千匹皮
そのマントが本当に千匹の毛皮や羽で作られていたわけではない。
ただマントをまとったわたしを人はこう呼び、見世物にした。
――《千匹皮》。
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父は狩りの名手だった。
弓をかついで森に出れば、手ぶらで帰ってくる日の方が少なかった。
母は縫物がとても上手かった。
村人から頼まれる品は、獲物の少ない冬の間を凌ぐ貴重な収入源だった。
母は父が持ち帰った獣から少しずつ毛皮や羽を集めて、大きなマントを作っていた。段々形になっていくマントは、父が優れた猟師だと一目でわかる多種多様な生きもので構成されていた。
色味の違う毛皮を縫い合わせ、バランス良く羽をあしらう。時に角や牙といったものも飾りに使われた。わたしはそのマントを見ているのが好きだった。
父のような狩りの腕も、母のような裁縫の腕も持たなかったけれど、幸せだった。
ある日、夜になっても父が狩りから帰って来なかった。
嵐の夜だった。
山の天候は変わりやすい。一晩帰らないことも珍しくはない、朝になればきっと戻ってくる。
嵐が去った次の日も父は帰って来なかった。探しに向かったわたしたちが見つけたのは、崩れた崖の下に倒れた父の姿。息絶えた父に縋り日の沈むまで泣いた。
父を葬った後、ほどなくして母が体を壊した。父を喪い生きる気力が削がれていた母は、やせ細った腕でわたしを抱きしめ、ひとり残すことを謝った。
水も受けつけなくなった母は眠るように息を引き取った。
わたしはひとりになった。
もともと滅多に山を降りることがなかったわたしたち一家は、村とのつながりも薄かった。
村人が訪れることもなく、わたしも村に行くことはなかった。
父から教えられた弓の腕は大したことはなかったが、わたしは罠を仕掛けるのが得意だった。畑の世話を言いつかっていたので、わずかばかりだが野菜を作ることができた。
母は大切な商売道具である針を滅多に触らせなかったので、着るものに困った。両親の服はまだ大きすぎた。わたしが選んだのは母が作っていた毛皮のマントだった。
父の狩った獣で母が作ったマントは、わたしを安心させた。
二人が傍で守ってくれている気がした。
その年はめっきり獲物が少なかった。
山の実りも乏しく、いつもより行動範囲を広げて隣の山に足を伸ばした。
遠くで犬が吠える。
野生の狼や犬ではない。訓練された猟犬の声だ。
いそいで元来た道を引き返そうとしたとき、風切り音が聞こえ、肩に激痛が走った。
悲鳴をあげて転がったわたしをあっという間に猟犬が取り囲んだ。草をかき分け現れた猟師はわたしを見て驚いていた。
獣か、人か、人の言葉を話す獣か。
人であると答えたわたしは、猟師に連れられ山をおりた。
口をきくなと念を押され、猿ぐつわを噛まされた。連れて行かれた先は闇商人のところだった。
世にも珍しい獣でございますよ、と猟師は売り込んだ。抵抗したわたしは矢を射られた傷口をしたたかに殴られ、獣のようにわめいて床を転がり、マントの合わせから足が出た。闇商人に人と見破られ、さらに傷ものを理由に買い叩かれたと、猟師は腹いせにわたしを蹴って去って行った。
闇商人は傷を治療してくれた。
ほとんど使わなかったせいでぎこちない言葉で礼を言うと、ひどく驚かれた。
闇商人はわたしの身体を隙間なく覆うようにマントを作り直し、黒い首輪を嵌めて言った。
――いいか、おまえは今から《千匹皮》という獣だ。言葉は封じた。決して人前でマントを脱ぐな。わかったな?
