赤ベリーの思い出
※ このお話は、ルイがレミーにビシバシしごかれ始めた頃の出来事です。
※ エピソード的には、「33. うちの葡萄とワインは一等特別」〜「35. 休日にはピクニックを」の間くらいです。
「じいじぃ。にいに、おべんきょ?」
「ああ、そうだ」
幼い孫のリュカは、わずかに開いた事務室の扉から室内を窺っている。
きっかけは、大人しく遊んでいたはずのリュカが、突然「にいに、いにゃい!」と言って泣き出したことだった。どんなにあやしても泣き止まないと、手を焼いた子守りと妻のイネスが、わざわざ書斎にまでやってきて訴えたのだ。
私も子ども部屋に赴き、「ルイは勉強や仕事で忙しいのだ」と随分とリュカに言い聞かせた。けれども一向に泣き止まず、仕方なく「見るだけ」と約束して、ルイのいる事務室に連れてきた。
「いいか、リュカ。ルイはいま、必死に学んでおる。邪魔をしてはいけなんだ」
「……うぅ。にいに……」
「寂しかろう。だが、ここは堪えて、『がんばれ』とルイを励ましてやれ」
「……ぐすん……あい。……にいに、がんばりぇ〜」
リュカは目を擦って、ルイに小さく手を振る。そんなことにはまったく気づかず、ルイは書き物に集中していた。
結果的に無視された形となって余計に泣くかと思ったが、リュカはルイの姿を見て気分が落ち着いたのだろう。先程までの悲しい青が、薄く淡い色へと変わっていた。
(生まれてからずっと傍にいたルイの姿が、見えなくなったのだ。恋しがるのも無理はなかろう)
こればかりは、少しずつ慣れていくしかない。どんなに仲の良い兄弟でも、いつかは別々の人生を歩んで行かねばならないのだ。
ルイはもう十四歳。成人の一歩手前に差し掛かっている。たくさんの種を植え、芽生える準備をしなければならない年頃だ。
そんな時期にリュカにばかりかまけているのは、どちらにとっても良い結果にはならないだろう。
「日中はたいてい、ルイはこの部屋にいる。もしどうしても寂しい時は、また姿を見に来れば良い」
「……あい!」
「良い子だ。……さて、せっかくだ。気晴らしに、じいじとの散歩に付き合ってくれるか?」
「? おしゃんぽ?」
手を繋ごうと差し出すと、気を持ち直したリュカが私の人差し指をぎゅっと握った。
子どもの手を最後に握ったのは、もう三十年近くも前のことだ。うっかりすると、力加減を間違えてしまいそうになる。
(……こんなに小さな手だったか)
遠い昔を懐かしく思いながら、我慢をさせてしまった可愛い孫にこの時期だけのとっておきのご褒美をやろうと、私はゆっくりと一階に降り、庭へと向かった。
♢
一階のテラスから庭へ出ると、初夏の緑がわさわさと生い茂っていた。
庭は左右に八つずつ区分けされており、それぞれの区画で庭師が花々・ハーブ・野菜・果物を栽培している。
「じいじー、おはにゃ、きりぇ〜ね〜」
「うむ」
リュカと手を繋いで、中央の通路を歩く。この道には等間隔でアーチがかかっており、頭上には豪奢な薔薇が咲き誇っていた。
子どもは頭が重くて、ただでさえ転びやすいものだ。ましてや、いまのリュカは薔薇に見惚れてほぼ仰け反っている。転ぶかもしれないと身構えていたおかげで、案の定、後ろに倒れる寸前で支えることができた。
「おっと。足元を良く見て、転ばぬように気を付けるのだぞ」
「あい! じいじ、ありあとー」
しっかりと手を繋ぎ直し、庭の中程で左に曲がる。すると、枝をしならせて盛大に咲くライラックの甘い匂いが、風にのって香ってきた。私がすんと嗅ぐと、リュカも真似をしてすんすんと鼻を大きく鳴らす。
ライラックのほかにも、ロベリア・シャクナゲ・青いケシといった季節の花々が庭を彩り、芳しい香りを放っていた。
