない黎明時に目を覚ます。薄らいだ宵闇の中に混じる儚げな光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
俺はソファから起き上がり、とりあえずコップに一杯水を注いで飲みほした。喉が潤うと、早くなっていた鼓動が鎮まり、少しだけ落ち着いた。
咲哉にとって俺はどう思われているのか。夕方に御影から言われたことを、俺はずっと考えていた。
せいぜい幼馴染。もしくは戦友、部下。しかし、俺が戦えなくなった今は、責任感から守るべき一市民程度の扱いかもしれない。
俺が腕を失ったことに対して感じているものも、かつての失敗とそれに対する戒めくらいのものだろうか。
いずれにせよ、彼女から対等な立場の人間としては見られていないだろう。
それは構わない。そんな今の立場を受け入れたのは俺なのだから。恋慕を抱いたところで、報われないことなどわかっている。
なら、俺が〈魔導士〉と戦う理由は何か。それを考え始めたら、行き詰ってしまったのだった。
咲哉のために〈眷属〉になったのだということは覚えている。だけど、なった後どうしたいのか、〈魔導士〉から彼女を守ったところで、どうなるのかなどは全く考えたことが無かったような気がする。
それは、俺が彼女からどう思われたいか? ではない。俺自身がどうなりたいのか、という話だ。
別に、俺は咲哉のヒーローになりたかったわけではない。ならば、俺はどうして戦っている?
ただ成り行きで、俺は〈眷属〉として戦うことを誓ったのだっけ?
考えれば考えるほど、深い霧の中に迷い込んでいくようだった。
俺は自分の本当にしたいことが、まだわかっていないようだ。しかし、こんなことで思い悩んでいても詮無いことなので、俺は下らない意地を張るのはやめることにする。