始まりの出会い①
姫乃はため息をつきながらモーニングティーを飲んでいた。今日は新しい学校へ行く日。自分の家庭環境を考えると、これからの学校生活は気が重い。
時計を見て、カップを置く。鏡の前で、長い髪を清潔に縛れてあるかを確認し、もう一度ため息をついて、姫乃は運転手の待つ車に向かった。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます。黒岩さん。今日もよろしくね」
「もちろんでございます。新しい学校まで、ご安全にお連れいたします」
いっそ、事故にでも巻き込まれて行けなくなればいいのにと思ったことは、顔に出さなかった。
公立の城聖高校。姫乃が元々通っていた私立の坂江星蘭女子学園とは規模も絢爛さも違う。制服もシンプルなセーラー服。ブランドの制服も派手な星形のブローチも無い。
すし詰めで停めるしかない来賓駐車場に黒岩がピッタリと車を停める。黒岩はベテランの専属ドライバーだ。でこぼこ道でも快適に座ってられるように運転するのが彼の生き甲斐。車を停めればすかさず姫乃の為にドアを開ける。とても優雅に。姫乃はそれが当たり前ではないと知っているから、毎回「ありがとう」と言う。
しかし今日の『ありがとう』は少し暗い。ここから先は姫乃1人で行かなくてはならないからだろうと、お嬢様命な黒岩は心底心配していた。
「その校門待ってぇぇぇぇ!」
姫乃の憂鬱を吹き飛ばすような大きな声が校門から聞こえてきた。驚いて姫乃がそちらに顔を向けると、ショートヘアの勇ましそうな女子が校門に滑り込むところだった。
「セーフ!」
「何がセーフだ! 毎日毎日。もう少しくらい早起きしたらどうなんだ」
「はぁいすいませぇん」
「まったく……」
このやり取りももはや挨拶のようなものらしく、城聖高校のいつもの朝という感じだ。女子は呼吸を整えながら慣れた様子で玄関に向かう。それを姫乃は羨ましいと思いながら眺めていた。自分には無い、高校生らしい生活をしているのだと思いながら見つめていたせいか、玄関に入りかけた女子が視線に気づいて姫乃を見た。慌てて姫乃は視線を逸らした。
「お嬢様、何かありましたか?」
「いいえ。なんでもないの。行ってきますね」
玄関に入りしな、姫乃が持つカバンに見慣れた星のストラップがついているのを、裸眼視力2.0を誇る木崎玲奈は見逃さなかった。
玲奈が教室に入るとクラスメイトがザワザワとしている。浮き足立っているという感じだ。玲奈に気づいた友人たちがいつもの挨拶をする。
「れいなおはよー! 今日もギリ?」
「余裕だし」
「おはよ! 今日も走ってたねぇ。この前陸上部からスカウトされてなかった?」
「まぁねん。ところで、みんなどうしたの? なんかあった?」
「それがさ、2年に転校生が来るらしいんだよ。なんか知ってる?」
「んー」
さっき見た女子がそうだろうと思ったが、同じ学年だったことに玲奈は驚いた。3年生だと思ったからだ。憂いを帯びたあの様子に、自分とは住む世界が違うとも思った。
「ほらー席に着けー」
担任が怠そうに入ってくる。スギちゃん先生と呼ばれ親しまれている担任の杉本は朝に弱く、いつも死神の鎌が首にかかっていますというような顔色をしている。死神ではなく、死神にやられそうな人。ここが重要だ。そんな様子が庇護欲をそそるのか、女子に人気な教師でもあった。
杉本はお昼休みの頃には血色のいい顔をしていることが多い。「一度病院に行ってきたら?」とスギちゃん先生親衛隊の女子たちが取り囲んで進言したが、「朝に弱いだけだ。それに病院は嫌いだ」というありがちな一言で片付けられて以来、誰も何も言わない。むしろ親衛隊が増えたとかなんとか。
