天使墜落
本当に以外と近い場所に泉があった。辺りは小さな森になっていて、小鳥が頭の上の枝に止まって囀り声を聞かせていた。
泉の水はとても澄んでいて流れも穏やかだ。ともかく普通の泉にみえた。飲んでみても何も起きない。
飛び込んでみるか? でも格好がフォーマル風だから濡れるのは嫌だ。
何かないかなと思ったが自分の持ち物はカプセル一つである。人間世界では通貨も居るだろうから……はて、なんで通貨がいるんだ? 食費も宿代も要らないのに。天使便利だな。でも交通機関だの入国税なんかもあるかもしれない。
一先ずここでカプセルを開けるか。まだ神様たちの場所も遠くない。ヤバければ走って逃げよう。
下界に一人は流石に心許ない。カプセルの中に放置し続けるのも可哀想だ。けれどカプセルを持つ手がプルプルと震える。
「う、うおぉ……こえぇ……ってい!」
ぱかっと開けてさっと近くの木陰に隠れる。カプセルからはミカエルさんの時と同じように光があふれ、閃光弾を投げるように全力退避した。目を閉じて光がおさまったところで木陰からそっと覗き見る。
ばしゃ、と水が跳ねる音がする。そちらにハルトが目をやると水が噴水のように吹き上がって宙に球を作った。それはみるみるうちに魚を象った尾ひれを付けて上半身は人の体になった。
少し水の色を残した髪の色。空色の綺麗な瞳。服装は水着の上半身だけとかなり刺激の強い格好だ。胸も女神様と同じぐらいの大きさでスタイルはいいと言える。まさに人魚と言えるその人が水を浴びて一つため息をついた。そしてきょろきょろとあたりをみて、彼と目を合わせた。
「あら。天使なんて久し振りね」
「こんにちは。俺はハルトと言います」
まずは挨拶。基本中の基本である。ミカエルさんに通じなかった先制攻撃である。笑顔を張り付ける以上のことは彼にはできなかったが。
しかしそんなぎこちない様子の彼にも、青い髪の人魚の様な麗人が微笑してそれに応えた。
「礼儀正しいのね。私はウンディーネ。世界の泉の精霊よ」
「よろしくお願いします……あの、なんともありませんか?」
「何もないけれど……。どうしたの?」
「いえ、無ければ良いんです。
ガチャから出てきたにしてはなんか慣れてますね」
ぎこちない動作で出ていきさっとカプセルを拾って、握りこむ。彼にとって突然襲ってくるカプセル内の者はトラウマである。
「その入れ物を近付けないでくれる?
別にその中にいるときの事は覚えては無いんだけどいい気はし無いし、ちょっと怖いわ」
「あぁ……すみません。これはちょっとした防衛のつもりだったんです」
そんな彼の様子に水精霊も少し眉根をひそめる。天使はただ申し訳なさそうにカプセルを背に隠した。
「防衛?」
「俺はこの中から出てきた人に一度襲われています。というか、殺されています」
「まぁ。そうなの。それなら大丈夫よ。私には見てのとおり武器も攻撃する意思もないわぁ」
パシャッと水音をさせて微笑みながらひらひらと手を振って見せる。
ここまで話してきっちり応じてくれたのならばこれ以上警戒が強すぎるのは失礼だろう。一つ息をついて、ありがとうございますと頭を下げた。
「これ必要ないですか?」
「ええ。貴方にあげるわ」
「わかりました。下界で売り払いましょう」
「そこまでするの?」
要するに手元に戻ってこないということ。彼女も少し驚いた風であるが天使は頭を振った。
「俺には何のために有るのか分からないものですし、本来ならば要らないものでしょう」
「うんうん! 貴方話がわかるじゃない。そういえば貴方の主は?」
「女神クレイトア様です。とても優しい方です」
「そう。先にご挨拶に行ってくるわ。ちょっと待っててね」
「えっあの……」
するっと水に溶ける様に消えたその人を呼び止める手が虚しい。波が消えていく泉と小鳥の鳴き声が響く以外また何も無くなってしまった。仕方ないのでその手は頭に回して大人しく木を背にして待つことにした。
後から聞いたところによると彼女は水と水の移動ならば何処へでも行けるらしく、ログハウスの水場に移動して女神に会いに行ったそうだ。彼女クラスの精霊になると、名前を聞けばその場所に赴くことは出来るそうだ。
「ふぅ、お待たせ。良い方ね。とても貴方のことを心配してたわ」
「まだあの家から2キロぐらいしか離れてないんですけど」
「いち天使にあんなに気をかけるなんてね。嫉妬で焼かれないようにね。おとぎ話は聞くだけで十分だわ」
「俺もそう思います。もう1回焼かれてるんで……正直に言うとまだちょっとあの人には苦手意識があるみたいですね。
はぁ。もうちょっと時間をかけて慣れて行こうと思います」
普通に話せる状態になってからは特に何も感じない。
怖がっているのは自分の人間的性質からだろう。そう結論付けてその話は終わることにする。
「俺は新米天使なんですが下界の様子を見てくる事になって此処に来ました。ここから下界に降りれるというので間違いありませんか?」
「ええ、間違いないわ」
「でもどうやって? 飛び込めばいいんですか?」
「あら、じゃあここに来るのは初めてなのかしら」
「そうですね。初下界です」
「そう、じゃあ優しく教えてあげ無いとね」
「……お願いします」
