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「聖女なんだから当然でしょう?」と言われ続けた十二年。――では今後は、神様に直接お願いしてください

作者: 江合 花果
掲載日:2026/09/28

聖女になって十二年。

私は、一日も休んだことがない。


……というより「休日」という言葉の意味を、今日、初めて知った。


   ◇


「じゃ、聖女様。明日は私、休みなんで」


四十三人目の患者さんを見送ったところで、ヨハン先生が伸びをしながら言った。


神殿付きのお医者様だ。四十を過ぎていて、白衣の袖にいつもインクの染みをつけている。聖女の力が要らない患者さんは、全部この人が診てくれる。


「やすみ、ですか」

「ええ。娘の誕生日なんですよ。七つになるんです。七つ。早いもんです」

「まあ。おめでとうございます」


本当にめでたいと思った。

七歳。私が神殿に来たのは八歳のときだから、それより一つ小さい。


それで、ずっと聞きそびれていたことを、ついでのように聞いてしまった。


「ところで先生。休日というのは、何をする日なのですか?」


先生は、はは、と笑った。


「聖女様も冗談言うんですねえ」

「いえ、あの、本当に存じなくて」


笑い声が、途中で止まった。

先生は私の顔をじっと見て、それから、なぜか手元のカルテを見た。見ても何も書いていないと思う。


「……朝、寝坊したり」

「朝のお祈りは」

「しません」

「治療は」

「しません」

「では、その日に運ばれてきた患者さんは……」

「別の医者が診ます」


世界が、少しだけ揺れた。


別の人が。診る。

そんな仕組みがあったなんて。


「聖女様。最後に休んだのって、いつです」

「十二年前です。聖女に選ばれる前の日」

「……」

「熱を出して寝込んでおりました」

「それは休みじゃありません」


先生は額に手を当てて、それきり黙ってしまった。


私の一日は決まっている。

夜明け前に起きて祈る。朝から晩まで治療をする。また祈って、寝る。

それを十二年。


嫌だと思ったことはない。人が治っていくのを見るのは好きだし、聖女というのはそういうものだと思っていた。

思っていた、というより、ほかの形を知らなかった。


今日の午後だって、そうだった。


「聖女様、急患です!」


担架に乗せられてきたのは、刺繍だらけの上着を着た伯爵様だった。

馬から降りるときに、手首をひねったらしい。


ちょうど同じとき、隣の診察台には、木から落ちた男の子が寝かされていた。腕が、変な方向に曲がっていた。泣き声が、かすれていた。


あっちが先だ、と思った。

思って、足を向けかけたところで、後ろの神官様が私の肩に手を置いた。


「大司教様のご指示です。神殿を支えてくださる方を、聖女様の御手で。……こうした方々のご厚意が、巡り巡って、大勢の民を救うのですから」


穏やかな声だった。意地悪を言っている顔ではなかった。


私は伯爵様の手首に力を注いだ。

伯爵様は、それはもう大げさに感謝して帰っていった。


男の子の腕は、ヨハン先生が添え木を当てて、きれいに戻した。

戻したあと、先生は私の手のあたりを、なんとも言えない顔で見ていた。


窓の外から、甘い匂いが流れてくる。


神殿の門前で毎朝売っている〈聖女焼き〉だ。

私の顔を象った型で焼く、はちみつ入りの焼き菓子。巡礼の人たちに大人気で、一日に千個売れるらしい。


千個。

私は、一個も食べたことがない。

お金というものを、触ったことがないからだ。


「先生は、休みの日に、ああいう焼き菓子を買ったりするのですか」

「……買いますね。娘に」

「そうですか」


いいなあ。


口には出さなかった。出さなかったけれど、自分の中でその言葉がぽこんと浮かんだのが、ちょっと意外だった。

誰かを羨ましいと思ったのは、たぶん、生まれて初めてだ。


   ◇


次の日、私は大司教グレゴリウス様のお部屋を訪ねた。


大司教様はいつも微笑んでいる。

雪みたいに白いお髭。金の糸で縁取られた法衣。部屋にはいつも、乳香の甘い煙がうっすら漂っている。


この方は、八歳の私が泣きながら神殿に連れてこられた夜、手を握って「あなたは神に選ばれたのですよ」と言ってくれた人だ。

誰よりも私を大切にしてくれる人。私は、ずっとそう思ってきた。


「おお、リシェル様。今朝もいいお顔です。民はね、聖女様の微笑みを見て安心するのですよ」


口の端を、十五度。

