「聖女なんだから当然でしょう?」と言われ続けた十二年。――では今後は、神様に直接お願いしてください
聖女になって十二年。
私は、一日も休んだことがない。
……というより「休日」という言葉の意味を、今日、初めて知った。
◇
「じゃ、聖女様。明日は私、休みなんで」
四十三人目の患者さんを見送ったところで、ヨハン先生が伸びをしながら言った。
神殿付きのお医者様だ。四十を過ぎていて、白衣の袖にいつもインクの染みをつけている。聖女の力が要らない患者さんは、全部この人が診てくれる。
「やすみ、ですか」
「ええ。娘の誕生日なんですよ。七つになるんです。七つ。早いもんです」
「まあ。おめでとうございます」
本当にめでたいと思った。
七歳。私が神殿に来たのは八歳のときだから、それより一つ小さい。
それで、ずっと聞きそびれていたことを、ついでのように聞いてしまった。
「ところで先生。休日というのは、何をする日なのですか?」
先生は、はは、と笑った。
「聖女様も冗談言うんですねえ」
「いえ、あの、本当に存じなくて」
笑い声が、途中で止まった。
先生は私の顔をじっと見て、それから、なぜか手元のカルテを見た。見ても何も書いていないと思う。
「……朝、寝坊したり」
「朝のお祈りは」
「しません」
「治療は」
「しません」
「では、その日に運ばれてきた患者さんは……」
「別の医者が診ます」
世界が、少しだけ揺れた。
別の人が。診る。
そんな仕組みがあったなんて。
「聖女様。最後に休んだのって、いつです」
「十二年前です。聖女に選ばれる前の日」
「……」
「熱を出して寝込んでおりました」
「それは休みじゃありません」
先生は額に手を当てて、それきり黙ってしまった。
私の一日は決まっている。
夜明け前に起きて祈る。朝から晩まで治療をする。また祈って、寝る。
それを十二年。
嫌だと思ったことはない。人が治っていくのを見るのは好きだし、聖女というのはそういうものだと思っていた。
思っていた、というより、ほかの形を知らなかった。
今日の午後だって、そうだった。
「聖女様、急患です!」
担架に乗せられてきたのは、刺繍だらけの上着を着た伯爵様だった。
馬から降りるときに、手首をひねったらしい。
ちょうど同じとき、隣の診察台には、木から落ちた男の子が寝かされていた。腕が、変な方向に曲がっていた。泣き声が、かすれていた。
あっちが先だ、と思った。
思って、足を向けかけたところで、後ろの神官様が私の肩に手を置いた。
「大司教様のご指示です。神殿を支えてくださる方を、聖女様の御手で。……こうした方々のご厚意が、巡り巡って、大勢の民を救うのですから」
穏やかな声だった。意地悪を言っている顔ではなかった。
私は伯爵様の手首に力を注いだ。
伯爵様は、それはもう大げさに感謝して帰っていった。
男の子の腕は、ヨハン先生が添え木を当てて、きれいに戻した。
戻したあと、先生は私の手のあたりを、なんとも言えない顔で見ていた。
窓の外から、甘い匂いが流れてくる。
神殿の門前で毎朝売っている〈聖女焼き〉だ。
私の顔を象った型で焼く、はちみつ入りの焼き菓子。巡礼の人たちに大人気で、一日に千個売れるらしい。
千個。
私は、一個も食べたことがない。
お金というものを、触ったことがないからだ。
「先生は、休みの日に、ああいう焼き菓子を買ったりするのですか」
「……買いますね。娘に」
「そうですか」
いいなあ。
口には出さなかった。出さなかったけれど、自分の中でその言葉がぽこんと浮かんだのが、ちょっと意外だった。
誰かを羨ましいと思ったのは、たぶん、生まれて初めてだ。
◇
次の日、私は大司教グレゴリウス様のお部屋を訪ねた。
大司教様はいつも微笑んでいる。
雪みたいに白いお髭。金の糸で縁取られた法衣。部屋にはいつも、乳香の甘い煙がうっすら漂っている。
この方は、八歳の私が泣きながら神殿に連れてこられた夜、手を握って「あなたは神に選ばれたのですよ」と言ってくれた人だ。
誰よりも私を大切にしてくれる人。私は、ずっとそう思ってきた。
