遺園
旧王国歴188年初夏、ラストレア
ねぇ、と彼女は振り返って笑った。翻った深緑の衣装の裾には一面繊細の白いレースが縫いこまれ、まるでそこだけ淡い光をまといつかせているように見える。
「私、ここがいい」
彼は曖昧に頷く。城の中庭の間隙のような空間は、彼女がこれから沢山のものと戦わなくてはならないことを耐えるための要塞だとしたらあまりにも小さく孤独に見えた。
「本当にここでいいのか」
彼は聞いた。彼女はうん、と白い歯を見せて笑った。
「あんまり大きくても仕方がないわ。ここに林檎を植えて、小さな椅子と卓を置くの。春には花が咲いてとても可愛らしいし、夏は緑が綺麗だし、秋にはきっと実をつけるわ。そしたら二人で食べましょう」
彼は微笑み頷いた。冠白鷲の紋章が刺繍れたドレスは彼女のための誂え品で、彼女の慎ましくて華奢な身体によく添って愛らしい。天鵞絨地の濃緑からすんなりとのびた細い首、細い腕、白い肌。衣服を全てはぎ取ればなめらかでしなやかな肢体。あれを他の男が知る前で本当に良かった。永遠に自分のものだ。全て。
壁に囲まれた小さな園に舞い込んできた風にドレスが揺れる。初夏の日射しは眩しいが、彼女の緑のスカートはもっと目に鮮やかに見えた。
ああ。彼は幸福のあまり小さな溜息を漏らす。彼女の黒髪が揺れて光の波濤を描き出す軌跡をいつまでも眺めていたいと思った。いつまでもいつまでも、自分たちの間にこの日の幸福があればいいと、そう思った。
旧王国歴220年冬、ラストレア
夜明けにはまだ早い時間であった。廊下を騎士たちの甲冑の鳴る音が慌ただしく走り、空を裂いて炎の音が降る。矢束を運ぶ車の音が何度か城塞の上部を往復しているのだろう、天井のさらに上も騒がしい。
そっと窓から覗き見れば、城下町の灯りは全て落ち、その代わりにザクリアの連中の煌々と炊く松明が秋の夜を照らしている。彼は深い溜息になった。ザクリアの連中と言うが、この城にいてシタルキアの王を名乗る者も今ザクリアにいてシタルキアの宣統王を名乗る者も、元は同じ根に連なっている。
宣統王のほうは学生であったころにしばらく城に滞在していたが、どこにも気力がないただの怠惰な若者にみえた。それが状況がめまぐるしく変わった挙げ句、今や南部臨海州の独立を宣言し、甥王を蹴落とし、シタルキアと臨海州の宣統王を名乗って最後の内乱を片付けるのだという姿勢でラストレアに攻め寄せている。
どういうことなのだともう一人を問い詰めても、あまりはっきりとした答えがなかった。
但し、この二人は自他共に認める仇敵である。異母兄弟の確執などという言葉で片付けてしまえば、何かが余りこぼれていく気がするほど。
扉が叩かれて彼は返事をする。老将軍が軽い会釈と共に入室してくる。本来は膝をついて両手を組み……という典礼にこだわる気持ちなどどこかへ消えた。
「殿下、もはやこの週を越えますまい。どうぞお支度を」
落ちるか、と聞くと将軍は溜息で肯定した。老人が南部からの補給を断たれたせいで数が足りなくなった矢や馬、西のラジールと北のジェアの挟撃で疲弊した兵を必死でやりくりして一ヶ月に近い攻城を耐えたことこそ、ねぎらってやるべきであった。さすがに軍閥の名門を長く率いてきたものだと思う。
「私はよい、ここに残る」
彼が言うと老人は宥めるように首を振った。残れば死ぬ、ことは誰に説明されなくても理解していた。だからよいのだと彼は言ってやる。
「この城は私が亡き兄上よりお預かりしたものである。兄の嗣子と認められた者や正規の手続きを経て即位した王に渡す以外、出て行くことは出来ぬ」
兄の死後、国政は荒れた。兄は死の数年前から意識がまだらに混濁しては清明に戻る繰り返しで、それがどれほど肉親として痛ましかったかを、老人は知らぬ。兄の輝かしい背を覚えている者として老人と語りたい気持ちはあったが猶予はあまりないようだった。
「そなたはあれについてやりなさい。なに、随分長い間私はここにいた。ジェアとのことも何度かある。お前たちを逃したあと多少は保つであろう」
彼の意志が固いことを知った老人がじっとうつむき、長い時間が流れたのちに拝伏して万歳と呟いた。彼は頷いた。
