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白バラの棘〜失敗を高らかに責められて反省したけれど侯爵の元婚約者になった彼の息子がやらかして、あの時あそこまで言われた記憶が蘇る公爵夫人はちょっとモヤモヤした〜

作者: リーシャ

 夜会での出来事を境に人生は一変した。


「公爵令嬢、フアナシア様。この度、誠に遺憾ながら、貴方様との婚約を解消させて頂きたく存じます」


 告げたのは婚約者であった、若き侯爵タランディ様。彼の瞳の中にはコチラへ向けられていた温かい光が微塵もなく、寒々しさのあるただの冷徹さだけしかない。

 公爵家の広間に響くその声は重く、心臓を深く抉った。


 隣には、父である公爵がいつになく厳しい表情で立っている。母は青ざめた顔で胸に手を当てていた。


 十八歳になったばかりの春の夜のこと。遡ること数ヶ月前、タランディ様との婚約が正式に決まり周囲からは羨望の眼差しを向けられていた。

 婚約者となったタランディ様は容姿端麗、学識も深く次期侯爵として将来を嘱望される方。


 自身もまた公爵令嬢として、淑女の教育を熱心に受けてきた自負があった。まさにお似合いの二人だと誰もが口を揃えて言う。

 その夜会で、取り返しのつかない過ちをしてしまうなんて夢にも思わず。


 友人の令嬢たちと少しお酒を飲みすぎた。そこで出会った旅の詩人と意気投合してしまったのだ。

 自由な精神と、魂を揺さぶる詩に魅了され人目もはばからず、夜遅くまで語り明かしてしまった。二人ではないけれど。


 翌日、そのことは瞬く間に社交界の噂となった。タランディ様の耳にも当然届き、タランディ様は己を呼び出し問い詰めてきた。


 もちろん、必死に弁解した。ただの友人としての交流であり邪な感情など抱いていないと。冷たい瞳は全く信じていなかったけれど。


「フアナシア、君の行動は侯爵家、ひいては公爵家の名に泥を塗るものだ」


 言葉は胸に重くのしかかり、自分の軽率な行動を深く後悔した。時すでに遅し。今夜、婚約解消の宣告である。


 頭の中には様々な感情が渦巻いていた。タランディ様への申し訳なさ、公爵家への不忠、何よりも自分自身の愚かさに対する絶望。


「フアナシア、何か言い分はあるか?」


 父の低い声が現実へと引き戻し顔を上げ、タランディ様を見つめた。表情は、相変わらず冷たい。

 唇を噛み締めた。何を言っても言い訳にしか聞こえないだろうが、自分が招いた結果だと受け入れるしかない。


「ございません。不徳の致すところでございます」


 絞り出すようにそう答えると、タランディ様は静かに頷いた。


「では、公爵閣下。これにて、フアナシア様との婚約を白紙とさせて頂きたく存じます」


 公爵は、深くため息をついた後、重々しく頷いた。


「承知した。フアナシアには、公爵令嬢としての自覚が足りなかった。侯爵閣下には、誠に申し訳なく思う」


 その瞬間、婚約は完全に終わりを告げた。立ち尽くすことしかできなかった。心臓が鉛のように重い。

 公爵家の令嬢として完璧な人生を歩むはずだったのに、愚かな行動一つで、全てが崩れ去った。


 この先、何が残されているのだろう。社交界での評判は地に落ちるだろうし、嘲笑する声がきっと聞こえてくる。それでも、生きていかなければならない。

 自分の過ちを償い、この苦い経験を糧に立ち上がらなければならないと、震える手でスカートの裾を握りしめた。


 試練を乗り越え、いつかこの日のことを笑って話せる日が来ることを信じていたかった。ただ、今は胸の奥底から込み上げてくる、熱いものが止まらない

 婚約は白紙に戻された。公爵令嬢としてあまりにも大きな代償を支払ったのだ。広間を出て自室に戻るまでの間、足取りはひどく覚束なかった。


 侍女たちが心配そうに顔を覗き込むが顔を見る余裕もない。扉が閉まり一人になった瞬間、そのまま床にへたり込んだ。

