童女を変えた業物の魂
N0242GQ「節句人形と日本刀」で起きた出来事を、別視点から描いたお話です。
淡路一刀流剣術指南所の齢3歳になる長女・かおるは、師範代に添い寝されながらも、まんじりとも出来ぬ夜を過ごしていた。
お河童に切り揃えられた艶やかな黒髪に、雅やかな白い美貌。
和式の寝間着に包まれた寸詰まりの肢体は、市松人形のような愛らしさ。
だが童女の意識は明瞭に覚醒し、その内心は不安と焦燥で千々に乱れていた。
『父上、母上…それに藍弥…』
この年端も行かぬ童女の、穏やかであるべき安眠を妨げていた物。
それは彼女の愛すべき家族に生じた、言い知れぬ危機だった。
『あの金太郎さえ居なければ…』
全ての始まりは、産まれたばかりの弟である藍弥の初節句を祝うべく両親が買い求めた、節句人形の金太郎にある。
この幼い童女は、そう信じて疑わなかった。
幕末から明治にかけて活躍した稀代の人形師、兄口動流斎。
その作品を安価で入手し、長男である藍弥の初節句に用立てられたという夫婦の喜びは、永くは続かなかった。
金太郎人形が子供部屋の床の間に安置されて程なく、淡路一刀流の指南所に不吉な影が降りたのだから。
指南所に存在し得ない筈の、黒い留袖姿の女性と幼子達の出没。
これだけなら、単なる見間違いと片付けられたやも知れぬ。
だが、今まで健やかその物だった藍弥が、原因不明の病に苦しみ、日に日に衰弱するばかりの惨状を見るにつけ、姉弟の両親も思い至ったのだ。
自分達が手に入れた金太郎人形には、この世ならざる存在が憑いていると。
指南所の当主を務める父の養宜は淡路一刀流の免許皆伝で、母の茉穂は薙刀の有段者。
共に武芸の心得ある夫婦は愛息の安眠を脅かす脅威に立ち向かうべく、節句人形が安置された部屋で寝ずの番を務めている最中だ。
かおるとて、敬愛する両親が修めた武芸の腕前を信じていない訳ではない。
だが、超自然の存在を向こうに回して、どこまで戦えるのか。
それが甚だ疑問だった。
天性の直感か、かおるは件の節句人形が最初から気に入らなかった。
人形に対する違和感と嫌悪感は、何度となく口にしてきた。
だが、「親の関心を弟に取られた姉の僻み」と一笑に付されてしまったのだ。
『もう少し私が大きければ、信じて貰えたのに…』
口惜しい限りだが、齢3歳になったばかりの幼女では致し方のない事だった。
父母に助太刀して弟を救いたくとも、かおる自身が大人の庇護を必要とする幼女の身では、手も足も出なかった。
現に、師範代を務める娘に添い寝をされている有り様なのだから。
『私に力があれば…魑魅魍魎を葬り、家族を守る力があれば…』
市松人形のように端正な美貌を苦々しく歪め、かおるは数回目となる無念の歯噛みを、ただ虚しく鳴らすばかりだった。
家族を覆う不吉な暗雲を、直ちに晴らしたい。
それを果たせぬ未成熟な身体が、疎ましくて仕方ない。
童女が隔靴掻痒とした焦燥感に駆られていた、そんな時だった。
『姉様…かおる姉様…』
不思議な声に呼び掛けられたのは。
「先山さん、何か仰いましたか?」
返事はない。
添い寝をしていた師範代の娘は、安らかな寝息を立てているばかりだ。
『彼女は私の神通力で眠っております、かおる姉様。』
脳の中へ直接響いてくるような声は、とても常人の物とは思えなかった。
しかし、不思議な程に落ち着き、且つ癒される声でもあった。
『何者です、私を姉様等と…私には藍弥以外に、弟も妹も御座いません!』
『私は姉様と時を同じくして産まれた、双子の姉妹のような者です。共に御家の危機をお救い致しましょう、かおる姉様。』
この世ならざる存在ではあるものの、この清水の如く澄み切った声からは、件の金太郎人形のような悪意は感じられない。
-物は試し。この不思議な声に賭けてみましょう。
そう決意を定め、かおるは静かに目を閉じた。
再び目を開いた時、童女の身体は寝室になかった。
ヒンヤリとした薄暗闇の中に所狭しと並べられている、桐箪笥や長持。
闇に慣れてきた童女の両眼は、自分が蔵の中に立っていると理解した。
「これも得意の神通力とやらですか…何処にいるのです?呼びつけておいて姿も見せないとは、なんと不躾な…」
『こちらです、かおる姉様…』
苛立ち紛れに叫んだ童女への返答は、蔵の奥から響いてくる。
しかし、其処には誰も待ってはいなかった。