老人が慌ただしく出て行くと、また部屋は一人となった。身の回りの支度をする侍従たちや文官らは先週解放となった。だから一人だ。何をするでもなく、椅子に座って爪やすりをとり出し、磨き始める。
左手だけを磨き終えて視線を上げると、細密肖像画が陶器の額縁の中で温かに微笑んでいるのが目に入った。もうよいよな、と小さく話しかける。
彼女の死はもうかなり前のことであるが、どうも明日あたり会えそうな気がした。
地下茎でみっしりとつながった自分たちの物語はようやく終わる。遺産にたった一人異母妹を残していくが、あれは兄がひどく手こずったように我が強く、常に鉄の色をしている。だから大丈夫だろう。
彼はいつの間にか微笑んでいた。終わりは常に、人の身ならばどこかで来る。その時自分は笑っていられるだろうかと、昔思った。
明日には答えが出る。きっと。
彼は窓の外をもう一度見る。松明のゆらぎがひときわ大きく爆ぜて目の奥に光の残像を焼いた。
旧王国歴189年晩春、ラストレア
分かっていたことだけど、と彼女は笑った。笑いながら目尻が微かに痙攣するのが分かった。彼は小さな肩を抱きしめてやる。すまないとしか言葉がない。
「いいのよ、だって一日中私にくっついていることも出来ないでしょう? 他の妃様たちの仰ることもわかるわ。だって私はあの方達とは全然違う田舎貴族ですもの」
分かっていたというのも本当で、だからこの小庭園は彼女のために整えたものだ。今上王の実弟である自分には既に彼女を含めて六名の妃がいて、彼女の出自は一番悪い。そこへ自分が一番通うから、風当たりは強くなる。
「それにあなたと会えない方がずっと辛いわ」
彼女が小さく笑って花摘みを続ける。林檎は一つの中心花の脇に側花が咲くが、中心花を残して摘み取るとよい実になるのだ。
「時間をかけるしかないが、私はお前を愛している」
彼がそう言うと、彼女はじっと彼を見つめて小さく頷いた。瞳にある光は柔らかく自分にひたりと吸い付いて、必ずあなたを信じますと言われているのが分かる。
だから抱き寄せて唇を深く貪りあう。林檎の花の香りがつつましく漂う。
彼女が庭を欲しいと言ったとき、もっと大きくなくてよいのかと自分は問うた。けれどこれで良かった。こじんまりとまとまった居心地のよい巣にするためには広い場所では駄目なのだ。花の香りがする程度に閉じていなくては。
彼は口付けしながら彼女の髪を指で梳きといてやる。愛おしい。ただひたすらに、愛おしい。
林檎の木の寂しいたたずまいを品がないと笑う人間など消えてしまえばいいと思う。いつまでもいつまでも、二人で寄り添い歩く為に指を絡めていたいと思う。
この望みを実現し、幸福の庭をこの小さく完璧な完結のまま維持してやりたい。この庭は彼女が他の妃や使用人の目をやりすごすための立て籠もり城だ。どんなに小さくてもささやかでも、二人がいつも共に在ることは当たり前のことだと深く信じる。
きっといつまでも信じる。きっときっと。
旧王国歴220年冬、ラストレア
喊声があがり、重装備車同士が衝突する音がした。火矢は殆ど脅しで、早く出てこいと誘われているのであるがその気は無い。
ザクリアの南軍の連中は城堀を埋めようとせず、橋を焼いたのは何故だろうと思っていたが、どうやらジェアの侵攻を先に叩くつもりであったらしい。こちらに最低限の対応人数だけ残し、ラジールを牽制しつつジェアの鼻面を強烈に叩いて足を止めたと聞いた。
良い手ですと老将軍が頷いていたし、人員を捻出するには確かにそれしかなかろうと自分も思う。南軍を総率している漢氏の男は以前交友のあった漢氏盟主の子であると聞いているが、こうして世代を変わって途切れてしまう絆が寂しいような気はした。
ラジールを引き込めないかと交渉はしてみたが結局交渉虚しく彼らは帰投を始めている。ラジールが完全に消えれば次はこちらの番ということであろう。
だから先に脱出する者を行かせている。廃王の子供達に自分の子供達、孫たち、それから……シタルキアの最後の王になるであろう男。
宣統王を名乗る甥には脱出路のことなど教えていなかったから、知らないのだろう。ラストレアの西へ出る。
