妹の代わりにお見合いを断りに行っただけなのに、御曹司から「では、あなたが僕と結婚してください」と言われました
※ちょっと長め(1万2千字)
こんな結婚があってもいい……はず
「は?」
港区にある高級ホテル。その最上階にあるラウンジで、藤崎香澄はそう呆けた声を出した。
目の前に座っている男の名は、榊原圭吾という。いくつもの会社を傘下に持つ榊原グループ創業家の一人息子。いわゆる御曹司である。
――事の発端は、数日前に藤崎家に持ち込まれた見合い話だった。
香澄の母と相手方――つまり圭吾の母親は、通っている女性向けフィットネスで顔を合わせるうちに親しくなり、帰りに立ち寄ったカフェで話をしているうちに、健康の話が家族の話になり、家族の話が子どもの話になった。その流れで相手の女性が「うちの息子になかなかいい人がいなくて」とこぼし、香澄の母も「うちにもまだ独身の娘がいるのよ」と応じたらしい。
そこで名前が挙がったのが、香澄の妹である真帆だった。
なぜそこで香澄の名前が候補に入らなかったのかと言うと、それは香澄本人が以前から自分の恋愛や結婚に口を出すなと母に釘を刺していたからである。
というのも香澄自身、34歳で独身ゆえにそれなりに婚活はしていた。でも、自分で動くのと人に急かされるのは違う。それゆえ数年前の年末年始に年をまたぎながら五日間連続で母から「あんた、良い人いないの?」「そろそろ孫の顔が見たいわ」などのお決まりのようなセリフをかけられた際、ついにプッチンして大喧嘩に発展してしまった経緯がある。
その点、真帆はなんの防御態勢も構築していなかったらしく、そのまま母親同士の話はするすると進んでいき、気づいたときには見合いの日取りまで決まっていたそうな。
だがしかし、問題はここから。
困ったことに、真帆には以前から付き合っている彼氏がいたのだ。しかも家族にもその存在を秘密にしていて、知っていたのは唯一恋愛相談を受けていた姉の香澄だけ。まあそれは別におかしくない。恋人がいるいないを、逐一家庭内で共有する必然性などないからだ。しかし今回はそれが悪い方向に働いた。
真帆としては、当然ながら今の彼氏が好きなのに見合いなんてする気はない。だからといって今ここで恋人の存在を母へ明かせば、いつから付き合っているのか、どこの人なのか、仕事は何をしているのかと、余計な詮索を受けるに決まっている。
ここだけの話、真帆の彼氏はチャラ男だ。それだけならまだしも腕にタトゥーが入っている(注:ヤクザというわけではない。あくまでファッション)。よって第一印象という観点から、両親への情報開示手順には細心の注意を払う必要があるのだ。
そこで真帆は、姉へ頼ることにした。
「お姉ちゃん、今度のお見合いの話、代わりに断ってきてくれない?」
「え、嫌に決まってるんだけど」
考えはわかる。事がこれ以上本格的に進む前に、先にこっそり相手の男性に事情を話し、お見合いをなかったことにしてもらう。そうすれば真帆は形式上「振られた側」になり、どちらかと言うと可哀想な立場へ移行することで事情説明も免除。そのままさながら完全犯罪のごとく、彼氏バレを防ぐことができる。
とはいえだ。
だからと言って、本来ならそこで香澄が登場する理由はない。真帆が自分で断れば済む話である。なぜ、いったいどうしてこの件に無関係な自分が、会ったこともない相手へ頭を下げに行かなければならないというのか。
香澄はその是非を問うた。
「だって、全然知らない人だよ? 恐い人だったらヤじゃん」
「それは私も同じなんだが?」
「えーいいじゃん。お姉ちゃん、こういうの得意でしょ?」
WHAT? こんな経験、今まで一度もないっつーの。
しかしまあ、なんだかんだ可愛い妹の頼みだ。結局、香澄は以前から行ってみたかったホテルビュッフェを一回奢らせることで、妹の頼みを引き受けた。
