2話 お腹が空きました
意識が段々と浮上してくる。生きている証だと、心の片隅で喜びながら、ナニカは目を開いた。
「感触がある………。シーツの感触がある。枕の柔らかさを感じます。なにより熱き血潮を全身で感じとれます」
覚醒したナニカは、愛しげにゴワゴワする硬めのシーツを触り、笑みが零れ落ちる。ルビー色の瞳に涙が浮かび、ツツッと頬を流れ落ち、感動が呼び起こされる。
感動すらも久しぶりだった。何かを感じることはもはや記憶の彼方にしか存在していない。ほとんど無感情でこれまで過ごしてきたのだから。
自分が生きている証だ。苦労した甲斐があった。長年の間、霊気を少しずつ少しずつ溜めていて良かった。
まさか人間として復活できるとは夢にも思わなかった。
「あの愚かな四人には感謝しかないですね。哀れですので、もしも再会できたら、少しは恩を返しても良いかもしれません。まぁ、恩というほどではありませんけどね」
転がる鈴のような可愛らしい耳あたりの良い声が自分から発せられることにクスリと微笑む。どうやら、私は少女へと憑依したようだ。もはや前の自分が男か女かも覚えていないが、とりあえずは少女らしい行動を努めようと決意する。
「でもこの身体……『受肉蘇生』では赤ん坊のようになるのですか。油断しました。それはそうですよね、工場なら初期出荷状態、設定をしなければヨチヨチ歩きも難しいのは当たり前」
仕事などしたこともないだろう綺麗な白い肌の手のひらを見ながら眉根を寄せる。身体の感覚から11歳程度だろうか。だが、見た目と違い中身はほとんど生気も霊気もない赤ん坊レベルのひ弱さだ。
まるで重石を背負ったかのように身体は重く、上手く動かすことができない。筋肉も何もかも赤ん坊の初期状態。寝返りをうつのも大変そうだ。
倒れたのも納得である。よく化け物たちに喰われなかったものだ。誰かが助けてくれたのだろう。しっかりと恩を返さないといけないですねと、ぺちゃんこの煎餅みたいな枕に頭を押しつける。
「とはいえ、今は現状を確認しないといけません。どうやら異世界のようですし」
まずは周りを見渡すかと、顔を動かす。天蓋付きのベッドに寝かされており、部屋は上品な内装だ。どうやら自分は金持ちに生まれたようだと予想をつける。
磨かれていないのだろう曇った光沢の銀製燭台がテーブルに置かれていて、電気はなさそうだと推察する。家具は元々は良いものなのだろう。古いというより、アンティークといった意匠の凝った趣きのあるチェストやテーブル、椅子がある。埃がそこかしこに積もっているが。
窓ガラスへと視線を向けると、透明度の高い窓ガラスだ。ただし、丸く拭いて角は放置しているらしく、見事に隅っこが曇っている。拭かれた部分も適当で、拭いた跡がナメクジが這ったかのようだ。
部屋自体も鼻を引くつかせれば、どこか埃っぽい。着ている服は薄い布を織られた寝間着で、これもまた品が良さそう。なるほど、これだけでこの少女の立場がある程度は推察できる。
ナニカは状況把握が得意であった。いや、把握能力が高くなければ、ナニカは存在してはいないだろう。
どうやらお金持ちの少女らしい。
意識を切り替えて、生命ある者へと変える。ナニカは自我をはっきりと持ち、私として意識を持つ。
お金持ちの少女に生まれた方が人生楽である。憑依した私も亡くなった少女の代わりにのんべんだらりと面白おかしく人生を楽しめるというものだ。