黒い首輪には、言葉を話そうとすると首を締め上げ、呼吸をとめる魔法がかけられていた。苦しむわたしを見て、闇商人は奴隷や囚人に嵌める首輪だと笑っていた。
すぐに奴隷競売にかけられ、闇商人は猟師に支払った五十倍の額で、わたしを見世物小屋の主人に売り渡した。
わたしは世界に一頭の珍しい獣と謳われ、見世物にされた。
とりどりの毛皮と羽、角と牙のついたマントを纏う様が奇妙な獣に見えるらしい。
吠えろと言われた。人を捨てろと。少しでも人間らしい仕草をすると棒で殴られた。
わたしは次第に獣らしくなっていった。
床に置かれた皿から物を食べることも、硬い地面に直接寝ることにも慣れた。一緒に飼われている動物と同じように、“人間”を怖がった。
檻の外でわたしを眺めて笑い、棒で突こうと手を伸ばし、石を投げる人間が怖かった。
月日は曖昧で、わたしの住んでいた山からどれぐらい離れたのかもわからなくなった。打ち据えられた痛みを思い出すと、逃げ出す気力はわいてこなかった。
そこそこ名が知れるようになったのか、辺境を移動していた見世物小屋が大きな街に呼ばれた。
国境近くの街だ。交易も盛んな街は人通りもあり、初日の見世物小屋は大盛況だった。わたしは檻の中で身を縮こまらせ合図のあった時にだけ吠えた。
日が暮れかけ、客足もまばらになった頃、一つの足音が近づいてきた。わたしの檻の前でぴたりと止まる。
「――おい。お前、人間だろう?」
驚いて顔を上げた。
にぃっとめくれあがった黒い唇。覗かせた白い牙は、わたしのマントについている牙より長く、鋭かった。低い声は喉の奥で籠ったようにやや聞き取り辛い。
《牙の民》を見るのは初めてだった。
人間よりも遥かに強靭で、姿形から獣人とも呼ばれる種族。辺境では見たことがない。数の少ない彼らを見かける機会は、大きな街か彼らの里近くだと聞く。
熔け落ちる夕日に輝く赤銅の地に、漆黒の稲妻が走ったような横縞の毛皮。虎の頭部をもつ牙の民は、眇めた金褐色の双眸でじっとこちらを見下ろしていた。
わたしは本能的な恐怖でガタガタと震えていた。
見世物小屋の主人が小走りに寄ってきた。揉み手をせんばかりに愛想笑いを振りまいている。
「これはこれはっ、竜騎士様ではございませんか! 手前どもの小屋へようこそおいで下さいました。本日は公演をご覧に? 一番良い席をご用意致しますよ!」
牙の民は竜を御せる唯一の存在。彼らが大きな街にいるのは、国が戦力として雇っているからだった。
山に居たころ、一度だけ父と一緒に翼竜を見たことがある。
巨大な竜が空を滑るように横切った。風を捕らえた翼はぴんと張られ、同じ高度を舞う鳥がなんと小さく見えたことだろう。
フンッと鼻で笑い主人を見た牙の民は、立派な詰襟の服を着ていた。竜騎士の制服なのかもしれない。
「お前が主人か?」
「はい、わたくしめがそうでございますが……」
「国が奴隷の解放政策を進めているのは知っているだろう。しかし欲しがる人間がいる以上、人攫いも絶えん。とくに見世物には奴隷が多いのだが……お前のところはどうだ?」
「も、もちろん手前どもの小屋に奴隷はひとりもおりません! 芸人はみな雇っている者ばかりですし、給金も支払っております! 待遇も悪くないと自負しておりますっ」
主人は青くなり必死に言い募った。
娯楽の少ない辺境ではまず入らない、査察らしい。ここで営業許可を取り消されれば小屋はおしまいだ。
主人の言う通り、見世物小屋に黒い首輪を嵌めている芸人はいなかった。どれほどの給金をもらっているかはわからないが。
「こいつはどうだ?」
「こいつとは、この千匹皮のことでございましょうか? これはわたくしどもが山深くに分け入って、ようよう捕獲したとても珍しい獣でして……」
「黙れっ!!」
鼓膜が破れそうな咆哮に、主人は「ひぃ!」と情けない声を出してへなへなと座り込んだ。
「俺を欺けると思うなよ。……お前、名前は何と言う?」
牙の民がこちらを向いた。わたしは彼の声に腰が抜け、地面に蹲っていた。
もともと四つん這いでいたわたしは、頭を地面にこすりつけるように許しを請うた。恐怖で干上がった喉からは声どころか、息を絞り出すのがやっとだった。
「りゅっ竜騎士様、それはっ」
「……黙れと言ったろう」
唸り声が主人の意気を挫いた。助けを失い、わたしはどうすればいいのかわからない。
ぽん、と頭に重みを感じた。
殴られる!
