産まれること無く死んだ胎児を見つつ
夏の盛りも過ぎ、もう日が暮れようとしているにも関わらず空気はまるで肌にまとわりつくかのようだ。手に提げたレジ袋が重い、脚がもつれる。いっそこのまま倒れ込んでしまおうか。だが家はもうそう遠くないはず、荷物に引かれるのに任せて俯き塀の模様に足を合わせることだけを考えて脚を動かした。塀が途切れた、多分私の家だ――顔を上げると、一人の少女が目に入った。制服を着ている、背格好からすると帰宅途中の高校生だろうか。肩を落とし、首を傾げるようにして微動だにせず産婦人科の看板を見上げている。とても幼い動作だ、子供が初対面の親戚に向ける視線によく似ている。汗で張り付いたシャツと手櫛で軽く整えただけのような髪、しかし頬はむしろ血の気が引いたように白い。私の呼びかけに応えて振り向いた彼女に、疲れているなら少し中で休んでいかないかと問いかけた。一瞬の間をおいて、不思議そうな顔のまま彼女は頷いた。私の後を辿る彼女の足取りは何処か覚束ない、まるで漂っているかのようだ。そして――私の記憶ではこの周辺に栗の木は無かったはずだし、季節でもない。
裏手の玄関に鍵を開ける間、少女はぼんやりと辺りを見渡していた。扉を引き開けると少女は背を丸めて首を竦め、横へ躱すようにしながら敷居を跨いだ。何かを警戒しているような動作だ、無理もない。下校中の学生を家に連れ込むなど、ここが診療所でなければ私は間違いなく誘拐犯扱いされるだろうし――私が彼女を誘い込んでいるのは表の受付の方ではなく自宅側なのだから。廊下を歩いて応接間へ。腰を下ろして向かいのソファ促すと、彼女はゆっくりと頭を下げた後少しぎこちない動作で端に浅く腰掛けた。俯いて身体を小さくする少女に、取り敢えずシャワーを浴びたらどうか聞くと、少女は何処か他人事のような仕草で肩に鼻を寄せ、頷いた。幸い体格はそう変わらなかったのでタオルと適当な着替えを渡し、小さな浴室に導く。彼女はぽつりと礼を言い、私が下がるより前に気怠げにシャツのボタンに手を掛け始めた。もしかすると、こういうことに慣れてしまっているのかも知れない。ドアを閉め、簡素なキッチンに入り薬缶を火にかける。彼女がシャワーを浴びている間に何か飲み物でも淹れておこうか、ドリッパーは何処にしまったか……戸棚を開け、視線を漂わせながら彼女のことを考える。下衆の勘繰りであると自嘲しながらも、それでも想定される彼女の状況と私の前での彼女の態度は余りにずれているように思えた。ため息を吐いて思考を切り替える。彼女の事情はともかくまずは落ち着かせてやる必要がある、根掘り葉掘り聞くのはそれこそ逆効果だろう。専門ではないが、職業柄多少の心得がないことはない。フィルターとドリッパーは見つかったが、砂糖はともかく牛乳がない。クリームの取り置きも見当たらなかったので、結局は紅茶とコーヒーを一杯ずつ淹れておいて選んでもらうこととした。
タオルで髪を揉む彼女を前に紅茶とコーヒーのカップを並べ視線を送ると、彼女は少し戸惑い、恥じらう子供のように紅茶を指した。蜂蜜を垂らしてカップを手渡す。彼女は両手でカップを包み込むように持ち、恐る恐る紅茶を啜った。どう切り出したものか悩みながらカップへと伸ばした私の手に、彼女のそっと置くような言葉が乗せられた。
「あの……なんて言ったらいいのか。本当にありがとうございました」
少女は項垂れるように頭を下げた。少し上目遣いをして目を合わせないようにこちらの反応を伺っている。謝意と、戸惑いと言った所だろうか。自身の被った事態への認識や動揺が遅れてくる例は少なくないが、彼女の態度はそういった類のものとは思い難かった。先の不安通り、彼女はこういった被害に慣れてしまっているのかも知れない。彼女はカップの内側を見つめ薄く口を開いている、待てばあちらから話し出してくれそうだ。手間が省ける――傷つけないように配慮しながら事態の改善の為に必要な情報の数々を聞き出すというのは実に骨が折れる作業だ。安堵のため息でも威圧感を与えてしまうだろうか、催促に見えないように、時間を掛けても構わないと示すようにゆっくりと椅子に深く座り直してコーヒーを少し口に含んだ。
少女は何度か口を開きかけたが、まだうまく言葉に出来ないようだった。
「何があったか、聞かないんですか?」
何かを聞くということは、相手にそれを思い出すことを強いる行為だ。もし今の君に不躾にものを問う人がいたならば、それは浅はかな偽善者かそうでなければ君を傷つけんとしているのだろう――遠回しに害意がないことを示すと、彼女の瞳に理解と好奇の光が宿った。
「じゃあ、私がお姉さんについて質問した場合はどうなりますか?」