 膝を抱え顔を埋める。涙はもう枯れてしまったのか、一滴も出なかった。胸の奥がひどく締め付けられ、息をするのも苦しい。


「フアナシア様」


 控えめなノックの後、侍女頭のセシリアが部屋に入ってきた。

 彼女は幼い頃から世話をしてくれていた母のような存在。セシリアは隣にそっと座り何も言わずに背中を撫でてくれ、温かい手にようやく感情が揺り動かされた。


「セシリア。私、どうしたらいいの」


 掠れた声で呟くとこらえきれずに嗚咽が漏れた。セシリアは黙って、泣き止むまでそばにいてくれる。実の母よりよっぽど寄り添ってくれるなんて。

 どれくらいの時間が経っただろうか。漸く落ち着いた後、セシリアは温かいハーブティーを入れてくれた。


「お辛いでしょう。ですが、旦那様も奥様もフアナシア様のことを案じていらっしゃいます」


「私、私は公爵家の名に泥を塗ってしまったわっ」


「そのようなことはございません。一時的な感情の過ちです。ご両親も今回のことを深く悲しんでおられましたが、同時にフアナシア様を心配しておられました。ご自身を責めすぎないでください」


 セシリアの言葉は乾ききった心に、じんわりと温かい雫を落としてくれた。自責の念は簡単に消えるものではない。


 翌日からの生活は、一変して社交界への参加は禁止され外部との接触も厳しく制限された。公爵家の令嬢としての教育は続けられたが、それは鳥籠の中に閉じ込められた鳥のごとく。


 数日後、父である公爵が部屋を訪れた。父は婚約解消を告げられた夜とは打って変わって、穏やかな表情をしている。首を微かに傾げた。


「フアナシア。お前に罰を与えるつもりはない。今回の件で、お前が公爵令嬢として、いかに未熟であったかを自覚してほしい」


 父の言葉は胸に深く響いた。俯き、黙って頷く。


「世間は、お前を様々な目で見るだろう。それは一時的なもの。公爵家の令嬢として、毅然と振る舞いなさい。己を見つめ直し、真に淑女としてふさわしい行いを心がけなさい」


 父の言葉は厳しいながらも愛情が込められていた。期待に応えられなかった自分を恥じ、同時にまだ見捨てていない父の優しさに涙が溢れる。


「はい、お父様。必ず、今回のことを教訓とし、精進いたします」


 胸に刻み込んだ。それからはひたすら、自分自身と向き合う日々を送る。

 読書に没頭し、歴史や哲学、文学を深く学び、刺繍や絵画といった淑女の嗜みにもこれまで以上に真剣に取り組んだ。


 何よりも、自分の内面と向き合った。なぜ、あのような軽率な行動を取ってしまったのか、タランディ様への想いは、本当に愛情だったのか。

 詩人との出会いは何だったのか。自問自答を繰り返す中で、自分がいかに未熟で世間知らずであったかを痛感した。


 婚約は公爵令嬢としての務めであり、当然のことだと思っていたのだ。彼への敬意はあったが真に心を通わせ、理解し合っていたとは言えない。

 詩人との出会いは閉塞的な日常の中で、一瞬の自由と刺激を求めたエゴだった。


 時間が経つにつれて、社交界の噂も次第に沈静化していき。公爵家が静かにしていることで人々もそれ以上詮索しなくなる。


 ある日、母が部屋を訪れた。


「フアナシア。気分転換にしばらく領地の別邸で過ごしてはどうかしら」


 母の提案に驚く。


「え?」


 領地の別邸は広大な自然に囲まれた、静かな場所だ。避暑地としてしか訪れたことがなかったけれど。ちょうど良いのかもしれない


「はい、お母様。行かせていただきます」


 環境の変化が自分にとって良い機会になるだろうと感じる。

 その他へ向かうと思っていたよりも静かだ。領地の別邸での生活は新たな視点をもたらした。

 広大な森を散策し、小川のせせらぎに耳を傾ける。これまで気に留めることのなかった草花や昆虫たちの営みに目を向けた。


 領民たちの生活にも触れ、彼らの素朴な笑顔や働く姿に触れる中でいかに自分が恵まれた環境にいたのかを再認識。都会の喧騒から離れ、自然の中で過ごす時間は心をゆっくりと癒していった。