私たちはゆっくりと花の競演を楽しみながら、奥まった区画の花壇に行きつく。そこで目当ての真っ赤な果実を見つけて、私は片膝をついた。
毎年、この時期に食卓に供される果実なれば、そろそろ実っている頃だろうと思ったのだ。
「リュカ、これが赤ベリーだ。こうしてヘタを下に向けて引っ張ると、簡単に採れる」
「う?」
「さすがにわからんか。まあ、良い。この時期にだけ食べられる、甘い果物だ。食べてみなさい」
「? あ〜ん」
素直に開いたリュカの口に、ヘタを取った赤ベリーを入れる。すぐにもう一つ捥いで、自分の口にも入れた。
咀嚼すると、真っ赤に熟した果実は甘酸っぱく、果汁がじゅわっと口に広がる。
「リュカ。どうだ、うまいか?」
「あい! おいちい!」
リュカの目が、今日一番に輝いた。
赤ベリーの味を覚えたリュカはしゃがみ込んで、レンガで囲われた花壇から幾つも溢れている実を物色し始める。
「じいじ、もいっこ! くーだしゃい!」
「ふっ……ああ」
三歳ならば自分でも採れるだろうと、リュカの小さな手首を掴んで食べ頃の実まで導く。すかさず、実を掴んだリュカの手をそのまま下に引っ張ってやると、ぶちっと茎がちぎれた。
リュカは「とっちゃー!」と喜んで、さっそく採れたて赤ベリーの先が尖った方から齧り付いている。
「んん〜!! あま〜!」
「そうか、そうか」
自分の目尻が下がっていることがわかる。幼く無邪気な孫は、ことのほか可愛い。……けれど、息子のマルクが子どもの頃も、それはそれは可愛らしかったのだ。
──とうさん! これ、すっごくおいしい!
いつかのマルクは、両手に大粒の赤ベリーを持って、交互に齧りついていた。
リュカはルイほどはマルクに似ていないと思っていたが、幼き日のマルクの笑顔と笑い声が、何故かいまのリュカと重なる。食い意地が張っているところも、まるきり一緒だ。
(……あやつは、この赤ベリーをジャムにしたのが好きだったな。それこそ、まだ熱い作りたてを食べ尽くすほどに)
今日は、情に流されまいと封じたはずの記憶が、ぽろぽろと蘇る。私は大きく息を吸って、空を見上げた。これはきっと、眩しい太陽の日差しが目に染みたせいだ。
「じいじー、はあく、かえりょ〜!」
いつの間にか、リュカは一人で満足するまで赤ベリーを採っていた……というよりも、一番美味しいところだけを直に齧ったのだろう。小さな歯型がついた赤ベリーが、無惨にもあちこちに放置されていた。
まだ物の道理もわからぬ幼児から目を離した、私の責任だ。庭師にはあとで私が怒られよう。
そうため息を吐きつつリュカを見ると、その小さな両掌には、数粒の赤ベリーがのっていた。
「……リュカ、それはどうした?」
「えへへ〜。にいにに、どうじょ、しゅるの!」
「そうか……。ルイが喜ぶな」
きっと、美味しかったから兄にも分けてあげたいと言うことなのだろう。幼いながらも純粋に兄を思う心に胸が温かくなって、私はリュカの頭を撫でた。
(……そろそろ、ルイは午後の休憩時間だろう。であれば、リュカの採ったこの赤ベリーを差し入れてやるか)
さすがにこれは無下にできない。リュカから赤ベリーを受け取り、ジャケットの胸ポケットに入れていたハンカチで包んだ。
そして、「はあく! はあく!」と急かすリュカと手を繋ぐと、私は思い出を背にして、邸へと歩き出した。
■ 補足
・ヴァレー家の庭園は、ポタジェガーデン風をイメージしています
・今回出てきた「赤ベリー」は「苺」のことです
・こうして、リュカは時々こっそり事務室をのぞいては、寂しさを紛らわせていました(初めの頃のみですが。だんだんと日中ルイがそばにいないことにも慣れていきました)