素早く切り返してきた、聡い子だ。彼女との会話は決して不快ではなく、久方振りの患者以外との会話に高揚すら覚えていた。もとより、今の私に探られて痛い腹などない、そう促す。
「お姉さんは面白い話し方をしますね。そうだな、じゃあ、『今の私』という部分について聞かせて下さい」
頷き、どう話したものか考える中で自分はこれを誰かに話したかったのだということに今更気付いた。呆れかえりながら、私はカップを手に立った。あの場所で話す必要があると感じたからだ。
「その話なら、場所を変えようか」
そう言ってお姉さんはゆっくりと立ち上がった。後に続いて寝室に入る。お姉さんらしい、興味なさげな、無感情な部屋だった。お姉さんはお酒と薬と書類の散らばった作業机にカップを置くと、クローゼットを開けて数着の白衣とスーツをベッドに放り端の抽斗の一つを抜き出し、ポケットから鍵を取り出して手を差し込んだ。何をしてるんだろう、私の頭に浮かんだ疑問を読み取ったかのようにお姉さんは少し楽しそうな表情で説明を始めた。
「これから君を招待するのは、ええと、平たく言えば隠し部屋、といった所かな。この抽斗の奥にドアノブを隠してある訳だね。私がこの診療所を父から引き継ぐ際にクローゼットの奥をドアに変えてもらって、ドアノブの前に抽斗を細工した棚を置いてあるという訳さ。ご覧」
お姉さんが先ほど取り出した抽斗を顎で指し示す。見ると、確かに奥が一部凹んでいた。隠し扉が開き、涼やかな空気を足元に感じた。お姉さんがスイッチを押し、扉の向こうの空間が無機質な光で満たされる。地下へ向かう階段が始まっているのが見えた。カップを取って階段を降り始めたお姉さんが思い出したように振り向き、心配するような眼で私を伺う。
「グロテスクなもの、例えば内臓とかは問題ないかな?」
お姉さんはなんでこんなに優しくしてくれるんだろう。恥ずかしいような、むず痒いような、それでいて不思議と心地好い感覚を与えてくれる。大丈夫です、そう答えるとお姉さんは安心したように背中を向けて階段を下りていった。
階段の下にはまた扉。お姉さんは何も言わずにさっきとは別の鍵を取り出した。余程大事なものか見られてはいけないものでもあるのだろうか、そう呑気に考えていた私の視界に飛び込んできたのは余りにも奇妙な部屋だった。化学の実験室、というよりは準備室のような感じ。一番目を引くのは棚にずらりと並んだホルマリン漬けの瓶。保健の教科書でみた、胎児の成長過程によく似ていた――と言うか、そのものなんだろう。
「それについては追い追い説明するとして……さて、『今の私』について話すにはまず『私』について語る必要があるだろう。長くなる、時間は大丈夫かな?」
椅子を引いてお姉さんがまた心配そうに聞く。いつ帰っても関係ない、どうせお父さんの機嫌次第でしかないのだから。ありがとうございます、時間なら大丈夫ですと言って座り、飲みやすい温かさになった甘い紅茶を一口飲む。お姉さんはコーヒーを見つめながら、静かに語りだした。
「父が産婦人科医の家系でね。そのことと、この診療所があったからなのだろうか、医者を目指した。医者になろうという自発的な思いがあったのかは今でもよく分からない、志を持って努力を重ねてきた同業や、医者を聖人か何かのように敬う患者には申し訳なくて仕方がないね。転機は私が学生だった頃、もう十年以上前になるのかな。境界悪性腫瘍という病気で、子宮と卵巣を摘出したんだ。言ってしまえば、妊娠出来なくなった訳だね」
お姉さんは自分の内側をじっと見つめるようにして言葉を探りながら話した。合間があれば私の方を伺ってくれる。とても真摯で、なんだか申し訳ないくらい。
「当時どう思ったのか正直に言うと良く思い出せないけれど、別にそれほどショックは受けていなかったと思う。今も子供を持てないことを不幸だとは感じない。ただ、私の価値観に幾分影響を与えたのも確かだろうね。子供を取り上げることを生業とする家の娘なのに子供を産めないだなんて、中々に皮肉が利いているじゃないか」
一瞬唇を歪ませたお姉さんはコーヒーを一気に呷ると、棚からお酒の瓶と一番小さな胎児のホルマリン漬けを机に持ってきた。近くで見ると、それはもう教科書に載っているような資料とは思えなかった。これはやっぱり生きていたものなんだ。お姉さんは許しを請うような眼でお酒の瓶を見つめ、やがて諦めたようにため息を吐いた。カップに半分ほどお酒を注ぎ、視線で私に尋ねる。折角だから少しだけ、と言うとお姉さんは紅茶にほんの少しだけお酒を垂らした。蜂蜜の甘い香りとお酒の熟れ過ぎた果実のような香り、そして薬品の臭い。ふわふわして、少し心地いい。