あの甥を兄が特別に可愛がらなかった事実には付き合ってやるしかなかった。数年前に彼が王宮を出てラストレアに来た時に兄からは出来るだけ自由にさせてやり、可能な限り無視せよと言われた。
会えばやはり異母妹に似ていた。妹に備わっていた鈍色の壁は感じないが、明るく朗らかに笑っていれば妹の勝ち気で瑞々しい表情が思い出された。
無視せよ、という兄の言葉に自分は笑った。兄が異母妹に抱く憎悪と愛の綾織は、見る角度によっては別の紋様が浮き上がるように出来ている。異母妹の冷えた憎悪と彼女の涙を織り込むと、兄の固く張った背が見える気がした。
彼は外周の斥候路へ出た。途端、油と燻る炎の混じった臭いが鼻をついて顔をしかめる。喊声もあがるが総じてにらみ合いという状況は続いている。但し、老将軍が言うようにもはや決勢している。
自分は死ぬ。彼は城壁から城塞を俯瞰しながら思った。兄も、彼女もいない。誰も幸福になどなれなかった。なら、次の循環でやり直す。だから死はその通過点だ。
叔父上と声がして彼が振り返ると、黒髪の男が軽く会釈して横に並んだ。
「なんだ、まだおったのか。早く出て行け、お前ならばまだどこへ身売りしても価値がある」
男は淡く笑ったが彼の言葉を否定はしない。シタルキア正統王を名乗ったところで領土を失えば虚王だ。顕名と血筋しか売り札がつけられぬ。
「もう参ります。お別れに」
男が言い、ゆっくりと自分に王族礼をとった。自分が死ぬことを男は理解しているし、自分は納得している。だからその話はしない。息災でなと言うと、男は頷いた。
「都市連合側から探りも来ておりますので、まずはそちらへ。折り合うかは分かりませんが」
男の説明は簡素で短い。それ以上のことは今はまだ分からないのだ。彼は頷いて肩を軽く叩いてやる。男の目元に彼女の面影は濃く宿り、不意に林檎の庭の幸福な誓いを思い出して目を細めた。春は花、夏は緑、秋には果実を。
男は何かを言おうとして躊躇い、沈黙した。これが今生の別れであることはお互いに理解している。だから自分も声を殊更かけない。死ぬまで口からこぼすまいと誓った言葉もある。だから頑なに沈黙する。
「……叔父上、私は」
男が視線を彼から逸らして呟くのが聞こえた。
「私は本当のことが知りたいのです」
彼は男をじっと見つめた。男が今何を指して切なく願っているか、何を知りたがっているかは理解していた。少年期からずっと周囲に吹き込まれてきたことを男は否定せねばならなかったはずであった。
だから最後に聞きたいというのがこれであることを哀れだと思う。彼が何を答えるのか、理解しているはずなのに。
「何を迷うことがあるのか。お前は兄上の子だ。兄上は少し勘違いをされただけで、それは撤回したではないか」
男がじっと自分を見つめる。本当はあなたが父ではないのですか、自分は誰の子なのですかとこれが叫び出したかったはずの少年の頃、目立つようなことを出来ずに放置するしかなかった。
清算をして欲しい。真正面から射貫かれるように目線で挑まれると笑い出したくなった。
王族に生まれはしたが、有力な他の兄弟たちや後援貴族らの中で自分たちは本当に無力だった。だが兄は大丈夫だ、俺がお前を必ず国のよき重鉄鎮にしようと言った。それは実現した。自分は信じられなかった。けれど即位式で王の証である宝錫と宝剣を、それぞれの手に持って軽やかに階段を上がっていった時の兄は本当に華やかに得意げで、途端に世界は鮮やかに広がり美しかった。
王族の中で自分と兄はいつまでも共にあろうと手を取り続けてきた。誰が覚えていなくとも、人生の最後は混濁した自我に振り回されたとしても、それでも自分にとって兄は誇らしく胸に抱いて死ねるものであった。
そのために全てを捨て、今は思い出だけが胸に残る。
「お前が何を知りたいのかは分からんが」
彼は男の目を睨み返し、出来るだけ淡々と言う。
「私が父と名乗って何か変わるとでもいうのか。所詮それはお前の満足ではないか。私が父だとしたらお前がここに残り死ぬとでも? 私が叔父だから堅守して死ねと言うことも出来るはずだ。それともまた父殺しになりたいか」
父殺しという言葉に男は言葉詰まったようだった。男と兄は上手くお互いの感情を折り合うことが出来ず、国政の処理は潤滑にゆくように協力しても胸結ぶことは出来なかった。だから男は兄を殆ど飼い殺して緩慢に殺した、そのはずだった。
