表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

デンタルメンタル

作者: 村崎羯諦

「藤崎裕子さんの右の奥歯ですが、人間で言うところの鬱病にかかってるようですね」


 右の奥歯に違和感を感じて受診した歯科医院で、私は医者からそう告げられた。歯も鬱病になるんですかと私が尋ねると、猿や犬も鬱病になるんですから、歯だって鬱病になりますよ、と歯科医は手元のカルテに何かを書き込みながら返事をする。


「大抵の人は虫歯や歯周病にならないように表面的なケアをしてるだけで、歯の精神的な健康にも気を遣ってる人は少ないんですよね。藤崎さんはいつも歯を磨いているだけで満足しちゃってませんか? 虫歯と同じくらいに、歯のメンタルのケアだって大事なんですよ」


 医者の言葉に私はドキッとしてしまう。歯が鬱病になってしまうことを知らなかったとは言え、確かにいつも漫然と歯磨きをしているだけで十分だと考えていた。すぐに治療できますかと尋ねてみたけれど、人間と一緒で薬や手術でパッと治るものではないらしい。


「鬱病は死にいたる病ですからね。このまま放置しておいたら、藤崎さんの右の奥歯も自ら命を絶って、そのままコロリと抜け落ちてしまう可能性があります。そうならないように、今日から少しずつ治療を進めていきましょう」

「そうは言われても、一体何をすれば……」

「そのように思われるのも当然です。精神的な病気は治療がとても難しいですからね。定期的に精神安定剤は処方しますが、基本的にはゆっくりと時間をかけてコミュニケーションを取っていくことが重要になります。とりあえずは藤崎さんの奥歯の連絡先をお伝えするので、悩みを真摯に聞いてあげることから初めてみてください」


 診療が終わり、訳がわからぬまま受付へと戻される。そして、帰り際。診察料を支払うと同時に受付の人からLINEのIDが書かれた用紙を渡された。まさかとは思いながらも、帰宅した後でそのIDを登録してみると、名前欄に『藤崎裕子の右下の奥歯』と表示されたアカウントが友だちとして追加された。


『ただただすり減っていくだけのこの命に何の意味があるのかがわからないんです』


 歯科医に言われた通り私がメッセージ機能を使ってそれとなく悩み事を尋ねてみたところ、奥歯からはそんな言葉が返ってきた。あなたは歯なんだからそりゃそうでしょと思わなくもなかったけれど、事前にレクチャされた内容に従って受け答えをする。つまり、決して奥歯の気持ちを否定することはせず、ただただ共感していることを相手に伝える。それだけ。しかし、共感するだけで私の奥歯の気持ちが上向くなんて簡単な話ではなく、その後も私の奥歯は延々とネガティブな発言を繰り返すだけだった。


『前歯はいいですよね。私なんかよりもずっと目立つし、ずっとずっとあなたから気にかけてもらってる。私はこの薄暗くてじめじめとした口内の隅っこで、身体に磨き残しの汚れがこべりついたまま死んでいくんでしょう』


 正直、奥歯が鬱になったという話を聞いたとき、私の奥歯に限ってどうしてそんな病気にかかるのだろうと疑問に思ってしまったのも事実だ。私は人より歯の健康に気を使う方だし、歯磨きは食後欠かさずに行い、定期検診にだって通っていた。歯のことなんて気にもかけずに、虫歯だって放置してしまう人は大勢いるはず。そういう人たちの歯に比べたら、私の歯であることはそれなりに幸せなことのように思えるのにな。本音ではそう考えていたけれど、私の言葉で奥歯をさらに傷つけてはたまらない。私はぐっと言葉を飲み込み、ただただ奥歯の悩みを聞き続ける。


「そこできちんと言葉を飲み込んだのは正解ですね。もちろん色々と思うことはあるでしょう。それでもですね、本人は苦しんでいるんだってことだけは忘れないようにしてあげてください」


 奥歯の精神安定剤を処方してもらいに歯科医院を訪れた時、歯科医は私にそう告げた。その言葉に私は何も言い返せなかった。その言葉通り、メッセージを交わしている中で、私の奥歯自体がとても苦しんでいるということは理解している。それでももっとポジティブに考えればとか、あなたは恵まれてるんだよと教えてあげることに一体何の問題があるんだろう。私がその疑問を歯科医にぶつけてみると、彼は穏やかに微笑みながら、諭すような口調で私に反論する。


「まず第一に、あなたとあなたの奥歯は全くの別存在ということを考えなくちゃいけません。そして、その別存在を、あなたが自分の思うように変えてしまおうと思うこと自体が誤りです。もちろんネガティブな人がポジティブな性格に変わることはあります。ですが、それはあくまで『あなたがその人の性格を変える』ではなく、『その人の性格が変わる』なんです。自分の都合の良いように誰かを動かしたり、自分にとって都合の良い誰かばかりを周りに置くのはお勧めできませんね。奥歯のありのままを受け止め、彼の存在全体をどうか受け止めてあげてください」


