シンクロ率100%
少し陽が傾き、うだるような暑さには拍車がかかってきている。
ショルダーバッグには大量の教科書が入っているのだが、それに暑さが加味されて体がさらに重い。
アスファルトの上を引きずるように足を動かしていく。
俺が犬か何かならば舌でも出して、この暑さを全身で表現するだろう。そうしないのは、ひとえに俺の男としての矜持だ。
目の前が歪んで見える。眼鏡を外してみても変わりがないので、陽炎か何かだろう。頭が回らない今、”陽炎”なんて言葉が出てきたのはまさに奇跡なのでは、とおぼろげに思った。
「お、おい。大丈夫かよ」
部屋の外から呼びかけるかのような、こもった声が聞こえる。誰だったろうか。――ああ、思い出した。同じクラスで斜の席に座っている男である。名前は思い出せないが、その必要もないだろう。
しかし、この男は今日は清掃当番だったはず。気づかぬうちに、相当歩くのが遅くなってしまっていたようだ。
「ああ……。大丈夫、だ」
湿った空気を押し出すように、なんとか声を形にする。いつもならばもっと明朗に言えたはずで、現に今もそうやってはっきりと拒絶の意を伝えるはずだったのだが、出てきたのは吐息ともつかない、細糸のような音の線であった。
学ランの狭い襟を鷲掴みにし、上下させて空気を入れる。肌着が汗で張り付いていたようで、小さな開放感を束の間味わったが、扇ぐのをやめるや否や、あたかもマグネットシートのように再び密着してきたそれに辟易させられることとなった。
「はぁ……。大丈夫なわけねぇだろ。お前、熱中症なんじゃねぇのか? あそこにコンビニあるだろ、飲み物でも奢ってやるよ。お前はそこで待ってろ」
熱中症……。言われてみれば確かに、これは熱中症なのかもしれない。そう思うと、十中八九そうだとしか思えなくなってくる。
そう認識すると突然、さらに輪をかけて身体が怠くなってくる。俺はそれに鞭打ち、男を引き止めた。
「いや……いい。そこまでなら、俺も、歩けるし、金なら俺も、買えるぐらいなら……」
重力に任せて柳のように垂らした腕を動かし、胸ポケットから財布を取り出した。確か、五十円玉が1枚に十円玉が5枚、一円玉が3枚と……ああ、運がいい。確認したところ、五百円玉も入っているようだ。これだけあれば、麦茶の一本ぐらい、容易に買えるだろう。
「ああ、そうか。ならいいんだ」
そうは言いつつも、男は一向に歩みを早めるそぶりを見せない。親切心からくる行動なのだろうが、脳が、寝起きの時がそうであるように、自分のこと、今のことしか考えられない俺にとっては、傍迷惑極まりなかった。
しかし、こんなにも俺のことを気にかけてくれる人がいるならば、もっと早くに話しかけておけばよかった。そうすれば、俺にだってクラス内に居場所ぐらいはできたかもしれない。
まあ、俺は今のように、他人の気遣いを甘んじて享受できない器の狭い人間だ。たとえ始業式の日に話しかけていたところで、何か変わったとも思えない。そう思うと、今日この日に、この男と知り合えるきっかけになった熱中症にはむしろありがたさすら感じる。
本来抱くべきとは違うはずの感情に、誰よりも俺自身が困惑していた。しかし、俺より背が低いはずなのに大きく見えるその背中を認めると、胸中にこそばゆさが疼きだす。
きっと、暑さゆえの錯乱かなにかだろう。――そう考える俺の頭は、なぜか妙に冴えていた。
逃げ水の向こうから一台、軽トラックがやってくる。
太陽は相も変わらず、地上に熱を過多に供給している。なるほど、もしこの男に出会わなければ、俺はニュースの統計に出てくる、有象無象の熱中症死者の一人に数えられたのだろうか。
脱水でろくにものが考えられないのに、いや、考えられないからなのかは知らないが、やけに思うところが多すぎる。俺がパソコンであったのなら、熱暴走と処理落ちで使い物にならなくなっていたであろう。
「ああ、ところで――
男が振り向きざまにそう言った。その瞬間。
男が瞬いた。
俺も瞬いた。
トラックの運転手も瞬いていた。
日本中が、いや、世界中が瞬いたかのような感覚に襲われた。
シンクロ率、100%。
はたまた、世界がまさに一瞬。
”処理落ち”したかのような、暗転。
一見には、何も起こったようには思えなかった。
ミサイルが突然飛ばされたわけでも、絶滅危惧種が全部死滅したわけでも、北極の氷河がアメリカの大陸を覆ったわけでも、彗星の周期が変わったわけでも、大地震が起こったわけでも、警察組織が壊滅したわけでも、異世界とのゲートが開いたわけでも、死人が蘇ったわけでも、ない。
強烈な整合感は、俺の思い過ごしだったのだろうか? そう思わされる。
暫時、足を止めてしまっていたようだ。コンビニまでの道のりはまだまだ遠い。俺は一歩を踏み出し。
「――うわぁっ!?」
急速に迫る地面。転びゆく焦燥感の中でなんとか身体を捻り、正面から地面にぶつかるのは防げた、が……。俺は何につまずいたんだ?