「術後の経過は悪くなかったから、少し掛かったけれど医師免許は取れた。母はヒステリーになって出ていって、父も私が母体保護法指定医師――大それた名前だが、要は堕胎免許だね――になって一人で対応出来るようになると何処かへ行ってしまった。駅前の方に同業さんが出来て患者も減っていたしね。二人が何を考えていたのかはよく分からないけれど、私と目が合う度に何かを突き付けられたような苦しそうな顔を見せたのがとても印象的で記憶に残っている。他人の子供を取り上げるのは別に苦にならなったし親の嬉しそうな顔を見ても特に何も感じなかった。ただ、感謝されるとどうにも居心地が悪くて仕方がなくてね。
さて、産婦人科医の仕事は主に二つに分けられる。妊婦が出産に至るまでのサポートと、さっきも少し触れたが、堕胎だ。前者は言ったようにあまり好ましくはなくてね、堕胎の方は……なんといったら良いのか、ただ、どうしようもなくこの子達に惹かれたんだ。この子達をどう形容するべきだろうか。殺されたのか、そもそも命を持つことがなかったのか……この子達についてはいくら考えようとも興味の種は尽きることがない、良い暇潰しになってくれているよ。ああそう、更に加えて言うならば、そういったあやふやな存在が産めない産婦人科医に保管されているこの状況というのも何とも言い難いものがあるね」
お姉さんが瓶の表面を撫でる。慈しむようにも愛おしむようにも見えたけれど、そのどちらでもない気がした。私には、気味の悪いものにすら見える。後ろのもう少し大きなものはまだしも、普通の赤ちゃんのように可愛らしいとはとても言えない。
「これより小さければ、完全な形では残らないんだ。堕胎のやり方が胎児の大きさで変わるんだけど……手術について詳しく話すのは止しておこうか。さて、堕胎しても形が残る大きさなら本当は火葬することになっていてね。君は葬式に参加したことがあるかな?」
頷く。おじいちゃんに関わる色んな人がいて、悲しんでいたと思ったら次の瞬間には疎遠な親戚と久しぶりに顔を合わせて喜んでいた。故人を悼むものなのだろうとしか思っていなかった私にはよく分からなかったけれど、とにかく色んな感情が代わる代わる吹き荒れる奇妙な場所だった。
「うん、なら分かるだろうけれど、少なくとも現代日本の死生観からすれば葬式は徹底して故人に関わる人の今後の為の儀式で、彼らの人生に区切りを付けるという役割を担っていると説明出来る。これは偏った表現かも知れないが、あながち間違いでもないだろう。この理屈で考えれば、葬式を行うことが遺族にとって良い効果を齎すと想定されない場合葬儀は執り行われないことになる。水子供養などというものが大々的に喧伝されているが、要は供養をして自己満足を得たいか、何よりも早く忘れたいか、という程度の違いでしかない訳だ。そして、この子たちの親はどうやら後者であったようだね」
お姉さんは肩を竦める。こういう話は聞く人が聞いたら怒るんじゃないだろうか、私は無意味に怯えたようになってしまいながらも、お姉さんの話したことの咀嚼に努めた。堕胎した親たちの態度への……嫌悪? 理由をつけて非難したりとかじゃなくて、ただ嫌いだという素直な気持ちをお姉さんは吐き出している、そんな気がする。でも、供養している人としていない人、どちらを嫌っているんだろうか。両方なのかもしれない。
「少し話が逸れてしまったね、すまない。まあそういった訳で仕事は問題なくやれていたんだが、子宮を取ったと言っただろう? どうやらその病巣が転移していたようでね、治療も面倒だからここを閉じることにした。丁度一年くらい前だろうか。交通の便が良くなったりと幾つかの要因があったんだろうが、駅前や繁華街の同業さんに患者が流れていたのも幸いしてね。新規さんは向こうに紹介していって、数か月前にこの子を堕ろして閉めたんだ。看板の撤去は――明日辺りに業者が来る手筈になっていたと思ったが。仕事を辞めて空いた時間はここでこうして酒に溺れながら彼らを眺めて過ごしている。使い古された言い回しだがね、やはり死を待つのみの者に探られて痛い腹などあるまいよ。長くなってしまったね、これが『今の私』だ」
お姉さんは少しおどけて見せ、お酒を口に含んだ。もう熱くない紅茶を啜りながら何を言ったらいいのか考える。私の不用意な、冗談めかした問いにお姉さんは何処までも真剣に応えてくれた。だから無責任なことはとても言えないし、それにその義務感のような気持ちを抜きにしてもお姉さんの話は私の心を惹きつけて止まなかった。そのうちの一つ、さっきからお姉さんが熱心に視線を注ぎ続けている胎児。お姉さんの話を聞いた今、それは単なるグロテスクな肉塊ではなく、何処か象徴的な、意味のある存在に見えた。
そう、きっとこれはお姉さんにとって何かとても大事なものの象徴なんだろう。話をしている時、お姉さんはこれを見つめながら自分の中身を探るようにしていた。多分、より深い所に行く為にはこの子たちが必要なんだろう。
