蜘蛛の巣4
蜘蛛の巣4
気がつくと、明るい光がカーテン越しに差し込んでいた。時計を見ると八時だった。
殴られて昏倒した。わたしが寝ていたのははたして一晩だけだったのか、それとも脳に考えられないような傷を負って、もっと長い間寝ていたのか、判断できなかった。
そうだ、携帯電話に日付が出る。そう思ったが、自分の横に転がる携帯電話はめちゃくちゃに壊れていた。
それを確認しているとき、急激に頬に痛みが襲ってきた。痛みは頬から頭部全体に広がり、頭を動かすのがつらい。試しに口を開けてみると、経験したことのない激痛で目がくらんだ。
骨だ、骨が折れてるんだ。
そっと触れてもそれだけで痛かったので、わたしは確信した。そしたら太ももが震え出した。こわい。すごくこわい。
恐怖の対象は天野先生だろう。頬の骨が折れるほど女を殴りつけておいて、そのまま帰宅して様子も見に来ない。事実わたしは気付くまで、少なくとも十時間は経っているのだ。本当なら、すぐに救急車を呼ぶだろうと思う。
けれどわたしが震えているのは天野先生なんかに対してじゃなく「下手すると死んでたかもしれない」という、もっと動物的な理由なのかもしれない。ともかく、震えは太ももから全身に移った。
震えがおさまり出すと、今度は見た目がどうなっているのか気になり始めた。そっと触った感触では、変形しているようだった。よくドラマや映画で見る殴られた人は、目がつぶれてしまっている。あれは目の上を殴られたからなのか。それとも殴られたらみんな、あんなふうになるのだろうか。
天野先生、と思った。
わたしがおかしな顔になっても、天野先生はわたしの部屋に来てくれるのだろうか。
いや、わたしは混乱している。天野先生は小泉くんや菅原くんからのメールを見て、わたしを殴るほどに怒っていたじゃないか。もう、わたしがどんな顔をしていようと、愛想を尽かしてしまったのだ。戻ってくることはない。
そう思うと、胸の奥から泣きたい衝動が起こった。けれど嗚咽した拍子に頭が動いて、その痛みで涙は止まってしまった。痛い。痛いよう。だれか。
わたしは携帯電話を持ってみた。だれかにコールしたかった。一人では動くことすらできない。痛みは消えそうになかった。早く病院に行ったほうがいい。わかっていても、携帯電話は起動しなかった。
あまのせんせえ。
わたしは唇だけを動かした。
あまのせんせえ、かえってきて。
涙が壊れた頬を伝った。頭を揺らさずに泣く方法をわたしは会得した。すると涙はどんどん溢れて、胸のあたりにぽたぽた落ちた。
そこで初めて、自分がまだ何も身に付けていないことに気付いた。そうだ、シャワーから出てバスタオルを巻いた状態で、殴られたんだった。救急車を呼ぶにしても、服を着なくちゃ。
頭を動かさないようにして立ち、そっと動いてみた。なんとかなりそう。洋服ダンスから一番上に置いてあったTシャツとジーンズ、下着を取って、注意深く身に付けた。Tシャツに頭を通すとき、頬に生地が触れないように苦労したが、慣れれば頭を動かさずに移動するのは簡単だった。
よし、それじゃあトイレに行って、顔がどうなってるか鏡で見てみよう。
わたしはそろりそろりと歩いて、トイレに入った。用を足してから小さい鏡に顔を映す。
ひどい有様だった。
殴られた左側の頬はこんもりと腫れ上がり、全体に青紫になっている。もちろん左目はほとんど開いていない。左頬から鼻との境界がなくなり、ひとつの大きな山があるだけだった。そこに涙のべたべたした跡が付き、てらてらと光っている。
長いあいだ鏡の中の自分を、ただじっと見つめた。
これはもう人間の顔ではない。そう思った。
こんな顔で、だれに助けを求められるというんだろう。天野先生はもちろん、ほかのだれだって、こんな顔の女に情を掛けてくれるわけがない。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
だれだろう。天野先生? 心配して来てくれたの? だとしても、この顔では会えるわけがない。
チャイムがもう一度鳴る。わたしは体を固くしたまま、トイレの中にいた。するとがちゃりとドアの開く音が聞こえた。ああ、天野先生が帰ったままだったから、鍵をかけていなかったんだ。
わたしはトイレのドアを閉め、鍵をかけた。
「春菜さん、小泉です。どうしたんですか、いるんでしょう?」
わたしはドアを握りしめた。絶対に会いたくない。こんな顔のわたしを見たら、小泉くんだって逃げていく。
「ここですね」