そうして今日、香澄は妹の代わりにこのホテルへやって来たというわけである。が、しかし。
(うおっ、イケメンだ……)
待ち合わせ場所に到着してすぐ、こちらに気づいて立ち上がった圭吾を見た瞬間に圧倒されてしまった。
仕立てのいいスーツを着こなし、姿勢も肌ツヤも香澄の普段の生活ではまず縁のないタイプの男性。一見して英才教育を受けたスペシャルな人種であると察した。
もちろん事前情報で見合い相手のステータスはもちろん知っていたとはいえ、ずいぶん大層な尻拭いに来てしまったと少しだけ浮かぶ後悔。さすが御曹司という肩書は伊達ではないらしい。
(というかお母さん、よくこんな相手と見合いを取り付けたな)
全くもって、人と人の縁とは摩訶不思議である。
が、いざ冷静になれば、やるべきことは変わらず単純だ。今日は妹の代理として来たこと、真帆には以前から交際している男性がいること、母親同士だけで話が進んでしまい申し訳ないが、今回の見合いは断らせてほしいこと。
それらの事情を香澄は順に説明すると、圭吾は途中で口を挟むこともなく最後まで聞き、
「分かりました」
と、拍子抜けするほどあっさり了承した。
(あーよかった。思ったより全然穏便に済んで)
けれども香澄がそう内心でほっと胸をなで下ろした、その直後だった。
「では、あなたが僕と結婚していただけませんか?」
一瞬、香澄の思考が停止した。
(………………………………ん?)
妹との見合いを断られた直後に、その姉へ結婚を申し込む。これが御曹司風のジョークというやつだろうか。それにしてはブラックすぎる。いや、ブラックなのかもわからない。ともかく謎だった。
そしてそれこそが、冒頭の「は?」の正体であった。
「あ、あの、それはいったいどういう……?」
困惑したまま香澄が尋ねると、圭吾はあくまで冷静なまま語り始めた。
曰く――。
なんでも彼の会社は昨年、傘下の企業で一部社員による不祥事があったらしい。そのせいで一時的に株価が下がり、グループ全体が大きな痛手を被ったという。香澄もニュースで聞いたことがあったので、言われて思い出した。
そして現在はその立て直しのため、関連業種の成長著しい別企業との事業提携を進めているとも圭吾は言った。相手企業の販路や事業基盤を借りながら失った取引を補い、失った数字を取り戻していくという算段だ。
無論、このまま何もせずとも彼の会社が崩壊することはない。何代もかけて大きく強固に育て上げられた大企業だけあって、そこまでヤワではない。……が、もしその提携がうまく機能すれば、業績回復までの道のりは年単位で加速する。傘下の様々な人々が負う苦しみを減らせる。
ゆえに、まさに社運を賭けたプロジェクトだったわけだが……。
「問題は、その相手方の会社の会長が事業提携とは別に、自分の孫娘と僕を結婚させたがっていることです」
その提案に、同じくグループの会長である圭吾の祖父は大いに反対した。
別に相手の孫娘本人に何か問題があるという話ではない。警戒しているのは、婚姻によって両家の関係まで変わることだった。
「企業同士でいるうちは、いくら手を組んでも最終的には他者であり、壁が存在します。ですが、僕と先方のお孫さんが結婚すれば、両家は親族になる。そうなるとたちまち向こうは、『身内だから』という魔法の言葉を手に入れることができます」
資本を入れる。人材を送り込む。共同事業を増やす。
そうした一つ一つは直ちに榊原グループの経営権を奪うような話ではないが、婚姻関係を足掛かりにして、少しずつ経営へ関与を深めることはできる。
それでなくとも現在の榊原家は業績を落とし、曲がりなりにも他社の協力を必要としている。その状況で、将来こちらへ踏み込むための口実まで相手へ渡したくない。それが圭吾の祖父の反対理由だった。
「無論、これはグループの総意でもあります。そうして経営の内側に入り込まれれば、それぞれの社員も今いるポストなどを奪われかねないですから」