 強く、深く、自分自身を見つめ直すことができるようになると婚約白紙の出来事は、人生最大の挫折であったと見つめ直す。同時に成長させるための大きなきっかけでもあったのだ。もう二度と軽率な行動はしない。


 公爵令嬢としての責任を自覚し、自分自身の心を偽らずに生きる。

 再び、社交界に戻る日が来るかもしれない。その時は以前とは違う、新たな自分として胸を張って立つことができるだろうかと、別邸の窓から広がる緑の森を眺めながら静かに思う。



 あれから二年が過ぎた。公爵家の別邸で静かに充実した日々を送り、読書と勉学、領民との交流。それらの全てが内面的に大きく成長させてくれた。

 以前のような美しいだけの令嬢ではなく、思考し、感じ、行動する人間へと変わっていった。


 ある日、母からの手紙が届く。そこには社交界への復帰を促す内容が書かれていた。


「フアナシア、もう十分でしょう。貴方もそろそろ社交界に戻るべきよ」


 母はいつも私を案じてくれていた。まだ少しためらいがあった。あの時のことを皆がどう見ているのか、未だに少しだけ恐れている。


「セシリア、私……まだ少し怖いのです」


 いつものように隣で刺繍をしていたセシリアに、正直な気持ちを打ち明けた。


「フアナシア様は、もうあの頃のフアナシア様ではございません。心の強さは、誰にも負けないほどです」


 セシリアは優しい眼差しで私を見つめ、そっと手を握ってくれた。温かさに勇気づけられ。


「……そう、ですけれども。もう、逃げてばかりはいられませんね」


 決意を固めた数日後、公爵家の本邸へと戻った。本邸に戻って数週間後、久しぶりに夜会への招待状が届く。

 母は社交界復帰を大々的に発表するつもりなのだろう。新しいドレスに身を包み、鏡の前に立った。


 二年間の歳月は女性を大きく変える。表情には落ち着きと知性が宿り、以前のような浮ついた印象は消え失せていた。


「フアナシア様、本当に美しくなられましたわ」


 セシリアが感嘆の声を上げる。


「ありがとう、セシリア。さあ、行きましょう」


 深呼吸をして扉を開けた。夜会の会場は以前と変わらぬ華やかさに満ちている。視線は以前とは明らかに違っている。好奇心や嘲りではなく、驚きとどこか畏敬の念が混じっている。