子どもの頃、大司教様が鏡の前で教えてくれた角度だ。今では、寝ぼけていてもこの形になる。


「大司教様。お願いがあって参りました」

「なんなりと」

「一日だけ、お休みをいただけないでしょうか。街を、歩いてみたくて」


大司教様の笑顔は、一本の皺も動かなかった。


「明日も、治療を待つ民がおりますよ」

「では、その次の日は」

「その日もおります」

「その次は」

「もちろん」

「では……私は、いつ休めるのでしょう」


大司教様は、慈しむような目で私を見た。


「聖女様なのですから」


……答えになっていない気がする。

気がするのに、どこが答えになっていないのか、うまく言えない。


大司教様は、子どもに言い聞かせるように続けた。


「街は危のうございます。聖女様のお力を狙う者も、利用しようとする者もおります。もしものことがあれば、救えるはずの命が救えなくなる。私はね、それが恐ろしいのですよ」


正しい、と思った。

正しいことを言われると、人は黙るしかない。


大司教様は棚から、分厚い革の帳面を取り出した。


「ご心配なく。聖女様が治療だけに専念なさるよう、ご予定はすべて私がお組みしております」


開かれた頁に、私の名前がびっしり並んでいた。

来月。来年。十年後。


めくる。まだある。めくる。まだある。

紙の端が、指に貼りつく。


「……大司教様。このあたりの頁は」

「神の御許に召されたあとのご予定です。聖遺物として、各地の巡礼にお出ましいただきます」


大司教様は、帳面の表紙を愛おしそうに撫でた。


「死後三百年まで、埋まっております。聖女様は、永遠に民のおそばにいらっしゃるのです」


冗談を言っている顔ではなかった。

この方は、本気で、それを私への贈り物だと思っている。


「……もし、私が、疲れてしまったら」

「神は、願う者に必ず応えてくださいます。お祈りなさい」


毎週の説法で、大司教様が必ずおっしゃる言葉だ。

――神は、願えば応えてくださる。


そして、願いを抱えた人たちが神殿の門をくぐってくると、その願いに応えるのは、私だ。


「では、私の願いには、誰が応えてくださるのでしょう」

「聖女様なのですから」


二回目だった。


部屋を出ると、廊下の窓の向こうに、門前の行列が見えた。

聖女焼きの屋台に、今日もずらりと人が並んでいる。


私の顔は、今日もよく売れている。


   ◇


その夜、髪をとかしてくれていたミアに、聞いてみた。


ミアは私と同い年で、鼻の頭にそばかすが散っている。三年前から私の身の回りの世話をしてくれていて、ヨハン先生のほかに、私がまともにおしゃべりできる、ほとんど唯一の人だ。


「ミア。あなたにも、お休みはあるの?」

「ありますよー。十日に一回」

「その日は、何をしているの?」

「お給金握りしめて、市場の屋台を端から端まで! 串焼きでしょ、揚げ芋でしょ、あと季節の果物の飴がけ――」


お給金。

その言葉自体は知っている。神官様たちがもらっているものだ。でも。


「……お給金って、自分の好きなように使っていいものなの?」

「え? そりゃ、自分で稼いだお金ですもん」


ブラシの動きが止まった。

鏡の中で、ミアがおそるおそる私の顔をのぞき込む。


「聖女様、もしかして……もらってないんですか」

「見たことがないわ」

「見たことが」

「ええ」


ミアは口を開けて、閉じて、また開けた。


「……あのっ! 今度のお休み、一緒に市場行きません? 私、おごりますから!」

「本当?」


思わず身を乗り出していた。ブラシに髪が引っかかって、いたっ、と声が出た。


でもミアは、すぐにしゅんと眉を下げた。


「あ……だめだ。聖女様とお出かけするには、大司教様の許可が要るんでした。前に一回お願いしたら、『聖女様の御身に万一のことがあってはならない』って」


それも、正しい。

大司教様の言うことは、いつも、ひとつずつ全部正しい。


でも。


ミアの休みには串焼きがあって、先生の休みには娘さんの誕生日がある。

私の帳面には、死後三百年まで、治療と巡礼しか書いていない。


ひとつずつは正しいのに、全部並べると、どこかがおかしい。

そのおかしさの名前を、私はまだ知らなかった。


   ◇


ひと月後、年に一度の〈聖女感謝祭〉がやってきた。


大聖堂前の広場に、国王陛下、貴族の方々、商人たち、医者、そして数えきれない街の人たちが集まっている。屋台の煙と、人いきれと、祭りの花の匂いが混ざって、息が詰まりそうだ。