「おお、リシェル様。今朝もいいお顔です。民はね、聖女様の微笑みを見て安心するのですよ」
口の端を、十五度。
子どもの頃、大司教様が鏡の前で教えてくれた角度だ。今では、寝ぼけていてもこの形になる。
「大司教様。お願いがあって参りました」
「なんなりと」
「一日だけ、お休みをいただけないでしょうか。街を、歩いてみたくて」
大司教様の笑顔は、一本の皺も動かなかった。
「明日も、治療を待つ民がおりますよ」
「では、その次の日は」
「その日もおります」
「その次は」
「もちろん」
「では……私は、いつ休めるのでしょう」
大司教様は、慈しむような目で私を見た。
「聖女様なのですから」
……答えになっていない気がする。
気がするのに、どこが答えになっていないのか、うまく言えない。
大司教様は、子どもに言い聞かせるように続けた。
「街は危のうございます。聖女様のお力を狙う者も、利用しようとする者もおります。もしものことがあれば、救えるはずの命が救えなくなる。私はね、それが恐ろしいのですよ」
正しい、と思った。
正しいことを言われると、人は黙るしかない。
大司教様は棚から、分厚い革の帳面を取り出した。
「ご心配なく。聖女様が治療だけに専念なさるよう、ご予定はすべて私がお組みしております」
開かれた頁に、私の名前がびっしり並んでいた。
来月。来年。十年後。
めくる。まだある。めくる。まだある。
紙の端が、指に貼りつく。
「……大司教様。このあたりの頁は」
「神の御許に召されたあとのご予定です。聖遺物として、各地の巡礼にお出ましいただきます」
大司教様は、帳面の表紙を愛おしそうに撫でた。
「死後三百年まで、埋まっております。聖女様は、永遠に民のおそばにいらっしゃるのです」
冗談を言っている顔ではなかった。
この方は、本気で、それを私への贈り物だと思っている。
「……もし、私が、疲れてしまったら」
「神は、願う者に必ず応えてくださいます。お祈りなさい」
毎週の説法で、大司教様が必ずおっしゃる言葉だ。
――神は、願えば応えてくださる。
そして、願いを抱えた人たちが神殿の門をくぐってくると、その願いに応えるのは、私だ。
「では、私の願いには、誰が応えてくださるのでしょう」
「聖女様なのですから」
二回目だった。
部屋を出ると、廊下の窓の向こうに、門前の行列が見えた。
聖女焼きの屋台に、今日もずらりと人が並んでいる。
私の顔は、今日もよく売れている。
◇
その夜、髪をとかしてくれていたミアに、聞いてみた。
ミアは私と同い年で、鼻の頭にそばかすが散っている。三年前から私の身の回りの世話をしてくれていて、ヨハン先生のほかに、私がまともにおしゃべりできる、ほとんど唯一の人だ。
「ミア。あなたにも、お休みはあるの?」
「ありますよー。十日に一回」
「その日は、何をしているの?」
「お給金握りしめて、市場の屋台を端から端まで! 串焼きでしょ、揚げ芋でしょ、あと季節の果物の飴がけ――」
お給金。
その言葉自体は知っている。神官様たちがもらっているものだ。でも。
「……お給金って、自分の好きなように使っていいものなの?」
「え? そりゃ、自分で稼いだお金ですもん」
ブラシの動きが止まった。
鏡の中で、ミアがおそるおそる私の顔をのぞき込む。
「聖女様、もしかして……もらってないんですか」
「見たことがないわ」
「見たことが」
「ええ」
ミアは口を開けて、閉じて、また開けた。
「……あのっ! 今度のお休み、一緒に市場行きません? 私、おごりますから!」
「本当?」
思わず身を乗り出していた。ブラシに髪が引っかかって、いたっ、と声が出た。
でもミアは、すぐにしゅんと眉を下げた。
「あ……だめだ。聖女様とお出かけするには、大司教様の許可が要るんでした。前に一回お願いしたら、『聖女様の御身に万一のことがあってはならない』って」
それも、正しい。
大司教様の言うことは、いつも、ひとつずつ全部正しい。
でも。
ミアの休みには串焼きがあって、先生の休みには娘さんの誕生日がある。
