蜘蛛の巣2
蜘蛛の巣2
夏に入ろうとしていた。梅雨のじめじめした季節から、切れ目なく夏に移行してしまう。梅雨に取り残されたままの湿気が体にまとわりついていた。
天野先生が公演のためにイギリスへ旅立ったのは、昨日のことだ。ホールで行なわれた授業のあと、すぐに天野先生は海外公演の準備に入ってしまい、授業のある日以外は学校にも来なくなってしまった。わたしは何度も電話したが、それに応じて来てくれたのは数えるほどで、いつも身勝手に連絡なしでマンションにやって来るのが嘘のようだった。
いつもなら天野先生は、自分の演出する舞台にわたしや数人の院生を連れて行き、勉強しろと言って手伝わせてくれた。それなのに、天野先生にとって初めての海外公演は練習を覗かせてもらえないどころか、公演にも来るなと言われていた。
「どうして行っちゃいけないんですか? 旅費だせとか言わないのに。ちゃんとチケット買って、見に行きたいって言ってるのに」
練習の見学にも呼ばれない鬱憤が溜まりに溜まって、わたしは出発直前に会いに来た天野先生にそう言った。本当に見たいのに。天野先生の公演は全部見たいと思ってるのに。
「帰国してからの凱旋公演が決まってるんだから、そっちに来ればいいだろう」
天野先生は不機嫌そうに言った。
「今年卒業なんだから、おまえはもっと勉強しろ」
「勉強したいから公演見たい、って言ってるんじゃないですか。わかった。そんなに来て欲しくないってことは、キャストかスタッフの女に手を出したんでしょう。わたしが来ると、ややこしくってたまんないんでしょう」
わたしが半ば本気で責めよると、天野先生はますます不機嫌になって、「帰る」と言い出した。
「図星なんだ。ずるい。汚い。全然来ないと思ったら、ちゃんと女がいるんだ。そりゃあモテるでしょうよ、先生は」
このままイギリスなんかに行かれたらたまらない、と思っているのに、引き止める言葉が見つからなかった。わたしはわあわあ言って、天野先生に睨みつけられた。
「うるさい。勝手に勘違いしてろ。おれは芝居しに行くんだ。浮気旅行に行くんじゃない。夏休み明けにうちのゼミで公演打つんだから、その準備をちゃんとしとけ、って何度言ったらわかるんだ」
わたしはふてくされたままで、天野先生を見送った。
たしかに、夏休み明けすぐにゼミの公演がある。脚本は天野先生のものだけれど、演出は院生に任せられる。今回をたたき台にして卒業制作のプランを作らなければならない、大切な公演だ。
スタッフのチーフはそれぞれ専門コースの学生の中から選ぶ。今日はそのための会議が行なわれるのだ。天野先生のいない蜘蛛の巣に行って、第一研究室のドアを開けた。
部屋に入ると、すでに大半の院生が集まっていた。
「じゃ、そろそろ始めよっか」
時計を見て演出の早坂くんが言い、スタッフ会議は始まった。
音響、照明、道具、衣装メイクと、どんどんリーダーが決まり、チームができていく。最後に脚本コースの学生が残った。どこかのスタッフに入らなければならない。わたしも残された一人だった。
「春菜はこのまえ舞監やったからさ、今回違うほうがいいよね」
舞台監督は専門コースがないので、脚本コースの学生からその都度選んでいた。わたしは舞台監督をするのがキライじゃない。演出を除けば、天野先生といちばん近くで仕事ができるからだ。
「わたし、舞監やってもいいけど」
「えー、悪いよ。だって天野先生のパシリじゃん」
その言葉で全員が笑った。
「困るよね、いくら専門の人間がやってないっつっても、仕事任せて欲しいよね。うちのは天野先生の傀儡だからさ」
「ふつう舞監つったらスタッフのボスだぜ」
「春菜も今度は自分でプラン組む場所に行きたいでしょ?」
わたしは首を振った。
「舞監けっこう面白かったよ。それに、どの部署も最後は天野先生の監督下でやるんだし」
「一から作って最後に添削受けるのと、最初から仕事与えられるんじゃ、全然違うけどね」
早坂くんが言うと、みんながうなずいた。
「まあな、春菜は教授のお気に入りだから、いいんじゃないの」
