表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

蜘蛛の巣4

蜘蛛の巣4


 気がつくと、明るい光がカーテン越しに差し込んでいた。時計を見ると八時だった。

 殴られて昏倒した。わたしが寝ていたのははたして一晩だけだったのか、それとも脳に考えられないような傷を負って、もっと長い間寝ていたのか、判断できなかった。

 そうだ、携帯電話に日付が出る。そう思ったが、自分の横に転がる携帯電話はめちゃくちゃに壊れていた。

 それを確認しているとき、急激に頬に痛みが襲ってきた。痛みは頬から頭部全体に広がり、頭を動かすのがつらい。試しに口を開けてみると、経験したことのない激痛で目がくらんだ。

 骨だ、骨が折れてるんだ。

 そっと触れてもそれだけで痛かったので、わたしは確信した。そしたら太ももが震え出した。こわい。すごくこわい。

 恐怖の対象は天野先生だろう。頬の骨が折れるほど女を殴りつけておいて、そのまま帰宅して様子も見に来ない。事実わたしは気付くまで、少なくとも十時間は経っているのだ。本当なら、すぐに救急車を呼ぶだろうと思う。

 けれどわたしが震えているのは天野先生なんかに対してじゃなく「下手すると死んでたかもしれない」という、もっと動物的な理由なのかもしれない。ともかく、震えは太ももから全身に移った。

 震えがおさまり出すと、今度は見た目がどうなっているのか気になり始めた。そっと触った感触では、変形しているようだった。よくドラマや映画で見る殴られた人は、目がつぶれてしまっている。あれは目の上を殴られたからなのか。それとも殴られたらみんな、あんなふうになるのだろうか。

 天野先生、と思った。

 わたしがおかしな顔になっても、天野先生はわたしの部屋に来てくれるのだろうか。

 いや、わたしは混乱している。天野先生は小泉くんや菅原くんからのメールを見て、わたしを殴るほどに怒っていたじゃないか。もう、わたしがどんな顔をしていようと、愛想を尽かしてしまったのだ。戻ってくることはない。

 そう思うと、胸の奥から泣きたい衝動が起こった。けれど嗚咽した拍子に頭が動いて、その痛みで涙は止まってしまった。痛い。痛いよう。だれか。

 わたしは携帯電話を持ってみた。だれかにコールしたかった。一人では動くことすらできない。痛みは消えそうになかった。早く病院に行ったほうがいい。わかっていても、携帯電話は起動しなかった。

 あまのせんせえ。

 わたしは唇だけを動かした。

 あまのせんせえ、かえってきて。

 涙が壊れた頬を伝った。頭を揺らさずに泣く方法をわたしは会得した。すると涙はどんどん溢れて、胸のあたりにぽたぽた落ちた。

 そこで初めて、自分がまだ何も身に付けていないことに気付いた。そうだ、シャワーから出てバスタオルを巻いた状態で、殴られたんだった。救急車を呼ぶにしても、服を着なくちゃ。

 頭を動かさないようにして立ち、そっと動いてみた。なんとかなりそう。洋服ダンスから一番上に置いてあったTシャツとジーンズ、下着を取って、注意深く身に付けた。Tシャツに頭を通すとき、頬に生地が触れないように苦労したが、慣れれば頭を動かさずに移動するのは簡単だった。

 よし、それじゃあトイレに行って、顔がどうなってるか鏡で見てみよう。

 わたしはそろりそろりと歩いて、トイレに入った。用を足してから小さい鏡に顔を映す。

 ひどい有様だった。

 殴られた左側の頬はこんもりと腫れ上がり、全体に青紫になっている。もちろん左目はほとんど開いていない。左頬から鼻との境界がなくなり、ひとつの大きな山があるだけだった。そこに涙のべたべたした跡が付き、てらてらと光っている。

 長いあいだ鏡の中の自分を、ただじっと見つめた。

 これはもう人間の顔ではない。そう思った。

 こんな顔で、だれに助けを求められるというんだろう。天野先生はもちろん、ほかのだれだって、こんな顔の女に情を掛けてくれるわけがない。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 だれだろう。天野先生? 心配して来てくれたの? だとしても、この顔では会えるわけがない。

 チャイムがもう一度鳴る。わたしは体を固くしたまま、トイレの中にいた。するとがちゃりとドアの開く音が聞こえた。ああ、天野先生が帰ったままだったから、鍵をかけていなかったんだ。