正面には、黄金の聖女像。

去年より、ひと回り大きくなっていた。


毎年、大きくなる。

私は毎年、同じ大きさなのに。


壇上の大司教様が、両腕を広げた。


「我らが聖女リシェル様は、本年もまた、一日たりとも民への慈愛を絶やされることなく――!」


わっと拍手が起きる。


「一年三百六十五日、ただの一日も休まれず!」


もっと大きな拍手。


「これぞ聖女! これぞ神の御業!」


拍手の渦の中で、隣のヨハン先生を見上げた。

先生の手は、動いていなかった。


私は、手を挙げた。


「大司教様。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


広場が、すうっと静かになった。

式典で聖女が口を開くのは、たぶん初めてだ。


「どうぞ、聖女様」

「普通の方は、一年に何日くらい、お休みになるものなのでしょう?」


ざわ、と空気が揺れた。


「私、一度もお休みをいただいたことがないので、よく分からなくて」


意地悪で聞いたんじゃない。本当に知りたかった。

なのに最前列の貴婦人の手から、扇がぽとりと落ちた。


「……一度も?」

「十二年、って言ったよな」

「さっきの『一日も休まず』って、ものの例えじゃなかったのか……?」


ささやきが、波みたいに後ろへ広がっていく。


国王陛下が、立ち上がった。


「……余は、年に八十日ほど休んでおる」


広場が、しんとなった。


「狩りに出る。湖で釣りをする。葡萄祭りでは、少々飲みすぎる。王とて休まねば務まらぬと、当然のように思うてきた」


陛下は、そこで一度言葉を切った。


「だが、聖女が休まぬことを……余は、ただの一度も、おかしいと思わなんだ」


それから、壇上へ目を向けた。


「大司教。そなたは、年に何日休む」

「わ、私は神に仕える身ゆえ……」

「何日だ」

「……週に二日と、夏に一月ほど。南の別荘で、祈りの時を」


誰も笑わなかった。

笑えなかったんだと思う。


その沈黙の中で、恰幅のいい商人の奥様が、おろおろと口を開いた。


「で、でも聖女様には、たくさん献金が集まっておりますでしょう? お役目を終えられたら、きっとゆっくり余生を……」

「……献金?」


首を傾げた私を見て、奥様の顔から、すうっと血の色が引いた。


「ご存じ……ないんですの?」

「はい。初めて聞きました」


さっきより、ずっと冷たい静けさが落ちてきた。


「わたくし、毎年『聖女様へ』と書いて、金貨を……」

「うちの商会もだ。毎年、聖女様のお名前宛てで」

「おっかさんを治してもらったお礼に、なけなしの……」


大司教様が、穏やかに両手を上げた。


「皆様、ご安心なさい。献金はすべて、聖女様の活動を支えるために用いております。神より授かったお力で、聖女様が私財を蓄えるなど、あってはならぬことですからね」

「……じゃあ、聖女様宛ての金は、誰が受け取ってんだ?」


どこかで、誰かがつぶやいた。


「大聖堂の改修、感謝祭の運営、巡礼宿――そして、あの聖女像も」


大司教様が、黄金の像を手で示す。


広場じゅうの目が、像に向いた。

それから、私に向いた。


私の法衣の袖は、すり切れて、白い糸が何本も飛び出している。

十二年、同じ型のものを繕い繕い着てきたからだ。


「で、聖女様ご本人には?」

「聖女様なのですから」


――いつもなら、それで全部おさまった。


でも今日は、誰も頷かなかった。


大司教様は、悪びれる様子もなく続けた。


「金を持てば、俗世の者がつけ込みます。外に出れば、危険があります。友人を持てば、その者に利用されるやもしれぬ。ですから私は、衣も、食も、住まいも、身の回りのすべてを神殿でお世話してまいりました。聖女様が何ひとつ煩わされず、治療だけに専念なさるように」


