1話 憑依しちゃいました
その日は曇天の空であった。
まるで墨汁を撒いたかのような墨色の雲が天を覆い、生暖かい風が吹いていた。風は時間が経つごとに強くなっていき、湿気が段々と強くなってくる。
変わる光景に、青々とした草木が繁茂する草原に棲む小動物は嵐の到来を予想して巣穴に隠れ、若芽が育ち緑溢れる森林では狩りを中止して、狼たちが足早に去っていく。
収穫がそろそろ近くなり、田畑のすぐそばにある石造りの立派な壁に囲まれた街に住む人々も、空をあおぎ来たる嵐の到来に、収穫期はあと一ヶ月を切るのにと、影響がないかと不安そうな表情となっていた。
嵐の到来となると、被害を考えると看過はできないが、それでも毎年何回かはやってくる自然災害だ。珍しいものではない。
だが、その日は、いや、歴史上でみても、初めてのことが起こった。周辺に住み、天をあおぐ者たち全てがその光景を確認した。
暗闇とも呼んで良いだろう黒雲を打ち破るように、突如として光の柱が天から地上へと落ちてきたのだ。その神々しさは見る人の心を打ち、知らず感涙させた。
嵐の予兆であった黒雲は散り散りになり消えていき、青空が広がる中で肌を撫でる風はどこか優しさを感じさせる暖かさで、人々の心に活気を宿す。小動物たちは元気に草原を駆け出し、草原の草木は生気が満ちて萎れていた草木も天に向いてその枝葉を伸ばす。
光の柱が降り立った場所に比較的近い商隊が瞳に溜めていた涙を拭い、恐れ多い気持ちを持ちながらも、好奇心が勝ち、その場に向かう。
そして、ここらへんでは見たことのない奇妙な服を着た四人の若い男女を見つける。
後にその者たちに話を聞いたところ、神に選ばれて降臨したと答えた。そうして、光と共にこの地にやってきた神の使徒と呼ばれることになるのであった。
───だが、奇跡を前に人々は気づかなかった。
光の柱が天より降り立った際に、散り散りに消えた黒雲の中に、なにかが現れたことを。
目には見えないもの。だが、心で感じるもの。魂がヤスリがけされるようになにか不吉なる予兆を感じさせるもの。
そのナニカは光の柱から降り立った者たちを気にするようにに少しの間漂っていたが、黒雲と共に辺りへと飛んでいった。
そして、その地より遥か東に流れていき、姿を消すのであったが、その様子を偶然見て、怖気を感じた者も、すぐに光の柱の強烈な印象に記憶を上書きして忘れてしまったのである。
誰もが忘れてしまったナニカは風と共にゆっくりと漂っていく。
やがて草原の光景が変わる。炭小屋でも近くにあるのだろうか。それにしては大量の煤のようなものが霧のように漂い、青々とした草木は萎れて紫や黄色へと変わっていく。土は腐り湿地のように泥のような土地となっている。
森林に聳え立つ木々は捻じくれて、その表皮は苦悶する人間の顔に似ている。小さな沼は腐臭を発し、その地に棲息している動物たちは、昆虫は人ほどに大きく、動物は顔中に目が生まれており、瘤がびっしりと身体についている。花は花弁が牙となり、通りゆく者を食いちぎらんと頭を垂れて、蔓は獲物を見つける前の蛇のようにじわじわと地面を、木の幹を蠢いていた。
全て、神々が悪ふざけで創り上げたかのような異形の姿を持つものばかりであった。悪夢のような世界がそこにはあった。
広がる悪夢のような土地の森林と草原の境目に、何匹かの小動物が集まっていた。小動物と言ってよいのだろうか。その身体は子供のような大きさを持っているのだから。
遠目に見るとリスに見えるモノであった。太い尻尾とピンと張った耳、尖った牙、頬袋は膨らんでおり、二本足でちょこんと座っており、短い前脚と、リスの特徴を持っている。その特徴を聞けば、リスだと想像する者は多いだろう。
だが、この悪夢のような土地に相応しい特徴をも持っていた。