 歯科医のその言葉は私の胸を打った。彼の言葉はまさにその通りだと思ったし、自分の奥歯だからといって、自分の都合を押し付けようとしていた自分を反省したりした。それから私はできるだけ奥歯の存在自体を肯定するように頑張った。根気強くコミュニケーションを取り、私はあなたを認めているよというメッセージを送り続けた。それでも。それでも、私の奥歯が私にとって完璧な奥歯にはなれないように、私もまた奥歯にとって完璧なご主人様になることはできなかった。


「そんなに私の口の中が嫌なら、海外とかもっと別の場所に行けば良いじゃん!!」


 感情に駆られて送ってしまったそのメッセージを読み直し、私はとうとうやってしまったと思った。泣いちゃうかもしれない。私は冷や冷やしながら奥歯からの返信を待つ。しかし、私のメッセージに既読がついた後も、奥歯から何かを返事が返ってくると言うことはなかった。そのことに不安を覚えつつも、まだ冷静にはなりきれていない私は、これ以上話を続けていたらもっとひどいことを言ってしまうかもしれないと思い直す。明日、もっと頭を冷やしてから誠心誠意謝ろう。私は自分に言い訳するかのようにそう呟いた後で、そのまま就寝するのだった。


 しかし、その翌朝だった。ふと違和感を覚えた私が洗面台の鏡で口の中を確認してみると、昨日まではそこにあった右下の奥歯がいなくなっていた。ひょっとして自殺? 全身から血の気が引いていくのがわかる。慌ててベッドの周りやリビングの床を探し回ったけれど、どれだけ探しても私の奥歯は見つからない。捜索届けを出すべきだろうか。そんな考えが頭をよぎったそのタイミングで、LINEの着信音が鳴る。すぐさま手に取って確認してみると、それはまさにいなくなってしまった私の奥歯からのメッセージだった。


『狭い世界から飛び出して、こことは違うどこかへ行こうと思います。どうか探さないでください』


 メッセージとして届いていたのはその言葉だけだった。とりあえず死んでいなかったことに安堵しつつも、私はどうしようかと考えを巡らせる。奥歯だけで行けるところなんてたかが知れているし、そのうちひょっこりと戻ってくるだろう。私は自分でそう納得する。そして、私はぐっと背伸びをし、奥歯がいなくなった自分の日常へと戻っていった。


 そして、月日が流れ、口の中の違和感にもすっかり慣れてきた頃。私の携帯に突然メッセージが届く。メッセージは私の口を飛び出していった奥歯からだった。メッセージは長文で、写真が数枚添付されている。写真を確認してみると、それは日本ではないどこか外国らしき風景で、まるで写真集にあるかのような美しい景色ばかりだった。


『あなたの口の中から飛び出してから、沢山の人と触れ合い、様々な景色に出会い、人の多様さとこの世界の広さに気付かされました。もちろん私があなたの口の隅っこで自分の将来を憂いていたことが無駄だったとは言いませんが、私は自分自身の思い込みに囚われ、外の世界について考えることができていなかったのだと今では思います。この世界は広く、そして色んな人がいる。自分が自分らしく生きることのできる場所は必ずどこかに存在しているのだと今なら自信を持って言うことができます。


 もちろんその場所を見つけることは難しく、短い期間でそれを見つけることができた私は運が良かったのでしょう。ご主人様には色々とご心配をおかけしましたが、少なくとも今の私は元気です。いつか、元気な姿の私をご主人様にお見せできたら嬉しく思います。


 それではくれぐれもお身体と歯の健康には気をつけて。東南アジアのとある場所から、あなたの奥歯より』


 私は奥歯からのメッセージを何度も読み直す。文章は、私の口からいなくなる前の陰気な口調は影を潜めていて、希望に満ち溢れていた。きっと奥歯は新天地で幸せな生活を送っていて、きっとこれからも私の口の中に戻ってくることはないだろう。私はメッセージから、そんなことを考える。それでも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


 自分の口の中で失意のまま一生を終えられるよりも、自分らしく生きられる場所を見つけ出してもらった方が私も嬉しい。私にとって歯の代わりはいくらでも見つかるけど、自分自身に代わりは見つからないのだから。私はそっと自分の頬をなぞり、つい最近までそこにあった奥歯の感触を思い起こす。そして、遠い異国の地で自分らしく生きている、自分の奥歯に思いを馳せるのだった。



*****



「藤崎さんの口から奥歯がいなくなってしまったことは残念ですけれど、健康そうで何よりですね」


 久しぶりに訪れた歯科医院で、歯科医が私にそう告げる。私も愛想笑いを浮かべながらそうですねと頷き、それから奥歯が鬱病にかかっていたときの思い出話に話を咲かせた。藤崎さんの奥歯が仰ってる通り、こことは違う世界があると知っていることは救いに繋がるんでしょう。歯科医が感慨深げにそう呟く。


「ところで、藤崎さん。奥歯の件は無事に解決したとして、今日はいったいどんなご用件で?」


 歯科医は問診票に何かの記載を行い、私に向き直る。私は歯科医と、そしていなくなってしまった奥歯のことを思い出しながら、彼の質問に答えた。


「はい。実は海外に出ていった奥歯に触発されて、他の歯たちもどんどん私の口の中から出ていってしまってて……できればなんですが、精神的に健康で、なおかつ内向き思考な差し歯を埋め込んでもらえないですかね?」 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