声がして、トイレのドアを引く強い力を感じた。鍵が閉まっているから開くことはない。けれどわたしはこわくてたまらなかった。
「帰って!」
大声を出すと頭に響いた。次の言葉を出すことができない。
「学校には来ないし、携帯は留守電になってるし、心配したんだから、開けてよ。どうしたっていうの」
小泉くんの声はほんとうに心配そうだった。だけどわたしは知ってる。わたしが昨日までの顔だったから、彼は心配してくれてるだけなんだ。
「いいから、帰って」
弱い声でそう言った。それしか言うことはない。
「天野先生が、春菜さんを舞監から下ろすって言ってたけど、関係あるの? 先生に聞いても、違う役職につける、って言うだけで、何が何だか」
舞台監督を下ろして違う役職につける? 何を考えてるんだろう。
どんどん、とドアが叩かれる。
「とにかく開けろよ。何が起こってるとしても、おれが力になるから。頼むから、開けてよ」
力になんかなりっこない。こんな顔で泣き腫らしたわたしを見て、助けてくれっこない。そんなくらい、わたしにだってわかる。
「嘘言わないで、帰って」
わたしの声はちゃんとドアの隙間から、小泉くんに届いた。彼はドアを叩く手を止めた。
「嘘?」
嘘じゃないか。力になんかなれないんだ。わたしの顔を見たら最後、逃げ帰るに決まってるのに、なんで口先ばっかりでうまいこと言うんだ。
「なんでおれが嘘なんか言わなきゃなんないんだよ」
ほら、そんなくらいで怒っちゃう。やっぱりわたしを助けてなんかくれない。
「おれは心の底から力になりたいと思ってるのに、何で嘘つき呼ばわりされるわけ? 顔ぐらい見せろよ。かわいくねえ」
そうよ、かわいくないのよ。かわいかったらすぐに甘えて、助けてもらえるのよ。
わたしは鏡を見た。鏡の中の女の顔は、醜く変形していた。
「だから帰ってよ」
小泉くんは黙っていた。そして、ドアから手を離す感触がした。
「帰るよ。わかったよ、もう。ほかに男がいるんだろ、どうせそんなことなんだろ。おれと終わりたいだけなんだろ。だったらそう言えよな。勝手に隠れてろ」
大きな足音を立てて、小泉くんは出ていった。わたしはトイレのドアを開けて、部屋の真ん中に立ち尽くした。
一日経つと痛みが少し和らいだので、わたしはマスクと帽子で顔を隠して病院に行った。やはり骨が折れていた。いくつかの検査を受けて、異常がないとわかってから帰宅が許された。帰りに蜘蛛の巣に寄り、一階にある掲示板だけを見た。
「木津春菜 舞台監督→演出補」
演出補? 何のつもり? 演出にくっついて、それこそ演出の秘書みたいな仕事をするスタッフに、どうしてわたしを起用するの? 演出が出演するわけじゃない芝居に、演出補なんて必要ないじゃない?
天野先生に会いたい気持ちが起こったが、注意深く顔を隠したまま、家に帰った。
小泉くんと違い、菅原くんは家まで来ることがなかった。しょせんそんなものだ。たとえ心配しても、来る勇気はないんだ。
流動食を食べ、痛み止めの薬を飲んでいると、チャイムが鳴った。出る気はない。けれど誰が来たのか、気になった。
「春菜」
声は天野先生だった。ドアが開いた。合鍵。隠れる暇がなかった。
「ははは、学校に来ないんで予想はしてたけど、すごい顔だな」
「帰ってください」
言いながら、来てくれたことが嬉しかった。でも、顔を見られるのはどうしてもイヤだ。わたしは天野先生から顔を背け、手のひらで隠した。
「それはそうと、小泉は怒ってクラスでお前の悪口を言いまくってるぞ。閑職の演出補にされたのは、おれの直筆脚本売ってたからだってさ。ははは、売れるのかね、そんなもん。一体あいつに何したんだ? 菅原はそれを真に受けてるから、もうお前には関わらないだろうしな。院生ほとんど信じちゃって、もうお前の信用ゼロ」
「その根も葉もない噂、どうせ天野先生が流したんでしょう?」
わたしは言いながら、悔しくて流れ出る涙をこらえるのに必死だった。天野先生はケロっとした声で答えた。
「そうだよ」
思わず、わたしは振り向いた。その醜い顔を天野先生に晒した。
「なんでそんなこと」
「それくらいのことで去っていくヤツのことなんか、もう考えるなよ。かわいそうに、お前は裏切られたんだ。ただの噂を信じるバカどもにな。やっぱりお前は一人なんだ。さあ、一人はつらいぞ。誰かと一緒でないと」
天野先生は腕を広げてみせた。わたしの顔を見ても、帰らない。この醜い顔を見ても。
わたしは天野先生をじっと見つめ返した。