だが、かといって現状、相手方の望みを無下に跳ね除けるわけにもいかない。断り方を間違えてもし機嫌を損ねさせれば、本来の主目的である事業提携の破談もあり得る。
さて困った。
「で、いざ向こうの提案を受けた際、祖父が咄嗟に吐いた言い訳というのが……」
――孫にはすでに将来を誓い合った女性がおり、近々結婚も予定している。
「ええ……」
「わかります。僕も話を聞かされたときは同じような反応をしましたから」
そう呆れたように言いながら、圭吾は軽く肩をすくめた。
もっとも、その言い訳の効果自体はてき面だった。相手とて外聞がある。すでに婚約者のいる男へ、自分の孫娘と結婚しろとまで公然と迫るのは非常識だ。よって、その場は収まった。
「ただ、逆にそう言ってしまった以上は、僕も結婚しないわけにはいきません。それもできれば早めに」
「別れた……ということにするのは?」
「それだと元鞘です。むしろこれ幸いとばかりに、向こうは大手を振って再び縁談を迫ってくるでしょう」
たしかにそうだ。相手は婚約者がいるから手を引いたのに、いなくなったのなら遠慮の必要がない。むしろフリーなのが確定している状態なら、もっと積極的にグイグイ来るかも。
「けど、だからって会ったばかりで……」
「ご安心ください。期限は一年だけです。それが終わったら即離婚で構いません」
「一年?」
「その期間が、わが社にとって最低限必要な猶予なのです」
圭吾曰く、それだけあればひとまず業績を立て直すことができ、少なくとも相手企業と対等に話せるところまで戻せるのだとか。
その後離婚して独身に戻り、また縁談の件を持ち出されたとしても、今度は事業提携を失うことまで恐れず、榊原側から明確に断ることができる。最悪こじれにこじれて、提携解除に至っても問題はない。
「……なるほど。事情はだいたい把握できました」
要するに、だ。
この今、対面に座る男性が求めているのは、香澄との結婚ではない。あくまでこれより向こう一年間、「この男には妻がいる」という事実なのだ。
ただ、そこまで聞いたうえで、香澄にもまだ疑問は残る。
「でも表向きだけでいいなら、なぜ私なんですか? 他の人でもいいわけですよね? 例えば社内の女性社員の誰かとか」
「それも考えました。ですが榊原グループは代々規律を重んじる社風で、余計な不和を生み出さないため社内恋愛を禁止しており、示しがつきません。もっとも、この場合は事情が事情なので社内の調整は融通がききます。けれど対外的には、そうもいきません」
たしかに。トップの孫が率先して規則を破るなど、しかもそれが別の縁談を壊すためだけなど、とてもよそに語れる内容ではない。
「じゃあ、社内ではなく社外では? 普通に女性のお知り合いとか、学生時代のお友達とか。そもそも現在正式にお付き合いしている方とかいないんですか?」
「ふっ。いたらこんな頼み事はしていませんよ。知り合いや友人に関しても、こんな話をできる女性となると、まあ……」
「?」
圭吾は一瞬口ごもりながら窓の外を眺める。が、すぐに視線を戻して続ける。
「ともかく、僕としても我が家としても社外の人物であり、且つちょっとした縁のある藤崎さんが結婚相手として非常に収まりがいいのです。両家は母親同士が仲良くなってつながったというストーリーもありますので、口裏も合わせやすい。よってボロも出にくい」
夫婦となれば馴れ初めを尋ねられる機会は往々にしてある。でも、嘘の恋愛結婚では話せる思い出など存在しない。説明しやすいサイドストーリーがあることは便利に働く。
先ほど圭吾は結婚の事実さえあれば充分と言ったものの、取り繕った結婚だと感づかれてしまえば、やはり先方との関係が悪化しかねない。
「もっとも、当初の予定と違って今となっては妹さんではなく、お姉さんのほうになってしまいましたが。ただ、その点はこの場合関係ありませんから」