「ありがとうございました。ごめんなさい、何て言ったらいいのかよく分からないんですけど、ええと、とても惹き込まれました」
時間を掛けて丁寧に言葉を選びながら彼女はそう口にし、それでもまだ違う、もっと適切な言葉を、とでも言うように眉根を寄せて考え込んでいるようだった。唐突にこんな話をされた彼女は言わば被害者であろうに。
不意に、彼女は視線を胎児に移した。先ほどの焦燥感に駆られて考え込むような素振りは消えて失せ、少し目を細め、手の内のカップから湯気が立たなくなっていることを気にも留めず落ち着いた様子で胎児を見つめている。余程真剣に考えてくれているのだろう。この会話が彼女の状況を改善することに繋がるかはさておき、彼女自身以外に興味と思考を向けられるならそれは一時しのぎとして悪くない。何とも嬉しい誤算ではないか――そう、これは全く計算外のことだった。あろうことか、恐らくは容易ならざる状況にある彼女を前に気の赴くまま訳の分からないことを語ってしまっていたのだ。己を戒めるが、しかしそれは余りにも虚しいことではないだろうか。
「その子たちは、生きていたと思いますか?」
詰まらない自己嫌悪に彼女の声が割って入り、お陰様でウィスキーを飲み損ねることが出来た。彼女に感謝せねばなるまい。
思考を彼女の問いに切り替える、それはこの世界のあらゆる場所で幾度となく繰り返されてきたであろう問いではあったが、残念なことに誰も結論を出せていない。しかし、そんな問いに私と彼女の二人で取り組むのは悪くないように思えた。そして、この問題を取り扱うのにこれほどお誂え向きな場所も中々ないだろう。
中絶胎児は生きていたのか、この問いはつまり生きるとはどういうことか、そして胎児はそれに該当するのかの二段階で考えることが出来る訳だが。私には最初の問いへの解を見出すことは叶わなかった。彼女は私に問いを投げた後も思考を巡らせ続けていた、彼女に取っ掛かりを与えてみることにしようか。こういう時には学問が役に立たないこともない、もう何年も前の知識だが私たちにはそれで充分だろう。自然淘汰と進化論を基に、遺伝子を残すことを生物の至上命題とする生存機械論について彼女に説明する中で、ジーンの上では自分は既に死んでいることに気付いた。それを「死を待つ身」などと、失笑にすら値しない。
「なら、中絶はちょっとした自傷みたいなものとも言えるんですね。でも、子供を産むことが生きる目的の一つっていうのは分かるんですけど、それだけとも思えません。お姉さんがお医者さんとして働く中で、妊婦さんや子供の人生に――それがいいことが悪いことか分かりませんけど――影響を与えたのは間違いないでしょうし、それが遺伝子を残すことに劣るとは思えません」
自傷か、中々に面白い言い回しをする。中絶が妊娠と言う現実から逃げるための自傷ならば、彼女らにしてみれば私は天使か麻薬にでも見えたのだろうか。嫌に買ってくれるではないか、何とも面映ゆい。しかしそれではこの子達は余りにも救われない。不注意や欲望、暴力から生じ自傷によって堕ろされるなどと。その上もしもこの子達が生きていたとするならば、今頃は賽の河原で未完成な手足を必死に動かしながら延々石を積み続けているとでも言うのだろうか。不条理に過ぎるが、それでも人として生きることを強いられるよりは悪くないのかも知れない。
どうも変に思考が飛ぶ、酒が回ってきたか。彼女の話の要点はそこではない、遺伝子以外にも受け継がれる何かがあるというはずだという実感を彼女は語ったのだ。無論、文化や科学知識その他諸々の伝達或いは継承は人類史において非常に重要な役割を担ってきた、学術用語ではミームとか言ったか。いずれにせよ、私は遺伝子を残せないがそれでも誰かに何かしらの影響を与えた、それは確かなのだろう。
彼女の言を肯定し先を促したつもりだったが、彼女は一瞬身体を強張らせると上目遣いに私の眼を見てゆっくりと口を開いた。
「その、今更というか唐突というか、ごめんなさい、お姉さんはどうして私に声を掛けてくれたんですか?」
言われて、あの時の思考を振り返ろうとしたものの、ほんの数時間前のことだったはずなのに皆目見当が付かなかった。こいつは確か精液の臭いに反応して少女に話しかけることを決めたと思うが、そう、『こいつ』がやったことだ。自分がそれをやったという感覚がまるでない、記憶とはこんなに他人事のような薄ぼけたものだっただろうか。思えば酒が抜けない生活が始まる少し前から物事を真剣に考えたり昔のことを思い出したりすることをしなくなった、幾らか前にあいつを呼んだときくらいなものか?