「あら、フアナシア様!お久しぶりですね」


 昔の友人である、侯爵令嬢ソフィアが駆け寄ってきて、彼女は変わらず明るく歓迎してくれた。


「ソフィア、お久しぶりです。お変わりなくお元気そうで」


 積もる話に花を咲かせていたら会場の入り口がざわめいた。周りの視線が一斉にそちらに向かう。立っていたのはタランディ様。

 以前よりも精悍になった印象でその隣には、見慣れない令嬢が寄り添っていた。


 心が、一瞬きしむような音が。それはすぐに収まる。もう、あの頃の自分ではない。きゅっと唇を引き上げる。

 タランディ様が気づいた。瞳が僅かに見開かれるとゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。


「フアナシア、その、久しぶりだな」


 タランディ様の声は以前よりも低く、落ち着いたもの。


「タランディ様、お久しぶりでございます」


 平静を装い、深々と頭を下げた。


「貴方が社交界に戻られるとは、驚いた」


 タランディ様は隣の令嬢に視線を送り、再び目を向けた。


「この二年、様々なことを学びましたので。これもタランディ様が与えてくださった、良い機会であったと感謝しております」


 言葉にタランディ様は少しだけ眉をひそめ、隣の令嬢が親しげにタランディ様の腕をそっと掴む。


「タランディ様、ご紹介くださいませんか?」


 令嬢がやや警戒したような視線を向けながら言った。


「ああ、失礼した。こちらは婚約者である、伯爵令嬢セリーナだ」


 タランディ様が紹介したセリーナ様は、整った顔立ちの可憐な雰囲気の令嬢。


「初めまして、フアナシア公爵令嬢様。セリーナと申します」


 セリーナ様はやや緊張した面持ちで挨拶。


「初めまして、セリーナ伯爵令嬢。フアナシアと申します。タランディ様とお幸せに」


 微笑み、心からの祝福を述べた。セリーナ様は驚いたような顔をした。警戒心が少しだけ緩んだように見える。

 まぁ、警戒する気持ちはわからなくもない。


「ありがとう、フアナシア」


 タランディ様も変化に驚いているようだった。顔には、以前のような冷たい表情ではなくどこか穏やかなものが浮かんでいる。

 短い会話を交わした後、それぞれの場所へと戻っていく。タランディ様とセリーナ様の後ろ姿を見つめながらも、心の中に一点の曇りもなかったと安堵。


 失った悲しみも後悔も、今はもうない。幸福を願う気持ちだけがそこに。


「フアナシア様、大丈夫でございますか?」


 侍女のセシリアが心配そうに尋ねた。


「ええ、セシリア。ふふ。もう大丈夫よ」


 にっこりと微笑んだ。


 夜会は滞りなく過ぎていき多くの人と会話を交わし、こちらの変化に驚きと称賛の言葉をかけてくれた。

 中には婚約解消の件に触れる者もいたが、毅然とした態度で自分の過ちを認め、それを乗り越えたことを話す。

 夜会が終わり、自室に戻り深く息を吐いた。


「やり遂げました、セシリア」


「はい、フアナシア様。貴方は本当に強くなりました」


 セシリアの言葉に心から安堵した。二年前のあの日、全てを失ったと思ったがそれは間違いで。挫折からもっと大切なものを手に入れたのだ。

 それは、揺るぎない心の強さと、自分を見つめ直す機会。終わりではなく、ここからが本当の始まり。


 過去の過ちを忘れず、囚われずに新たな人生を歩んでいくために、公爵令嬢として、一人の人間としてもっと成長できるはず。窓を開け、夜空を見上げた。

 満月が優しく照らし夜のように冷たい闇に包まれることはない。穏やかで希望に満ちていた。人生はあの夜会での復帰以来、穏やかな幸福に包まれている。


 数年後、隣国の有力な公爵家の子息、グノランジス様と縁を結び結婚した。

 グノランジス様は過去を全て知った上で、それでも深く理解し愛してくれるし、彼の温かさと包容力に心から安らぎを感じる。


 幸いにも二人の子供に恵まれた。活発な長男のエドワードと、聡明な長女のユミリス。

 彼らの成長を見守る日々は何物にも代えがたい喜び。


 エドワードが名門学園に入学して数年経ったある日のこと。学園から緊急の呼び出しが。

 胸騒ぎを覚えながら学園に向かうと、学園長室で深刻な面持ちの学園長が保護者達を待っていた。


「グノランジス様、フアナシア様。本日は、エドワード君のことではなく。大変心苦しいご報告がございます」


 学園長の言葉に戸惑った。エドワードが何かしたわけではないのか。


 どうやら保護者達を個室に案内して、一組み組ずつ説明し回っているらしい。心なしか、相手の目の下に濃い隈があるような気が。


「実は、最近学園内で一部の生徒によるいじめが横行しておりまして。その首謀者の一人に、タランディ侯爵のご子息、リアム君が関わっていることが判明いたしました」


 学園長は申し訳なさそうに言った。


 リアムはタランディ様とセリーナ様の子息で、彼らには男の子しかいなかったはずだからリアムが唯一の長男だろう。

 一瞬にして、二年前のあの夜会の記憶を鮮明に思い出した。まさか、タランディ様のご子息が陰湿な真似を?