そういうわけで、圭吾としては真帆が駄目なら、その姉である香澄にすぐさま切り替えたというわけだ。
「なお、僕と結婚していただくうえで、藤崎さんに何かを強いる気は一切ありません。住居は今いるこの同じ港区にある50階建てのマンション。そこに仮初とはいえ夫婦なので一室借りて同居となりますが、家事は不要、寝室も別、僕といっしょに食事などを取る必要もありません。すべて自由にお過ごしください」
「すべて自由……」
「ええ。仕事もこれまで通りで結構です。一年後には綺麗さっぱり、お互い元の生活に戻るわけですから。ああ、それと生活は別々と言いましたが、家賃を含むすべての生活費はこちらで負担しますのでその点もご安心ください」
「え……い、いいんですか?」
「もちろん、そこはこちらがお願いする立場ですので。藤崎さんからすれば、“一年限定で名字と住所が変わるだけ”……とでも考えていただければと」
(マジか……)
とんでもない話になってきた。ここへ来るまでは、妹の見合いを断って帰るだけのつもりだったのに、まさか自分が求婚されるなんて夢にも思ってなかった。
しかもその内容も極めて異常だが、条件自体は破格。実質こちらの負担ゼロで、一年間タワマンで好き放題していいと言われているようなもの。
強いて気になる点があるとすれば、己の経歴に一つ消せない“×”がついてしまうことと、あとは離婚後に会社で居づらくなってしまわないかだが。
「その際は、いくらでも僕を悪者にしてください。犯罪以外の理由であれば、愛想をつかして別れたと。それでももしどうしても窮屈な思いをするようであれば、わが社の方で転職先を斡旋させていただきます。なるべく藤崎さんの人生に傷が残らないよう、最大限のアフターケアを保証いたします」
「はぁ……ありがとうございます」
なぜか感謝を述べてしまった。まだ受けてもいないのに。
けれども、この時点でもはや答えは出ているようなものだった。
元よりバツイチかどうかなど、大して気にするタイプでもない。今の会社に未練があるわけでもない。いっそ楽にもっと良い会社に転職できるならラッキーでさえある。
なにより今日初めて会った相手ではあるが、圭吾に悪意があるようには全く見えない。純粋に、まるでビジネスの話をするかのような態度が香澄にとっては受け入れやすかった。
よって。
「それなら、まあ……」
気づけば、香澄はそう頷いていた。
◇
その後、二人は本当に結婚した。
結婚式は都内の一流ウェディング会場。圭吾は結婚にあたって何も香澄に役割を強いることはないと言っていたが、これだけはさすがに別だった。
榊原家の御曹司が結婚する以上、籍だけ入れて終わりというわけにもいかない。相手企業に対しても「圭吾はもう独身ではない」と示す必要があるためである。香澄もその点は必要な儀式として受け入れた。
ちなみにこの時点で、もちろん両家の人間にも口裏合わせ済み。藤崎家の列席者においても全員、式の招待状が送られる前に圭吾からきちんと電話等で説明を受けていたので、香澄と圭吾の結婚が一年契約であることを把握したうえで臨んでいる。それを把握していないのは、榊原家側が事情を知るべきではないと判断した一部取引先企業などの社外関係者のみ。
なお唯一、見合いの話を持ってきた香澄の母だけは相手方に騙されたような気分だったのか、はじめは少し難色を示していた。ただ、当の香澄本人が了承していることや、圭吾の母からも直接謝罪を受けたこともあり、最終的には受け入れてくれた。それどころかいざ当日になってみれば、むしろ豪華な会場と豪華な料理を素直に目いっぱい楽しんでいる様子であった。
遠目に笑顔で談笑する母を眺めつつ、香澄は思った。
(現金だなぁ……)