だが、この状況はいただけない。優遇はされているが、手抜きの掃除に倒れた少女を看病するには相応しくない埃っぽい部屋。そして、誰も側にはいない。
金持ちの少女ではあるが、なにか冷遇をされる理由もあるのだろう。それをなんとかしないと、これからの人生設計が難しそうだ。
そこまで考えて、クゥとお腹が可愛らしく小さく鳴る。
「お腹が空きました。どうすれば良いのでしょう」
声をあげれば、誰かは来るかもしれないが、この少女の口調は知らないし、なにより言葉が通じない。異世界言語読解力などは無いのである。一から学ぶ必要があるだろう。
自分でベッドから起き上がるのも難しい。少女の体重を赤ん坊の筋肉で支えることは不可能。霊気を使おうにも空っぽになってしまって、稼ぐ方法から考えないと───。
「そういえば、もう生命ある身体になっていたんでした」
なんとか動かせる手を見ながら、あることを思い出す。人間の中でもドン引きする過酷な修行を積んでいた変わり者たちが使っていた能力。
「たしか生気を使うんでしたね。えーっと、使い方は霊気とさほど変わりはなかったかな」
自分の肉体は生命力に溢れており、こんこんと湧き水のように生気と霊気が生まれていることに気づく。これこそが生命を持つ者の特徴だ。生み出せない奪うことしかできなかった前とは違う。
どうやるんだっけと思い返しながら、手探りで力を使おうと試す。
生気。万物全ての命ある者が持つ力。たった一滴でも命無き者には持てぬ輝く太陽のようなエネルギー。
己の体内に巡る生気を形として、エネルギーへと変換し、身体へと再び巡らせる。細胞の一つ一つにエネルギーが入り込み、真綿が強力なゴムへと変わるかのように細胞が強化されていく。
『第一命術:熱』
体内がポカポカと温かくなり、活力が湧いてくる。立ち上がることもできなかったひ弱な筋力が、なんとか身体を持ち上げることができる程度に強化された。
それでも身体はぷるぷると産まれたての子鹿のように震えるが、それでも先程よりも遥かにマシだ。
「おぉ〜、結構使えるものですね。さすがは私。どのような技も見れば使えるようになっちゃうんですから」
成功したことに喜びながら自画自賛しつつ、頬を綻ばせてベッドから起き上がり、ご飯を探そうと思っていたら───。
コンコンガチャリとドアが開いた。ノックとドアを開けるのがほぼ同時である。問いかけることもしないとは、まったくマナーのなっていないものだと、目を細めて入ってきた者へと顔を向ける。
「あら、レイ姫様。起きてましたか、丸1日寝ているなんて良いご身分ですこと」
開口一番、ベッドから起き上がった私を見て、蔑みの目を向けて言ってくるのはメイドであった。古き良き英国式メイドの服だ。プリムを頭につけて、ロングスカートを履き質の良さそうな服を着ており、その上に真っ白なエプロンをつけていた。私が寝ているベッドの黄ばんだシーツよりも遥かに白い。
「なんですか? 朝なのでご用意をしてきてあげたのですよ? なにか文句あります?」
なんともはや呆れてしまう。姫様と敬称をつけているにもかかわらず、その態度は酷いものだ。完全に下に見ている。
でも、それ以上に気になることがあった。
『日本語』を使ってる? なぜ? ホワイ? ハングリー? ここは異世界では? ハングリーは関係ない?