「そう、仰る通りです……叔父上」
視線を外し、男が頷いた。分かったら行け、と彼は突き放すように言い、城下へ視線をやった。戦はもう終わる。明日か、明後日には。
そして宣統王を名乗った甥がシタルキアの全てを手に入れて玉座にあがる。正直なところ、あの甥の何がそんなに良いのか未だに分からない。だがあれを支持する人間が殆ど熱狂的であることを思うと宗教の麻薬のようだ。
「では、これにて。叔父上、どうぞお心残りなきよう」
深く一礼して去って行く男の姿が見えなくなるまで見送ってやる。頑なで折れない自我は兄とよく似ている。彼女にも。どんなになよやかでくたりと柔らかくても、彼女は常に強く明るかった。
だからあんな風に歪めてしまったことを謝れと言われるなら素直にそうしただろう。あれは不器用なのだ。兄と同じように。
北風が吹いて後れ毛が額に散る。わずらわしくそれを払いのけ、彼はじっと眼下に展開する軍を見つめた。
旧王国歴190年早春、ラストレア
どうして、と彼女は言った。何かを説明しようとしたが自分にも上手くそれが出来ない。だから結局すまないとしか言えない。それが求められている答えでないことは知っているのに。
「どうして、ねぇ、どうして」
彼女が自分の胸元にしがみつき、揺すりながら早口でこぼすのをされるままにしてやる。その可愛らしい暴力で自分の心臓に致命傷が突き刺さればいい。どうしてと繰り返す彼女の目にはついに非難も怒りも見当たらない。ただ呆然と驚愕だけが繰り返し回る。
「私はあなたのもの」
彼女が自分を見上げてうわごとのように呟く。いつも自分は笑って、だから俺はお前のものだと言えば彼女はうっとり微笑んでそこからは二人だけの秘密を分け合う甘美な時間だった──けれど。
自分はそのいつもの儀式を無視する。すまない、と呟くと彼女は首を振ってもう一度同じ事を言った。だから彼もすまないと繰り返した。
兄から直接欲しいと言われたわけではなかった。けれど年に一度か二度、王都で会う兄はその度に落ち着いていくように見えた。……だから悪い、ことはよく分かった。
立太子されて以降感情の起伏を完全に律しきってはいるが、もともと兄は激情に身を委ねる類の人間である。好悪もかなりはっきりしているが、さすがに立場上は繕うべきと知っていて、蒼月宮でもつれあうように成長した自分には激しさを覗かせるものの、他に対しては自分を殺すことを完璧に演じてみせていた。
が、それが兄の負担であることは疑いようがなかった。忍従など、あの明るく激しい兄にはまるで似合わない。その発散の相手としても自分が兄にとって重要な位置にいたことは疑ったことがなかったが、王都と北方の要衝に別れていれば身近に慰めることも出来ない。
その点について、兄は自分にすまないと言ってくれたはずだった。北方の要衝と呼ばれ、北部国境保持の最重要拠点としてもシタルキア北部の主要都市としてもラストレアは大きな街であるが、本来自分は王都で兄の片腕として在るべきで、決して北へ遠ざけられるべきではなかったのだ。
すまない、と兄は言った。悔しさなのかぎりぎりと奥歯を噛み締めている表情で、それを兄が心底から不服としていることが分かった。
(すまない、俺にはまだ、連中を捻じ伏せるだけの力が無い──あまり長い間には決してしない、お前は俺の補佐をしなくてはいけない、俺にはお前が必要だ)
分かっていると自分は兄に頷いてみせた。父王の背後には沢山の閨閥や利害が絡み合っていて、正妃腹でない二人の兄弟にとって、時折は御しがたい障壁であった。兄が次代の王と決定してまでも、自分を北へ放逐することで兄の力を削ごうとしている。分かっていても王太子であってさえ、ラストレア行きを止めることが出来なかったのだ。
兄が完全に宮廷を掌握した頃には既に王宮に自分の席はなかった。結局兄弟の強い提携を嫌った後背の貴族どもに自分たちはたっぷりと時間を与えてしまったのだ。
