蜘蛛の巣3
蜘蛛の巣3
その日は一人になりたくなかったので、小泉くんの部屋に泊まった。わたしたちは何度か抱き合って、あまり眠らないまま朝を迎えた。
カーテンを通して部屋に光が差し込んでくると、知らない部屋で一晩を明かした妙な違和感が、まぶたの裏から全身に広がった。
「ありがとう、そろそろ帰るね」
枕に顔を押し付けて寝ている小泉くんの耳に囁きながら、洋服を身に着ける。彼はハッと起き上がって、まだ焦点の合わない目でわたしを見た。
「え、おれ朝食作りますよ。それにまだ七時じゃないですか」
「朝イチから制作実践の授業入ってんの。その前に一度家に帰ってシャワー浴びたいし」
すっかり服を着てから、何も着ていない小泉くんを抱きしめた。Tシャツを通して彼の体温を感じると、急にとても恥ずかしくなった。
「じゃ、またね」
「ほんとにまた来てよ」
小泉くんが言った。体を離すとき、それまで意識することがなかった強い汗の臭いがした。
帰宅してシャワーを浴びると、昨日のことがすっかり嘘になった。トーストを焼いてコーヒーをいれる。わたしの生活。わたしの部屋。いつもと変わらない。
天野先生の脚本を読みながら、トーストを食べた。少し焦がした耳がカリカリと音を立てる。次回のスタッフ会議は三日後に開こう。それまでに大体のプランを上げておくよう、研究室のホワイトボードに書かなければ。舞台監督班は、本番までのスケジュールをそれまでに作成しておかないと。
わたしは脚本を読みながら、そのシーンに必要な作業を書き出していった。それが終わると、家を出なければいけない時間だった。
歩きながら、小泉くんと菅原くんにメールを打つ。今日の五時から舞監ミーティング。第三研究室にて。それだけの内容で送信して、授業に急いだ。
夕方になりミーティングのため第三研究室に入ると、すでに菅原くんが座っていた。
菅原くんはわたしを見ると、生真面目そうに立ち上がって挨拶をした。
「いいのよ、座って座って」
わたしは慌てて彼の隣に座った。わたしが座らないと、菅原くんは座りそうにない。
「体育会じゃないんだし、気楽にやってよ」
笑いながら言うと、すみません、と恥ずかしそうにうつむいて呟いた。
「脚本読んだ?」
菅原くんはぎこちなくうなずいて、自分の脚本を鞄から出した。そこにはびっしり、几帳面な文字で書き込みがしてあった。
「すごい。よく読み込んできたね。天野先生が見たら喜ぶよ」
天野先生、と言うと、いつもこの隣の部屋で机の上のパソコンとにらめっこをしているはずの天野先生が今はいない、ということをまた思い出した。あちこちに不在はある。わたしは長く離れているのに慣れていない。
菅原くんを見ると、所在無さげにシャープペンシルを指の上で回して、自分の書き込みでいっぱいの脚本を読んでいた。
わたしは椅子を近づけた。
「小泉くんは制作志望って言ってたっけ。菅原くんは?」
「脚本演出、です」
ちらりとわたしを見て、また脚本に目を落とした。脚本に目を落としても、今度は読んでいないのはすぐにわかった。
「どんなの書いてるの?」
わたしはさらに近づく。乾き切っていない洗濯物のにおいが、かすかにした。
「いろいろ、書いてます。まだ先生に出したことないけど」
今度は目を落としたままで答える。
「読ませてよ。わたしに」
耳元で言ったとき、ドアノブの回る音がした。菅原くんのほうが、とっさに離れた。
「おはようございます、おれが最後でしたか」
小泉くんが入ってきて、わたしにだけ会釈した。目が何事かを語りかける。わたしはうなずいてみせた。
「本番までのプラン、立てちゃいましょう」
立ち上がって小泉くんを菅原くんの隣に座らせた。わたしは二人の向かいに座る。そうしてミーティングを始めた。
天野先生が帰ってくるまでに、わたしは小泉くんの部屋に三度泊まった。
「天野先生の書くものは時代も国も登場人物もバラバラだけど、どれも現代に生きていることの違和感、みたいなものがテーマだと感じるんです。春菜さんはどう思いますか?」
小泉くんは熱に浮かされたように天野先生のことを話す。わたしはテーマなんて考えたことがない。天野先生の頭から出てきた言葉だというだけで、ぼうっとしてしまうだけだ。
だけどそんなことは言えなくて、小泉くんに合わせるように適当な言葉を並べて返事をしてしまう。小泉くんは満足したようにうなずき、その満足した体でわたしを抱いた。