びくっと身体を強張らせて動けずにいたわたしの頭が、がくがくと揺さぶられた。左右に激しく揺れる視界。酔いそうになって瞼を閉じると、揺れは穏やかになり、ようやく気づいた。
わたしの仕掛けた罠に獲物がかかったとき、父が「よくやった」と頭を撫でて褒めてくれた。乱暴であるが、牙の民はわたしの頭を撫でているようだ。
「怯えなくてもいい、ただ名前を聞いているだけだ。お前の名は?」
低い声は不思議とやさしく聞こえた。
撫でる手が止まり、重みがなくなった頭をそろりと持ち上げる。牙の民は檻の前に膝を突き、わたしの返事を待っていた。
見世物にされるのはいやだった。
人間らしいふるまいをすれば折檻された。主人も芸人たちも、まるで一頭の獣のようにわたしを扱った。
主人が恐ろしい形相で睨みつけている。
――答えるな。獣は言葉を解さないのだから、返事をするな! と眼が言っていた。
迷って見回したら彼と視線が合った。
黒い瞳孔は猫の目のように丸く広がり、虹彩が金褐色の環となって取り囲んでる。人間よりずっと大きな瞳の中心に、わたしの姿が小さく映っていた。
とりどりの毛皮をまとった《千匹皮》。
わたしの名前は千匹皮じゃない。
父と母が愛情をもって口にした名前。
わたしの名は――。
「……はっ! がッ……ぁっ!!」
万力のように首輪が締まった。皮膚に食い込み血管を押し潰し、首を捻じ切られそうな痛みだった。こめかみでどくどくと血が疼き、首から上が二倍に膨れ上がった気がした。眼球が飛び出しそうだ。
わたしは呼吸が止まり、意識を失った。
気がつくとわたしは地面に寝ていた。目を開けて、視界が広いことに慌てた。千匹皮のかぶりものとして、常にマントのフードで顔を隠していないと鞭が飛ぶ。すっぽりとフードをかぶり、顎の下まで引き下ろして安堵の溜息を吐いた。
息が、できる。
触れた首輪は何事もなかったように緩んでいる。指一本差し込む隙間もないほど密着していたが、締め上げられてはいなかった。
「目が覚めたか?」
隣に牙の民がいた。
ひれ伏そうとするわたしを止め、彼は「悪かった」と謝った。
「首輪があるか確証はなかった。無理に喋らせようとしてお前を苦しめてしまったな。すまない」
日が落ち、遠い松明の明かりがわずかに闇を払う。暗赤色の毛皮に走る黒の縞模様だけでは判別できないが、見世物小屋に現れた竜騎士らしい。
彼が視線を向けた方を見ると、見世物小屋があった。大勢の兵士たちが取り囲み、主人は後ろ手に縛られ項垂れていた。芸人も一か所に集められ不安そうに身を寄せ合っている。
「だが、お前のおかげで強制的に踏み込む口実ができた。あの男は奴隷商人から芸人として奴隷を買い取って、首輪のかわりに暴力で縛っていた。逃げ出そうとした者を徹底的に痛めつけ、逆らう気をおこさないようにしてな。給金を支払ったこともなかったようだ」
主人は周囲から恐れられていた。容赦のない鞭は芸人にも飛んでいたのだ。わたしは檻に飼われるようになって殴られる回数が減ったが、逃げ出せないと踏んだからなのだろう。
「……そら、警備隊が連行するぞ。相当悪どい真似をしていたから、取り調べは厳しいものになる。芸人も事情を訊かれるだろう」
兵士に引きずられるように主人が馬車に乗り込む。別の馬車に芸人たちが乗り込んだ。大きな荷台の馬車に檻ごと動物が積みこまれ、号令がかかる。全ての馬車がゆっくりと動き出した。
残されたのは人も動物も居なくなった見世物小屋と、わたし。
またひとりになってしまった。
今度は生まれ住む山ではなく、知らない街の中にひとりだ。
途方に暮れていると、頭をがくがく揺さぶら……撫でられた。
「心配するな、お前の面倒は俺が見よう。警備隊には俺が引き取ると伝えてある。事情を訊こうにも首輪が嵌ってるだろう? お前、文字が書けるか?」
山の暮らしにも、檻の中の生活にも文字は必要なかった。わたしは自分の名前も書けない。
首を横に振ると、金色に光る眼がきゅっと細まった。
「だろうな。首輪を嵌めるのは誰でもできるが、外すには魔力がいる。お前の首輪は強力なようだ。ここの奴らには荷が重いだろう。俺が外せたらいいんだが、腕力なら自信があるが魔力はからっきしでな。幸い無駄に魔力が有り余った相棒と森を抜けた先で落ち合うことになっている。そいつに解呪を頼むことにするが、いいか?」