 わたしはトイレのドアを閉め、鍵をかけた。

「春菜さん、小泉です。どうしたんですか、いるんでしょう?」

 わたしはドアを握りしめた。絶対に会いたくない。こんな顔のわたしを見たら、小泉くんだって逃げていく。

「ここですね」

 声がして、トイレのドアを引く強い力を感じた。鍵が閉まっているから開くことはない。けれどわたしはこわくてたまらなかった。

「帰って!」

 大声を出すと頭に響いた。次の言葉を出すことができない。

「学校には来ないし、携帯は留守電になってるし、心配したんだから、開けてよ。どうしたっていうの」

 小泉くんの声はほんとうに心配そうだった。だけどわたしは知ってる。わたしが昨日までの顔だったから、彼は心配してくれてるだけなんだ。

「いいから、帰って」

 弱い声でそう言った。それしか言うことはない。

「天野先生が、春菜さんを舞監から下ろすって言ってたけど、関係あるの? 先生に聞いても、違う役職につける、って言うだけで、何が何だか」

 舞台監督を下ろして違う役職につける? 何を考えてるんだろう。

 どんどん、とドアが叩かれる。

「とにかく開けろよ。何が起こってるとしても、おれが力になるから。頼むから、開けてよ」

 力になんかなりっこない。こんな顔で泣き腫らしたわたしを見て、助けてくれっこない。そんなくらい、わたしにだってわかる。

「嘘言わないで、帰って」

 わたしの声はちゃんとドアの隙間から、小泉くんに届いた。彼はドアを叩く手を止めた。

「嘘?」

 嘘じゃないか。力になんかなれないんだ。わたしの顔を見たら最後、逃げ帰るに決まってるのに、なんで口先ばっかりでうまいこと言うんだ。

「なんでおれが嘘なんか言わなきゃなんないんだよ」

 ほら、そんなくらいで怒っちゃう。やっぱりわたしを助けてなんかくれない。

「おれは心の底から力になりたいと思ってるのに、何で嘘つき呼ばわりされるわけ? 顔ぐらい見せろよ。かわいくねえ」

 そうよ、かわいくないのよ。かわいかったらすぐに甘えて、助けてもらえるのよ。

 わたしは鏡を見た。鏡の中の女の顔は、醜く変形していた。

「だから帰ってよ」

 小泉くんは黙っていた。そして、ドアから手を離す感触がした。

「帰るよ。わかったよ、もう。ほかに男がいるんだろ、どうせそんなことなんだろ。おれと終わりたいだけなんだろ。だったらそう言えよな。勝手に隠れてろ」

 大きな足音を立てて、小泉くんは出ていった。わたしはトイレのドアを開けて、部屋の真ん中に立ち尽くした。

 一日経つと痛みが少し和らいだので、わたしはマスクと帽子で顔を隠して病院に行った。やはり骨が折れていた。いくつかの検査を受けて、異常がないとわかってから帰宅が許された。帰りに蜘蛛の巣に寄り、一階にある掲示板だけを見た。

「木津春菜 舞台監督→演出補」

 演出補? 何のつもり? 演出にくっついて、それこそ演出の秘書みたいな仕事をするスタッフに、どうしてわたしを起用するの? 演出が出演するわけじゃない芝居に、演出補なんて必要ないじゃない?

 天野先生に会いたい気持ちが起こったが、注意深く顔を隠したまま、家に帰った。

 小泉くんと違い、菅原くんは家まで来ることがなかった。しょせんそんなものだ。たとえ心配しても、来る勇気はないんだ。

 流動食を食べ、痛み止めの薬を飲んでいると、チャイムが鳴った。出る気はない。けれど誰が来たのか、気になった。

「春菜」

 声は天野先生だった。ドアが開いた。合鍵。隠れる暇がなかった。

「ははは、学校に来ないんで予想はしてたけど、すごい顔だな」

「帰ってください」

 言いながら、来てくれたことが嬉しかった。でも、顔を見られるのはどうしてもイヤだ。わたしは天野先生から顔を背け、手のひらで隠した。

「それはそうと、小泉は怒ってクラスでお前の悪口を言いまくってるぞ。閑職の演出補にされたのは、おれの直筆脚本売ってたからだってさ。ははは、売れるのかね、そんなもん。一体あいつに何したんだ? 菅原はそれを真に受けてるから、もうお前には関わらないだろうしな。院生ほとんど信じちゃって、もうお前の信用ゼロ」

「その根も葉もない噂、どうせ天野先生が流したんでしょう?」

 わたしは言いながら、悔しくて流れ出る涙をこらえるのに必死だった。天野先生はケロっとした声で答えた。

「そうだよ」

 思わず、わたしは振り向いた。その醜い顔を天野先生に晒した。

「なんでそんなこと」

「それくらいのことで去っていくヤツのことなんか、もう考えるなよ。かわいそうに、お前は裏切られたんだ。ただの噂を信じるバカどもにな。やっぱりお前は一人なんだ。さあ、一人はつらいぞ。誰かと一緒でないと」

 天野先生は腕を広げてみせた。わたしの顔を見ても、帰らない。この醜い顔を見ても。

 わたしは天野先生をじっと見つめ返した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