蜘蛛の巣1
蜘蛛の巣1
ポットのお湯をマグカップに入れて、スプーンでぐるぐるかき回しながら椅子に戻った。中身はポタージュスープ。天野先生の研究室で徹夜した明くる朝の、定番メニュー。
「春菜、今からマンション行ってもいい?」
天野先生がパソコンの向こうから、眠そうな声で聞く。
「もう朝ですよ。今日一限から講義でしょ」
わたしがそう答えると、天野先生はコロコロのついた椅子を滑らせて、わたしの隣までやってきた。
「休講にできないかな。おれ、もう限界だ。途中で寝てしまうかも」
言いながら、わたしの肩を抱いて鎖骨のあたりに顔を埋める。わたしはマグカップを机の上に置いて、少し白髪が交じり始めたその髪の中に、そっと指を差し入れる。
資料作成を手伝ってくれ、というのはこの時間のことももちろん含まれてる。十五歳も年下のわたしに、徹夜明けの天野先生はいつもこうして甘えてくれる。
「ベッド、出しますか?」
耳元で聞いてみる。返事はない。天野先生はわたしの首筋に湿った唇を押し当てた。わたしは部屋の隅にたたんである簡易ベッドを横目で見ながら、椅子の上で天野先生に応えた。
研究室を出ると、すっかり明るくなっていて、わたしは目を細めて空を見上げる。
舞台芸術科の五階建ての建物は六角形で、真ん中が吹き抜けになっている。それを取り囲む形で研究室と講義室が並んでいるから、わたしたち学生はこの建物を「蜘蛛の巣」と呼ぶ。
蜘蛛の巣の地下には大きなホールが体をひそめている。わたしはそのホールに向かうため、エレベーターを呼んだ。
五月の空は高い。青い空から逃れるようにして地下に下りていく自分が恥ずかしかった。
午後三時から、天野先生による舞台芸術制作概論の講義がホールを使って行なわれる。実際に音響、照明をつけた役者による演技を学生に見てもらうため、今朝は早くから舞台設営をしなければならない。
学部生向けの講義なので、わたしを初めとする院生がスタッフとして働く。わたしは舞台監督を任されていた。
ホールに入って、昨夜徹夜で準備した講義の配布資料をホチキス止めしていると、四月から院に上がってきた一年下の男子がやってきた。
「おはようございます、小泉です」
「ああ、音響の。よろしくお願いします、舞監の木津です」
わたしは挨拶して、時計を見る。七時四十分。集合時刻の二十分前。
「偉い。早い。助かるわ」
小泉くんは照れくさそうに笑ってから、ホールを見回した。
「ホールでオペするの、初めてなんですよね。いつもは小劇場ばっかりなんで。嬉しいですよ、だから早く家出ちゃって」
「芝居自体はほんの五十分だけよ。あとは天野先生がぺらぺら喋るんだから」
天野先生書き下ろしの脚本を院生の役者が一週間で練習して、今日の本番にのぞむ。毎年違う学生を相手に五十分の芝居をするのだから、同じ脚本を使えばいいのに。先生は同じ脚本だとスタッフである院生がダレる、と言って、毎年違うものを書く。
「今回の脚本、一晩で上げたって本当ですか?」
小泉くんが、音響機材に電源を入れながら聞いた。
「そうよ。一晩。あの人の頭の中、どうなってるんだろうね」
「すげー。やっぱ天才」
自分のことを言われたみたい。心の中で笑いが止まらなくなる。天野先生が書いているとき、一晩中隣にいたのはわたしだ。わたしだけが、パソコンに向かって書く天野先生のしかめ面を知っている。
「小泉くんも、脚本書くの?」
わたしが聞くと、彼は配線チェックの手を止めて答えた。
「いえ、ぼくは制作のほうです。ダンスとか演劇の興行プロデュースをしたいと思ってます」
小泉くんはそこで、へへへ、といたずらっぽく笑った。
「でも実は、ミーハー的に天野さんの芝居が好きだったから、院に残ったんです。院生になったら、いっしょに芝居作れるでしょ、今日みたいに。夢のようだな」
天野先生は現役の脚本家、演出家でもある。わたしが入学した年には客員教授だったが、二年前から研究科の主任教授になった。
「おはようございます」
振り返ると、入り口にかしこまって立っている男がいた。
「おはよう。舞監の木津です。入ってください」
中に入った男の顔を見て、小泉くんが、おう、と声を上げた。やはり一年下のスタッフらしい。わたしも顔にだけは見覚えがある。
「照明オペの菅原です。よろしくお願いします」
「もう少ししたら他のスタッフも来ると思うんで、人数集まったら吊り込みに入ってください。照明プランは上がってるよね」