わたしはこくりと頷いた。
首輪は奴隷の証。外せなければまともな仕事に就くことができない。
牙の民はわたしの手を引いて立ち上がらせた。久しぶりに二本足で立ったのでよろめいてしまった。
いつまでもふらふらしているのを見かねたのか、太い腕がわたしの腰をすくった。そのまま軽々と抱き上げられる。綺麗とはいえないマントが服を汚してしまう。逃げようともがいていると腕一本で動きを封じ込められた。
「……こうして見ると熊の仔だな。俺はアルだ。お前は千匹皮と呼ばれていたな?」
千匹皮は闇商人がつけた名前だ。
首を振って口を開こうとすると、じわりと首輪が締まってくる。アルと名乗った牙の民が「いい、無理をするな」と言った。
「お前の名は首輪が外れた後で聞く。しばらくの間仲良くやろう」
わたしの頭をまたがくがくと撫で、彼はその種族名の通り、白い牙を剥いて笑ったようだった。
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小さいから飛んでいる間に落としそうだ、と怖いことをつぶやいた牙の民は、騎竜を呼ばずに森に向かって歩き出した。
わたしは自分の手足で歩けることを伝えたが、十歩も進まないうちに抱え上げられた。「遠慮するな。その歩みでは日が暮れるどころか年が明ける」とあきれたように告げられた。
四足だからけっこう速いと思っていたのでがっかりした。
彼と二人の旅は山の暮らしを思い出させた。
兎や雉を射止め、火で炙って食べる。獲物がいないときは木の実を齧った。喉が乾いたら川の水を飲む。
彼はいつも脂がのったおいしい部位を切り分けてくれたし、よく熟した木の実を選んでくれた。
寝るときは毛皮のマントに包まったわたしを抱くようにして、夜の冷気と獣から守ってくれた。
言葉は乱暴だけれどもやさしい牙の民に、わたしはすっかり懐いていた。
フードも彼の前では被らなくても大丈夫。鞭でぶたれたりしない。それにフードがない方が毛並みの美しさがよく見える。生え際は金色で毛先にかけて赤くなっており、喉元の毛足は長く豊かだった。尻尾にも黒い横縞がちゃんと入っている。
大きな川にでくわしたとき、「天気がいいからいっぺん毛皮を洗え。臭うぞ」と言われて、わたしは大慌てで彼の傍を逃げ出した。
「おいっ! 逃げるんじゃないっ、この陽気だからまた乾くだろうが!」
伸ばされた腕を必死で避ける。山をおりてから一度も洗っていないマントが、鼻の利く彼にはひどい悪臭を放っているとしても、もうわたしの肌と同じになっているのだ。牙の民だって、天気がいいからと毛皮を剥いで洗ったりしないだろう。しかしあっさり首根っこを捕まえられてしまった。ブンブンと首を横に振るわたしに、黒い唇がめくれあがり白い牙が覗く。
笑顔だと気づいたときには川に放り込まれていた。マントが水を吸って重くなる。
すぐに水面に顔を出し犬かきで対岸を目指していると、ざぶんと隣に飛び込んできた彼は「意外に往生際が悪いな。俺も服を洗うからおあいこだろう?」と、わたしのマントを引っぺがした。
「………………お前、女だったのか?」
わたしは流れに身を沈めて彼を見上げた。
眼が真ん丸になっていた。
彼の上着を着せられ大きな岩に座らされたわたしの足元で、千匹皮のマントが洗われている。毛むくじゃらの手がマントを撫でると、毛皮と毛皮がこすれて汚れが水にただよった。慎重な手つきは、マントがわたしにとってどれくらい大事なものなのか知っているようだった。もし彼の毛皮を洗う機会があれば、わたしも同じように丁寧に洗おう。
午後の陽射しをたっぷり浴びて乾いたマントはふかふかで暖かい。
だからだろうか、その夜彼は離れて横になった。
すんすんと鼻が鳴る。身体を丸めて寝ていると、「泣くな」と抱きかかえられて、定位置におさまった。
太い腕の中が一番安心する。
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森が途切れたところに翼竜が翼を休めていた。
