下
「う…うあああっ…!」
怒号すらも弱々しく巨人はうめきます。
鼻をつままれても分からないほどの闇の中、ほのかに光った巨人は一人、立ち尽くしています。身体の中が冷え切って動けないのです。
「夕食を…持って…こい…」
闇は沈黙したまま。
どこか遠くで狼の遠吠えが聞こえます。いつもの巨人なら食事だと舌なめずりをしたものですが彼は今ほとんど動けません。
巨人は急に身の危険を感じて震えだします。鳴き声は遠くなったり近くなったりします。巨人は歯を喰いしばりながら周囲をうかがいます。
と、
「ギャアアアアアッッ!」
「ぐぅあアアアア!?」「狼だぁ!」「ガルルっ!」
逃げてしまったとは言え、家来達の悲鳴に巨人は助けに行きたくなります。しかし動けません。
巨人はその悲鳴が途切れるまでじっと声のする方を眺めていました。
いつの間にか巨人は眠ってしまいました。太陽がゆっくりと昇ってきます。
太陽はきょろきょろと辺りを見回します。
「月さん、月さん。どこにいるの?」
しかし月は巨人の手の中で黙ったまま。巨人は太陽が不思議そうに昇っていくのを見て、こっそりと笑いました。
今は巨人が月を持っているのです。太陽が空にあがりしばらくすると太陽のあたたかい光によって巨人は動けるようになりました。まだ髪の毛は動きませんが何とか歩くことはできたのです。
巨人はヲレヲージュ山を降りて自分の家来をさがしました。
モーレラレッヒに乗って帰ろうというのです。しかし
「モーレラレッヒ!モーレラレッヒ!」
答えはありません。巨人は身体を無理に動かして家来をさがします。
しかし見つかりません。
それもそのはず。家来もモーレラレッヒもみんなとっくに自分の国に逃げ帰っていったのです。
巨人は太陽が沈むまでヲレヲージュ山の周りを歩き回っていましたが、太陽の光が弱くなるに連れ身体が動かなくなってしまいます。
凍りつきながら今日も月が登らないことに残忍な喜びを感じていた巨人は、またもや狼の遠吠えを聞いてぞっとします。
ヲォーーン…オォーン…
だんだんと近づく声に巨人は身体を固くします。
耳を澄ませ、目を凝らし、敵の姿を捉えようと巨人は必死でした。
「こんな所で死んでたまるか…!」
巨人は何とか寝ずの番をします。そして再び太陽が昇るのを見た巨人はホッと息をつきます。
それから動けるようになった巨人は手の中の月を握り直そうとして目を見開きます。
月は彼の手にぴったりとくっついて離れないのです。巨人は手を開くこともできません。巨人は慌てて力いっぱい指を引き剥がそうとしますがびくともしません。
巨人はしばらくがんばりましたがとうとう疲れてひっくり返ってしまいました。
「ううぅ…」
疲れた巨人はぼんやりと空を眺めていました。
ぐるごろぐるぐー…
巨人のお腹が初めに音をあげます。巨人は起き上がり食べられる物を探します。
しかし不毛の土地に、食べられる物などほとんどありません。
探し回った末に巨人が得たのは木の根っことわずかな草でした。それでも、巨人は一生懸命噛んでそれを食べました。
すると太陽が今日も沈んでいきます。巨人の身体が凍りつきます。
巨人は寝不足で真っ赤になった目を見開きながら夜を耐えます。狼の遠吠え。今度は昨日よりも近くで聞こえます。足音も聞こえます。
グルル…
そんなうなり声が届くほどに近くに狼達はやってきます。
巨人は怯むことなく見えない敵を睨みつけます。
狼の息遣い、うなり声、殺気。巨人は初めて死を意識します。恐怖を抑えつけます。
睨み合いの末、巨人はまた朝を迎えることができました。
昇ってきた太陽を見た巨人はほっとしてそのまま倒れてしまいました。
大きないびきをかいて巨人は寝てしまいました。
巨人が目を覚ますとまた夕暮れでした。寝心地の悪い地面に寝ていた巨人は身体の痛みに顔をしかめます。
「うっ…」
身体が冷えてきます。空腹で死にそうです。この情けない状況に巨人は…巨人は
猛烈に怒っていました。