 学園長の説明は続いた。リアム君は数人の取り巻きと共に学園の規則を無視した行為を繰り返し、特に弱い立場の生徒に対して陰湿ないじめを行っているということだ。

 今回、それが露見したことでリアム君には停学処分が下されることになった、と説明があった。


 学園長室を出た後、廊下で停学処分を言い渡されて憤慨しているリアム君の姿を偶然見かけ、彼の取り巻きは既に散り散りになっており、彼は一人、廊下の隅で壁を蹴っていた。


 顔は、タランディ様と瓜二つ。顔だけ。表情には幼いながらも傲慢さと、いら立ちが浮かんでいた。

 息を潜めてその場をやり過ごそうとしたし、関わるべきではないと目を伏せる。その時、リアム君が携帯している懐中時計が目に入ったのだが、それはタランディ様が身に着けていたものとよく似ていた。


 リアム君が乱暴に壁を蹴った拍子に懐中時計の鎖が切れ、それが廊下を滑って足元に転がってくる。

 リアム君はそのことに気づいていない状態で、憤りを露わにしながらそのまま廊下の角を曲がって見えなくなった。


 転がってきた懐中時計を拾い上げる。精巧な細工が施された、美しい懐中時計。

 タランディ様のものと、確かに同じもので懐中時計の裏には小さなイニシャルが刻まれていた。

 タランディ様のイニシャルと、セリーナ様のイニシャル、リアム君のイニシャルが並んで刻まれている。


 彼らの家族の絆を示すものなのだろうと、懐中時計をそっと握りしめた。

 脳裏にあの日の苦い記憶が蘇り、婚約解消、公爵家への泥、社交界での屈辱。あの時、心から後悔し自分を責めたし、その経験が強くした。


 だが、それとは別として心の中にこれまで抑え込んできたある感情が芽生えるのを感じる。復讐心。

 タランディ様には正当な理由があったとしても、公衆の面前で婚約解消を突きつけた。


 計り知れない屈辱で、今、その息子が学園で同じような傲慢さを振りまいている。人のことを言えないような息子を育てた男が己を批判し、社交界に不実さだと振り撒いたのだ。懐中時計を手に立ち止まる。


