15
御影から紹介された場所に、俺は最低限の着替えと日用品だけ持って、相談した次の日から早速移り住むことにする。
そこは山の麓にある、古びてはいるが広い面積を有する日本家屋で、〈偽典の魔術師〉たちが時々、活動拠点として利用している場所だった。
そして、この街屈指の危険地帯でもあった。
なぜなら、ここは異界に最も近い場所なのだ。
〝隔絶の被膜〟は、本当に被膜として目に見えているわけではない。作り上げた〈傲慢の魔女〉は水平線の向こうと上空の遥か彼方に、巨大なドームのような膜が作られているように見せかけているが、それは象徴のようなもので、実際にそこにあるわけではない。
つまり〝隔絶の被膜〟とは、目には見えないが常に俺たちの隣に存在している、概念のようなもなのだ。
その〝被膜〟の性質、つまり異界とこちらの世界を隔てる仕切りの厚さと言うのは、土地によって異なるそうだ。それは土地に宿っている霊力によって変わるらしい。
そしてこの場所は、この街で最も霊力が低い場所だ。つまるところ〝被膜〟による仕切りが、この街の中でもとりわけ薄い場所の一つなのだった。
そのため街の住民はまず寄り付かないし、人々はこの近くには住もうとはしない。それに、この建物に限っては、例のごとく人避けの結界が張られているため、〈偽典の魔術師〉以外人が来訪してくることもない。
人を避けて生活できる、まさに隠れ家としては、これ以上ない場所なのだった。
俺は引き戸の玄関を開けて家屋に入り、沓脱で履いていた靴を脱いでから、居間に荷物を置いて一息ついた。
左手の偽手の熱は上がっていない。だが、また嫉妬の感情を覚えることがあれば、また熱を持ち、今度こそ俺のことを焼き殺すだろう。
しかし、偽手を切り離せば、俺はしばらく魔法が使えなくなり、咲哉を助けることが出来なくなる。
なので、今はこうして人から離れて生活する方が良いだろう、と思ったのだ。
俺は部屋の戸棚の上に備えつけられている、デジタル時計を見る。時間だけでなく、日付もわかるタイプのものだ。
咲哉が連盟の集会を開き、〝隔絶の被膜〟の調査を始めてから、もう二日以上経っていた。
順調に進んでいれば、もう調査は終わり、修復を始めている頃だろう。〝被膜〟の構造は、連盟でも地位のある人物か、魔術理論に精通したものにしか明かされておらず、どうやって修復を行うのかなどは、部外者の俺には見当もつかない。
ただ、〈魔導士〉たちは捕まえたし、そのおかげで、連盟側の人員にもいくらか余裕が出てくるはずなので、修復もそれなりに順調に進むだろう。
今は、その事実にいくらか救われていた。
咲哉の屋敷を狙う〈魔導士〉も、そう頻繁に現れるわけではないし、出てきたところで辻堂か咲哉に捕まるだけだ。俺がいちいち魔法を使って助ける必要はない。
だから今は、俺の出る幕はないのだろう。
俺は畳の上に仰向けになり、目を閉じ、そう自分に言い聞かせる。そうとでも思っていないと、またよからぬ感情が溢れ出てきそうになるから。
午後三時を告げるアラームが鳴り響く。俺は、目を閉じたまま、ゆっくりと意識を眠りへと下ろしていった。
隠れ家での隠遁生活は思っていたほど不自由ではなかった。
山の麓にあるこの日本家屋には、電気や水道は通っているし、生活に必要な家電や設備は一通り揃っていた。それに、食料の蓄えも十分ある。なので、人と会わなくとも、それほど困ることは無かった。
だが、それ故、人里ではまず起きないようなことも起きる。
風呂上り、タオルで濡れた頭を拭きながら居間に戻ると、見慣れない姿をしたそいつと出会ってしまった。
黒い靄に包まれた軟体動物のような小さな体躯に、金色の瞳が二つギラギラと輝くその生き物は、紛れもなく不成者だった。
うっかりここが危険地帯だということを忘れていた俺は、その不成者の姿を見て、後ろにのけ反った。