私の帳面には、死後三百年まで、治療と巡礼しか書いていない。
ひとつずつは正しいのに、全部並べると、どこかがおかしい。
そのおかしさの名前を、私はまだ知らなかった。
◇
ひと月後、年に一度の〈聖女感謝祭〉がやってきた。
大聖堂前の広場に、国王陛下、貴族の方々、商人たち、医者、そして数えきれない街の人たちが集まっている。屋台の煙と、人いきれと、祭りの花の匂いが混ざって、息が詰まりそうだ。
正面には、黄金の聖女像。
去年より、ひと回り大きくなっていた。
毎年、大きくなる。
私は毎年、同じ大きさなのに。
壇上の大司教様が、両腕を広げた。
「我らが聖女リシェル様は、本年もまた、一日たりとも民への慈愛を絶やされることなく――!」
わっと拍手が起きる。
「一年三百六十五日、ただの一日も休まれず!」
もっと大きな拍手。
「これぞ聖女! これぞ神の御業!」
拍手の渦の中で、隣のヨハン先生を見上げた。
先生の手は、動いていなかった。
私は、手を挙げた。
「大司教様。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
広場が、すうっと静かになった。
式典で聖女が口を開くのは、たぶん初めてだ。
「どうぞ、聖女様」
「普通の方は、一年に何日くらい、お休みになるものなのでしょう?」
ざわ、と空気が揺れた。
「私、一度もお休みをいただいたことがないので、よく分からなくて」
意地悪で聞いたんじゃない。本当に知りたかった。
なのに最前列の貴婦人の手から、扇がぽとりと落ちた。
「……一度も?」
「十二年、って言ったよな」
「さっきの『一日も休まず』って、ものの例えじゃなかったのか……?」
ささやきが、波みたいに後ろへ広がっていく。
国王陛下が、立ち上がった。
「……余は、年に八十日ほど休んでおる」
広場が、しんとなった。
「狩りに出る。湖で釣りをする。葡萄祭りでは、少々飲みすぎる。王とて休まねば務まらぬと、当然のように思うてきた」
陛下は、そこで一度言葉を切った。
「だが、聖女が休まぬことを……余は、ただの一度も、おかしいと思わなんだ」
それから、壇上へ目を向けた。
「大司教。そなたは、年に何日休む」
「わ、私は神に仕える身ゆえ……」
「何日だ」
「……週に二日と、夏に一月ほど。南の別荘で、祈りの時を」
誰も笑わなかった。
笑えなかったんだと思う。
その沈黙の中で、恰幅のいい商人の奥様が、おろおろと口を開いた。
「で、でも聖女様には、たくさん献金が集まっておりますでしょう? お役目を終えられたら、きっとゆっくり余生を……」
「……献金?」
首を傾げた私を見て、奥様の顔から、すうっと血の色が引いた。
「ご存じ……ないんですの?」
「はい。初めて聞きました」
さっきより、ずっと冷たい静けさが落ちてきた。
「わたくし、毎年『聖女様へ』と書いて、金貨を……」
「うちの商会もだ。毎年、聖女様のお名前宛てで」
「おっかさんを治してもらったお礼に、なけなしの……」
大司教様が、穏やかに両手を上げた。
「皆様、ご安心なさい。献金はすべて、聖女様の活動を支えるために用いております。神より授かったお力で、聖女様が私財を蓄えるなど、あってはならぬことですからね」
「……じゃあ、聖女様宛ての金は、誰が受け取ってんだ?」
どこかで、誰かがつぶやいた。
「大聖堂の改修、感謝祭の運営、巡礼宿――そして、あの聖女像も」
大司教様が、黄金の像を手で示す。
広場じゅうの目が、像に向いた。
それから、私に向いた。
私の法衣の袖は、すり切れて、白い糸が何本も飛び出している。
十二年、同じ型のものを繕い繕い着てきたからだ。
「で、聖女様ご本人には?」
「聖女様なのですから」
――いつもなら、それで全部おさまった。
でも今日は、誰も頷かなかった。
大司教様は、悪びれる様子もなく続けた。
「金を持てば、俗世の者がつけ込みます。外に出れば、危険があります。友人を持てば、その者に利用されるやもしれぬ。ですから私は、衣も、食も、住まいも、身の回りのすべてを神殿でお世話してまいりました。聖女様が何ひとつ煩わされず、治療だけに専念なさるように」