「フアナシア?」


 グノランジス様が心配そうに顔を覗き込む。


「ええ、少し考え事を。さあ、帰りましょう」


 何事もなかったかのように微笑み、懐中時計をそっとポケットにしまった。どうやら、時計のことを見てなかったらしい。


 その夜、夫にもセシリアにも誰にも告げずに計画を立て始めた。リアム君の行動を放置してはならない。

 彼はあの時のタランディ様と瓜二つ。傲慢さを放っておけばいつか彼も、タランディ様のように誰かに深い傷を与えるだろう。


 もちろん、公爵家の令夫人として表立って動くことはできないからこそ、水面下でひっそりと復讐の準備を進めていく。

 手始めに、学園内のいじめの被害者に関する情報を密かに集め始めた。彼らがリアム君から受けた仕打ちを、詳細に記録。


 いずれ、追い詰めるための確固たる証拠となるだろう。次に周りの生徒たち、特に彼の取り巻きだった者たちに目をつけた。彼らは停学で動揺しているはず。


 彼らに匿名で手紙を送り、悪事を密告するよう誘導。もちろん、関与が一切わからないように細心の注意を払う。最も重要なことはタランディ侯爵家に影響を与えること。


 過去に培った社交界での人脈を密かに使い始め、直接的なものではなく噂という形で行動。


「タランディ侯爵のご子息が、学園で問題を起こしているらしいわね」


「やはり、血は争えないのかしら」


 具体的な証拠はないがじわじわとタランディ侯爵家の評判を落とすような噂を、意図的に流し始めた。関与が知れぬように慎重に。


 数週間後、学園ではリアム君に関する新たな情報が次々と明るみに出た。彼の隠されていた悪事が露見し、その停学はさらに延長されることに。

 これまで以上に孤立し、学園内での立場は完全に失われた。


 さらに、社交界でもタランディ侯爵家の評判は急速に下降し、直接的な被害は出ていないものの息子が学園で問題児であるという噂は、彼らの名誉を大きく傷つける。

 噂では無いところがもう再起の目はない。

 午後、自宅の庭で満開のバラを眺めて、そこにグノランジス様が心配そうな顔で近づいてきた。


「フアナシア。最近、タランディ侯爵家の評判が芳しくないようだ。何かあったのかい?なにか、知っているかい?」


  薄々、なにかを感じ取っているようだった。


「そうですの?全く存じません。でも、悪行はいつか白日の下に晒されるもの。因果応報……ということなのでしょう」


 涼しい顔で答える。グノランジス様は言葉に何も言わず静かに見つめていた。視線は心の奥底を見透かしているかのようだったが、何も咎めることはしない。


 ポケットに隠し持っていた懐中時計をそっと取り出す。落としていったものだ。それをじっと見つめた。

 復讐は、表面上は何事もなかったかのように進行し、裏では冷たい計算と過去の屈辱が燃え盛っていた。


 タランディ侯爵家は今、静かに。あの日味わった屈辱を別の形で味わっていることだろう。懐中時計を静かにテーブルに置いた。


「これで、おあいこ、というわけではないでしょうけれど」


 あの日の、傷つけた皆に向けてつぶやいた。心には、復讐を成し遂げたことによる完全な満足感はないが、過去の清算が一つ終わったという淡々とした事実だけが残っている。

 子供たちが苦しみを味わうことのないようにと誓った。これからも、家族を守るためにどんな手段も厭わないだろう。


 報復から数年が経った。タランディ侯爵家の評判は地に落ち、子息は学園を退学せざるを得なくなったと聞く。

 その後、彼は地方の学園に転校したが結局は馴染めず、表舞台から姿を消したと噂されていた。


 何もせず静かにその推移を見守って、公爵夫人の立場を弁え。決して表立って関わることはなかったが、心には確かに一つの区切りがついたという感覚が。本当に望んでいたのは、復讐による心の充足だけではなかった。


 過去の清算であり、自身の内面の平和を取り戻すための儀式のようなものだったのかもしれない。

 愛する子供たちを守ること。それが、最大の願い。

 長男のエドワードはすっかり立派な青年へと成長し、学園での生活も順調そのものだった。


 聡明な、長女のユミリスも淑女としての教養を深めながら知的な輝きを増して、家族は公爵家としてこの国の社交界で確固たる地位を築き、穏やかな幸福を享受している。


 春、ユミリスが十六歳になり、初めての社交界デビューを控えていた。準備に追われる日々は若かりし頃を思い出させ、どこか懐かしささえ覚える。


「お母様、このドレスで本当に大丈夫でしょうか?少し地味すぎるのではないかしら」


 ユミリスが試着室から不安そうな声で尋ねる。彼女は己の若い時と違い、控えめで繊細な性格。


「大丈夫、ユミリス。貴方の内面から溢れる美しさはどんな豪華なドレスにも負けないわ。貴方にはこの純白のドレスがよく似合う」


 肩にそっと手を置き、微笑んだ。ユミリスは言葉に少しだけ安心したように見えた。

 社交界デビューの夜、会場で最も輝く存在で彼女の慎ましやかな美しさと、知的な会話は多くの貴族たちの注目を集める。


 グノランジス様もエドワードも、ユミリスの晴れ姿を誇らしげに見つめていて、心は満たされた幸福感で溢れていた。夜会の終盤、思わぬ再会が。


 会場の隅で見慣れた横顔を見つけたと思えば、タランディ様が。隣にはセリーナ様が寄り添っているが彼らの表情は、以前のような華やかさはなくどこか影が差しているように見えた。