その身体には毛皮がなかった。愛らしい毛皮は存在せずに、赤黒い筋肉の身体を見せていて、その瞳は眼球が飛び出さんばかりにギョロリとしている。血管が浮き出しており、脈打つ姿は心臓が手足を生やしているようにも見える不気味さであり、怖気を感じさせる。
紛れもなくこの地に相応しい異形の化け物リスであった。化け物リスたちはナイフのような鋭さを持つ爪を地面に伏せているモノに振り下ろし、乱暴に掴み取ると口に放り込む。
ぐちゃぐちゃと咀嚼音がして、口元から血が滴って地面に流れていく。赤黒い欠片が周りには散らばっており、化け物リスたちの手も口も真っ赤となっているが、気にせずにガラスを擦るかのような耳障りな鳴き声をあげながら、モノを夢中になって食べている。
だが、運命の悪戯か、化け物リスたちは運が悪かった。
見えないナニカが空から漂ってくると、化け物リスたちが食べているモノに気づき、興味を持ってしまった。
ナニカは空から地上目指して、遂に降りることに決めた。悪夢のような異形の徘徊する土地に、悪夢すら可愛らしく思われるだろうナニカは降りてゆく。
異形の徘徊する草原も、不気味な木々が聳え立つ腐臭が広がる森林も、全てを覆い尽くすかのように、天から降り立ったナニカは目的のモノに触れる。
その瞬間、世界が変わった。悪夢のような世界は、不吉なるモノクロの世界に。その地の全てがナニカが降り立ったことを本能で感じた。怖れをもたらすナニカを感じとった。
異形なるモノたちは、大型のモノはその地を離れんと駆け出して、小型のモノは身体を竦めさせて身を守らんとする。
牙の生えた花々は枯れたように蕾へと変わり、蠢いていた枝葉や蔦は石のようにピタリと動きを停止させる。
先程まではうめき声にも、苦悶の悲鳴にも聞こえた様々な鳴き声はピタリと止まり、生命など存在しない死の大地のようにシンと静寂が広がった。
化け物リスたちも、そのナニカに気づきピクリと筋肉組織が剥き出しの耳をたてて、モノを食べて血に染まった顔を持ち上げると、不安げに周りを見渡す。
離れた方が良いと本能は語っていた。しかし久しぶりのご馳走を前に躊躇いを見せて、ジッとしていればナニカが通り過ぎるのではと期待を持ってしまった。
野生に相応しき危険を鋭く感じた化け物リスだが、ほんの少しだけ知恵を持っていたために、その場を離れることを躊躇ってしまった。
そして、それはもちろん誤っていた。絶望的に選択肢を取り間違えた。
誤った判断をしたことは、すぐに理解した。
今まで食べていたモノがゆっくりと立ち上がった。いや、立ち上がったのではない。直立して浮き上がったのだ。
化け物リスたちはその光景を見て、なにが起こったのかと最初は理解できなかった。先程まではたしかに動かなかったのだ。動かなくなるまで、切り裂いたのだ。
だが、モノは浮き上がると、口を開いた。
「コゴハドコナノォ?」
それは見てはならぬものだった。喉笛は食いちぎられており、声を出せるわけがなかった。柔らかな唇は食べられて、頬は剥がれて骨が垣間見える。
「ココハドゴナノォ」
その囁きは聞いてはならぬものだった。眼球は存在しなく、眼窩には果てしない深淵が広がっていた。髪の毛はむしり取られて、骨が砕かれて中身は食べられてしまい、ポッカリと空いた頭の中を覗かせる。
「アダァジィ、モジガジテイセカイデショウジョニヒョウイジダァァ?」
声をかけてはいけないものだった。化け物リスはそのナニカの言葉は理解できなかったが、可笑しそうに剥き出しの歯茎を見せてニタニタと笑っているのは理解できた。
「ゴォンナカワイラジイオンナノゴォニナッチャッダァ」
もはや少女の原型はなく、脳味噌もなく、眼球も唇もなく、内臓すら存在しないただの骨と皮と少しだけのカスのような肉を持つナニカはケタケタと楽しげに笑う。