ひとつずつ聞くと、やっぱり正しかった。
「聖女様は、この神殿で最も大切な宝。ですから財産目録の、筆頭に記しております」
「……財産、目録?」
「ええ。黄金の燭台よりも、上に」
大司教様は、誇らしげだった。
それが最上級の敬意だと、心の底から信じている顔だった。
ああ、と思った。
この方は本当に、私を大切にしているのだ。
燭台よりも、丁寧に。
「それ……大事にしてるんじゃなくて、持ち物扱いしてるだけじゃ……」
誰かの小さな声が、広場じゅうの胸の中を、そのまま言葉にした。
私は、一歩前に出た。
怒っていたわけじゃない。悲しいのとも、ちょっと違った。
ただ、やっと分かったのだ。ひと月前から喉の奥に刺さっていた、小骨みたいなものの正体が。
危ないから、外に出てはいけない。
つけ込まれるから、お金を持ってはいけない。
利用されるから、友人を作ってはいけない。
理由はいつも、私のためだった。
そして、決めるのはいつも、私ではなかった。
「大司教様。もうひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「なんなりと」
「私に何が必要かは、誰が決めるのですか」
「神殿です」
「外に出てよいかは」
「神殿の許しが要ります」
「私がいつか、誰かと家族を持ちたいと思ったら」
「聖女様に、そのような俗世の欲は――」
「私は、利益が欲しいとは申しません」
大司教様の顔が、ほっとゆるんだ。
「ええ、ええ。聖女様なら、そうおっしゃると――」
「でも、休みたいです」
大司教様の顔が、止まった。
「自分で選んだ物を、自分で買ってみたいです。友達と、街を歩いてみたいです。いつか、家族を持ちたいと思う日が来るかもしれません」
私は、広場を見渡した。
何百という顔が、こっちを見ていた。
「……それは、いけないことなのでしょうか」
誰も、答えなかった。
答えられる人は、たぶん、ここに一人もいなかった。
「あなたは、聖女なのですよ」
大司教様が、諭すように言った。
「はい。神様に選ばれました」
頷いてから、続けた。
「でも、大司教様に人生を差し上げた覚えはありません」
大司教様は何か言いかけて、すがるように陛下を振り返った。
「陛下。聖女様は神殿の目録に記された御方。神殿の外へお出しすることは――」
「大司教」
陛下は、静かに首を振った。
「この国の法に、人を財産として帳面に載せる定めはない。そなたの目録に何と書いてあろうと、聖女は最初から、誰の持ち物でもない」
それは、私を自由にしてくれる言葉ではなかった。
私がはじめから自由だったと、確かめるだけの言葉だった。
だったら、決めるのは私だ。
「では、私は神殿を出ます」
ぱち、と音がした。
ヨハン先生だった。一人きりの拍手は、広場の中でびっくりするほど小さく聞こえた。
ぱち、ぱち。商人の奥様。
ぱちぱち。人の間から背伸びしているミア。
それが、隣へ、後ろへ、ひとつずつ移っていって――気がつけば、広場の端のほうまで届いていた。
その中から、ひとつだけ、震える声が聞こえた。
「でも……聖女様がお休みの日に、うちの子が倒れたら……」
私は、その人に答えられなかった。
答えは、口ではなく、これから出すしかないと思った。
「し、しかし……神殿を離れれば、治療を待つ民が困ります」
「治療は、続けます」
「ならば――」
「いいえ」
私は、首を横に振った。
「神殿で、とは申しておりません」
大司教様の後ろで、黄金の聖女像が、ぎらぎらと陽を弾いていた。
私には、ちっとも似ていなかった。
◇
その夜、荷造りはすぐに終わった。
繕った法衣が二枚。祈祷書が一冊。歯の欠けた櫛が一本。
十二年分の荷物は、小さな布袋ひとつに収まってしまった。
机の上に、あの革の帳面が残っていた。
死後三百年まで埋まった、私の予定表。
持っていかないことにした。
私の予定は、これから私が書く。
◇
翌朝、神殿の門を出ると、ヨハン先生が石段に座って待っていた。
