朝比奈亜衣は女になりたい。
朝。
いつもの通学路を通り、いつもの電車に乗る。
昼。
ようやく教師達が施す睡眠学習から解放されると、昨日の夜から仕込みをしていた弁当を食べる。それほど手間をかけているつもりはないが、冷凍食品まみれの弁当を食べるクラスメートからまた冷やかされた。
夕方。
来た道を辿り、家に帰る。
毎日乗る時間帯の電車でいつものトラブルに遭遇するけれど、僕はいつものようにやり過ごす。
だって、いつものことだから。
神、空に しろしめす。
すべて世は 事もなし。
僕、朝比奈亜衣は男である。
身長145センチで女の子のような容姿以外は、これといった特徴がない高校生。スポーツ万能でも学業優秀でもない僕は、いつもの日々を予定調和と甘んじて受け入れ生きている。
ブラウニングが詩で謳ったある種の理想郷での日々と違い、僕の毎日は只の予定調和を甘んじて受け入れているに過ぎない。
変化に乏しく生産性のまったくない一日の繰り返しを過ごす僕に、現在彼女がいない。見栄を張ってみたけれど現在彼女がいないのではなく、現在も彼女がいないが正しい。所謂、彼女いない歴=実年齢。
抜け出したくても抜け出せない日々を過ごす僕に彼女がいないのは、予定調和を甘んじて受け入れているのが原因? 身長145センチと小柄な上に女の子のような容姿が原因?
どちらかが原因ではなく、どちらも原因なのかもしれない。
これ以上深く考えるとアナキン・スカイウォーカーのようにダークサイドに引っ張られてしまう。僕は自分の心を護るためメトロノームのような予定調和の毎日を生きている。
そんな毎日が続くはずだった。
だったといっても僕に彼女が出来たのではなく、ある日を境に僕という存在はこの世界から消えていた。
まるで神隠しにあったかのように。
◇
神隠しにあった僕は、現在、テーブルを挟んで女性の向かいに座っている。
「御免なさいね、大したお構いも出来ずに」
「はあ……」
楽しそうにティ―カップに角砂糖を入れる女性は、長い髪が印象的な美しい人物だった。外見からは年齢をうまく読み取れない。女性は年齢を誤魔化すというけれど、肌のきめ細かさから10代後半から20代前半という印象を僕は抱く。
神隠しにあった後で出会う人物が普通である筈がない。当然、年齢も見た目通りでないかもしれないが、そんな疑念は全く気にならなかった。
栗色の髪は腰くらいまであり、周りの光を反射するかのような艶。偽りなしに奇麗だと思う。そんな女性が机越しとはいえ僕の前に座り、にこやかに微笑みながら紅茶を入れてくれる構図は、この場所が喫茶店であるかのような錯覚を覚えさせる。
勿論、この場所は喫茶店ではない。
他に客はいないし、カウンター越しに煙草を咥えながらスポーツ新聞を読むナイスミドルなマスターもいない。コーヒーミルもないし、雰囲気を醸し出す様なBGMも52インチの4Kテレビもない。
ないないづくしなのは、この場所がオープンテラスのような場所だから。
コスモスが一面に咲き乱れる庭にテーブルが一つと椅子が二組。テーブルには白磁のティーセットと白磁の皿が二組ずつ置かれ、ティーカップには紅茶が注がれている。皿には林檎が奇麗に皮をむかれ、小さく切り分けられてある。
この場所には彼女と僕の二人しかいない、僕と彼女だけの世界。
いや、彼女の世界に僕がお邪魔しているというべきか。
どちらでもいいけれど、これがデートだったらどれほど良いのだろうと心底思う。
「朝比奈亜衣君ですよね?」
満足する紅茶を淹れ終えたのか、ようやく女性が口を開く。
「同性同名の人物が日本国には何人もいるかもしれないので、どの朝比奈亜衣を指し示しているかは分かりませんが、確かに僕は朝比奈亜衣です」
「あらあら、それは大変。間違いだったらどうしましょう?」
「――ええ、どうしましょう」
六法全書のような分厚い本を開きながら確認作業をする彼女は困り顔で訊ねるのだが、正直僕に聞かれても困る。
彼女の名はダーナといい、ケルト神話に登場する女神。
帰宅途中に神隠しにあった僕が、どのような経緯でこの場所に来たのかは分からない。分かっているのは、気が付いた時には彼女の前にいたという事実のみ。客観的に考えて死んだのかもしれないけれど、それを確認する手段はない。