ひとつずつ聞くと、やっぱり正しかった。


「聖女様は、この神殿で最も大切な宝。ですから財産目録の、筆頭に記しております」

「……財産、目録?」

「ええ。黄金の燭台よりも、上に」


大司教様は、誇らしげだった。

それが最上級の敬意だと、心の底から信じている顔だった。


ああ、と思った。

この方は本当に、私を大切にしているのだ。

燭台よりも、丁寧に。


「それ……大事にしてるんじゃなくて、持ち物扱いしてるだけじゃ……」


誰かの小さな声が、広場じゅうの胸の中を、そのまま言葉にした。


私は、一歩前に出た。


怒っていたわけじゃない。悲しいのとも、ちょっと違った。

ただ、やっと分かったのだ。ひと月前から喉の奥に刺さっていた、小骨みたいなものの正体が。


危ないから、外に出てはいけない。

つけ込まれるから、お金を持ってはいけない。

利用されるから、友人を作ってはいけない。


理由はいつも、私のためだった。

そして、決めるのはいつも、私ではなかった。


「大司教様。もうひとつ、お聞きしてもよろしいですか」

「なんなりと」

「私に何が必要かは、誰が決めるのですか」

「神殿です」

「外に出てよいかは」

「神殿の許しが要ります」

「私がいつか、誰かと家族を持ちたいと思ったら」

「聖女様に、そのような俗世の欲は――」


「私は、利益が欲しいとは申しません」


大司教様の顔が、ほっとゆるんだ。


「ええ、ええ。聖女様なら、そうおっしゃると――」

「でも、休みたいです」


大司教様の顔が、止まった。


「自分で選んだ物を、自分で買ってみたいです。友達と、街を歩いてみたいです。いつか、家族を持ちたいと思う日が来るかもしれません」


私は、広場を見渡した。

何百という顔が、こっちを見ていた。


「……それは、いけないことなのでしょうか」


誰も、答えなかった。

答えられる人は、たぶん、ここに一人もいなかった。


「あなたは、聖女なのですよ」


大司教様が、諭すように言った。


「はい。神様に選ばれました」


頷いてから、続けた。


「でも、大司教様に人生を差し上げた覚えはありません」


大司教様は何か言いかけて、すがるように陛下を振り返った。


「陛下。聖女様は神殿の目録に記された御方。神殿の外へお出しすることは――」

「大司教」


陛下は、静かに首を振った。


「この国の法に、人を財産として帳面に載せる定めはない。そなたの目録に何と書いてあろうと、聖女は最初から、誰の持ち物でもない」


それは、私を自由にしてくれる言葉ではなかった。

私がはじめから自由だったと、確かめるだけの言葉だった。


だったら、決めるのは私だ。


「では、私は神殿を出ます」


ぱち、と音がした。

ヨハン先生だった。一人きりの拍手は、広場の中でびっくりするほど小さく聞こえた。


ぱち、ぱち。商人の奥様。

ぱちぱち。人の間から背伸びしているミア。


それが、隣へ、後ろへ、ひとつずつ移っていって――気がつけば、広場の端のほうまで届いていた。


その中から、ひとつだけ、震える声が聞こえた。


「でも……聖女様がお休みの日に、うちの子が倒れたら……」


私は、その人に答えられなかった。

答えは、口ではなく、これから出すしかないと思った。


「し、しかし……神殿を離れれば、治療を待つ民が困ります」

「治療は、続けます」

「ならば――」

「いいえ」


私は、首を横に振った。


「神殿で、とは申しておりません」


大司教様の後ろで、黄金の聖女像が、ぎらぎらと陽を弾いていた。

私には、ちっとも似ていなかった。


   ◇


その夜、荷造りはすぐに終わった。


繕った法衣が二枚。祈祷書が一冊。歯の欠けた櫛が一本。

十二年分の荷物は、小さな布袋ひとつに収まってしまった。


机の上に、あの革の帳面が残っていた。

死後三百年まで埋まった、私の予定表。


持っていかないことにした。

私の予定は、これから私が書く。


   ◇


翌朝、神殿の門を出ると、ヨハン先生が石段に座って待っていた。


「おはようございます、聖女様。……先に、謝らせてください」

「先生が?」

「十二年、隣で見てたんです。一日も休まないのも、給金が出てないのも、薄々は分かってた。でも、聖女様は特別な人だから、普通とは違うんだろうって……勝手に納得してたんですよ」