ここに来るきっかけとなった四人にもそういえば神様は言語読解力を付与していなかったと思い出す。最初からこっそりと盗み見ていたのだから見逃してはいない。このことを知っていたのだろう。
「ほらほら、ハリー、ハリー。私はこの後もたくさん仕事があるんですから、さっさとしてくださいよ。もう充分寝たんでしょう? 怠惰なのもいい加減にしてください」
ハリーとか、『英語』も混じった。戸惑う私へと押し付けるように手に持ったスープを渡してくる。
なぜにこれだけ尊大な行動がとれるのかと不思議に思いながら、もっと不思議な事象にさらに混乱してしまう。この世界はどんな世界なんだろ? ムクムクと好奇心が湧き、これも命ある者の特徴だと心を弾ませながらも、今は一番大事なことに注力することにする。
即ち、お腹が空きました。スープをいただきまーす。
久しぶりの食べ物だ。スープなのだ。お腹が空いたよと、腹の虫がストライキを起こしそうなのだ。
残念ながらスプーンがないようだけど、大きなお皿にたっぷりと入っているだけでも喜ばしい。
結構な重さのお皿を手に取り、ぷるぷると腕を震わせながら口をつける。グイッといきましょう。そうしましょう。
なにせ食べ物だ。どんな食べ物でもご馳走なのだ。腹ペコなのは、ご飯を食べる一番のスパイスなのですから。
ワクワクウキウキと、ズズッと飲む。姫様と呼ばれるには行儀が悪いが、この世界の礼法は知らないし、今の私は倒れたばかり。気にしなくても良いと思う。
ごくごくと飲んで、口に含まれて喉を通り胃に入る感触に踊りたくなるほどに舞い上がる。
食べ物だ。食べ物の味────。
バシッ
何故か手をはたかれた。
「な、何を飲んでるのよっ! 気でも違ったの!」
「あぁ〜、私のスープが………」
がらんがらんと音をたてて床に転がる金属製のスープ皿を悲しげにしょんぼりと見つめる。うぅ、せっかくの食べ物が………。
「ど、どんなつもり? あんた、私への嫌がらせのつもり?」
なぜか戦慄くメイドへと悲しげに顔を向ける。嫌がらせ? 嫌がらせで私が飲んだと思っているのか。
「ん? 食べないと思ってたのですか? たしかに生温かったですし、泥がザラザラと舌に当たって、アクセントの砂利が噛めませんでしたので、とっても不味かったですけど、食べ物は大事にしませんといけません」
確かに不味かった。でも、久しぶりの食べ物だ。私はなんでも食べちゃいますよ。
「は、ははっ、瘴気の森に頭がやられたようね。洗面用の水を飲むなんて。アハハハ、おっかしい。嫌がらせだとしても無駄よ。レイ姫様の言うことを聞く召使いなんて、ここにはいませんからね!」
酷く醜悪に感じられる蔑みの表情でメイドが見下ろしてくる。……洗面用の水?
ちらりと床に転がったスープ皿を、いや、洗面用の器を見て、ありゃと舌打ちしてしまう。たしかに泥色で少し味がおかしいなぁと思ってたけど、洗面用の水だったのか。
それにしては泥色で、顔を洗うには相応しくない水だったけどね。でも、それを飲んでしまった私は奇人変人の仲間入りになってしまった。だって久しぶりの水だったのだ。飲みたくなっても仕方ないよね。
本来は、「あら、この洗面水はなんのつもりかしら? やり直しなさい」とやり返すところだったようです。失敗失敗。
それにしても………。
「あぁ、嫌がらせというやつでしたか。まったく気づきませんでした。あまりにも微小で矮小な悪意でしたので。これでは黒虫の方がマシというやつです」
「な、なんですって! レイ姫様、あまり礼儀がなってないのではありませんか? メイド長に言いつけますよ」
澄んだ瞳でなんの感情を乗せることもなく路傍の石に話しかけるように伝えると、メイドは顔を真っ赤にして口を荒らげる。
でも、私はそれ以上に嬉しいことがあった。このメイドには感謝しなくてはなるまい。
「悪意には悪意を。やられたらやり返すことができるのです。規則に従い、縛る鎖は解かれました」
人差し指を持ち上げると、私は霊気を集めていく。少ししかない霊気だが、この程度なら充分だ。不可視にして幽界のものしか扱えぬエネルギーが指先に集まっていく。
「お腹、とっても空いていたので助かりました」
『第一霊術:見つめるモノ』
私はどこまでも冷たい氷のような笑顔をニコリとメイドへと向けると、得意の術を解き放つのであった。