菅原くんからのメールは、最初は舞台監督の仕事についてだった。些細な質問が一日に三度ほど来た。面倒だと思いながらもきちんと返信していると、そのうち内容が私生活の報告みたいになってきた。朝から健康のためにジョギングすることにしました、などという他愛もないメールを読んでいると、生真面目な彼の表情を思い出して笑ってしまった。一週間も経たないうちに、二人で会いたい、というメールに変わった。わたしは、もちろんいいよ、と返事した。
菅原くんと二人で会う前に、天野先生から電話があった。先生の帰国する前の日で、朝の五時だった。わたしは寝ぼけて、小泉くんの部屋にいると勘違いし、携帯をつかんで廊下に飛び出した。
「春菜、明日帰るから、空港まで迎えに来い」
第一声がそれだった。わたしは自分のマンションにいることに気付いて、部屋に戻りながら言った。
「なんで今まで電話くれなかったんですか。公演どうだったんですか。ひどいじゃないですか、ほったらかしにして」
「来るのか来ないのかどっちだ」
「お客さんいっぱい入ったんですか。わたしまた舞監ですよ。なんかみんな、ただのスタッフなのにアーティスト気取りでわたしのことバカにして、すごく寂しかったんだから」
「で、来るんだろ? 夕方五時な」
「五時って、今日のこと? 明日?」
「明日だって言ったろ。何度も聞くなって」
「そっちはまだ昨日でしょ? 明日って今日?」
「わけのわからんことを言うな。おまえの明日だ。フライト時間考えろ」
いつも通り、自分の都合だけで勝手なことを言うけれど、声が聞けてとても嬉しかった。
「じゃあ、切るけど、帰ったら空港近くのホテルに泊まろう。レストラン予約したから。またな。楽しみにしてる」
天野先生はそう言って、電話を切った。ちゃんと優しい言葉も忘れない。わたしはもう眠れなくて、朝から洗濯をした。
天野先生が帰って来ると、蜘蛛の巣も活気づいた。天野先生は帰国早々スタッフ会議に出て、各スタッフの動きを把握し、指示を出した。スタッフは天野先生がまとめている。たしかに舞台監督の仕事はなくなった。
会議のあと、小泉くんからメールが来た。
——今日来ない?
天野先生が部屋に来ることになっていた。わたしはもちろん、口実をつけて断った。
入れ替わりに菅原くんからメールが来た。
——いつ会えますか?
こちらも適当な返事をしてお茶を濁すしかない。
夜になると約束通り、天野先生が来た。用意していたパスタを二人で食べたあと、わたしは先にシャワーを浴びた。
スポンジで体を洗っていると、天野先生がいなかった時間を思い出すほうが難しかった。空港で天野先生の姿を見たとたん、いなかったときに感じていたさみしさが体の奥にすっ、と沈殿してしまったのだ。もう思い出すこともなく、排出されていくのかもしれない。
鼻歌まじりでバスルームから出ると、天野先生は立って待っていた。入れ替わりでシャワーを浴びるつもりだろうと思い、ドアを開けたままにしていると、「閉めろ、湯気が出る」と不機嫌な声で言われた。
「何を怒ってるの?」
わたしがそれでも能天気にたずねると、いきなり視界が真っ暗になった。自分がどちらを向いているのかわからなくて手を伸ばすと、テーブルの角にたどり着いた。
それから、頬に痛みがやってきた。
わたし、殴られたんだ。
そう気付いたとき、天野先生はわたしの太ももを蹴り付けていた。
「なに、なに、やめて」
太ももに断続的な痛みを感じる。頬が焼けているような気がして、わたしは両手で顔を覆った。
ただ怖かった。何が起こっているのかさっぱりわからない。太ももへの攻撃がやんでも、やはり痛みは残っていた。自分の周りは暗いままで、ぼんやりと輪郭の見える、目の前にあるものが一体何なのか、自分の体がどうなっているのか、知る術がない。
そうやって恐怖を感じていた時間が一瞬だったのか、長い時間だったのかはわからない。ともかく突然視界に色が戻って、やっと自分が倒れていることに気付いた。目の前にあるのは、天野先生の足だった。
見上げると、わたしの携帯電話を握った天野先生が、仁王立ちでわたしを見ていた。
「小泉と菅原。一年のあいつらか。人が日本にいないと思って、ふざけんな」
頭の上に、携帯電話が降ってきた。すごい音を立てて床に落ちたそれは折り畳む箇所が不自然に折れていて、もう使えないと一目でわかった。
わたしに何を言わせる暇も与えず、天野先生は出て行った。わたしは目を閉じた。世界がぐるぐる回り始めた。




