番外編 レミーの複雑な心境
私が、初めてルイ様たちを知って思ったことは、「不憫だな」であった。
それと同時に、自分が思いのほか衝撃を受けている事実にも、気づいてしまった。
(身の程は、弁えていたはずです)
それでも。
清濁混ざった、ままならない感情に漏れたため息は、どこか苦かった。
◇
その日も仕事を終え、私は住み慣れた自宅に帰ってきた。
実家は、すでに長兄が継いでいる。
いつまでも良い年した弟が居座るのは、お互いに気まずいだろう。
そう考え、ヴァレー家の門戸を叩いたのを機に、このアパルトメントに移り住んだ。
仕事着から柔らかな羊毛の部屋着に着替え、髪を括っていた紐をほどくと、食卓につく。
そして、収納から、屋台で買い込んだ食事とワインを取り出した。
私が家を出て一番困ったのが、食事であった。
自分の容姿が他人から賞賛されるものであることは、自覚していた。
外に出れば、常に人の目が付き纏う。
時には、異性や、同性からも下衆な視線を向けられることさえあった。
そういった煩わしさから、外食はめっきりと減り、今ではこうして専ら自宅で摂るようになっていた。
(慣れてしまえば、こちらの方が圧倒的に気楽でしたが)
まずは、仕事終わりの一杯を。
屋台は陶器の瓶を持参すれば、樽詰めから好きな量のワインを買うことができる。
私が今日選んだのは、ヴァレー産で2年物の白ワイン『小さな幸せ』だ。
そのワインを、実家の商会やヴァレー家のツテをたどり、大枚をはたいて手に入れたこだわりのグラスに注ぐ。
底から、大体、指の第二関節くらいまでのところまで、慎重に。
とぷとぷとぷ。
(音まで芸術品のようだ)
グラスの脚を持って、かざす。
澄んだ、淡い琥珀色。ほのかに緑がかっているようにも見える。
自然と喉が鳴ってしまうような、魅惑的な色合いだ。
私は急くことなく、鼻をグラスに近づけ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そう強く、我を張って主張することはない。
けれど、新鮮で純粋さが薫るようなワインである。
そこまで楽しんで、一口含み、舌で転がすように味わう。
(酸味が強すぎることもなく、かと言って甘すぎることもない。優しく丸みを帯びていて、調和が取れている)
こくりと飲み込む。
口から鼻を通る風味も、その後に吐き出す呼吸の余韻すらも、逃したくはなかった。
(決して派手な華やかさがあるわけでない。けれど、素晴らしい、食事のためのワインだ)
この一杯のために、生きている。
そう言っても過言ではなかった。
◇
私が、これほどまでにワインを愛するようになった理由は、もはやわからない。
ワイン商人の息子だからというのもあるだろうし、そもそもこのヴァレーでワインを愛していない方が珍しいというのもあるだろう。
成人してすぐに、実家の商会で見習いを始め、着々と実力をつけた。
そうなると、いよいよ身につけた実力を、ワインのために使いたいと思うようになっていた。
だから、思い切って実家の商会を辞め、ヴァレー家で雇って欲しいと直談判したのだ。
(今思えば、とんだ無茶をしたものですが……)
こくりと、グラスを傾ける。
一口、二口と飲んでも、飽きがこない。
地元の商会出身とはいえ、私をヴァレー家で雇うことは、多くのしがらみがあったはずだ。
贔屓をするのか。獅子身中の虫を飼うのか。そう密やかに、悪様に言うものもいた。
それなのに、旦那様は不思議なもので、私がワインにしか興味がないことを、信じてくださっていたようだった。
だからこそ、私もその信頼に報いようと、必死に働いて己の価値を示し続けた。
そうして。
気がつけば、誰一人として私を悪く言うものはいなくなっていた。
(それだけで満足だったのですけれど)
月日が経ち、ヴァレー家で私が実績を積むにつれて、次第にこう噂されるようになったのだ。
──このままいけば、ヴァレーは後継がいなくて途絶えかねない。そうなる前に、すでに実力が認められているレミーを養子にして、後継にしてはどうか、と。
初めてその噂を聞いた時、すぐにありえないと否定した。
私はその頃には、旦那様が後継を決めかねている最もな理由が、「血統」であることに気づいていたからだ。
だから、しばらくして、旦那様の実孫がヴァレーに来ると聞いた時、私は諸手をあげるべきであった。
脈々と続いてきた愛すべきヴァレーのワインが、また一代、引き継がれていく未来が見えたのだから。
……けれど、私の胸には、言いしれない虚しさがあった。
私が必死に磨き、示し、もたらしたものより、ただ血縁であると言うだけで。
まだ何も成していないただの少年が、横から掻っ攫っていくのだ!
周囲の噂に毒されまいと思っていた私が、気づけばその気になっていたことに、怒りと、愕然とする気持ちだった……。
◇
ルイ様がヴァレーに来てしばらくして、旦那様に「ルイの世話係を頼む」と任せられた。
その魂胆が、透けて見えるようだった。
(旦那様は、ゆくゆくは私をルイ様の右腕にでもしたいのでしょう)
旦那様が、あの噂を知らないはずはない。
ご丁寧に注進した者がいることを、私は知っている。
けれど、それでも。全てを承知で、私をルイ様につけると決めたのだろう。
そうして、初めて会ったルイ様は、ごく普通に賢い子どもだった。
理解力があり、教えたことを真っ直ぐに吸収できる素直さもある。
時折、考えすぎなきらいはあるが、まだ子どもだ。これから、いくらでも修正できる余地があると考えていた。
そのうえ、ルイ様たちは、すでにヴァレー家のみなに好かれていた。
そういう雰囲気があるのだろう。
父を亡くし、母とも別れ、幼い弟を必死に守って生きてこられた方だと、使用人らが教えてくれた。
だからレミーさん、どうか手心を、と。
私も彼らを不憫だと思う気持ちはある。けれど。
(あまりにも簡単に認めてしまっては、報われない)
最初から、陽炎のような夢であった。
だから、追い落として、奪い去るようなことはしない。できない。
私が愛しているのは、真っ直ぐで明るい、幸せに満ちたヴァレーのワインだ。
そう整理がついた今、思うことは……。
「私を認めさせてみろ」
きっと今の私は、底意地の悪い顔をしているだろう。
無責任な甘さは見せない。
かといって、ただ冷たくして突き放すこともしない。
(こうなることすら、わかっていたのでしょうか)
そうであれば、私は自分が納得できるまで、ルイ様を試すだけである。
グラスを飲み干し、水ですすぐ。乾燥で乾かしたら、次は赤だ。
また、グラスにそそぎ、香りを楽しむ。すでに慣れた動作の中で、私はぼんやりと思う。
こうして一人で飲むワインも、もちろん素晴らしいけれど。
もし、このままルイ様が成人して、後を継いだ暁には。そして、その隣に、私がいるとしたら。
ともに酌み交わすワインはどれほどのものだろうか、と──




