蜘蛛の巣5
蜘蛛の巣5
頬が痛んだ。骨が折れたわたしの頬。痛みがわたしを現実に引き戻す。
彼はにせものだ。
わたしは目の前の男を見つめた。頭の中を引っ掻き回した男。それによってわたしが答えをつかむとは考えなかったのかもしれない。
「もう来ないでください」
「え?」
天野先生には本当に理解できないのだろう。わたしはもう一度、ゆっくり言う。
「もう、来ないでください」
やっぱりわかってない。
「わたし、一人でも大丈夫です。だれもいなくても、自分の力で新しい世界を作れますから」
天野先生は少し口を開けたまま、動きを止めている。漫画みたい。こんな返事はまったくの想定外。そう、考えてもみなかったんだ。
「もう一度言いましょうか?」
「いや、いい。聞こえてる」
ようやく口が動いた。確かに聞こえてはいるのだろう。わたしは立ち上がって、笑ってみせた。
「今までありがとうございました。それから、この間はすみません。わたし、先生がいなくてさみしかったんです。そんなの言い訳にならないけど」
微笑んだ顔はいっそう醜く映るだろう。さっきまでの涙が汚らしく光っているだろう。でもわたしは、顔を隠すことをやめて天野先生に向かい合っている。
「それから卒業制作、わたしを外してください。学部生使って、自分の脚本でやってみたいんです」
「おまえが?」
今までよりももっと驚いた顔。当然だ。だれもが驚くだろう。天野先生が流した噂を信じている小泉くんや菅原くん、それに院生たちは何と言うだろう。やはり天野先生に破門されたと揶揄するだろうか。今まで与えられた仕事だけをこなしてきたわたしに何ができるのかと、興味本位で遠くから眺めるだろうか。
「構いませんよね。何か問題がありますか?」
「卒業制作の演出をやりたいんだったら」
「違います。脚本から自分で書いて、演出して、天野先生の世界じゃなく、わたしの世界を作りたいんです。もし卒業制作として認めてもらえないんだったら、それでもいいです。自分の劇団立ち上げます」
天野先生は笑おうとした。簡単にそんなことができるわけないじゃないか。声が聞こえたような気がした。でも言葉にはならなかった。彼は彼でショックを受けていて、笑い飛ばすことができないのだろう。全部自分の思い通りに、自分の脚本通りに進行すると思っていたから。
場当たりとキッカケ練習、きちんとやっておいたほうがよかったんじゃないですか?
わたしはおかしくて、くすりと笑った。笑えなかった天野先生は憤慨した。
「何がおかしいんだ」
「ごめんなさい」
突然、音楽が流れた。天野先生がジーンズの後ろポケットに手を突っ込んで、携帯電話を出した。ボタンを押して音を止める。
「忙しいんでしょ。もう帰ったらどうですか。明日の授業、準備しなきゃいけないでしょう」
わたしの声に、戸惑ったような表情を見せた。自分のペースが取り戻せない、かわいそうな天野先生。
「わたしも明日から学校にちゃんと行きます。こんな顔でも、仕事はできますから。演出補。きっちり仕事させてもらいます。心配しなくても、人の噂も七十五日です」
天野先生のおしりを押すようにして玄関に出た。天野先生は何か言おうとしていたが、うまく言葉にできないようだった。
「それでは、ありがとうございました。あ、鍵、返してください」
納得のいかない表情で、それでも天野先生はすんなり鍵を返してくれた。コドモっぽい彼のことだから、もしかすると後で嫌がらせに何かしてくるかもしれない。わたしの芝居の妨害とか。
だけど卒業してから、わたしにはたっぷりの時間がある。自分の劇団を持って、ゆっくり書けばいい。
蜘蛛の巣から出て、もう一度はじめから。次はだれかの世界ではなく、自分の世界を作るために。
台所の隅に、実家から送ってきた段ボールが置いたままになっていた。段ボールの側面には大きく、「わかさいも」と書いてある。
甘い甘い、わかさいも。
二度目の大学生活を、まったく違う自分を使って過ごすことだって、わたしにはできる。わたし自身さえここにいれば。
パソコンを起動した。ワープロソフトを立ち上げる。そして初めての、自分だけの脚本を書き始めた。
ヤングポテト・セカンドフライ
幕は、自分で上げる。