「まあ、手続きなんてどうでもいいでしょう」
「いいんかい!」
「いいんです!!」
思わず突っ込んでしまったけれど断言されてしまった。
相手は神、逆らっても仕方がない。神が横暴なのはギリシャ神話に限った話ではないようで、ケルト神話でも大して変わらないらしい。
迷惑な話。
「朝比奈亜衣君、貴方には異世界に転生する権利が与えられています」
「経緯やら原因やらを酷くショートカットしていますね。物語に感情移入ができなくなりますよ」
メタな突っ込みをしてみたが、女神ダーナは都合の悪い事実には反応しない主義らしい。
ぶっちゃけ途中経過なんて読んでいてもつまらないけれど、実際自分が体験するとしたら大問題。僕には知る権利がある筈だけれど、この場所が日本国でない以上、基本的人権等は保障されないらしい。
らしいばかりが続くのは、僕に関する情報がまったく開示してくれないから。なにか触れてはいけない話題を誤魔化しているような気がするけれど、流石に疑い過ぎだと思う。
「あなたには黙秘権があります。供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる事があり、あなたは弁護士の立会いを求める権利――」
「それはミランダ警告です。僕の権利について書かれている箇所と違うページを読んでいるのでは?」
「――あらあら」
大丈夫なのだろうか、この女神。
美人はなにをしても絵になるというけれど、女神だけあって美人であるダーナはボケても絵になってしまう。さっきからこの調子なのでいい加減慣れてしまった。人は適用する生き物。ダーナは偉大な女神の筈だけれど、僕の目にはドジっ子としか映らない。
神話なんていい加減と思う。
僕の疑いの目に気が付いたのだろうか。
ダーナは間を取るかのように、一旦紅茶を口にする。左手でソーサーを手に取り胸の位置まで持ってくると、そこでようやく右手でティーカップを手に取り紅茶を口に運ぶ。
僕はティータイムのマナーなど知らない。
知らなくともマナーは守らなければいけないので、失礼のないようダーナの所作を興味深く観察する。あまりに注意深く見ていたら、結果として彼女の目と合ってしまう。見つめ合っているかのような形になり、気恥かしさから視線を外そうとするけれど、何故か外す気にはなれなかった。
矛盾するけれど、僕の心の葛藤を分かってほしい。
多分、僕はダーナに魅了されかかっている。
気恥かしさから顔が赤くなっていくのに視線から目を外そうとしない僕に、ダーナは微笑みを返す。ただでさえ魅了されかかっているのに、その仕草は破壊的。心臓の鼓動が激しくなり、F1マシンのエンジンのように爆音を上げる。
先程までのドジっ子とはまったく違うダーナの側面を見せられて、自分の体なのにまるで制御出来なくなってしまった。 考えてみれば一連の所作をすれば、僕は彼女と視線が合うのは必然。意図したとすれば見事に嵌められたのだろうか。
注意深く観察していたのでティータイムのマナーらしきモノは分かった。不慣れながら同じ所作をしようとするけれど、素人の焼き付け場はどうしてもぎこちない。はっきり言って不様だけれど、ダーナは不出来な客に冷笑を浴びせることはなかった。
優しく、ただ優しく、僕を包み込むように一つ一つを教えてくれた。おかげでいつの間にか一連の所作をスムーズに出来る。集中していたため、どれほどの刻が流れたのかは分からない。5分程度だったかもしれないし1時間かもしれない。
時計すらないこの場所は、時間の感覚を忘れさせてくれる。
もしかしたら、この場所は伝説の常若の国かもしれない。
「朝比奈亜衣君。貴方は異世界に転生するにあたり、なにか望みはありますか?」
ティ―タイムで間を取ったためかダーナは調子を取り戻していた。調子を取り戻しても第一声はこれである。脈絡をまったく無視していきなり話題を変えてきた。
てっきり閻魔様の裁判にでも送られると思ったけれど、そうではないようだ。事前審査なしで転生できる程に善行を積んだ覚えはないけれど、見ている人は見てくれていたのだろうか?