ここは泉の辺であって別にいかがわしい場所ではないのに言い方ひとつで卑猥に聞こえる。これはわざとの類なので彼女が楽しいように付き合うべきだろう。
『いかがわしい事はなりません。なりませんよ天使……』
空の雲が淡く金色に光っていて、その辺りから声が聞こえる。荘厳な雰囲気を出していて唖然とそれを見上げるしかなかった。
天啓ってそんなメガホンみたいな感じで使えるんだ。唖然としながら視線を水精霊に戻すと、クスクスとその様子に笑っていた。
「うちの神様からかうのやめてあげてください」
「ふふふ、御免なさい。ちょっと想像豊かな神だったので、悪戯です。妄想膨らむでしょう?」
『そういうのはいりません……』
「ここは神様の世界だから聞こえるんですね。じゃあ、行ってきますね」
『体に気を付けるのですよ……ほぼ死なないからと言って無茶もいけません』
「肝に銘じておきます。まぁあまりにも無力だと生きづらいなら、ミカエルさんを頼るかもしれません」
「私を頼ってくれてもいいのよ~?」
「はい。よろしくお願いします」
『わたくしを頼ってくれても良いのですよ……』
「俺一応神様助ける側なんですが……まぁ、神様に頼るような事態は極力避けます。
俺には目標があるんです。聞いてくれますか」
『はい。聞き届けましょう……』
短い時間で決めた生きる意味を正しい事なのか確認したくなる。
これは本当に正しいのか? 何かの物語の主人公は二つ返事で誰かを助ける事を決めるけれど。中途半端な自分が考える時間のために取りあえず決めた事。
「目を取り戻して、ちゃんと初めましてって言いたいんです」
彼女は自分の姿かたちを感覚で知っているかもしれないが目を合わせたわけではない。彼女の目に映ってからの初めましてではじめて自分が認識されたのだと確信できる。
「手を取り戻して、握手をしたいです」
最初にやるべきだったことの二つ目。たぶん触れてもらいたいのだろう。その照れ隠しなのかもしれない。
「足を取り戻したら、一緒にこの世界を散歩しましょう」
この世界のことはほとんど知らない。知っているのは泉の名前と泉からガチャと家のある丘まで。この世界のことは何も知らない。知っている人に聞けばすべて教えてもらえるだろう。でも自分で歩いて、見る。新しいものを見る感動は何物にも代えがたい。だから一緒に歩きたい。
「触覚と痛みを取り戻したら、俺に脇腹の傷を謝らせてください」
ずっと気になっている脇腹の傷が自分の良心をえぐってくる。どう考えてもあれは痛い。精神的にもかなり辛いはずだ。それがわかってしまうから申し訳ない。
「味覚を取り戻したら、おいしいものを教えてください」
この世界では必要ない食事だけれど。ここに来るまでにも木の実がちらほら見えた。たぶんここにしかないものもあるだろう。頭の良くなりそうなりんごとかね。
「嗅覚が戻ったら、お祝いしましょう」
彼は顔を上げた。笑っているのか困っているのか。何とも言えない表情でいろいろと視線をさまよわせながら言う。
「今自分が生まれた最初の意味の完遂なんです」
その先を思い浮かべられないから、彼は少し晴れない表情をしたのだろう。女神は彼が最初に言った役目を終えたところで、彼を消すことはないだろう。未来の完全を信じない。これも彼の人間らしいところである。
『天使……本当にいい子ですね……その辺りににわか雨が降るかもしれません……。
一つ以外は了承です……』
「どれがダメだったでしょうか」
『貴方が謝る必要はありません……。
これは何度でも言って差し上げますからモフモフ倍増でお願いしますね……うふふ……』
生まれてきた事を謝りたいのでは無いけれど、痛みについては彼女にとって同じ事だったらしい。
ガシガシと頭を掻いて溜息を吐いた。
決意新たに、笑って手を振ると光はフッと消えた。その後パラパラと小雨が降った。
彼は何も言わず水精霊に向き直って、下界行く方法を問う。
「こっちに飛び込んでらっしゃいな」
「え、濡れますか」
「ええ。びしょびしょになっちゃうわ。
私が居なかったらね。
さあ、抱き付いてらっしゃい。
天使ちゃんのモフモフ触り倒しちゃうわぁ」
「うぐ……お手柔らかにお願いしますね」
『天使のモフモフは私が最初にするのです……!』
ピシャァッ! 背中の方で雷が鳴った。
それに驚いた水精霊が反射的に溶けるように水に逃げる。支える場所を失った天使はそのまま顔面から水面に落ちた。
水に落ちた、と思ったのはすぐ終わって耳の中に空気が叩きつけられる音がする。
世界に、落ち始めたと理解するまではそうかからなかった。
目を開くと満面の雲そしてそこに沈もうとする太陽。風圧に体がくるくると回っていたが、どうにか止める。濡れていた体もどんどん乾いて行っている。
そして雲の下には、緑の自然豊かな世界。唖然とするほど高い山。深い谷。白い湖。
たった一瞬だけでも見とれてしまうような綺麗な世界だった。
ーーそれだけに。地面が近いという事実に気づくのが遅れた。一気にやってきた絶望に思わず走馬灯を見た。走馬灯もほぼ殺害の記録でさらに絶望した。
せめてウンディーネさんに思い切り抱きついて誰かの感触を覚えておけばよかった。そんな切ない後悔をしつつーー。
天使は墜落する。