菅原くんは鞄からノートを出して、わたしに広げて見せた。几帳面に高さの揃った字が並んでいる。2Bくらいの濃い鉛筆。
「こっちはキッカケ表です。抜けてないか確認してください」
その声を聞いて、小泉くんがオペ室から降りてきた。
「おれにも見せて」
小泉くんは、菅原くんの丁寧な表を見ながら、自分のノートにその場で書き込んでいく。小泉くんの字は女の子みたいに丸みを帯びていた。
集合時間が近付くとスタッフが揃い始める。照明は吊り込みを始め、大道具の作業も始まって、会場中が騒がしくなった。わたしは客席に座って、タイムテーブルとにらめっこしながら指示を出し続けた。
昼前になり、役者と、午前の授業を終えた天野先生がやって来た。天野先生の顔は精悍で、寝ていない人とは思えない。すっかり本番モード。歩く速度も速い。さっさと舞台に上がり、端から端まで何度も歩いた。
「よし、春菜、場当たりやって」
舞台から飛び降りて、わたしの隣に座った。「場当たりいきます。客入れから最初の暗転、シーン1冒頭まで。音お願いします」
客入れの音が流れた。講義は芝居から始まる。学生を客に模して、時間が来たら暗転。
天野先生はわたしの隣で、役者の立ち位置や音量、照明について指示を出した。その目は鋭く光っていて、暗い客席で見ているとつい、今朝の体の感触を思い出してしまう。わざと鉛筆を落として拾う姿勢で天野先生のひざに頬をくっつける。天野先生はまったく気付かずに、舞台に集中し続けた。
「三十分お昼休憩挟んでゲネプロ準備に入ってください。十三時半スタートです」
午前中のスケジュールが終わり、わたしが立ち上がってそう言うと、緊迫していた空気が一気に緩んだ。スタッフや役者が昼食をとるためホールを出たとき、天野先生がわたしの手首をつかんだ。
「終わったら院生全員で飲みに行くから、どっか予約しといてくれ」
わたしは面食らった。
「授業なんだから打ち上げは必要ない、って言ったの、天野先生ですよ。今から予約って、この人数無理でしょ」
すると天野先生は、さっきまで舞台を見ていたのと同じ鋭い目で、わたしをにらみつけた。
「口答えするな。おれがそうしろって言ってんだから、おまえはその通りにすればいいんだよ。何とかしろ」
強くつかまれている手首が、熱くなった。あたたかい体温を思うと、わたしは何の反論もできない。
「そのあと、うちに泊まってくれるの?」
わたしが聞くと、天野先生が目を、やわらかく少し細めた。
「当たり前だろう」
内腿がかすかに震えた。わたしは彼の胸に体を預けたくなる衝動を抑えて、うなずくだけにした。
「わかりました。近くの店を押さえます」
手首が解放された。わたしは天野先生を一人残して、ホールを出た。天野先生は小屋に入ったら、幕が上がるまでそこから出ない。わたしは二人分のお弁当を買って、ホールに帰った。何人かがおにぎりやサンドイッチを食べながら、談笑している。お弁当を渡そうと天野先生に近付くと、すでに何か食べていた。
「何食べてるんですか」
聞いたものの、すぐにわかった。昨日研究室に持って行った、わかさいもだ。北海道の実家から送ってきた洞爺湖温泉の銘菓。
「芋だから昼飯になると思ったけど、これ芋じゃないんだな」
わかさいもは焼き芋の形をしている、あんこ入りのお菓子だ。天野先生はわたしの差し出したお弁当を見ると、わかさいもを袋に戻した。
「いくら何でも甘すぎる」
「ほんとの焼き芋だったらよかったですか」
笑いたいのをこらえて聞くと、天野先生は首を横に振った。
「実は焼き芋よりフライのほうがいい。実家に言って男爵を送ってもらえ」
「わかさいもを揚げてみたら?」
「食えるか、そんなもん」
天野先生がお弁当を開けて箸を割ったので、わたしはそれ以上の軽口をやめた。
携帯電話を持って電波の届くところに出る。打ち上げの予約が取れたのは、三軒目に電話したチェーン店の居酒屋だった。また食い物がまずい、なんて文句を言うのだろうな。けれどそのあと部屋に来てくれる天野先生は、きっととても優しい。
舞台監督として、しっかり仕事をやり遂げたら、すごく褒めてくれるだろう。あの低い甘い声で、わたしは優秀だと囁いてくれるだろう。
お弁当に手をつける暇もなく、ゲネプロの準備に入る。わたしはまた天野先生と並んで客席に座り、舞台を見上げた。
間もなく、幕が上がる。