疑問はあるけれど気にしない事にしよう。
地獄界やら餓鬼界のような凄惨な世界に送られたくない。
嫌だよ、そんな世界。
「……チートとか、ですか」
望みはなくもないけれど、とりあえずパッと思い付くセオリーについて聞いてみた
「あらあら、話が早いですね」
「最近の流行りなので」
「――流行りなのですか。わたし、ズルはいけないと思います」
「僕もそう思います」
危ない、危ない。
同意しなかったら命の危険を感じるほどの静かな怒りをダーナから感じた。僕は心の中で思った、『チート駄目! 絶対駄目!!』と。
「良い人ですね、亜衣君は。御褒美に10ポイント上げましょう」
「はいはい」
「適当に相槌を打つなんて酷いです。神から贈られるものは、それが仮に無価値だとしても有難く受け取るものですよ」
理不尽な言い分。
頂いた10ポイントがステータスのボーナスポイントなのか、彼女の好感度ポイントなのかは分からないが、拒否する権利は僕にないらしい。この10ポイントにどんな意味があるかは置いておくとして、少なくとも悪意がない点だけは助かる。
女神ダーナは出会った瞬間から100%の善意と好意で僕と接してくれる。微妙にずれている会話は正直疲れるけれど、美人なので許す事にしよう。美人はどんなポーズをしても絵になり、なにをしても許される。
ビバ、美人。
「僕の望みは決まっています」
「あらあら、話が早くて良いですね。なかには望みが決まらないまま1年も滞在する、困った人の子もいるのですよ」
そいつ、絶対望みが言い出せなかったチキンに決まっている。1年も一緒にいたのだから彼の気持ちを察しても良いのに。
やっぱり女神ダーナは天然だと思う。
顔も知らない同胞に、僕は同情を禁じえなかった。
「僕は女になりたいです」
「おネェさんですか?」
「そっちじゃないです! 正真正銘の女性です!!」
「もしかして、男性が好きな方だったり……」
「熱い視線を送らないで下さい。僕は女性が好きなノーマルです」
「――でも女性になりたいと」
「亜衣という名前は女性を想像させて――僕という男性の部分を否定するみたいで嫌だったんです」
「可愛いらしい名前だと思いますよ。どうしても受け入れられないようでしたら、下界では多少手続きに手間がかかるものの、変更は可能だと聞いていますが」
「男が可愛いと言われても、嬉しくも何ともありません!」
思わず机を叩いて立ち上がる僕を、女神ダーナは少し驚いた表情で見つめる。僕の剣幕に触れてはいけない何かを察しているようだが、謝罪の言葉は口にしなかった。上位の存在である神ともなれば、下界の民に謝罪の言葉は口にしない決まりなのかもしれないが、僕のとってはその方が有難かった。
当人だけのための謝罪など偽善。
言われた側は受け入れても受け入れなくても、心に影が差すというのに。
謝罪の言葉を口にしないのも勇気だと、心底思う。
亜衣という名前は僕にとってトラウマだった。
変更したとしても、僕の名前が亜衣という名前だったという事実は変わらない。
一度付けられた名は言霊となる。
亜衣という名前は僕にとって生涯背負い続けなければいけない十字架であり、決して外すことの出来ない楔として僕を苦しめる。例え変更したって同級会や思い出話で、必ず前の名で呼ばれるに決まっている。
なにより『可愛いらしい名前』と、女神ダーナに言われたくなかった。
僕をまったく知らない女神ですら、『可愛いらしい』と印象を与える亜衣という名前。僕がどれだけ辛い思いをしてきたのかを思い出して、感情が抑えられなくなってくる。
「亜衣という女性のような名前に輪をかけるように、僕は小柄な体格で女の子みたいな童顔なんです。このおかげで、僕がどれだけ変態から追いかけられたか分かりますか?! 酷い毎日でした。ある日なんて――」
男である僕が電車で男から痴漢に遭う日々。
行きも帰り、それも毎日毎日。
同性から痴漢に遭っているなんて駅員にも訴えられないし、親にも友人にも絶対知られたくない。
あんな汚らわしくて嫌らしくて恥知らずな変態達と、自分が同じ生物という事実に吐き気がしてくる。いつしか僕は男なのに男性恐怖症になっていた。異性ならともかく同性恐怖症だなんて惨めで情けなくて涙が出てくる。
「あの日も、あの日も、そしてあの日だって! 僕はなにも悪いことしていないのに!!」
ダーナへ告白をしているうち涙が溢れてきた。
「……苦労されたのですね」