兄はもうすまないとは言わなかった。けれどこれだけは変わらない強く歪まない瞳で、離れていても俺たちは常に共に在るのだと言い、自分の手を握った。自分はその手を握り返した。自分たちは手を取り合うのが当たり前の姿なのだと強く思い、それ以来、自分と兄は時々黙ったままの午後を過ごすようになった。必要以上に触れあわない、例えば背中を合わせて本を読んだり、長椅子の上に置いたお互いの指が絡まないままひっついたり、そんな程度のこと。
けれど兄の胸に澱のように溜まっていくどす黒い泥濘の栓を抜くためにはそれが良かった。兄には沢山の妃がいたが、彼女たちの誰もが義務だと察してはいた。兄の胸に今も残るのは青春時代の最後に兄に平手をくれて絶対にあなたのものにはならないと宣言した異母妹なのだ。
あの勝ち気で傲慢な美しさは兄の理想で、自分には重荷だった。異母妹の視線を振り切るように自分は妃をとり正妃をたて、彼女と出会った。正妃にしてやることは出来ないが愛は注いだ。子が出来にくいのかもと悲しげにしてはいたが、子が出来ても出来なくてもどちらでもよかった。
そんな午後を過ごすうち、彼女を側につけるようになった。年に二度はザクリアへ戻っていたし、帯同するのはいつも彼女だった。彼女は兄が誰であるかは知っていたし自分たちの絆や覚悟を理解できなくても尊重はしてくれた。
彼女と連れ添うようになって四年目の春、ラジールとの国境戦を終えて立ち寄った兄を林檎の庭へ誘った。丁度花の季節で微かな香りと白い花が可憐であった。肩同士が少し触れるかどうかの位置で自分は本を、兄は書類を読んでいた。休日ではあるが王という職責の義務は生真面目に果たす兄であった。
彼女はいつものように薄い果実酒を出して下がっていった。それをゆっくり含んでいたとき、自分は気付いた。声も立てず呼吸も乱さず、兄が泣いている。ちらりと書類を視界の隅で盗み見てみるが、ただの転領に関する礼状だ。
自分は兄が片手で無聊にグラスの縁を撫でていた指を捉えた。兄はこちらを見なかった。やめろとも言わなかった。だからそれが兄の悲鳴であることは分かった。
自分は兄の手を握った。強く。
「……俺はまだ戦うべきなのだ」
話しかけるでもなく、殆ど自分に言い聞かせているような静かで苦しげな声。
「だから立ち止まったり迷ったりするべきではないのだ」
分かっていると言う代わりに彼は兄の手を握りしめた。兄が握り返してきた。強く。
どちらともなく指がからまり、指の間に指をはさんでしっかり重ねあう。同じ温度。どれほど言葉を重ねてみてもこの温度を越える理解などありはしない。
ああ。彼は喘ぐ。この完全なる依存と孤独は自分たちの間に越えられない山を与えようとしている。だから手を繋ぐ。困難や無謀に思えた全てのことは、今こうして肌からつたわる熱でしっかりと溶接された手で壊してきた。だからこれからもきっとそうする。きっと。
ゆっくり呼吸すると、その肩に兄がほんの僅かに首を傾けて頭を預けてきた。抱き返したりしない。下手な体温は自分たちの間にある開かれた回路を逆に閉じる。
花摘みをしていた彼女が二人の異様な空気に気付いたのか、そっと離れていく。中庭の飾り格子の木戸を押して音も無く出ていった彼女の深紅のスカートがふわりと舞う。
「よい庭だな」
兄がぽつんと言った。それは心細い哀しみの匂いがした。自分は兄をじっと見た。憐憫や同情ではなく、もっと強い感情が自分の中を駆け上がってきて胸に溢れる。それはどんなものよりも重く熱い。
自分は彼女を愛している。けれどそれ以上に強く強く、魂と運命で結ばれている相手は今ここにいる。肉体や精神よりもなお強く自分たちをつなぐ──繋いでいる、手。
自分の中の傲慢で強い光、明るく輝く暁星。この輝きがきらめきを失って醜く堕ちてゆくのかと思った途端、眩暈がした。そんなことは絶対にさせない。
兄は全て、自分の前で大丈夫だと笑いその通りに全てを力強く排除していく支配者であって欲しい。自分はラストレアを離れることは出来ないが、けれど。
「この庭は彼女が作ったのだ。庭を移築することはできないが、彼女ならば差し上げる」
兄は苦笑したようだった。ほんの僅かに首をひねるだけでよいのに顔を見ることが出来ない。
「あれはお前のものだ」
「そうだ。だから差し上げる。兄上の心慰めとなるなら俺はそれでいいのだ。頼む、あれを連れて行ってくれ」