「おはようございます、聖女様。……先に、謝らせてください」
「先生が?」
「十二年、隣で見てたんです。一日も休まないのも、給金が出てないのも、薄々は分かってた。でも、聖女様は特別な人だから、普通とは違うんだろうって……勝手に納得してたんですよ」
先生は立ち上がって、頭を下げた。
「おかしいって言えたのは、私のはずだったのに」
私は、考えた。
「私も十二年、おかしいと思いませんでした。だから、おあいこです」
「いや、それはおあいこにしちゃいけないやつです」
先生は頭をかいて、困ったように笑った。
「代わりに、手伝わせてください。聖女様がひとりで全部背負わなくていい場所を。今度こそ」
◇
国王陛下が、使っていない古い離宮を貸してくださった。そこが〈施療院〉になった。
院長はヨハン先生。薬師のギルドが名乗りを上げ、若いお医者様たちが集まり、ミアは受付係になった。「私、字だけはきれいなんです!」だそうだ。本当にきれいだった。
決まりごとは、みんなで話し合って決めた。
一つ、急ぎの患者を最優先にすること。
一つ、ふつうの診察は医者が、薬で治るものは薬師が行い、聖女の力が要る患者だけを聖女が診ること。
一つ、寄付の帳簿は、誰でも見られるようにすること。貧しい人の治療費は減らすこと。
一つ、聖女には給金と、週に二日の休みを与えること。
それから、不思議なことが起きた。
私が休むようになったのに、救える人の数は、前よりずっと増えたのだ。
前の私は、手首をひねった伯爵様にも、骨を折った男の子にも、ひとりで力を使っていた。夕方になると指先が冷たくなって、最後の何人かは、ほとんど祈るような気持ちで治していた。
今は、お医者様に治せる人はお医者様が治す。薬で治る人は薬師さんが治す。
私の力は、本当に私にしか治せない人のためだけに使える。
指先が冷たくなることは、もうない。
夜はちゃんと眠っている。夢も見る。これがまた、けっこう面白い。
あの日、広場で震える声を上げた女の人の子どもは、二か月目に、ひどい熱で運ばれてきた。
その日は、私の休みの日だった。
でも、当番のお医者様がすぐに気づいて、薬師さんが熱冷ましを煎じて、それでも下がらなかったぶんだけ、次の朝に私が診た。
男の子は三日で走り回るようになった。
帰りぎわ、その人は私に何度も頭を下げて、それから、寄付箱に銅貨を一枚入れていった。
もっとも、私自身の最初の休みは、見事に失敗した。
いつもどおり夜明け前に起きて、いつもどおり治療室の椅子に座っていたら、ヨハン先生に見つかったのだ。
「今日は、休みです」
「でも、患者さんが来たら」
「別の医者が診ます」
いつかと、同じ言葉だった。
「聖女様が一日いなくても、ちゃんと回る。そういう場所を、みんなで作ったんですから」
治療室を追い出されて、昼間の寝台にもぐり込んだ。
落ち着かなかった。誰かが呼びに来る気がして、何度も扉のほうを見た。
誰も来なかった。
目を開けたら、窓の外が夕焼けだった。
一方、神殿には、人が来なくなった。
大司教様は、黄金の聖女像を「触れれば癒える奇跡の像」として売り出した。像に触れて治った人は、ひとりもいなかった。
献金は、施療院の寄付箱に届くようになった。
今度こそ「聖女様ご本人に」と、添え書きをつけて。
門前の聖女焼きは、一日千個から、一日三個になったと聞いた。
◇
三か月後。
施療院の門を、大司教様がくぐってきた。
あの穏やかな微笑みが、どこにもなかった。見慣れた顔から微笑みを引くと、こんなに年を取った人だったのかと、そんなことを思った。
「リシェル様。お戻りください。神殿は、あなたを必要としているのです」
待合の長椅子で、患者さんたちが一斉に振り返った。
私は薬草の籠を床に置いて、大司教様に向き直った。
「以前は、民が私を必要としている、とおっしゃいましたよね」
「……ええ。民が」
私は、自分の後ろを手で示した。
患者さんの冗談に笑いながら脈を取っている、ヨハン先生。
鼻歌まじりに薬を煎じている薬師さんたち。