今この場にいるこの不成者は、見た感じ、ただの雑魚だ。おそらく、あちらの世界でも位の低い魔物か何かなのだろう。
故にこのまま放置しておいても、問題はないものと思われた。
不成者とは、〝隔絶の被膜〟によってその存在全てを、まだこちらの世界に持ってこれていない状態である、異界側の住人のことを指していう。
異界とは天界や魔界、天国や地獄といった、古くから神話や伝承として人々の間で語り継がれてきた世界の総称のことをいう。
そこの住人――つまり神や天使や悪魔といった存在――が、〝隔絶の被膜〟に遮られ、完全な姿に「成」れていない「不」完全な状態でこちらの世界に現れている存在、それが不成者だった。
そして不成者は、こちらの世界にやってきた時こそ不完全な状態であるが、時間が経つにつれ、完全な状態へと近づいていく。
そうなると、力も強くなり、こちらの世界へも何らかの影響(大抵は悪影響)を及ぼすようになるので、そうなる前に〈魔術師〉たちが駆除をする。
だが、今ここに〈魔術師〉はいない。不成者には魔力を込めた攻撃しか効かず、素手では触れることすら敵わない。
しかしそれは不成者も同じで、魔力が戻る、奴らはこちらの世界のものには一切干渉することができない。
俺は一応、魔術の心得があるので、目前の不成者に対して攻撃が出来ない、というわけでもない。
しかし、しばらく使われていない俺の魔力のパスは、すっかり錆びついており少量しか魔力を生成できない。おそらく、目の前の雑魚すら倒しきれないだろう。
それに、ここは隠れ家なので、〈魔術師〉を呼ぶこともできない。御影に頼んで〈偽典の魔術師〉を呼んでもらうことも考えたが、彼らは彼らで今は忙しく、この程度のことで呼び出すということもなんだか悪い気がして憚られた。
なので、良いことではないというのはわかっているが、俺はこの不成者を放置しておくことにした。
この程度の雑魚ならば、〝隔絶の被膜〟を超えて、完全にこちらの世界に来るまでに何か月もかかるだろうし、その頃には俺はもうこの屋敷にはいないはずだ。
だからいっそ、自分には関係のないことだと割り切って、俺はこの不成者と一緒に生活を送ることにする。
俺は〈眷属〉であり、〈魔術師〉ではない。怪物退治は彼らに任せておけばいいのだ。
不成者とは、謂わば何にもなれないものだ。
あちらの世界から不完全な形でやってきたはいいものの、形を成す前にまるで紛れ込んだ害虫のように叩き潰される。
こちらの世界に影響を及ぼすほど形が出来上がることは稀で、大抵はその前に〈魔術師〉たちに駆除される。
あちらの世界でどうだったかは分からないが、こちら世界に来てからは、死ぬまでに何かを成し得るわけでもなく、それどころか完全な自分にすら成れないまま死んでいくのが大多数。そんな存在なのだ。
だからというわけではないが、俺はそんな奴らに対し、少しだけ共感していたところがあるのかもしれない。
昨日この屋敷に出現した不成者は、朝、居間で朝食の準備をしていた俺に対して飛びかかってきた。
しかし、当然のごとく不完全な不成者の肉体は、俺の身体をすり抜け、床へと落ちる。
本能的に敵である人間を見つけて襲い掛かったのだろう。それが無意味なことだとわかっていても、やらずにはいられなかったに違いない。
俺は驚いた拍子に落として割ってしまった茶碗の欠片を拾い集めながら、ギラついた目を俺に向けてくる不成者を見る。
まだ諦めていないのか、奴は俺が隙を見せるタイミングをうかがっていた。しかし、俺はもう慣れてしまったので、気にせず朝食の準備を続けた。
そしてそれからしばらく経っても、不成者は、本能的に無意味だと分かっているはずなのに、俺に対する攻撃をやめようとはしなかった。
どうしても俺のことを排除しないと気が済まないのだろう。攻撃しても俺にはかすり傷一つつくことはないのに、無力な不成者は、俺に体当たりを続けた。