モーレラレッヒや家来がいないこと、狼が襲ってくること、空腹であること、身体が動かないこと、その全てが巨人の怒りを掻き立てていました。
巨人は口を開き、目をカッと開き、大きく息を吸います。
しかし、声を吐き出す前に右手に痛みが走ります。
ピシピシピシッ…
月がその冷たさを増しました。
右手に白く染まり、肩も強ばり、その冷気は喉へと辿り着きます。
「かはっ…」
巨人の息が漏れます。巨人は喉を掻きむしります。
「はっ…っ……っ」
喉の内側まで染み込む冷たさに呼吸すらも妨げられ、巨人の視界は白く染まります。彼はその白の中に幻が動き出すのを視ました。しかし、
ピシピシピシッ……
巨人の身体が白い石像と化した後もその冷気は広がります。地を伝い、巨人の周囲の土をも巻き込んで凍りつきます。
今日こそ襲ってやろうと思っていた狼はそれを見てビックリ仰天、尻尾を丸めて逃げていきます。
また太陽が昇ってきます。
太陽の光が石像のような巨人を照らします。しかし今日の氷は恐ろしく分厚く、巨人が目を覚まし、動けるようになったのは太陽が沈む少し前でした。
オレンジ色のその太陽の光を巨人は暖かいと思いました。優しいと思いました。
「ありがとう…」
思わず巨人はそう呟いていたのでした。
そして…彼は生まれてから初めて、
「ごめんなさい。」
謝ったのです。
巨人は氷の中で月の昇らない夜に
行く道の分からない旅人を、
不安がる民を、
月の明かりを頼りに狩りをするために獲物を追えない狼を、
夜に生きるありとあらゆる生き物を
満月に卵を生むはずが月が居ないために生めなかった沢山の生物を
視たのでした。
巨人は自らの起こしたことの愚かしさに怒り、嘆き、絶望しました。
「そうです。…私達は皆に平等に光を届けねばならないのです。」
巨人は慟哭しました。その涙が彼の右手にまで飛び散り、一粒が月に触れたとたん、
軽やかなガラスの割れるような音が響き渡りました。月が巨人の手から剥がれたのです。
「さぁ、私は帰らなくては。」
巨人は右手に向かって大きく頷きました。
巨人は、ヲレヲージュ山を死に物狂いで駆け上がります。いつの間にか白く変色した巨人の髪はたなびき、一筋の白く輝く流れ星のようでした。
ヲレヲージュ山は険しく、すでに身体が弱っている巨人は何度も足を踏み外しそうになります。それでも巨人は全力で登ります。走れなくなれば、膝を使い、それすらも血に塗れれば月をくわえ、両手も使います。
「間に合いません。投げてください。」
月が言います。
「うぁぁぁぁぁっ!!!」
巨人は痛む身体を無理矢理起こし、渾身の力で月を空へと投げ上げました。
月は高く高く上がってゆきます。と、何か見えない釘に引っかかったように月は空に留まります。
「あぁ…」
巨人はそれを見上げ、深い深い溜め息をつきました。
また、世界に月のある夜がやってきたのです。
巨人はそのことを確認するとそこに倒れ伏します。そして、深い深い眠りについたのでした。
「起きてください、起きてください。」
「…何だ…俺は…もう…眠いのだ。もう…良い。俺は役目を…果たし…た。」
「いえ、あなた様はまだ、やらねばならないことがあります。」
「やらねば…ならない…?」
巨人が薄目を開くと、そこにはヒューデラッタがいます。
「あなた様がいなくなった後、国は跡目争いで混乱しているのです。」
巨人は薄く笑います。
「そうか。」
「ですから、あなた様がいなくなっては困るのです。」
「だが俺は…愚かな王であったのだ。もう俺には…」
「…では今は?」
「…今も愚かだ。」
ヒューデラッタはそれを聞いて嬉しそうに笑いました。
「そう、それが必要なことなのです。全てが一人で出来ると思いこんでいるのは、愚かな印なのです。」
そう言ってヒューデラッタは頼みました。
「民の安定のために、再び王になってください。」
こうして、その国は真っ白な髪を持つ謙虚な王が治め、平和な時代を過ごしたのでした。
めでたしめでたし。
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