「グスッ、同情なんていらないですよ。同情なんて……」
涙が止まらない僕をダーナは優しく受け止めてくれた。
女神ダーナはダーナ神族の母であり、生命の母神ともいわれる存在。嘆き苦しむ僕の姿は不様だけれど、それだけに彼女の母性本能を刺激したかもしれない。
大きな胸で優しく包み込まれる抱きしめられているうちに、僕はいつしか泣きやんでいた。
「確認しますが、本当に女になりたいのですね。外科医では性転換も不可能ではないと聞きますし、神である私に望むような内容に思えませんが」
「僕はまっさらな状態からやり直したいのです」
「これまでの苦労を考えれば分からない話ではないですね。分かりました、女神ダーナの名の元に朝比奈亜衣君を完璧な女にして上げます!」
「気合いが入っているのは有難い話なのですが、なにを持ってして完璧なのか微妙に気になるのですが」
「価値観はそれぞれ異なります。なにより私の好みとかモチベーションの問題です!!」
有無を言わせない迫力に引っ掛かるものはあるが、いまは気にしない事にしよう。母性本能が全開まで刺激されて、いつも以上にやる気が出ているだけだと理解することにした。
コスモス畑が光に包まれ、その光はやがて僕の体を包み込む。
恐怖感は無い。
僕を包み込む優しく暖かな光は、ドジっ子だけど気の優しいダーナそのもののように感じる。
気が付くと、僕は裸でコスモス畑に倒れていた。
「気が付きましたか、亜衣」
「ぼっ、僕は」
股間にあるべきものはないし、前に少しだけ張り出した胸は少し痛い。
腰も細くなってどこか頼りない。
ダーナから差し出された鏡に映る僕は奇麗な美少女になっていた。ダーナは僕を抱きしめ、頬ずりしながら教えてくれた。
「ダーナ様、願いを叶えてくれたのは嬉しいのですが、裸なので恥ずかしいので……」
「女同士です。気にしてはいけません!」
「気にします!!」
「それに、亜衣。貴方は重大な感違いをしています」
「勘違い? 僕は女性になりたいと言いましたが」
「違います。亜衣は『女になりたい』と言ったのですよ。私は、貴方の要求に答えるため私好みの女性に変えただけ。といっても幸いベースが私好みでしたから、容姿や体型はほとんど元のままで少しスタイルとか弄っただけですよ」
「――つまり」
寒気がする。
思わず逃げようとする僕をダーナはがっしり掴んで離さない。
「あれは愛の告白だったのです」
「いえ、勘違い――」
「愛の告白だったのです!」
神の威厳を笠に来て断言されては反論できない。
ずるい。
「男性として告白をするような不届きモノでしたら、突き飛ばして地獄に送り込んでやるところでした。性別を変えてまで神の愛玩動物になりたいなんて、亜衣は本当に出来た人の子です」
「異世界転生の話は何処に行ったのですか!」
ダーナは嫌いではないしむしろ非常に好きな部類だけれど、このまま話を進められたら取り返しのつかない事態になってしまう。既に取り返しのつかない事態な気がするけれど、これは主導権の問題。
「――あんな申請、女神ダーナの名の元に却下します」
「横暴です!」
「……亜衣、貴女を私の女にして上げますからね」
にじり寄るように体を這い上がってくるのに、痴漢をしてきた男どもとは全く違う。どこか優しく相手を思いやる感情がある。
正直に告白すると、完全に拒否できなかったのは女性の体に興味もあったから。まして、相手がダーナなら不満がある筈がない。
未知への好奇心と恐怖が僕の中でせめぎ合う。
「……怖いことしない?」
「しません。女神ダーナの名の元に誓います!」
「酷いこともしない?」
「それはします!!」
それ以上反論をしようとしたら唇を奪われた。
僕の目の前にあるダーナが幸せの笑みを浮かべる。
粘膜と粘膜が重なって少し気持ちが悪い。
異性の――いや、いまは同性となった女性の唇で散々弄ばれる。ようやく慣れてきたと思ったら、唇を割ってダーナの舌が侵入してきた。思わず驚いて逃げようとするけれど、僕の頭部がしっかり抑えつけられているので逃げられない。
唇を犯していたダーナの舌が僕の舌に絡みつく。
僕に逃げ場はない。
蹂躙され、弄ばれて、愛される存在となったのだ。
僕の意識はそこで落ちた。
神は嘘をつかない。
その日、僕、朝比奈亜衣は女神ダーナによって女にされた。
コスモス咲き乱れる女神ダーナだけの常若の国は、やがてダーナと僕の常若の国へと変化していく。
僕が心身ともに女神ダーナの女になるのは、もう少し先の話。