そんな香澄はと言うと、普段ならまず縁のない高級ドレスを着て、終始圭吾の隣で愛想よく笑い続けていた。榊原家の親戚が集まる場にも必要な範囲で妻として顔を出し、写真を求められれば夫婦らしく並び、祝いの言葉をかけられれば笑顔で礼を返した。そうした場だけを見れば、ごく普通の新婚夫婦に見えただろう。
けれども、結婚式が終わって日常生活へ戻ると、その印象は綺麗さっぱり消えた。
香澄は言われた通りそれまでの仕事を辞めず、翌週からこれまで通り会社へ出勤した。契約上、圭吾の妻になったからといって家庭へ入る必要はなく、勤務時間や休日の過ごし方まで変える必要もない。ハネムーンは行ったフリだけして一週間休日を過ごし、お土産は通販で取り寄せた。
住み始めた家でも、二人の生活は完璧に別々だった。
食事、洗濯、そのほか身の回りのことも各自で行い、相手の世話をする義務はない。冷蔵庫は同じ物がキッチンに色別で二台並び、それぞれ専用として使い分けている。ゴミさえ別々に出した。
互いの私生活には干渉せず、生活に必要な費用については、この結婚を頼んだ榊原側が負担する。
最初に提示された条件は、そっくりそのまま適用された。
それでも問題は一切起きなかった。
香澄は仕事から帰れば自分が食べたいものを好きな時間に食べ、風呂へ入り、自分の分だけ片づけて、自分の部屋で好きなように過ごした。圭吾も同じで、互いに相手へ何かをしてもらう前提がないぶん、「やってくれなかった」という不満も生まれない。
二人は互いが何時に帰ってくるのか知らず、休日にどこへ出かけているのかも把握していない。帰宅が遅くても連絡する必要はなく、今日は食事がいらないと報告する必要もない。そもそも最初から一緒に食べる約束をしていないので、相手の分まで予定へ組み込む必要がなかった。
場合によっては、数日間まったく顔を合わせないこともザラにあった。ある日、仕事から帰った香澄は、玄関に圭吾の革靴があるのを見て、「あ、そういえば私結婚してたんだ」と思い出したほどである。
やがて一か月が過ぎ、三か月が経ち、半年が経過しても、その距離はピクリとも変化しなかった。休日に二人で出かけることも、誕生日を祝い合うこともない。
もっとも、必要がなければ会話もしないが、顔を合わせれば普通に挨拶はするし、連絡事項があれば伝えた。例えばマンションの工事に関する案内だとか。
家庭内別居……とは少し違う。シェアハウスでもない。
その生活はあえて香澄的に感覚で言葉にするなら、『家に他人のいる一人暮らし』とでも言うべきものであった。
◇
そうして、ついに約束の一年が過ぎた。
その間、榊原家の会社は目論見どおり順調に立て直しが進んでいた。不祥事によって落ち込んだ業績は回復し、提携先との力関係も対等以上。少なくとも「この関係を失えば困る」というラインからは十二分に脱した。
つまり、相手会長が孫娘との縁談をもう一度持ち出したとしても、榊原側から明確に毅然と断ることができる。
こうなればもう、香澄と圭吾が偽装結婚を続ける理由はない。あとは予定通り離婚し、それぞれが元の生活に帰っていくだけ。
……そう、香澄自身も思っていた。
「契約を延長してもらえませんか」
最終日の朝。場所はリビング。この部屋に移り住んで以来、実に初めてテーブルを挟んで向かい合った二人。
そんな言葉とともに切り出してきた圭吾に、香澄は初めて会った時と同様に呆けた声を返した。
「は?」
前述のとおり、会社の問題はすでに解決している。圭吾が形式上の妻を必要とする理由はなくなった。
なのに離婚ではなく、よもやの契約更新。
「それはまた……なぜですか? もしや新しい理由でも?」
もしや例の相手企業との縁談とは別に、対外的に誰かの旦那であることを維持しなければならない事情ができたのだろうか。
香澄がそう考えて尋ねると、圭吾はやや困ったように眉をひそめた。
「いえ、決してそういうわけでは……というより、理由はもちろんあります。でも、それは恐らく藤崎さんが想像するような方向性のものではありません」