詮無いことか。先の態度から察するに彼女は拒絶されることを恐れている、返答に時間を掛けるのは得策ではない。彼女は制服姿で精液の臭いを漂わせながら、家に逃げ帰るでも伏して泣くでもなく閉じた産婦人科の看板を見上げて呆然と立っていた――冷静に彼女に会った時の状況を思い返してみれば難しいことではなかった。助けの求め方も知らない彼女に対して、こいつにも少なからず感じるところがあったのだろう。
慰めるための嘘に聞こえないように、安心感を与えられるように。苦心しながら言葉を選び出した。遺伝子を残すことは出来なかったけれど、死ぬ前にせめて前途ある若者に、それが良いことにせよ悪いことにせよ、何かを伝えられたらと思ってね――彼女が私への答えに私の表現を利用したことに対する意趣返しのつもりだったが、彼女の反応を見るにどうやら及第点ではあったようだ。
「もう日も暮れている時間だし、良ければ泊まっていかないか」
会話と、それ以上に自分の中の何かに区切りを付けるようにお酒を飲み干してお姉さんは言った。気の置けない友達を誘うかのように、軽く思い立った風を装って。
弾む心を抑えて、迷惑じゃなければなどというお姉さんの気持ちを台無しにしてしまう言葉を飲み込み、声が震えてしまわないように気を付けて――いいですねと一言口にするのにこれほど心を割くことがあるなんて思いもしなかった。
「じゃあ出前でも取ろうか。チラシを取ってくる、少し待っててもらえるかな」
そういうとお姉さんは立ち上がり安堵を隠すように背中を向けた。あれ、おかしいな。確かお姉さんはスーパーの袋を提げて帰ってきていたと思ったけど。
「あの中身は殆どが酒さ。私に思い出せる範囲で、今この家にまともな食べ物はほぼない」
肩越しにおどけた顔を見せ、お姉さんは階段へ続く扉を後ろ手に閉めた。遠くなっていく足音を聞きながら改めて部屋を眺めてみる、奇妙であることは変わらないけれど不思議と落ち着く気がした。
この子たちは生きていたと思うか、確か私はそう聞いた。正しい答えではなくてお姉さんはどう考えているかを聞きたかった。更に言えば、それを通してお姉さんのことを。お姉さんがこの子たちを見るときの眼、あれは何て言えばいいんだろう。我が子を愛おしむ母親のようでもあったけれど、それにしては諦め過ぎていたように思う。多分、お姉さんはもうどうしようもない程に疲れ果ててしまったんだろう。
不出来な肉の塊、人間のなりそこない。私は彼らを死体だと、かつて生きていたものだと直感していたしそれは今も変わらない。そしてお姉さんがある意味では彼らの母親だとするなら、こうやって大事に手元に置いておくことがお姉さんなりの供養なのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていた気がしたけれど、いつの間にか思考が途切れていたことにお姉さんが階段を降りてくる音で気付いた。そういえば、さっきの考え方はお姉さんの話し方に少し似ていたかもしれない。
机にチラシを広げたが、一つ一つを注視して自分が欲しているものか判別していくような視線の動きはなく漫然と見つめるのみ。やはりというか食欲は余りないようだった。無理に食べさせるものでもないだろうが彼女の調子が戻った時に食べ物がないのは頂けない、どうしたものか。悩みながら少女の様子を伺う内に彼女の目の動きが止まっていることに気付いた、焦点もあっていないようだ。それから数秒と待たずに瞼が落ち始めるのが認められた。
ここは座り心地も空気も悪いだろう、そっと揺り起こし上のソファでゆっくり決めようと声を掛けると彼女は目をこすりながら立ち上がり少しふらつきながらついてきた。無防備な所作と眠気は安心の現れと取っていいだろう、息をついて全身の力を抜くと少しだけ身体が軽くなった。多少倦怠感は残っていたものの、階段の登りは普段より大分楽に感じられた。そういえばいつからだっただろうか、歩くときに引き摺るような感覚を覚え始めたのは。
少女を寝かせて、空いた時間に何をしたものか考える。制服の洗濯と、何か食べるものを買ってくるくらいだろうか。私の眼は少女に据えられて動かない。彼女の寝顔はなんとも愛らしく、整った顔立ちも相まってとても高校生には見えなかった。
思考が跳ぶ。感情と表情の相関、笑い皺に代表される表情の年齢、ここで彼女が見せた笑顔や嬉しさの幼さ。彼女にとって貴重な場所になり得るならばここを残しておくのも悪くないかも知れない。出前のチラシはそのままに電話機へ向かう。登記の手続きは父からここを譲り受けた時の曖昧な記憶に頼るとして、あいつに話をつける必要がある。後は権利書やらの用意か。そう言えばいつ終わりにするか決めていなかったが、譲渡と看板撤去は丁度いい機会かもしれない。明日全てを終わらせることが出来ればいいが、さて。
電気の消えた室内に窓から差し込んだ光が薄く広がっている、ソファで寝てしまって、もう朝なのだろうか。もぞもぞと身体を起こすと、ドアが開いてお姉さんが顔を覗かせた。
「おはよう、洗面所の場所は覚えているかな。一応朝食はあるけど、食欲はどうだい?」
食べたいとは思わなかったけれど少しなら無理なく食べられそうだ。正直に伝えるとお姉さんは微笑んで扉を閉じた。