嗤う。嗤う。嗤う。
殺意は感じない。敵わないと思うほどの力も威圧感も感じない。
だが、その嗤い声は、その姿は、化け物リスたちの肉体ではなく、精神でもなく、魂を撫でた。鷲掴みにして潰してしまう怖れを齎した。
死ではない。このナニカに触れると、魂すらも盗られてしまう。原初の本能が恐怖に悲鳴をあげて、身体がブルブルと震える。
「キッ」
化け物リスたちは一斉に逃げ出した。脱兎の如く逃げ出して、戦うことなど欠片も考えない。あれはだめなモノなのだ。触れるだけで、終わりを齎してくると、魂が理解していた。
腐った泥のような大地を駆けて、毒々しい白い斑点が浮かぶ紫色の草を踏みつけて、捻じくれた木々の合間をすり抜けてゆく。
だが、全ては遅かった。
「アナタノオメメハカワイラジイワネェ」
狼のように速く駆けていた化け物リスの背中に生温かいナニカがへばりついてきた。ぬるりとした腕が首元に回されて、生臭い息が顔に吹きかかる。
ナニカがいた。恐れから震える化け物リスは、言葉はわからなかったが、その声が酷く不安を呼び起こし、恐怖を齎すことを本能で理解した。
そのナニカの手が伸びてくると、眼球にやけに長い指がかかる。
「ソノメ、チョウダァイ」
「ギギィッ」
長い指がメスのように眼球に潜りこもうとしてくる。ブチブチと嫌な音が眼球から聞こえてきて、化け物リスは死にものぐるいで暴れる。
ナイフのように鋭い爪を伸ばして、ナニカの手に突き立てようとする。鉄をも噛みちぎるカンナのような牙を剥いて噛みつく。
だが───無駄であった。
爪は自分の顔に突き立ち、牙は空をきる。触れることができなかった。その間にも眼球は引きちぎられて、奪い取られんとする。
相手は触れることができるのに、こちらは触れることはできない。理不尽なる結果に虚しく抵抗をして、周りの仲間に助けを求めようと振り向く。
しかし、目に入る光景は絶望であった。
「ソノウデハワダジノォダヨォ」
嗤いながら仲間の腕を引きちぎらんとするナニカがいた。そのナニカは両腕はなく、仲間の腕に噛みついている。
「ワダジノォアシガナイノォォ」
下半身のないナニカが仲間に組みついてバリバリと腰から断ち切っていた。
「ソノシンゾウヲスコシカシテ?」
仲間の胴体に手を潜らせて心臓を引き抜く、胴体がポッカリと空いたナニカがいた。
阿鼻叫喚の様相であり、地獄すら生温い光景がそこには広がっていた。
「キレイナメダネェ」
覆いかぶさるように、ナニカの顔が眼前に来た。眼球は存在しなく、深き闇が広がる眼窩がこちらを見ていた。
化け物リスは終わりを悟ってしまった。恐怖で魂が潰れる音をその心で聞いた。
地獄から逃れんとする断末魔の絶叫が響き、身体が引きちぎられる音が森林の中で聞こえ、やがて静かとなった。
そうしてその地は肉片へと変貌した元は化け物リスたちの欠片と、大地に血溜まりが広がるのみとなる。
────最初の場所に残っていたナニカはケタケタと可笑しそうに嗤う。化け物リスたちの最期がどうなったのか理解していたからだ。
やがて惨殺された化け物リスたちから、青白いなにかが靄のように浮き出すと、ナニカにフラフラと漂っていく。
ナニカはパカリと口を大きく開けると、靄のようなモノを全て吸い付くし、満足げに口を閉じる。
「ウシナイシモノヲサガスモノォ。ワタシヲタベルカラァァイケナイノォォ」
靄のようなモノを吸い取ったからだろうか。先程よりも僅かに流暢な言葉を口にすると、ナニカは片手を翳す。
「ヌスミミタカミノミワザァ。ヅガッデミルゥゥ」
足りない指を生やすぼろぼろの手のひらで、空をかき混ぜるように回す。手のひらは輝き始めて、辺りの不吉なる空気が変わり始める。死の臭いが変わっていく。