「どういう意味です?」
「そうですね。まず、何からお話すればいいのか……」
藤崎さん。圭吾は結婚してからも、変わらずそう呼び続けた。今まで香澄を下の名前で呼んだことはない。香澄もそう。少しも名字呼びを気にしなかったし、逆に圭吾さんとも呼ばなかった。
二人は徹頭徹尾、そういう関係だった。
「……僕はね、藤崎さん」
それはまるで、かろうじてギリギリ表面張力で保っていたコップの水が、ぽちゃんと落ちた一枚のコインにより、ついにダムのごとく決壊したかのように出てきたひとことだった。
「榊原圭吾として生まれてこの方、ずっと榊原圭吾なんですよ」
そりゃそうだろう。
香澄は思った。でも、すぐにそういう意味ではないとわかった。
「気を悪くしないで聞いてください。僕はこの社会で言えば、金持ちや資産家……つまり、いわゆる勝ち組の部類に入ります。誇っているわけではなく、あくまで客観的事実として」
間違っていない。一年前は不祥事でやや経営に傷を負ったとはいえ、それでもこれだけの環境をポンと用意できるほどだ。ただの金持ちどころか大金持ちだろう。香澄は聞いたことはないが、圭吾個人や榊原家の資産がどれほどかは想像がつかない。でもきっと途轍もない額なのだろう。
しかし。
「でもですね、僕自身は決して、望んでお金持ちになった覚えなんてないんですよ。なぜなら、そのお金は父や祖父、そのまた上の代の人が築いてきたものだから。祖父は会長、父は社長、僕は跡取り。僕は物心がついたときにはもう榊原を受け継ぐ男児であり、赤子の頃から様々な大人たちに囲まれ、『これで榊原グループの未来はまだまだ安泰ですね』なんて勝手に安心されて、挙句にどの学校へ進学し、習い事は何をするのか、帰宅時間はいつか、就寝は何時から何時までか、食事は何カロリーを摂取したかまで、すべてが管理されていた。皆、それを僕のためだと言いました。将来困らないように、長く会社を背負う人間にふさわしいようにと。僕が歩くべき道を総出で整備してくれたんです」
香澄は面食らった。彼女にとって、こんなに長々としゃべる圭吾を見るのは初めてだった。無論、結婚式では十分間のスピーチをそつなくこなしている姿を目撃している。でも、それは用意された原稿を記憶して読むだけ。
しかし今は違う。それは間違いなく、彼自身の本音だった。
「もちろん、それが恵まれたものだとは理解しています。それこそ今までお金に困ったことはありませんし、普通じゃ簡単に得られない教育や環境にも包まれていた」
圭吾は再び「でも」と否定する。
「それと窮屈じゃないかどうかはまた別問題でしょう。こんな生活嫌だと言えば贅沢だと言われる。継ぐ会社があるだけ恵まれている、金に困らない人生で何が不満なんだって。実際その通りだから、反論も難しい。じゃあお前は今の地位も貯蓄もすべて手放せるのかと聞かれたら、はっきり言って頷けません。だからそのうち何も言わなくなりました」
自分の悩みや違和感は、世間にはどう足掻いても悩みとして受理されない。圭吾はそう言った。
「大人になればもっと面倒でした。僕が世界をどう見てるかだけじゃない。相手が自分をどう見てるか。特に女性関連です。例えば誰かと一対一で食事すれば、会話でそれとなく貯金を聞かれたりとか。彼女らが僕を見ているのか僕の後ろにある榊原家を見ているのか分からない。最初はただの榊原圭吾として出会った人が、僕の肩書を知った途端に目の色を変えるなんて、一度や二度じゃなかったです。いくら関係を深めたところで、僕と結婚したいのか、僕の名字と資産と生活水準に入籍したいのか、こちらには判別のしようがないんですよ。結局、彼女らが欲しいのは僕じゃない。僕の後ろにある巨大な榊原家です。僕なんて、その家に最初から付属していた取っ手みたいなものですよ」
ところがその日々が、結婚した途端に激変したという。
