はじまりのつづき、つづきのはじまり
《ある医師のカルテより》
それははじまりのつづき、つづきのはじまり。
目を開き、立ち向かうことばかりが正しいとは限りません。目を閉ざし、現実から逃れることが必要な時もあるのです。
さらさらと風が鳴るのを聞きながらヒトツメはじっと天を見つめていた。黒曜石のように美しい天はよく澄んでいて、うっかりすれば星が落ちてきそうだ。
ふと、辺りの様子が変わったことにヒトツメは気がついた。視線を下げる。黒いブーツが踏みしめるのは青々とした草原だ。目玉の頭を上げて辺りを見回せば、少し離れた所から座ってこちらを見る患者の姿を見つけた。ヒトツメは少し驚いて虹彩を一瞬、琥珀に染める。けれども、すぐにいつもの翡翠に戻して患者に優しく微笑みかけると、そっと静かに歩み寄った。
ここは彼の地。どこよりも遠く、どこよりも近い場所。
天に広がるは紺の帳。帳を飾るは金糸銀糸の星の子たち。地に広がるのは形のないもの。風が揺れるたびに姿を変え、形を変え、岩に、木々に、草花に、砂に、波に、風景を変える。
今、一帯は草の海になっていた。草を鳴らしてヒトツメは患者の傍に立った。ヒトツメは医師だ。とは言っても病気を治したり怪我を治したりするわけではないから本当の意味での医師とは異なる。それ以外に良い言葉が見当たらないから医師と呼ばれているに過ぎない。
目玉の頭を持つからヒトツメ。本当は別の名前があるけれど、皆がそう呼ぶからヒトツメもそれを受け入れていた。目玉の頭に兵隊さんが被るような台形の黒い帽子をちょこんと乗せて。深い緑色をした外套に薄茶色の肩掛け鞄、それから黒いブーツ。それがヒトツメのお決まりの格好だ。
「はじめまして。見かけない、かおですね。いましがたいらっしゃったとお見受けします」
微笑んで、優しく患者に声をかける。患者の頭が風にゆらりと揺らめいた。こちらも患者と呼ばれているだけで、本質的には患者ではない。医師と呼ばれる存在がいるから相対的にそう呼ばれているに過ぎない。彼らは皆、同じ姿だ。黒いコートに黒いズボン、黒いブーツと黒づくし。頭はなくて、代わりに切れた首から必ず気体が漂っていた。具合が悪くなればなるほど色は黒く変化していく。状態によってキリ、カスミ、クモ、ケムリと4つの呼ばれ方をされていて、キリが1番軽症の、ケムリが最も危険な状態の患者のことをさした。
ヒトツメの目の前で座り込んでいるのは、どうやらクモのようだった。浮かぶ気体は一見すると白い雲だ。真夏の空に浮くような、綺麗で穏やかな入道雲のようだった。クモの中でも状態の良い患者なのかもしれない。
とはいっても、こちらに来たからには何かしらあるのだろうと考えて、ヒトツメは患者にそっと手を差しだした。患者は素直にその手を取る。そのまま立ち上がらせて、ヒトツメは再び口を開いた。
「改めまして、はじめまして。私はヒトツメ。皆がそう呼んでおりますからそうお呼びください」
「ヒトツメさん」
患者の言葉に「ええ」と頷いて、ヒトツメはそっと問いかけた。
「あなたは、どうしてこちらに?」
ヒトツメの問いかけに患者はこてんと小首を傾げた。なにやら考え込むようなそぶりを見せている。
どうやら、わからないらしい。
患者の様子をじっと見つめていたヒトツメはそのうち静かに呟く。
「思い出せないのであれば仕方ありません」
それからふっと安心したように微笑んだ。
「でも、その程度でよかった」
患者が不思議そうに首を傾げる。ヒトツメはすぐに気がついて、気にしないでください、と言った。
「少し、散歩しませんか?」
柔らかな声で誘い掛けてヒトツメは天を見上げる。
「今日は天気がいい。鼠色の雲は中々見つからないでしょうから」
言ってヒトツメは歩き出す。患者が後をついてくる。
風がさわさわと草を鳴らした。星の子たちは黒い帳の上で瞬いて手の上に落ちてきそうだ。とても穏やかな風景なのに、なんとなく恐ろしく思えてしまうのはなぜだろう。
ふと自分を追いかける足音が聞こえなくなったのを感じてヒトツメは足を止めた。振り返る。患者が天に向かって手を伸ばしているのが見えた。
流れ星は、落ちてこない。
ヒトツメの視線に気が付いたのか、患者がハッとこちらを見た。ヒトツメは優しく笑う。
「ここの空は綺麗でしょう?」
患者がこくりと頷いた。ヒトツメも天を仰ぐ。患者が見ている空と自分が見ている天はきっと違うものだ。まったく同じものを見ることなどできない。けれど、患者がこの天を綺麗だというのなら。
「少し、雲が出てきましたね」
自分にしか聞こえないような声で呟いて、ヒトツメは患者を見た。白い雲はますます育って大きな入道雲のようになっている。寄って集まった雲の下、雨が降るのはきっと時間の問題だ。微かに白い光が入道雲の下で瞬いた気がした。
