59. 穏やかで静かな春
葡萄の涙の採取は、2週間ほどで終わった。
急なことで容器も不十分だったけれど、一荷入りの水瓶にして20個分、古樹の涙は2個分ほどを採取できたらしい。
おじいちゃんはその採取の間、慌ただしく王都行きの準備や手配をしていて、家族の食卓に間に合わないことが多かった。
ぽっかり空いた一人分の席を見るたびに、僕は胸がちくちくと痛んで仕方なかった。
(こんなことなら、黙っていれば良かったのかな……。僕さえ口を噤んでいたら……)
安易に喜んでいた自分を思い出して、落ち込む。
表には出さないように必死に取り繕っていたけれど、僕は自責の念に苛まれていた。
そして、全ての手筈を整え、葡萄の涙をどこかへ……きっと氷河洞窟に運んだのを見届けると、おじいちゃんが王都に旅立つ日がやってきた。
おばあちゃんやリュカ、レミー、居残りの使用人たちと見送る。
今回の警護はドニやブノワ、チボーも付くらしい。揃いの装備を身に纏い、帯剣している姿があった。
おじいちゃんは、おばあちゃんと僕をそれぞれ抱きしめ、きょとんとしているリュカを抱っこして頭を撫でる。
その口元はほのかに笑んでいて、終始、泰然とした様子だ。
やがて、名残惜しいけれど、いよいよ出発……というところで、おじいちゃんは僕の肩に手を置いて言った。
「おじいちゃんに任せなさい。ルイはここでイネス……おばあちゃんとリュカを守ってくれ。頼んだぞ」
「うん……」
そう言ったおじいちゃんは、亡くなる直前に僕に母さんとルイを託していった父さんと、そっくりだった。
僕は、歯をぐっと食いしばる。
「任せて。無事に帰ってきてね」なんて、気の利いたことを言って、おじいちゃんを安心させたいのに、言葉が出なくて。
ふっと笑ったおじいちゃんが、静かに拳を出す。
それを見て、僕も拳を出して、突き合わせた。
それだけで、十分だった。
そうして、おじいちゃんは馬車に乗り込み、王都へと旅立った。
おじいちゃんや使用人が減った家は、静かな雰囲気だった。
けれど、そんな中でも、日々の暮らしは続いていく。
おじいちゃんたちが王都に行ってしまったので、代理のレミーにどうしても執務が集中してしまった。
僕も、書類作成や帳簿付け、簡単な決裁など、任された分を淡々とこなしていく。
やることは目白押しだった。
そんな執務の合間に、葡萄畑にも足を運んだ。
おじいちゃんのいない間に、葡萄の樹に何かあったら、申し訳が立たない。
そんな一心だった。
僕の気持ちとは裏腹に、葡萄の樹々は、ゆっくりと小さな芽を膨らませ始めている。
一見順調に成長しているようだけれど、豪雪地域のヴァレーは晩春に寒さが戻る可能性があった。
(寒の戻りが、なければいいけど……)
そう考えながら、振り返って、葡萄畑から町を見下ろす。
気がつけば、町全体が緑に覆われていた。
特に、白の山脈の祭壇に向かう道の途中に、草原が広がっていて、ここからでも黄色の絨毯がよく見える。
(あれ……なんだろう……)
その黄色の中に、白い木がぽつんと立っていた。
遠目からだと、桜のように見える。
こんなところに、桜があるはずない。
そうわかっているのに、容赦無く浮かんでくる郷愁に、目を眇めた。
(お花見がしたいな)
そう思うと、久しぶりに心が動いた気がした。
最近は、僕と一緒に遊びたがるリュカを、宥めるような日々が続いている。
まだまだ甘えん坊のリュカに我慢をさせて、寂しい思いをさせてしまっていた。
(お弁当を作って、二人でゆっくりピクニックでもしようかな)
そう思い立つと、僕は「よし」と呟いて、家路を急いだ。
焦れるように待った、次の休みの日。
本当は、こんな時に休みを取っても良いものか迷ったのだけれど。
「こんな時こそ、休める時に休まないと能率が悪くなる」と言うレミーの方針で、僕たちはきちんと休みを取ることにした。
そんな訳で、僕は朝からさっそく、お弁当を作っている。
まずは、猪肉でローストボアを作る。
常温に戻しておいたお肉に、塩・ハーブ・ほんの少しのガーリックを擦り込む。
そうしたら、熱したフライパンに脂身を入れ、コーティングしたら、焼いていく。
何度もいじらず、ジューっと肉がいい焼き色になるまで、辛抱強く待つ。
朝食は食べたはずなのに、お腹が鳴りそうだった。
全ての面が焼けたら、そのまま石窯で少し寝かせる。
火は落ちているが、調理人たちがパンを焼いた熱が残っているので、むしろちょうどいいはずだ。
目を離さず、時々串を刺して、透明な肉汁が出てきたら石窯から取り出す。
そのまま蓋をして、あとは余熱に任せるだけだ。
ローストボアは、調理長お手製りんごジャム、ハニーマスタード、オニオンソースと、3種類のソースで食べるつもりだった。
ハニーマスタードは、リュカも挑戦できるように、はちみつ多めでマスタードと混ぜる。
次に、玉ねぎを無心でみじん切りにして、じっくり飴色になるまで炒める。
そこに、砂糖と赤ワインビネガーを加えてさらに煮詰めると、オニオンソースの完成だ。
とろっとしたとろみがついたところで、一口味見。
(〜〜〜!我ながら美味しい!)
早くこのソースで、お肉が食べたい!と思いつつ、4人前くらいの鍋にスープを作る。
賽の目に切ったじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、かぶを塩とバターで炒め、小麦粉を振り入れる。
混ぜて粉っぽさがなくなったら、ブイヨンとヤギ乳を入れて、さらに煮込んでいく。
こちらも煮えたかな?というくらいに味見をすると、コクが物足りなかったので、チーズを少し入れてみる。
(うん。ちょうどいい!)
我が家のコンロは、火の魔石を使った魔道具になっていて、僕でも簡単に火加減を調整できる。
きっと多分、高価なのだと思う。
薪や炭を使った原始的な厨房だったら、とてもではないけれど、料理なんてできなかった。
そんなことを思いながら、手はローストボアを薄く切り、調理人たちが焼いておいてくれたコッペパンに、ソースと葉物野菜と一緒に挟んでいく。
そうして出来た山盛りのサンドイッチと、癖のないチーズをランチボックスにぎゅうぎゅうに詰める。
リュカの好きな葡萄ジュースや、スープの鍋、食器類も忘れずに収納にしまったら、準備は完了だ。
落語の「壺算」より、一荷は60kgつまり60ℓ換算で計算しています。
※道三堀のさくら(著:山本一力)では50kg=50ℓと換算しており、諸説あります。