順番を待ちながら、ひそひそ話に夢中の母子。
包帯を巻き終えて、手を振りながら帰っていくおじいさん。
「民の皆様なら、こちらにいらっしゃいます」
大司教様は、口を開いて、閉じた。
それから、絞り出すように言った。
「聖女様が神殿にいらっしゃらなければ……神殿は、何のためにあるのです」
十二年そばにいて、初めて聞いた気がした。この方の、本当の声を。
「それを考えるのは、大司教様のお仕事ではないでしょうか」
大司教様の手が、私の手を探すように伸びてきた。
「どうか……どうか、お力を。神殿をお救いください」
私は、その手から自分の手を引いた。
「大司教様は、いつも説法でおっしゃっていましたね。神は、願う者に必ず応えてくださる、と」
大司教様の顔から、色が抜けた。
私は、微笑んだ。
十二年、毎朝鏡の前で作ってきた、十五度の聖女の微笑みで。
「では今後は、神様に直接お願いしてください」
「……神殿なくして、聖女など――」
言いかけたところで、待合の長椅子から、さっきのおじいさんが立ち上がった。
去年の冬、胸の病で運ばれてきた人だ。
「大司教さんよ。わしを救ってくれたのは、神殿じゃねえ。この聖女様だ」
それから、ばつが悪そうに鼻をこすった。
「……まあ、わしらも、聖女様ならタダで治して当然だと思ってたクチだがな。だから今は、ちゃんと払ってる」
「そうだ」
「うちもだよ」
声が、あちこちから重なった。
大司教様は、それきり何も言わずに帰っていった。
そのあと、王家の監査が神殿に入って、大司教様は職を解かれたと聞いた。
今は神殿の片隅で、朝と晩のお祈りだけをして暮らしているらしい。
神様がその願いに応えてくださるかどうかは、私には分からない。
◇
そして今日は、初めて自分で何をするか決めた休日だ。
朝寝坊というものを、してみた。
目が覚めたら日がすっかり高くて、一瞬、心臓がひやっとして――それから、笑ってしまうくらい嬉しかった。
給金の入った小さな財布を握って、市場に出た。
ミアとは、来週いっしょに来る約束をしている。「今度こそ串焼きおごりますから!」と胸を張るミアに、「今度は私がおごるわ」と言ったら、ミアは泣きそうな顔で笑っていた。
だから今日は、ひとりで下見だ。
人が多い。声が多い。匂いが多い。
香草を焼く煙。果物の甘ずっぱさ。どこかの子が落とした飴の、べたついた匂い。
その中に、知っている匂いが、ひとつあった。
はちみつと、焦がしバター。
市場の隅に、小さな屋台が出ていた。
腰の曲がったおばあさんが、慣れた手つきで焼き型をひっくり返している。
「……聖女焼き、ですか?」
「おや」
おばあさんは顔を上げて、目をまんまるにした。
「ええ、ええ。神殿の前で四十年焼いてましたけどね。こっちに移ったんですよ。場所代を取られなくなったもんで、かえって楽になっちまって」
それから、私の顔と焼き型を、何度も見比べた。
「……ご本人のほうが、ずっと可愛いねえ」
「そうでしょうか」
「型はねえ、神殿のご注文で作ったもんだから。ほら、ちょいと目がきらきらしすぎてんの」
吹き出してしまった。
十五度ではない笑い方だった。
「ひとつ、いただけますか」
「まあまあ、聖女様からお代なんて――」
「いいえ」
財布の口を開ける。指が、ちょっと震えた。
銅貨を一枚つまんで、両手でおばあさんの手のひらに載せた。
「お給金をいただいたので。今日は、自分で払ってみたいんです」
おばあさんは手のひらの銅貨をしばらく眺めて、それから、しわくちゃの顔でにっと笑った。
「毎度あり」
紙に包まれた聖女焼きは、まだ温かかった。
十二年間、毎朝匂いだけ嗅いでいたそれを、ひと口かじる。
さくっ、と音がした。
はちみつが、じわっと舌の上に広がった。
見上げると、空が高かった。
神殿の窓の四角い枠から見ていた空より、ずっと、ずっと広かった。
いつもの癖で、心の中で神様に話しかける。
――神様。
今日は、お願い事はありません。
少し考えて、付け加えた。
――ただ、とても美味しいです。
(了)