照明班の男子がそう言った。数人が嘲るような笑い声を立てる。わたしが天野先生に可愛がられてるから、ここにいる全員が嫉妬してるんだ。わたしは唇を噛んで下を向いた。
結局また舞台監督に決まった。あとの時間は各スタッフに分かれ、下につく院の一年生も含めてプランを立てることになった。
わたしの下には先日の授業でオペレーションを担当した小泉くんと菅原くんがついた。
「舞台監督って、何するんですか」
「聞いてたでしょ。天野先生の言う通りにしてればいいの」
わたしはさっきの応酬の余韻から抜け出せず、投げやりに答えた。
「じゃあ、天野先生が帰国するまで仕事はないんですね」
菅原くんが真面目な顔でそう言うので、わたしは笑ってしまった。
「定期的なスタッフ会議の開催は、舞監の仕事です。あと練習にはできるだけ顔を出してね」
活発に話す他のスタッフとは違い、わたしたちにはすることがなかった。
「今日はもういいや」
わたしたちは連絡先の交換をして、解散することにした。
研究室を出たとき、小泉くんがわたしにだけ聞こえるよう、そっと囁いた。
「木津さんって、天野先生のお気に入りなんですか」
わたしは小泉くんの顔をじっと見た。視界の端で、菅原くんが階段に消えた。
「さあ、わたしにはわからないけど、よく言われる」
そう答えた瞬間、さみしさがこみ上げた。天野先生が遠いところにいる間、わたしはこの蜘蛛の巣でひとりぼっちだ。だれもわたしのことを大事にしてくれる人がいない。
「わたしのせいじゃないのに、ああいうこと言われたら、わりと傷つくのよ。なんか、フェアじゃない」
わたしは小泉くんの手を取って、軽く握った。彼は幼さが残る細面の顔に、不思議そうな表情を浮かべた。
「一人で帰るのがイヤになってきちゃった。帰ってもひとりぼっちだし。一緒にご飯食べない?」
小泉くんは不思議そうな顔のまま、うなずいた。わたしは握った手に力を入れた。
「ありがとう」
目の奥を覗き込むと、小泉くんは目を逸らして歩き始めた。
わたしたちはカウンターに並んでお酒を飲んだ。ビール一杯で小泉くんは真っ赤になった。わたしは腕を絡めてみた。小泉くんは拒否しなかった。さみしさが少し和らいだ。彼の肩に、体重を預けてみた。彼は弱々しくわたしの肩を抱いた。目線を上げると唇が近かったので、軽く自分のものを重ねた。
「そろそろ、出ましょうか」
天野先生ならそんな性急なことを言ったりしない、とわたしはまだ天野先生のことを考えていた。けれども言われるままに店を出て、そのまま小泉くんのアパートに行った。
わたしたちはワンルームのその部屋に入るなり、ベッドに倒れ込んだ。ベッドの上から小泉くんはエアコンの電源を入れた。小泉くんの部屋は散らかっていたが、不潔ではなかった。そのことだけで天野先生の研究室を思い出す。こうやってイメージが重なるのはアルコールのせいだ。目の前にいてわたしの体をつかんでいるのは確かに小泉くんなのに、いない人のことばかりを考える。
わたしはさみしさをぶつけるようにして、小泉くんの意外に引き締まった筋肉質の体にしがみついた。
小泉くんがぐったりしてからも、裸のままで抱き合っていた。ようやく効き始めたエアコンの風が届かない、体の重なった部分から汗が流れて横腹を伝い落ちる。さみしくて抱き合ったのに、終わってみるとさみしさは余計に深まった。わたしはどうしても離れることができなかった。
突然、小泉くんが、ははは、と笑った。
「どうしたの?」
驚いてわたしが聞くと、彼は少しだけ体を持ち上げて、わたしの頬を両手で挟んだ。
「大好きな天野先生のお気に入りを、抱いてしまった」
そうしてふいに小泉くんの口から出た、天野先生、という言葉をわたしは自分の口の中で呟いてみる。
ここにいない天野先生。日本から遠いところにいる天野先生。蜘蛛の巣でのスタッフ会議でわたしが何を言われたか知らない天野先生。まだ昼のロンドンで、自分が中心に立って公演の準備をしている精悍な顔つきの天野先生。
センテンスはどんどん長くなる。
「小泉くん、すごく好き」
彼は静かに、わたしの髪を撫でてくれた。