半ば反射的に、俺の足元を見る。
投げ出された俺の両靴。そんなにひどく転んだだろうか。さらに視線をこちらにやる。そして思い出したかのように足の所在を探るが……ない。
ない!?
裾から出ていた足がない。これはどういうことなんだ。
いや、よく見ると、まるでスラックスに溺れてもがくかのように何者かが蠢いている。
袖をまくった手で裾口を手繰り寄せ、やっとのことで俺の足を探し出した。なるほど、こんなにサイズが合っていないのならば、転ばないはずがない。
……俺の服は、こんなにだぼだぼだっただろうか?
「お、おい……お前……」
まるで目の前で怪奇現象か天変地異の類が起こったかのように目を見開き、男は震える手で俺を指差した。
「え、でも……。は!?」
何もない後ろを振り向いた。何度も俺と、その他の周囲を交互に見る。どうやら混乱しているようだが、そこまでのことだろうか。
腕で地面を押して上体を立たせる。着物か何かかと思うぐらい、着ていた学ランは生地を余らせて重くなっていた。髪が邪魔なので手で払い、転んだときに何が起こったのかを確認するために身体を触っていった。
まず最初に感じたのは、腕の短さだ。さっきは何気なく腕をまくってから足を探し出したが、よく考えれば元々は手は袖からしっかり出ていて、わざわざまくる必要なんてなかったはずだ。
見ると、手のひらがプニプニしている。骨ばった、ペンだこがあって乾ききっている見慣れたそれではない。なんだ、この変化は。なんなんだこれは。これじゃあ、まるで――
「お前、まるで……、女の子みたいだ」
年端もいかない少女のそれではないか。
さらに触っていく。
艶やかな緑の黒髪は肩まで伸び、儚げに揺れる。
顔までもが小さくなってしまったことは、ちょうどの大きさだった眼鏡がよくずれるようになってしまったことから、いやでも認識させられた。
手のひらだけじゃない。二の腕、頰などに至るまで、全体的な形状がふっくらと丸みを帯びている。
どういうことだ。一体全体、どういうことなんだ。
「ちょっと失礼するぞ」
フラッシュが焚かれて、残像が網膜に丸く映った。反射的に閉じていた瞼を開くと、男がこちらにスマホの画面を見せてきていた。まだ光が残っていたので目を細めて見てみると、そこに映っているのは、小学生ほどの小柄な体躯の少女であった。
「……嘘だろ? ま、まさか、これが俺……なのか?」
縋るように男の目を見る。男は何も言わなかった。ただ、何も言わずに、首を一度上下に振っただけであった。
余ってしまった袖で一度目をぬぐって、眼鏡を直してからもう一度臨んだ。
しかし、機械も眼球も、ちっとも嘘をつくそぶりはない。画面に映っているのは、少し驚き、そして困ったようにこちらを見る少女。タチの悪いドッキリだと笑い飛ばしてしまいたかった。しかしそれは俺の触診と全く合致していて、否定しようにもそうはできなかった。
脳が蒸しあがってしまいそうだった。アスファルトの熱放射のせいだけではないことは、わかりきってしまったことだった。
眼鏡のブリッジを指で押し上げて直し、その手をそのまま男に差し出す。男は何も言わずに、俺の手にスマホを乗せてきた。
何度見ても、結果は変わらなかった。どう足掻いても、液晶に映されたそれは変わらなかった。変わり果ててしまったという事実は、変わりようがなかった。
これが自分だとは思えない。信じられない。しかしその均整のとれたあどけない顔を正面から否定する気にはどうしてもなれず、俺はぶつけようのない憎々しいような気持ちを抱いていた。
くりっとした、一重なのに大きな目は幼さを強調して、眼鏡とともに少し背伸びしたかのような印象を与える。たれ目気味なのは、先ほどまでの名残だろうか。
わずかに朱が注がれた頰はデジタル補正がなくとも滑らかで、『たこ焼き』と称して小学の頃にやった、親指と人差し指の輪に頰の肉を集めるという遊び――今では頬もこけて碌にできなくなってしまったが、それももう一度できそうである。
小さく開かれた口からは皓歯が頭を覗かせる。薄い唇は今まで悪口の類など発したこともないのではと思わせるほど純朴で、以前に見た時の青白かったそれとは雲泥の差であった。
「ああ、うん、ありがとう」
自分でも高くなってしまったと自覚できる、体に相応しく愛らしい声を出しながら、伏し目がちに男にスマホを返した。
自分のものなのにまるで国宝級の陶器でも手にするかのようにそーっと受けとった男は、気まずげに頬を掻き、再び目をそらす。
俺はその心情を読むことができず、こてん、と首を傾げて、キョトンとした表情で男を見ていた。
男のうなじを汗が流れていったのは、おそらく暑さのせいであろう。
「あ、そうだ……」
目的を忘れていた。コンビニに行こう、という話であったのである。思い出すと、再び脱水の症状がひどくなったように感じてくる。焦ってすぐに立ち上がろうとして。
「ッ…………」
立ちくらみ、立ちくらみ……。
目が遠くなって、それは帰ってこなかった。
夏の日本海に沈むように、明るい暗さ、暖かい冷たさに包まれて、俺は意識を失ってしまった。
◆ ◆ ◆
――ん。こ、ここは?