先生は立ち上がって、頭を下げた。


「おかしいって言えたのは、私のはずだったのに」


私は、考えた。


「私も十二年、おかしいと思いませんでした。だから、おあいこです」

「いや、それはおあいこにしちゃいけないやつです」


先生は頭をかいて、困ったように笑った。


「代わりに、手伝わせてください。聖女様がひとりで全部背負わなくていい場所を。今度こそ」


   ◇


国王陛下が、使っていない古い離宮を貸してくださった。そこが〈施療院〉になった。


院長はヨハン先生。薬師のギルドが名乗りを上げ、若いお医者様たちが集まり、ミアは受付係になった。「私、字だけはきれいなんです!」だそうだ。本当にきれいだった。


決まりごとは、みんなで話し合って決めた。


一つ、急ぎの患者を最優先にすること。

一つ、ふつうの診察は医者が、薬で治るものは薬師が行い、聖女の力が要る患者だけを聖女が診ること。

一つ、寄付の帳簿は、誰でも見られるようにすること。貧しい人の治療費は減らすこと。

一つ、聖女には給金と、週に二日の休みを与えること。


それから、不思議なことが起きた。


私が休むようになったのに、救える人の数は、前よりずっと増えたのだ。


前の私は、手首をひねった伯爵様にも、骨を折った男の子にも、ひとりで力を使っていた。夕方になると指先が冷たくなって、最後の何人かは、ほとんど祈るような気持ちで治していた。