背中から誰かが身軽に飛び降り、こちらに向かって歩いてくる。
「アルセーヌ~、あんた独り身が寂しいからって愛玩動物ぅ? そりゃないんじゃないのぉ?」
マタタビの枝を咥えた牙の民は、とろんとした眼と口調で揶揄した。銀青の毛並みに灰色の横縞が入り、豊満な身体つきから大人の女性だとわかる。
「煩いぞレティ。それより解呪を頼む。強力な奴隷の輪らしくてな、この娘は言葉を話せない」
わたしは彼の背後に隠れ、顔だけを出した。フードをめくり会釈する。
半眼になった金褐色の眼がせわしなくわたしと彼を行き来し、女性は口からマタタビの枝を吹き飛ばして笑い転げた。はふはふと息を切らせる女性の背後で長い尻尾が盛大に振られている。
「あはははっ……!! 天変地異だわっ、あんたの傍に人間の女の子がいるなんて! むさ苦しい親父を両手にぶら下げてるのが誰より似合ってるのに! 里に帰ったらラズに教えてあげなくっちゃ!」
「弟に何を言おうと勝手だが、先にすることがあるだろう」
苛立っているのか揺れる彼の尻尾が軽くわたしの足を打つ。そっと撫でるとびくりと肩を揺らして見下ろされた。尻尾に触ってはいけなかったのかもしれない。
「いいわねぇ! その子ずいぶん懐いてるじゃないの。何があったのかぜひ聞きたいところだけど、解呪だったわね。お嬢ちゃん、ちょっと首輪を見せてくれる?」
女性の手招きにおそるおそる近づく。一転真剣な目つきに変わり、首輪をじっくり眺めたあと「まだ残っていたのね、この胸糞悪い首輪」と鼻面に皺を寄せて唸り声を上げた。
「動かないでね。魔力の流れを断ち切るから」
鋭い爪が首輪をなぞると、わたしを苦しめていた黒い首輪は砂のように崩れた。
思わず指で喉に触れる。硬く冷たい感触が消えた。
「……あぁ~…、あっ、ああ……」
ひどいガラガラ声だ。でも話せる。やっと彼にお礼が言える。
嬉しくて嬉しくて、小鳥のように飛び回って歌いだしたいぐらいだった。
「あり、がとう! たすけてくれ、て! ありがとうっ!!」
彼にお礼を言って、首輪を外してくれた彼女にもお礼を言った。
言葉だけでは伝わったか心配で、彼の手をぎゅっと握って何回も繰り返したら、「わかったから、もういい」と頭を撫でられた。いっぱい溜まっていた涙が、がくがく揺さぶられるから我慢できずにこぼれてしまった。「泣くな」とさらに揺さぶられても自分では止められない。
「――馬鹿ねぇ。そこは撫でるんじゃなくて、抱きしめるものよ?」
抱き上げられた腕の中でようやく涙が止まる。
最後の一雫が流れた頬をざらりと舐められた。
「お前はこれからどうする? 家がわかるなら送っていくが」
「……住んでいた山はわからない。父も母もいないから、わたしひとりだけ」
彼は思案するように黙った。髭がピンと広がって耳が機敏に動いている。
どこに置いて行かれるんだろう。近くの村か。大きな街はいい思い出がないけれど、働く場所ならあるだろう。故郷に帰ったとしてもわたしを待っている人は誰もいない。ならどこで暮らそうと同じだ。
「レティシア、相談があるんだが」
「あら、どんな相談? 結論はもう出ているんでしょうに。いいわよ。ちょうど依頼もないし、二人でのんびり帰ってきなさいな」
そう言うと、銀青の毛皮の女性は颯爽と翼竜に跨った。羽ばたきの風圧で目を開けていられない。風になびいていた髪が落ち着くころには、翼竜は天高く舞い上がっていた。二人で遠くなる影を見送る。
わたしに向き直った彼の瞳は、陽の光で透き通る金色に輝いていた。
「もし行くところがないのなら、俺と共に来るか?」
「~~~~アルといっしょにいくっ!!」
力いっぱい叫んだら片方の耳をぺたりと倒し、「聞こえているから、もう少し小さい声で頼む」と牙の民が唸った。
「名前を聞いていなかったな。千匹皮ではないのだろう? お前を何と呼べばいい?」
今度はひっそりと、彼に呼んでほしい名前を告げた。
父と母がつけてくれたわたしの名前。
涙の乾いた頬に毛むくじゃらの手が触れる。あたたかな感触に胸の奥まで満たされた。
「――やっと笑ったな、エステル。お前は笑っている方がいい」