顔を洗ってからお姉さんが来た方へ行くと食卓にお茶碗とお味噌汁、ちょっとのお惣菜が並んでいた。昨日私が眠ってしまってから買ってきてくれたのだろうか。
「ご飯は自分の好みの量を盛ってもらった方がいいかと思ってね」
私の制服を手に戻ってきたお姉さんが言った、私が寝ている間に洗っておいてくれたのだろうか。何から何までお世話になってしまっている、なんだか恥ずかしい。それなのに頬が緩んでしまうのは何故だろうか。慌ててお礼を言う。
「気にすることはない、昨日は疲れていたんだろう。さ、食べようか」
ほんの少しずつご飯を盛り、ゆっくりと食べ始めた。お姉さんはたまに思い出したように箸を動かすだけ、私なんかより余程食欲がないんじゃないだろうか。いや、それどころか吐き気に耐えながら食べようとしているようにすら見えた。
お姉さんは何も言わない。そう言えば、昨日と同じだ。私がシャワーを浴びている間にコーヒーと紅茶を用意してくれていたように、学校に行くと言ってもいいように制服を洗濯しておいてくれた。多分、今日はここで休みたいと言えばお茶を出してくれるだろうし、気晴らしに出かけたいと言ったら服を貸してくれるかも知れない。お姉さんは少し迷う振りをしながら何着か持ってきてどれがいいか聞くだろうけれど、それもきっと夜の内に私に似合いそうなものを探してあって。
「何か面白いことでもあったかな?」
きょとんとした顔でお姉さんがこちらを見ていた。おかしいな、なんでこんなに楽しくなってしまうのだろう。不思議そうにするお姉さんに答えようと笑いを抑える、それすらも楽しく思えた。
口を開きかけたけれど、やっぱり怖くなってしまう。結局、迷うことすら出来ず適当なごまかしが口から出てきた。どうしたらいいか分からない、恥を隠すかのように急いで食べる。何もかもが分からなくなって、私は何かを言うと制服を掴んで洗面所に逃げていった。
振り払うように着替える間もずっと駄目だった。さっき一瞬頭を過った、悪い想像。私に少しだけここにいさせて欲しいと言われたお姉さんが申し訳なさそうな顔を浮かべて、でもそこには間違いなく迷惑そうな気配があった。下らない妄想だってことはわかっていたけれどどうにもならない。着替えを終えて扉に手を掛けると息が止まった、違う私が止めているだけだ。息を荒げたらお姉さんを心配させてしまう、それだけは絶対に駄目だ。
大丈夫、慣れている。長く息を吐いて、肺が空になったらしゃくりあげようとする喉を抑えてゆっくりと胸を膨らませる。他のことは考えない、それだけに集中する。何度か繰り返すと落ち着いてきた。最後に軽く深呼吸をして制服を整え、言葉を整理してから洗面所を出た。お世話になりました。もう大丈夫です、今日は学校へ行きます。大丈夫、言える。
「力になれたようで嬉しいよ。気を付けて」
お姉さんはさっきの不自然で失礼な態度に対しても何も聞かずにいてくれた。靴を履いて外へ、太陽のまぶしさが怖くてたまらないけれど頑張って足を進める。お姉さんもサンダルを履いていたから表まで見送ってくれるのだろう。
今日には取り外される看板の下で改めてお礼を言う。お辞儀をするために振り返った時に私を心配してくれているような気配が窺えた、多分お姉さんは隠しているつもりなのだろうけれど。いや、私の願望に過ぎないのだろうか、また来てもいいですかと聞いたら迷惑じゃないだろうか。今は頭を下げているからお姉さんの顔は見えないけれど、どうしてもさっきの悪い想像が拭えない。鼓動が速くなる、息が詰まる。こんなに苦しいなら言わなくても、でも今言わないともう機会がなくなってしまう。
どうするかも決まらないまま顔を上げた。お姉さんの表情は変わらない、厄介払いが出来たというような色はない。大丈夫なはずだ、でも。どもってしまってうまく言葉が出てこない、聞き取ろうとしているのだろう、お姉さんの表情が険しくなって更に喉が詰まる。けれど一度出し始めてしまうと止まらない、泣き出しそうになってしまうのを必死に堪えてなんとか伝えようとする。
何を言えたかも分からなかったけれど、すぐにお姉さんの緊張が解けて理解の色が浮かんだ。
「もちろん構わない、いつでもどうぞ」
インターフォンを押して応答を待つ、あいつに会うのは一月振りか。酒が手放せないと嗤う友人ほど見るに堪えないものも少ない、分かり切ったことではあったが現実として突き付けられるとやはり筆舌に尽くし難いものがあった。昨日電話してきた時は落ち着いていたように思われたし人生最後の仕事と決めたからにはそれを途中で投げ出すようなことはしないだろうが、足音が聞こえて来るまでは倒れていないかと気を揉まされた。
「やぁ、待っていたよ。唐突に済まないね、取り敢えず上がってくれ」
構わないと答えて奴に続く。酒の匂いはともかくふらついていないのは少々意外だった、この間会った時には大分酒に依存しているように見えたが。断酒に成功したのだろうか、今更断酒する意味があるとも思えないが。
「来客があってね、昨日からは嗜む程度にしか飲んでいない。今朝は少しではあるものの朝食も摂った、実に健康的だろう?」
スコッチを手にソファに座ると大きなカップに惜しげもなく注ぎながら奴は言った、元気なようで何よりだ。その来客とやらがこの家の管理を俺に頼みたいと言い出した切っ掛けなのだろうか。一月前にあのコレクションの引き取りを頼まれた時は少々面食らったが、家ごとならばむしろ手間が掛からないのでこちらとしては悪くない。テーブルには通帳やら権利書やら、相変わらず準備のいい奴だ。