「レイキはニクニィ、チノメグルイキタカラダヲォ。ワレニニィクタイヲォ」
『神術:受肉蘇生』
草原に、森林に広がっていたナニカが集まっていく。一つに集束していく。
ぼろぼろであった幽鬼のような肉体に集まっていくと、神秘的な優しい光の糸へと変わっていく。糸は心臓部分に寄り集まって、子供の拳程度の小さな球へと変わっていく。
集まった光の糸はどんな宝石よりも美しく輝きを放ち、肉体を照らす。照らされている肉体から光の粒子が泡のように生み出されると、筋肉繊維に変わり、空っぽだった内臓が創られて、砕かれた骨が枝葉のように伸びる。
赤ん坊のような艷やかな柔らかい皮膚が筋肉組織を覆い、唇がふっくらとして、ルビーのような紅い目が洞穴のような眼窩を埋める。
脳味噌が創りだされて、頭蓋骨が元に戻り、引きちぎられていた磨いた銀のような美しい髪が背中まで伸びる。
全てのナニカがその肉体に集まり、ぼろぼろであったナニカは美しい少女へと変貌するのであった。
白銀の髪を背中まで流すように伸ばして、風に吹かれてさらりと靡かせる。血のように紅く、最上級のルビーよりも美しい瞳をもち、色素の薄いたおやかな唇を持つ小顔。背丈はまだまだ幼さを感じさせるが、それでも誰もが魅了される美少女がそこには存在していた。
どこか幸薄さを感じさせて、庇護欲を掻き立てるか弱さを魅せる少女は、ほくろ一つ、シミ一つない、白魚のような手のひらをグーパーと握り締め、自身の様子を確認すると、はにかむように微笑む。
「やりました。世界で初の人間としての復活。どんな聖人も行うことができなかった奇跡をこの霊帝たる私がやったのです」
周りを見渡して、満足げに深呼吸をする。胸がなだらかに鼓動し、吸い込む空気が肺に入ると、その感触に輝かんばかりの笑みへと変える。
「でも、異世界での復活はノーカンなのでしょうか? ………まぁ、良いでしょう。それでは感動の一言を……」
頬を両手で挟むと可愛らしい悲鳴をあげる。その顔は期待に染まり、どこまでも嬉しそうだ。
「きゃー、なにこれ? なんで私は少女の身体になってるの? あ、まさかこれって異世界憑依しちゃったの!? し、しちゃったの……はれ?」
ふざけて叫ぶ少女だが、なぜか言葉の途中でふらつき、力を失い膝をついてしまう。
「あ、あれ? 私の霊気が……千年以上コツコツと溜めた霊気が空っぽに!? え、肉体蘇生って、そ、そんなに霊気を使うのですか………。し、しまった、失敗しまし……」
震える声で事態を理解して、愕然とするが遅かった。既に自分の持つ霊気は空っぽで、辺りを包み込んでいた不可視にして触れることを許さない不吉なる空気は綺麗さっぱり消えていた。
「ううっ、霊気が、霊気が欲しい……。いえ、生気、生気が必要なのでしょうか………」
このままでは、この地の化け物に喰われてしまうだろうと、悔しげに歯を食いしばる。しかし、いくら力を込めても、立ち上がることもできない。
やがて意識は遠くなり、遂に瞼を閉じて眠りについてしまうのであった。
───ここで、少女が化け物たちに襲われて、死んでしまえば、この後の世界は緩やかで穏やかであった。変わらぬ世界であった。
しかし、運命のサイコロは実にふざけた悪魔の目を出す。
「皇女様っ! 皇女様、どこでひゅか〜? あぁっ、皇女様っ! だ、だいひょうぶですかっ! どうしましょう、すぐに街へと連れ帰りませんと!」
ハッハッと獣のような呼吸音か聞こえ、犬のような獣臭さと、どこか空気が抜けたようなはっきりとしない言葉遣いの慌てる少女の声が聞こえてきて………。
少女へと憑依したナニカは助けられるのであった。
それは助けられるべきではなかったのかもしれない。
だが、運命のダイスの目は大失敗を出したのだった。