今は、お医者様に治せる人はお医者様が治す。薬で治る人は薬師さんが治す。

私の力は、本当に私にしか治せない人のためだけに使える。


指先が冷たくなることは、もうない。

夜はちゃんと眠っている。夢も見る。これがまた、けっこう面白い。


あの日、広場で震える声を上げた女の人の子どもは、二か月目に、ひどい熱で運ばれてきた。

その日は、私の休みの日だった。


でも、当番のお医者様がすぐに気づいて、薬師さんが熱冷ましを煎じて、それでも下がらなかったぶんだけ、次の朝に私が診た。

男の子は三日で走り回るようになった。


帰りぎわ、その人は私に何度も頭を下げて、それから、寄付箱に銅貨を一枚入れていった。


もっとも、私自身の最初の休みは、見事に失敗した。

いつもどおり夜明け前に起きて、いつもどおり治療室の椅子に座っていたら、ヨハン先生に見つかったのだ。


「今日は、休みです」

「でも、患者さんが来たら」

「別の医者が診ます」


いつかと、同じ言葉だった。


「聖女様が一日いなくても、ちゃんと回る。そういう場所を、みんなで作ったんですから」


治療室を追い出されて、昼間の寝台にもぐり込んだ。

落ち着かなかった。誰かが呼びに来る気がして、何度も扉のほうを見た。


誰も来なかった。

目を開けたら、窓の外が夕焼けだった。


一方、神殿には、人が来なくなった。


大司教様は、黄金の聖女像を「触れれば癒える奇跡の像」として売り出した。像に触れて治った人は、ひとりもいなかった。


献金は、施療院の寄付箱に届くようになった。

今度こそ「聖女様ご本人に」と、添え書きをつけて。


門前の聖女焼きは、一日千個から、一日三個になったと聞いた。


   ◇


三か月後。


施療院の門を、大司教様がくぐってきた。

あの穏やかな微笑みが、どこにもなかった。見慣れた顔から微笑みを引くと、こんなに年を取った人だったのかと、そんなことを思った。


「リシェル様。お戻りください。神殿は、あなたを必要としているのです」


待合の長椅子で、患者さんたちが一斉に振り返った。

私は薬草の籠を床に置いて、大司教様に向き直った。


「以前は、民が私を必要としている、とおっしゃいましたよね」

「……ええ。民が」


私は、自分の後ろを手で示した。


患者さんの冗談に笑いながら脈を取っている、ヨハン先生。

鼻歌まじりに薬を煎じている薬師さんたち。

順番を待ちながら、ひそひそ話に夢中の母子。

包帯を巻き終えて、手を振りながら帰っていくおじいさん。


「民の皆様なら、こちらにいらっしゃいます」


大司教様は、口を開いて、閉じた。

それから、絞り出すように言った。


「聖女様が神殿にいらっしゃらなければ……神殿は、何のためにあるのです」


十二年そばにいて、初めて聞いた気がした。この方の、本当の声を。


「それを考えるのは、大司教様のお仕事ではないでしょうか」


大司教様の手が、私の手を探すように伸びてきた。


「どうか……どうか、お力を。神殿をお救いください」


私は、その手から自分の手を引いた。


「大司教様は、いつも説法でおっしゃっていましたね。神は、願う者に必ず応えてくださる、と」


大司教様の顔から、色が抜けた。


私は、微笑んだ。

十二年、毎朝鏡の前で作ってきた、十五度の聖女の微笑みで。


「では今後は、神様に直接お願いしてください」


「……神殿なくして、聖女など――」


言いかけたところで、待合の長椅子から、さっきのおじいさんが立ち上がった。

去年の冬、胸の病で運ばれてきた人だ。


「大司教さんよ。わしを救ってくれたのは、神殿じゃねえ。この聖女様だ」


それから、ばつが悪そうに鼻をこすった。


「……まあ、わしらも、聖女様ならタダで治して当然だと思ってたクチだがな。だから今は、ちゃんと払ってる」

「そうだ」

「うちもだよ」


声が、あちこちから重なった。


大司教様は、それきり何も言わずに帰っていった。


そのあと、王家の監査が神殿に入って、大司教様は職を解かれたと聞いた。

今は神殿の片隅で、朝と晩のお祈りだけをして暮らしているらしい。


神様がその願いに応えてくださるかどうかは、私には分からない。


   ◇


そして今日は、初めて自分で何をするか決めた休日だ。


朝寝坊というものを、してみた。

目が覚めたら日がすっかり高くて、一瞬、心臓がひやっとして――それから、笑ってしまうくらい嬉しかった。


給金の入った小さな財布を握って、市場に出た。


ミアとは、来週いっしょに来る約束をしている。「今度こそ串焼きおごりますから!」と胸を張るミアに、「今度は私がおごるわ」と言ったら、ミアは泣きそうな顔で笑っていた。


だから今日は、ひとりで下見だ。


人が多い。声が多い。匂いが多い。

香草を焼く煙。果物の甘ずっぱさ。どこかの子が落とした飴の、べたついた匂い。


その中に、知っている匂いが、ひとつあった。


はちみつと、焦がしバター。


市場の隅に、小さな屋台が出ていた。

腰の曲がったおばあさんが、慣れた手つきで焼き型をひっくり返している。


「……聖女焼き、ですか?」

「おや」


おばあさんは顔を上げて、目をまんまるにした。


「ええ、ええ。神殿の前で四十年焼いてましたけどね。こっちに移ったんですよ。場所代を取られなくなったもんで、かえって楽になっちまって」


それから、私の顔と焼き型を、何度も見比べた。


「……ご本人のほうが、ずっと可愛いねえ」

「そうでしょうか」

「型はねえ、神殿のご注文で作ったもんだから。ほら、ちょいと目がきらきらしすぎてんの」


吹き出してしまった。

十五度ではない笑い方だった。


「ひとつ、いただけますか」

「まあまあ、聖女様からお代なんて――」

「いいえ」


財布の口を開ける。指が、ちょっと震えた。

銅貨を一枚つまんで、両手でおばあさんの手のひらに載せた。


「お給金をいただいたので。今日は、自分で払ってみたいんです」


おばあさんは手のひらの銅貨をしばらく眺めて、それから、しわくちゃの顔でにっと笑った。


「毎度あり」


紙に包まれた聖女焼きは、まだ温かかった。


十二年間、毎朝匂いだけ嗅いでいたそれを、ひと口かじる。

さくっ、と音がした。

はちみつが、じわっと舌の上に広がった。


見上げると、空が高かった。

神殿の窓の四角い枠から見ていた空より、ずっと、ずっと広かった。


いつもの癖で、心の中で神様に話しかける。


――神様。

今日は、お願い事はありません。


少し考えて、付け加えた。


――ただ、とても美味しいです。


(了)

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― 新着の感想 ―
AI生成の文章てわかりやすいよね
テンプレっぽさはあるけどこれがAI生成の癖だろうか? 二点言い回し気になった以外は良かった。 >「ええ、ええ。神殿の前で四十年焼いてましたけどね。 「十年焼いてたおばちゃん」ならいい話だと思う。 「四…
AI特有のしょうもない文章、〜〜だった。〜〜した。の連発。 話も神殿から出た聖女を国が放置とか疑問点多すぎ。 昔話ならよかったよかったで終わるかもねw
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