こいつがこうして詰んでいることはなんら不思議には思わない、予期していながら何も言わなかったことに思うところがないではないが――俺にはどうにも出来なかった。無力感に酔っている訳じゃない、しかし寂しさを覚えないと言えばそれもまた嘘になるか。
そこまではいい、だがわざわざ家を残す意図が分からない。ここで酒を注いだということはそいつを話す気があるのだろうか。
「まぁ座ってくれ、安物だがつまみもある。冗談めかして言ってはみたが、面倒事を頼むことについては本当に申し訳ないと思っている。ちゃんと説明はするさ」
手を振って気にしていないと示す。しかし、申し訳なく思っているか。それこそ悪い冗談だ、お前はこのような状況ではそう言うべきだと経験と論理から判断しているだけだろう。お前は自分の感情など認識出来ていない、残念なことだ。
「違いない。ところで、飲まないのかい?」
こいつが役所と登記所までの足が必要だということを失念しているはずがない。全く、本当に質の悪い冗談ばかり言う奴だ。
少女を保護し一晩泊めたこと、恐らくあの地下室はその少女にとって良い場所になるだろうことを奴は語った。故にここを残すことにした、という結論を頑なに語ろうとしないのは如何にも奴らしい。その少女がおかしいのか俺の理解力が足りないのかこいつの頭が遂にイカれたのか、どれも有り得そうな話ではあったがいずれにせよ俺はこいつの望みを叶えてやるのだろう。古い友人に最期の手伝いを求められた時に取れる行動は多くない、ベッドに縛り付けて寿命を引き延ばすか諾々と従ってやるか――さもなくば見捨てるしかない。誰が狂っていようが知ったことではないが、それ以上に問題なのはこの診療所或いはあのコレクションではなくこいつ自身こそがその少女にとっての救いだったのではないか、という当然なされるべき考慮をこいつが恐らくは意図的に弾いていることだろうか。
「掻い摘んで説明すればこんなところだ。改めて、引き受けてもらえるか?」
構わない、構わないが。儘ならないものだ、その少女には悪いが俺にはこいつを止めることは出来ない。せめて手紙くらいは遺してやれ、と言ってやったものの――こいつは何食わぬ顔で書類の束をめくって二つの封筒を見せびらかしてきた。
「一つは君宛てだ。急ぐ用を書いてある訳ではないから、暇潰しにでも使ってくれ」
暇潰しで済むだろうか。内容など知れたものではないが、これを読んで消化するのにどれだけの体力を使うのか想像するだけで気が遠くなる。奴は全ての解説を終えて質問を待つ教師のような態度を見せていた、何故だか分からないが無性に腹が立った。奴をやり込めたいのかそれとも何か別の理不尽への八つ当たりなのかも判然としないまま、俺は奴に向けて吐き捨てた。
あの胎児たち、あの悪趣味なコレクションについてお前は何も自覚していない。あれだけ執拗に集めていながらお前は何故自分が水子を蒐集しているか分かっていないんだ、そうだろう。教えてやる、お前は彼ら彼女らに憧れているんだ。違うか?
俺の最後っ屁――なんとも皮肉な表現か――に対して奴は少し考える素振りを見せたが、やがて首を振った。
「そうかも知れないな。どうだっていいことだ」
「さて、後は所定の場所へと言いたい所だが。先に酒屋へ寄ってもらえないか」
稼業の看板を下ろし財産の全てを手放した奴はこの期に及んで酒を求めた。お前の金だ、何でも好きに買うがいいさ――つい先ほど譲り受けた権利書を突きながら投げやりに答える。
「もう君のものだろう、格好つけて奢ってやろうなどと宣う気概はないものかな。ほら、よく娯楽映画で見るだろう。一人で最期を迎える人間には手ごろな嗜好品、つまりは酒か煙草が似つかわしい。違うかい?」
奴の指示に従って車を走らせ街の外れへ。指示通りの場所に看板を認めてハンドルを切り、数台分しかない駐車場に車を止めた。恐らくは奴にとっての通いなれた酒屋、大きくはないが蒸留酒の品揃えが素晴らしかった。どんな馬鹿高い銘柄を持ってくるものかと思ったが、奴は然程迷わずにNo.10を選んだ。確かに旨いが、何を思ってこれにしたのかくらいは聞かせて欲しいものだ。会計を済ませても何も語らない奴にしびれを切らして尋ねる、理由を聞く権利くらいは俺にもあるだろう。
「ふむ。私は迷いなくジンの棚に歩いていって最初にこいつに焦点を合わせ、他へと多少視線を動かしたものの基本的にはこいつを見て他を見てを繰り返していた。以上から私はこれを買いたがっていると推測出来た訳だ。しかし、こいつはどうしてこれを飲みたがったのだろうね? アルコールなら何でも良かったと思うんだけどね、せっかくだしメタノールを飲んでみるのも面白かったかも知れない。まぁ、君に分からないならば私に分かる筈もないだろう」
その後は実にあっさりしたものだった。地図で示された場所に車を止めると奴は昔と変わらない調子で別れを告げて木々の中へ消えていった。迷いのない足取り、場所を探すような素振りも窺えない。わざわざ場所を指定したのだから、どこでもいいのではなくて何処か心に決めている場所があるのだろう。追えない、追ってはいけない。やっとのことで森から視線を剥がし車へ戻った俺は重い体に鞭を打ってエンジンを掛け、街へと山道を下りだした。