 リアム君の一件以来、タランディ侯爵家の勢いは明らかに衰退していた。心労が溜まっているのだろう。

 特に、彼らと顔を合わせるつもりはなかった。

 ユミリスが隣でとある青年と談笑しているのが目に入り、青年はタランディ侯爵家の遠縁の者ではないかと、驚く。


 ユミリスはタランディ様と婚約していたことを知らずに親しく話している。


「ユミリス、少しこちらへ」


 ユミリスをそっと自分の元へ呼び寄せれば、ユミリスは不審そうな顔で見たが素直に隣に立つ。

 タランディ様が気づき、視線が向けられる。隣に立つユミリスを見て、瞳に微かな驚きが浮かんだ。


 それは、親に似た容姿だったからだろうか。タランディ様はセリーナ様を伴い、歩み寄ってきた。


「公爵夫人、お久しぶりでございます」


 タランディ様は元婚約者への敬意を示すように、丁寧に頭を下げた。声には以前のような傲慢さは微塵もなく、疲労の色が滲んでいる。


「侯爵様、セリーナ様。お変わりなく」


 公爵夫人としての礼儀をもって応じていたら、娘のユミリスは好奇心に満ちた目で見ている。


「こちらは。娘、ユミリスでございます」


 紹介したくないが、仕方なく彼らに紹介した。見られたくない。因縁のある相手に見られたら、汚れてしまう気がする。


「初めまして、ユミリス様。セリーナでございます。貴女様はお母様によく似ていらっしゃるわね」


 セリーナ様はやや憔悴した顔で微笑んだ。彼女の言葉に、ユミリスは少しだけ戸惑ったような顔をしたのはユミリスが、タランディ様との間に何があったのかを知らないのだから当然。


 タランディ様はユミリスをじっと見つめ、視線には思い出すような、複雑な感情が混じっているように見えた。


「誠に、素晴らしいお嬢様だ。公爵夫人の美貌と知性をそのまま受け継がれたようだ」


 タランディ様は静かに告げる。皮肉も、敵意もなかった。純粋な称賛の響きのみ。静かに微笑んだ。

 その瞬間、心の中で何かが完全に浄化されたように感じる。

 過去の復讐心はもうそこにはなく、二人の子供たちの幸福だけが心を占めていた。


 夜会が終わり馬車で帰路につく途中、ユミリスが尋ねた。


「お母様、タランディ侯爵様はお母様の昔のご友人なのですか?」


 ユミリスの純粋な問いかけに一瞬、言葉を詰まらせた。


「ええ。昔、少しだけね。でも、今はただの知り合いよ。友人ではないのよ」


 曖昧に答えて笑う。ユミリスにはまだ、知る必要のない過去。窓の外を流れる景色を眺める。

 満月が白銀の光を降り注いでいると人生は、白薔薇のようだわと目を閉じる。

 棘に覆われ、自らも傷つき周囲を傷つけ今は、棘は優しく丸みを帯び美しい花を咲かせていた。


 婚約白紙の出来事は確かに大きな試練だったが、棘の痛みがあったからこそ本当の強さを見つけることができたのだ。

 強さがあったからこそ、今の幸福を手に入れることができた。

 ユミリスの寝顔を見つめながら心の中で静かに誓う。子供たちには苦しみを味わせないと。


 それぞれの人生を自分らしく、自由に幸福に生きられるように。公爵夫人として、母として最善を尽くすだろうし、白薔薇の棘は守る盾となって、花は家族の幸福のためにこれからも美しく咲き続けるだろう。

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― 新着の感想 ―
己を省みる機会として研鑽を積みながらも傷心にも向き合って過去を清算した夫人の生き様は誇りに足るものですわね。 まさか2代に亘る物語を紡いで頂けるなんて贅沢な時間でしたわ。
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