ただ、漆塗りの黒鞘に納められた業物が、仄かな輝きを纏っているばかり。
「よもやとお伺いしますが、貴女が私を呼びつけたのですか?」
『仰せの通りです、かおる姉様。我が銘は千鳥神籬。かおる姉様の誕生を祝して打たれた、守り刀で御座います。』
人間と太刀という違いはあるにせよ、同じ日に産まれたのなら、姉と呼ぶのも道理と言えた。
「成る程…それでは姉として問いましょうか、千鳥神籬。この淡路の家に、如何なる脅威が迫りつつあるのかを?」
『恐るべき悪霊で御座います、かおる姉様…』
金太郎人形に憑依していた悪霊にして、指南所で目撃されていた留袖姿の女。
それは流行り病で失った我が子の後を追って命を絶った、兄口動流斎の一人娘であるらしい。
そして留袖姿の女に従うようにして現れる幼子達は、悪霊に呪殺された少年達の、哀れな成れの果てとの事だ。
そして悪霊は次なる犠牲者として、淡路家長男の藍弥に白羽の矢を立てた。
このまま放置すれば藍弥は呪殺され、意志を失った使い魔の仲間入りを果たしてしまう。
守り刀の訴えは、かおるにも納得出来る物だった。
だが、話を聞き終えた童女の口から漏れたのは、小さな嘆息だった。
「しかし…私に何が出来ましょう?こんな脆弱な身体では、貴女を抜き打つ事など思いもよりません…」
3歳の幼女には不釣り合いな憂いの籠もった表情を浮かべ、かおるは小さく頭を振った。
この業物を抜き打つ事が出来る、成熟した身体が得られれば…
童女の願いは、ただそれだけだった。
『出来るのです、姉様。私をお取り下さい。そうすれば私達は一つとなり、御家の危機を救う事が出来るのです。』
もはや童女に、躊躇いはなかった。
「貴女の言葉を信じましょう、我が妹よ。そして共に破邪顕正の活人剣を成し遂げましょう、千鳥神籬!」
微笑を閃かせた童女の小さな手が、スッと刀掛けへ延びる。
そして柄を握った次の瞬間、かおるの意識と全身は真っ白に塗り潰された。
薄暗かった蔵の中が、まるで真昼のように明るく照らされている。
煌々と輝く光源は、刀を握った人間の形を取っていた。
最初は童女だった人影は、見る見るうちに姿を変えていく。
「うっ、あっ…ああ!」
ミシミシという関節の軋む音と共に、童女の五体が伸びやかな発育を遂げ、女児用の寝間着を内側から引き裂いて四散させた。
文字通りの輝くような白い柔肌を彩る黒髪は、今では肩に達するまで成長し、流れるような美しさを誇っている。
童女の急激な成長を祝うように桐箪笥がカタカタと音を立て、引き出しから飛び出た衣類が、光る人影目掛けて一直線に突進した。
腰巻きが、長襦袢が、足袋が、光の中へ次々に吸い込まれていく。
最後の仕上げとばかりに振り袖と帯を飲み込んだ光は、爆発を思わせる強烈な輝きを見せた後、凝縮するように消失した。
光が消えた蔵の中に、一つの人影が静かに佇立していた。
波千鳥をあしらった桜色の振り袖で伸びやかな肢体を包み、漆塗りの黒鞘に納められた業物を腰間に差して。
二つ結びに纏めた黒髪を揺らして上向かせた雅やかな細面は、かおるの面影を確かに宿してはいたものの、その輝くような美貌は、十代半ばの瑞々しさだ。
『上手くいったようですね、千鳥神籬。人として産まれた私と、守り刀の貴女。異なる形で産まれた私達姉妹が、今こそ一心同体に…』
「仰せの通りで御座います、かおる姉様。悪霊を滅して御家をお救いした暁には必ず、姉様の御身体を旧に復してお返し致します。後は万事、この千鳥神籬にお任せを。」
脳裏に響く童女の言葉に、振り袖姿の少女は小さく頷いた。
「む…?」
そうして蔵から一歩踏み出した草履の足音を、ひたと止めた物。
それは、虚ろな目をした幼い少年の亡霊達だ。
「そこを退きなさい…と言っても、無駄のようですね。」
少女が問い掛けた次の瞬間、少年達の亡霊が一斉に殺到する。
だが、振り袖姿の腰間から迸った白刃によって、彼らの小さな身体は難なく両断され、夜の庭に虚しく転がって消失していった。
「荒療治ではありますが、これが貴方達の為なのです。極楽浄土での安らかな眠りが妨げられないよう、祈らせて頂きます。」
軽い黙礼を終えた少女は、指南所の建物をキッと見据え、濃厚な悪の気配が漂う方を目指して一直線に突き進んでいった。
節句人形に取り憑いた悪霊を討ち滅ぼし、淡路家の人々を救うために。