通常の不成者ならば、こんな無意味なことはやらないはずなのだが、この不成者は小さいがゆえに頭も悪いのか、一向にやめようとはしなかった。
俺はそんな不成者のことなど無視して朝食を摂り、日がな一日読書をするなどして時間を潰した。
そうした不成者との生活が、数日の間続いた。
学校には怪我をしたから休むと伝えておいたし、この屋敷には蓄えもあるので、今の所生活に不自由はなかった。だから、心に余裕が出来ていたのかもしれない。
毎日俺に攻撃してくるこの不成者に、少しだけ愛着がわき始めていた。
無力だというを知りつつ、なおも攻撃をやめない愚直さに、どこか自分を重ね合わせてしまったのかもしれない。
思ったより早いペースで実体化していくこの不成者を、俺はいつの間にか受け入れてしまっていた。
ちょうどこの屋敷に来て五日ほどが経った朝のことだ。いつものように、不成者は居間で俺のことを待ち構えており、俺を見るなり体当たりをしてきた。
その時、いつものようにすり抜けるだけだろうと悠長に構え、無視しようとした俺の体に、不成者の肉体が触れた。
痛みは感じなかった。ただ下腹部のあたりを軽く押された感触だけがあった。
しかし、それでも昨日とは違う感覚があることは確かだった。不成者が実体化しはじめているということなのだろう。幾分早いペースで目の前の存在が、確かなものになりつつあることに、俺は驚いていた。
試しに俺は不成者を手で掴んでみる。すると、まだ全体では無いが、頭の一部を指先で触れることが出来た。
不成者は、急に頭を掴まれたことに驚き、俺の手の中でもがいた。
だが俺は、そいつを掴んだまま台所まで運んだ。
そして、不成者をまな板の上に載せ、横のラックに立てかけてあった包丁を俺は手にする。
不成者が怯える。無理もない。こんな鋭い得物を見せつけられたら、いくら以下の生き物と言えども、本能的な恐怖を感じざるを得まい。
しかし、俺は震えて縮こまる不成者を見て見ぬふりをして、包丁を振り下ろした。
そして――まな板の上に載せてあった鶏もも肉を細切れにした。
それから、切り刻んだ肉を不成者に分け与える。不成者は警戒し、俺のことをジッと見つめたり、与えられた肉の臭いを嗅ぐような素振りを取っていたが、やがてその肉を食べると、さらにその肉をせがむかのように飛び跳ねた。
俺はもっと肉を分け与え、不成者の頭を撫でてやる。不成者の方も、それですっかり気を良くしたのか、俺に対して敵愾心を向けなくなった。
それからすっかり不成者は俺に懐いてしまい、俺も俺でそんな不成者をペットのような存在に感じ始めた。
不成者は通常、人には懐かない。それに、人に懐いたところで、そのうち周囲に悪影響を与え始めるので、ペットにするということは不可能だ。
何にも成れず、ただ居るだけで悪影響を与えてしまう存在。彼らの、この世界におけるそんな在り方に、俺は自分と似たところを見出したのかもしれない。
彼らは、俺と同じだ。何かに成れるわけでも無いし、ただ居るだけでも、強者には疎まれる。世界の隅っこで身を縮めているのが正しい存在だ。
それに、今目の前にいる不成者に限っては、さらに近しいものを感じている。
力も弱く、頭も悪い。警戒心だけは人一倍強くて、そのくせ敵には愚直に向かって行く。無力だということを分かっているのに、諦めることを知らない。
これほどまでに儚げな個体が一体で行動しているのは珍しい。おそらく、群れからはぐれてしまったのだろう。
そんなところまで、コイツは俺に似ていた。魔力を活かすことでしか生きられない人間だったのに、〈魔術師〉という群れの中からさえも弾かれてしまい、そのくせ魔女に縋り〈眷属〉なんてものになってまで、咲哉のことを諦めない、この俺に。
だからなのだろう。脆く儚い命であっても、〈魔術師〉に消されるまでの間、俺はコイツのことを活かしてやりたいと思ってしまった。