静かで孤独、かつ快適で発見されにくい場所を見つけるのには随分と骨が折れた。真剣に取り組む気力がなかったとはいえ、転移の発見から大分時間がかかってしまった。穴を掘る、床下を使う、色々考えたが山中の廃墟が最も好ましいと思えた。いや違うな、スコップを探したり床のつくりを調べたりするより前に図書館に行き古い地図を引っ張り出して今の地図との比較を始めたことからそう推測出来た、と表現するべきなのだろう。
数 軒回った内の一つの脇に枯れ井戸があったのは正しく僥倖と言う他なかった。直近の木までの距離と井戸の深さの合計の倍以上ある長さのロープさえあれば外に証拠を残すことなく井戸の底に降りることが出来るからだ。命を守ったり救ったりする現場で使われる技術を自死の為に使う。一瞬悪くない皮肉に思えたが、今まさに手にしているロープに銃にと先例が余りに多く発想の陳腐さに呆れかえった。首を振り、セッティングを確認して片手に酒瓶を持って肩絡みでゆっくりと降りていく。見えない場所への懸垂は何とも気分が良かった、今回のように登り返す手段を用意していないときは尚のことだ。酔って曖昧になっていた感覚が一気に尖り、全身が澱みなく連動する。股と手の痛みをしっかりと感じながらも集中が乱れることはない。完璧な状態だった、死の実感とはなんと素晴らしいものだろうか。回収したロープを尻に敷き、大事に持ってきたジンを飲み下した、灼けるようだ。なんと理想的な環境だろう、暗く、狭く、誰にも侵害されることのない場所。加えてちょっとした量の睡眠薬と酒、今この世に私より幸せな人間など誰もいないだろう。
懸垂の余韻に浸っている間は何を考えることも感じることもなかったが、やがて集中が切れ思考が脈絡を失いだした――私は水子に憧れている、とは奴の指摘だったか。それに対して、彼女は母親の視点で考えていたように思う。ここで死ぬのは堕胎されることとどう違うのだろうか、やはり水子達の方が幸せなように思えるが。私が水子のなりそこないだとすると、そこからミームを継承し母親の視座に立つ彼女はなんといえばいいのだろうか。彼女は何を選ぶだろう、あの部屋に来ることなく、私に会ったことも忘れてしまえるような日々を過ごせるならばそれが一番だが。
止めよう、もう休もう。睡眠薬をジンで流し込むだけで済むんだ。吐き出してしまった時に備えて薬は幾らか残す、ジンもまだ素面から酩酊に持って行くだけの量が残っている。大丈夫、問題はないはずだ。
奴の元診療所、俺の新しい別荘に着く頃にはもう日が沈み始めていた。今日は疲れたが、無理に休みを取った手前明日も休むなどと言ったらどんな反応をされるか目に見えている。奴が車の中で少しずつ書き足していた手紙を除いた厄介な諸々を残し、ため息を吐きながら車を出ると少女と目が合った。高校の制服は見飽きたそれ、顔も見憶えがないではない――どうやら件の少女とやらは俺の学校の生徒だったようだ。
一瞬歓喜を見せたがすぐに不可解と不安のそれに取って変わり、思索を巡らせる仕草を見せた。奴が降りてくるのを期待していたが何故か降りてきたのは教師だったのでここに俺がいる理由を考えているのだろう。手を挙げて挨拶しながら歩み寄ると少女は後じさった、恐怖と警戒か。なるほど奴の推測は間違ってないようだ。
足を止め、一歩下がって両手を挙げて敵意はないと示す。診療所を指さして友人を名乗り預かり物だと言って手紙を見せるとすぐに警戒を緩め――やがて絶望の色を見せた。澱んだ眼を見て気付いた、そう言えばこんな子がいたかも知れない。いつも寝ていて、起きていると思ったら詰まらなさそうに本を読んでいる、そんな子がいた。彼女も、静かに孤独に壊れていくような、奴に似た人種なのだろうか。
身体が揺れて、少しずつ揺れ幅が大きくなっていく。少しでも気を抜くと止まってしまいそうな、酷く不安定なその感覚を手放してしまわないようにぼやけた意識を大事に扱う。やがて背中に地面を感じなくなって上下左右も分からなくなり、いつしかその揺れるような感覚で全てが覆われた。何も考えず揺れているその時間は確かに心地好かった。
不意に揺れが止まってしまった、首を絞められているみたいだ。お父さんが、先生が、どこかで見た誰かが私に覆いかぶさっている。重いけれど、その感覚はどこか遠かった。私の上にいる誰かの重さ以上に私自身が重くなっているみたいだった。そのまま息が止まるのに任せようとしたけれど、すぐに手が首から離されて身体が勝手に息を吸ってしまう。
力なく喘ぎながらお姉さんのことを思い出した。手紙には、行き詰ったら地下室に来てくれと書いてあった。お兄さんは、お姉さんを追うのは止められないと言っていた。どうすればいいのだろう。私には分からない、もう何も分からない。
私に乗っていた誰かは恍惚した表情を浮かべると興味を失ったように私から離れていった。身体が重くて力が入らないけれど、少しだけ休んで動けるようになったらお姉さんの所へ行こう。臭いが残ってるといけないからシャワーを浴びてお姉さんの服に着替えて、手紙と一緒に貰った鍵を使って地下室へ。お姉さん、何も聞かないのに色んな準備をしてくれるお姉さん。今の私もお姉さんの想定の内なのだろうか、私には分からない私に必要な何かを用意してくれているのだろうか。少しだけ楽しみだ。