「そりゃあ一応は夫婦ですからね。さすがに今までみたく、使用人が部屋の外に常時控えているなんてできない。女性についても、僕が結婚しているとなればノーチャンスと思ってわざわざ寄ってはこない。これだけでも笑いたくなるほど快適だったのに、新しい我が家に帰ったら、その妻まで僕に興味がない。藤崎さんは僕が三日帰らなくても連絡一つ寄越さないし、たまに顔を合わせると、僕が家にいたことを忘れていたようにハッとしたりする。けれど、僕にはそれが何より心地よかった。僕の財布にも予定にも交友関係にもタッチしようとせず、何かしてほしいとも言わない。妻という一番近い場所にいる人間が、僕から何一つ取ろうとしない。干渉しない。生まれて初めてですよ。僕の人生をここまで放っておいてくれる人に出会ったのは!」
最後のほうは一息でしゃべり切り、ハァハァと肩で息をする。
香澄はその姿を眺めながら、ようやく圭吾がこの一年をどう感じていたのかを知った。
自分にとってはただ普通に暮らしていただけだったつもりが、圭吾にとっては、その“普通”こそが生まれて初めて手に入れた静けさだったらしい。
「それで、契約の延長を?」
「そうです」
圭吾ははっきりと頷いた。
「今のこの環境がもうすぐ潰えると思ったとき、僕は急に恐ろしくなりました。はじめはこんな勝手なお願いを藤崎さんに頼むのは自分勝手だと抑え込もうとしましたが、今日という日が近づくにつれてどんどんどんどん気持ちが大きくなって……。だから、これがたとえどれだけ失礼な申し出だとしても、ダメもとで頼んでみようと決めました。藤崎さん、もちろん断ってくれて構いません。けれど、もしよければ――」
圭吾がすぅっと息を吸き、そして吐いた。
「お願いです、藤崎さん。どうか改めて僕と……結婚してください!」
………………これはまた、とんでもないプロポーズもあったものだ。
一度目も大いに驚いたが、今回はそれをさらに越えてきた。香澄はしばし、差し出されたその手を見つめた。
なるほど、圭吾の本音は理解した。要するに彼は、この一年が彼にとって心底居心地がよかったから、これから先も今の生活を変えたくない――そう言っている。
(だったら私は? 私はどう感じていた?)
香澄はここに来て、もう一度自分自身もこの一年間を振り返ってみた。
思えば香澄にも、結婚願望がなかったわけではない。25歳を過ぎてから薄っすらと婚活も始めたし、知人の紹介やアプリを通じて出会った男性と食事へ行ったこともある。悪くないなと思った人もいた。
(……けど)
話が現実的に結婚へ近づくたびに、途中から毎回うんざりしている自分がいるのも事実だった。
最初は普通に仕事や趣味の話をしていたはずなのに、何度か会ううちに、どんな料理が得意か、結婚後も仕事を続けるつもりなのか、子どもは好きか、親とは仲がいいかと、少しずつ質問の種類が変わっていく。
どれも結婚を考えるなら、珍しい質問ではないのだろう。
ただ、何度も同じことを聞かれているうちに、結婚相手を探しているというより、どこか結婚後の役割分担の確認をされているような気分になった。いや、分担と言えば聞こえはいいが、「どこまでなら俺のやりたくないことを負担してくれる?」と聞かれている感覚さえあった。
以前、ある相手から、
「両親が高齢で不安だから、将来的には同居も考えていて――」
と言われたときには、本気で無理だと思った。
なんで他でもない私の人生に、知らないお爺さんとお婆さんが組み込まれなければならないのか。
相手の両親に恨みがあるわけではない。その時点では会ったことすらない。もしかしたら良い人かもしれない。
ただ、その会ったこともない人たちが、結婚という二文字が出た瞬間に、自分の将来へ当然のように入り込んでくることが不思議でならなかった。
結婚したらもうみんな家族だから――ずいぶん便利な言葉だ。