ふと患者がなにかを追うように歩き出した。少しの間、立ち止まったままそれを見つめて、ヒトツメはそっと後を追う。ゆらりゆらり、雲が動く。冷たい風が草を揺らす。
後を追いながら、ヒトツメは考える。このひとはなにを願っているのだろう。なにに手を伸ばそうとしたのだろう。考えたって、正解はない。正解を知っているのは患者本人だけだ。だからこの考えはヒトツメだけの考えだ。患者に対して問いかけないし、望まれなければ話さない。
「とはいっても、このままというわけにもいきませんし」
ふむ、とヒトツメが息を吐き出したとき、ひときわ強い風が吹きつけてきた。思わず立ち止まって、ヒトツメは瞼を閉じる。次に目を開いた時、辺りの様子は一変していた。
天を覆うのは鼠色の雲。あんなに瞬いていた星の輝きは分厚い雲の向こう側に隠れてしまっている。びゅうびゅうと吹き荒れる風は驚くほどに冷たくて、心まで凍りついてしまいそうだ。
「なんと。こんな急に天気が変わるなんて」
そこまで呟いてヒトツメは患者に視線をやった。患者は足を止めている。大きく育った入道雲は、上は白いが、下の部分は暗い灰色だ。ぐるぐると渦巻いて、時折、ピカピカ光っている。
「嵐に、なってしまいました」
呟いて、ヒトツメは患者に近寄った。回り込んで正面から向かい合う。雲に触れようと手を伸ばせば、ピカリと光った稲妻が鞭のように手を打った。
「……ごめんなさい、前言撤回です」
手をさすりながらヒトツメは目を細める。
「この程度で、なんて。ありえませんよね。あなたの苦しみは、あなたにしかわからない」
それからヒトツメは片膝をついてしゃがみ込んだ。下から見上げて、そっと手を伸ばす。
「みせてください。あなたの苦しみ。あなたの悲しみ。あなたの怒り。そうして教えてください。私になにができますか?」
患者が頭を動かした。ヒトツメに雨が降ってくる。ざあざあ、ざあざあ、入道雲から降る雨が、ヒトツメのことを濡らしていく。
「くるしいの」
ぽつりと零れた言葉を拾って、ヒトツメは問い返す。
「なにが、くるしいのですか?」
「みえてしまうのが」
「なにが、みえるのですか?」
患者が黙り込む。雨に交ざってぱらぱらと霰のようなものが降ってきた。それでもヒトツメは動かない。患者をじっと見つめている。
「誰かからの評価」
患者が答えて、パキリとなにかがひび割れる音がした。
「良い評価も」
パキリ。
「悪い評価も」
パキリ。
「見たくない。見せないで。苦しい。嫌。知りたくない!」
悲痛な声は、まるでさいごの叫びのよう。綺麗な入道雲だったものは、もうすっかり重く暗く分厚い雨雲に変わり果ててしまっている。雨は固い雹となって患者自身をバシバシと激しく叩いた。
ヒトツメは黙って立ち上がった。患者の肩に残る雹をそっと払い落とす。
「痛いでしょうに。自分に向けなくてもいいんですよ」
呟くように言って、ヒトツメは肩掛けカバンに手を伸ばした。取り出したのは持ち手のついた小さな木箱だ。ヒトツメが箱を置く動作をすれば、それは宙にぴたりと止まって浮いていた。止め金具を外して箱を開ける。中には枠だけの眼鏡と無数のレンズがずらりと並んでいた。
目医者さんがするようにヒトツメは患者に枠だけの眼鏡をかけた。何個かレンズを取っては吟味して、かちゃりかちゃりと嵌めていく。
「評価って飾りみたいなものだと私は思うんです」
作業を進めながら呟くようにヒトツメは言う。患者は答えない。じっと動きを止めたまま、やられるがままになっている。
「でも周りはそればかり見て、当の本人のことはこれっぽちもみやしない。――さぁ、こんなものでしょう」
ヒトツメが1歩下がった。それから片手を自分の胸に置き、片手を患者の眼鏡にかざして、そっと瞼を閉じる。
「目を閉ざせ。気づかぬように、傷つかぬように。見なくたって、いいんです」
囁くような言葉と共に眼鏡はふわりと光る。雲の合間に紛れるように静かに消えた。
ヒトツメは瞼を開く。それからそっと優しく笑った。
「逃げなさい。それは悪ではありません。生きるために必要なことです。逃げてはならない道理など、決して無い」
強い風が吹いてきた。けれどそれは先程のような心まで凍らす冷たい風とは違う風。ひときわ強い風に吹かれて、ヒトツメは瞼を閉ざす。次に瞼を開いたとき、目の前にいたはずの患者の姿は消えていた。辺りの様子もいつもどおり。黒く美しい天を星々が飾り、風景は刻一刻と変化していく。
ヒトツメは1度目をぱちくりさせて、それからなんでもなかったかのようにレンズを入れていた木箱をぱたりと閉じた。箱をカバンの中にしまい込み、天に目を向ける。そうして誰に言うとでもなく呟いた。
「……お気をつけて。苦しくなったら、また来てください」