「よ、かった。起きたか」
汗だけじゃない。人為的にぶっかけられた水によって、俺の学ランはびしょびしょに濡らされていた。輪をかけて重くなったそれを払いのけて今度こそ起き上がる。
涼しげな木陰だった。眼鏡にかかった水を袖で拭き取って掛け直すと、俺がいたのが公園であることに気がついた。この遊具の配置は見たことがない。俺の知っている公園ではないようだ。
ふと目をやると、男の顔がすぐそこにあった。
「――うわあ!? ち、近い!」
驚いた。驚くなという方がむしろ酷であろう。体を跳ねさせて少し後ずさらせた。
「す、すまん!」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
男は立ち上がると、すぐに謝罪を始めた。さすがに少しどきっとしたとはいえ、ここまで運んでくれた相手を蔑ろにしようとは思えない。すぐにその必要がないと伝えようとは思ったのだが、熱が引いたにもかかわらず、それを言おうとすると、まるで禁忌にでも触れたかのように突然、俺自身が焦りだすのだ。どうやら、しばらく家族以外の誰とも話していなかったせいで、他人と話そうとしただけでこわばってしまうようである。
「こ、こっちこそ恩にきる。助かった」
あのままであれば、”有象無象”の一部になることは避けられなかっただろう。ただでさえ人通りの少ない道だったのだから、最悪誰にも見つからずに身許不明の死体として処理されていたのかもしれない。
――身許不明。そうだ。今の俺は俺にして俺ではない。学生証の顔写真なんてがらりと変わってしまっているし、性別すら変わっているようなので、DNAの型ですら俺が俺だと証明してはくれないだろう。親に言ったところで、それこそタチの悪いいたずらだと思われるに違いない。
唐突につきつけられた、あまりに理不尽な変容。俺はどうすればいいのか。未来に描いていた中庸な大学、中庸な企業、中庸な老後というビジョンが音を立てて崩れ落ちて、その残滓と宇宙の果てのような絶望だけが目の前にだだっ広く広がる。
「お、おい。泣くなって」
「な……グスッ、泣いてない!」
なぜだろう、こんなの、泣くほどではないのに、涙腺が決壊して、目の前がにじむ。
それを見られてしまうのがとても恥ずかしくて、俺は顔を背けて眼鏡を左手に外し、濡れて冷たい袖で拭った。
拭えど拭えど、とめどなく溢れ出すそれは、俺の今の心情――心細さとか不安とか、そういったものを体現しているように感じた。
「どうしろっていうんだよ……!」
俺のどうしようもない思いまでもが、自制というダムから溢れ出してくる。”精神”までもが身体に引っ張られているのだろうか。あるいは、俺の”精神”は本当はこの程度の、ひょんな事で崩壊する程度の幼さで、それがこの身体になったことで露わになっただけなのかもしれない。
そんなことが認めたくなくて、さらに水勢に拍車がかかる。だめだ、だめだと思うたびに目頭の熱さは増していき、鼻は赤く痛みを伴う。
そこにあるのは、孤独だった。宇宙の果てで、星座の形は変わって見える。北極星も北にない。太陽は6等星として遠く、他のものと紛れて見当たらない。
ただ重くまとわりつく学ランと、真夏の熱気だけが俺がここ、地球の上にいることの証拠であった。
一度、泣いてしまうともう止まらなかった。俺こそが今、この世界で最も深く、悲しみの底にいるのではないか。そう思われてたまらなかった。SOSの信号は、どこかにいたずらに消えるだろう。――そう思っていた。
しかし、それは、違った。拾ってくれたものがいた。それは――。その男は、俺の頭を掴むと、乱雑さを感じさせる動作で髪をわしわしと撫で回した。
「なにを……」
「……辛いよな。そうだよな」
払いのけようとした。しかし、俺自身に芽生えた、このまま身を任せてみようという提案がそれを妨げていた。俺はどうするわけにもいかずに、ただひたすら撫でられ続けた。
「でもな、俺は、俺だけはお前の正体を全面から信じてやる。なんたって、その瞬間を見ちまったんだからな」
男は笑っていた。笑って、信じると言ってくれた。信じてくれると、俺が最も欲していた行為をしてくれると、言ってくれたのだ。
そこにあるのが闇であることには何ら変わりはない。しかし、今この瞬間、酷暑と無重力に浮ついていた俺の足は、明らかに地面についた。
俺の見た、広い背中は幻視ではなかったのだと悟った。俺の心を体現するのがこの少女の身体ならば、男の小柄ながらも芯の強い身体はどうだろう。
蒸しあがってしまうのではないかと思うぐらい、顔が熱くなっていた。きっと、夏のせいではない。
これは、――いや、信じたくないが。
「ありが、とう」
俺は無難な返答で、お茶を濁した。