昨日まで他人だった人が義父になり義母になり、盆と正月には顔を出し、気を遣い、年を取れば介護の話まで入ってくる。夫の妻になることなら理解できるが、どこかの家の嫁として採用された覚えはない。
子どもについてもいっしょだ。
香澄自身、子どもは嫌いじゃない。友人の子どもと会ったときは普通に可愛いと思う。ただ、二時間遊んで可愛いねと言って帰ることと、自分で産んで二十四時間三百六十五日、何年何十年も責任を持つことはまったく違う。
特に女としては、産むのは自分で、身体が変わるのも自分で、仕事を休むことになるかもしれないのも主に自分である。それなのに出会って間もない男にいきなり子どもは何人欲しいかと、コーヒーに砂糖を何杯入れるかのように尋ねられた日には、なんとなく無性にムシャクシャした。
そこまで考えて気づく。
(あ、そっか。私って結局、あんまり誰かと結婚したいわけじゃなかったんだ……)
そもそも香澄としては、一人暮らしが嫌いじゃなかった。
だって好きな時間にご飯を食べたいし、好きな時間に風呂に入りたいし、休みの日は朝から誰とも喋らずにダラダラしていたい。テレビを見てるときに話しかけられるのも嫌だし、会話しながら食事するのが面倒な日だってあるし、誰かが入ったあとの風呂が嫌な日もある。
帰ったら『おかえり』って言ってくれる人がいるのが幸せ、みたいな話もたまに聞くが、自分は疲れて帰ってきたときに玄関開けた瞬間から人間関係が始まる方がしんどい。家くらい何もしたくない。そう思うタイプだった。
でも一方で、社会はそんな価値観を否定してくる。
未婚というのは面倒くさい。未婚が悪いとかじゃなく、未婚だと「きっと面倒くさい人」という目で見られて、それが面倒くさい。
実際、圭吾と偽装結婚を始めるまでは香澄もそういう空気感を感じることはあった。被害妄想なのかもしれないが、やはり確実に世の中にはそういう風潮がある。
この年齢になると、左手の薬指に指輪がないことが否応なしに後ろめたさを生んでくる。
よって今までは、結婚しなきゃという義務感や固定観念で動いていただけ。かつての正月に母の言葉にカッとなったのも、きっとそんなやりたくもないことを押し付けられそうになったからだったのだ。
で、翻ってこの一年を思い出す。
この一年間は快適だった。表向きのために指輪をもらったので、どこへ行くにも気が楽だった。誰かの妻として扱われることが気持ちよかったわけじゃない。とにかく楽だったのだ。
しかも圭吾との夫婦生活の場合、家事も自分の分だけすればよく、食事も風呂も寝室も冷蔵庫まで別。誰かと一緒に住んでいるのに、自分の生活を一個も明け渡さなくていい。結婚したら失うものだと思っていた一人暮らしの快適さを、ほとんどそっくりそのまま残せた。
(改めて振り返ると、本当にすごい生活だったな……)
離婚して一人に戻ること自体は構わない。
ただ、その先でもしまた結婚したくなれば、もう一度婚活をして、また料理はできますかと聞かれ、また子どもは欲しいですかと聞かれ、また相手の親の老後の話を聞かされ、自分の部屋がほしいと言えば変な顔をされる。
そんなことを、わざわざ最初からやり直すのか。
目の前にはもう、自分が三日顔を見せなくても気にしない人がいる。それでいい、むしろそれがいいと言ってくれる。
こんな相手、婚活したって二度と出てこないだろう。
(……しかも御曹司だし)
まあ、今となってはその要素はオマケに近いが。最悪の場合、財布を別にされたっていい。自分の生活費くらいなら稼げる。
ともあれ、香澄にとっても今の生活を捨てるのは惜しかった。
つまりは――。
(あれ? この申し出、実は私にとっても最高なんじゃない?)
かくして、私たちは夫婦となった。
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