杉本の後ろから、きゅっと縛った黒髪を揺らして女子が1人入ってきた。カバンにはあの星座のストラップ。彼女——筑比地姫乃は、玲奈のクラスへ転校してきた。
「今日からうちのクラスの仲間になる、筑比地姫乃のさんだ。筑比地さん、挨拶を」
「はい。筑比地姫乃です。どうぞよろしくお願いします」
どよどよとした声が盛り上がっていく。特に男子の視線は熱烈だ。名前負けしていないその可憐な見た目は、派手さが無いせいか女子からも好感触のようだ。
姫乃は杉本に促されて、玲奈の隣の席に静かに座った。まつげがとても長い。生きている人形と言われても納得してしまうと玲奈は思った。まさにお姫様だ。
「静かにー静かにー。ホームルームやるから黙れー」
ホームルームをなんとか済ませた杉本が、重そうに足を引きずって教室を出た瞬間、クラスメイトが姫乃を取り囲んだのは言うまでもない。
「筑比地さん、よろしくね!」
「姫乃ちゃんって呼んでいい?」
「前の学校では部活入ってた?」
「これ、クラスのグループチャットなんだけど招待していい?」
「筑比地って珍しい名字だよね! 前はどこに住んでたの?」
「はいストップストップー!」
玲奈は押し寄せるクラスメイトの間に割って入った。あまりの取り囲まれっぷりに困惑していた姫乃はこっそりと胸を撫で下ろす。
「ちょっと、転校生困っちゃうでしょ! それに1時間目は移動教室だし、質問タイムは休み時間にしよ!」
それもそうだと集まっていたクラスメイトがばらけて、それぞれが1時間目の準備を始めた。
「ごめんね。びっくりしたと思うけどみんないい奴だから」
「はい。ありがとうございます。えっと……」
「あ、あたし木崎玲奈!」
「木崎さん」
「玲奈でいいよ! あたしも姫乃ちゃんって呼んでいい?」
「も、もちろん! じゃあ……れ、玲奈さん。もしよければ、次の教室を教えてくれませんか?」
「え、そんなの言われなくてもそのつもりだよ! 一緒に行こう!」
こうして姫乃と玲奈は旧棟3階の理科実験室に向かい始めた。玲奈は天真爛漫、元気ハツラツという性格のようで、それでいてクラスのみんなからも慕われている。
玲奈はクラスメイトからの推薦で学級委員長をやっているそうだ。大役を任されるのも頷けるほど、玲奈には惹きつけられる何かがあった。きっとそういうところが教師にも可愛がられているのだろう。
「何笑ってるの?」
つい音に漏れてしまった含み笑いも、玲奈は見逃さない。
「いえ、さっき門のところで玲奈さんの元気な声を聞いたのを思い出して」
「あちゃーやっぱり聞かれてたか」
「私も、見られちゃいましたね」
「えーいいじゃん、車通学。うちなんて雨が降っても電車だもん」
「うち、家が結構遠くて。家の人も心配性だから。私からすると、電車に乗って通学って憧れるんですけど」
「良いことないよ、ぜんっぜん! 人は多いし、臭いし、頭おかしいおっさんは居るし」
手の指を炎のようにメラメラと動かしている様子を見ると、電車通学中に何やら嫌な思いをしたというのが伝わってくる。「ま、撃退してやったけどね」と胸を張る玲奈を、姫乃はやはり羨ましいと思いながら見ていた。
「あの時の玲奈ちゃん、かっこよかったよねぇ!」
「そうそう。入学したばっかの時! まさか跳び蹴りで逃げる痴漢を吹っ飛ばしちゃうなんて」
「木崎さんらしいと言えば木崎さんらしいよね」
「ほんと、うちの陸上部に入ってほしい」
「なぁなぁ。そんなゴリラ女より、俺らと話さね?」
「だぁれがゴリラだってぇぇぇ?」
鬼のような玲奈に追いかけられて叫ぶ男子たち。それを茶化す女子たち。姫乃が知らなかったスクールライフは、こうして幕を開けた。不安でいっぱいだった姫乃は少しだけホッと胸を撫で下ろした。