兄は黙った。まさかと笑って席を立たないだけで、自分の提案が間違いでは無いことを知る。兄に必要なのは弛緩と怠惰で、彼女の中にある全ての優しさやぬくもりは十分に兄を満たすだろう。自分にとって彼女は強く愛する相手だが、兄は全てだ。憧憬という真っ白な野に憐憫という薄墨など流すべきではない。
差し上げる、と彼は繰り返した。長い沈黙が林檎の庭に落ち、やがて兄がすまないと小さく言った。彼は頷いた。自分の一部である彼女を切り離すのは辛いが兄が翼もがれて落ちようとする鳥だとすれば、飛び続ける為の小さな巣箱を与えたいのだ。
いいのだ、と彼は言った。兄は頷いた。深く。
「では、俺が気にいってどうしても欲しいと言ったとしておけ。その方が、どこに対してもお前の面目が立つ」
「しかし、それでは兄上に傷が」
「構わんよ」
兄が太く笑い、目元が歪んだ。それは自嘲と怒りのまざった濁笑で、そんな表情をするのを彼は初めて見た。とても正視に耐えず、目を反らす。
「今更一つ増えたところで何も変わらんさ」
その呟きに彼は首を振り、兄の手を握った。兄が握り返した。自分の願いを兄は正確に把握していることは何故か確信が出来た。
……けれど、彼女のどうしてという問いには答えきれない。愛しているのは本当だ。兄が彼女を欲していることが愛なのかは分からない。けれど兄には今、自堕落に浸ることが出来るぬるま湯が要る。だから与えるのだ。
自分と兄の間にある全てを他人に説明することは難しかった。だからすまないとしか言いようが無い。
彼女がどうしてと繰り返す度に、彼はすまないと呟いた。誰かを救う為に誰かを差し出すなど、等価交換ですらない。価値の衡量など教えるべきでも口にするべきでも無い。
すまないと壊れたように繰り返していると、彼女は遂にそれが覆らないことを悟ったらしい。黙って自分に会釈をし、部屋を出て行った。兄のラストレア滞在中に全ての書類上の手続きを終え、彼女は兄の所有物となった。速やかで鮮やかな妃の移譲であった。
旧王国歴220年冬、ラストレア
城が震え、吠えるような声が階下に響き渡った。彼は兄が自分に降り注いだ勲章の位置を鏡で確かめた。勲章には格位があり、つける位置が相対的に決まる。礼典通りにすると中々邪悪な嵌め絵のようだなと苦笑していると、廊下を駆けてくる甲冑の音がした。
「殿下、どうぞ、こちらへ」
彼は頷く。自分は最期まで守られるべき王駒である。自分の死の為に沢山の死が必要なのだ。公用私室の棚にあった細密画をぱたりと倒す。少しだけ、目を閉じていなさい。血腥くて残酷なものは見ない方がいい。お前の姿は目を閉じれば瞼の裏に描くことが出来るから、私は大丈夫だよ。
廊下を歩きながら彼は中庭を見下ろす。林檎の園は寂しく幾つかの実をつけていた。手入れを最近してやらなかったなと思うと強烈な寂しさが胸をつく。
あの庭をどうするかは宣統王なるザクリアの簒奪者が決めるであろう。あとは筋道のまっとうに自分は死ななくてはいけない。思えばあの甥の母親は異母妹である。結局兄は憎悪のよじれを彼女に押しつけ、無理矢理つじつまを合わせようとしたのだ。
自分たちは青春の光の中でお互いに絶妙な位置で立っていた。それはあまりに完璧に整って、一枚の絵のようでもあった。兄も異母妹も、そこへ戻りたかったのだろう。けれど時間は繰り戻せない。
あの甥は兄の苦悩と挫折の証、そして異母妹の憎悪と悲鳴の結晶だ。何が罪で間違いなのか、心の中の出来事は裁くことが出来ないが二人が離れようとして踏み誤ったことはうっすら察することが出来た。
罪子である甥をラストレアへ送ってきたのは自分への信頼の証明であり、言い訳でもある。臣籍降下させると言っていたが、それは何故か付帯されなかった。兄には何度かあの王子にも声をかけてやれと勧めてみたが、常に回答は否であった。分かっていて自分も同じ事を繰り返していたような気もするが。
何が間違っていたのかという問いはしない。蒼月宮で兄と異母妹と三人でいたあの永遠で時間が止まればよかったのだ。けれど不可能を仮定しても意味が無い。
それに誰も幸福にはならなかったが、間違いでは無かった。それは今も固く信じている。あの日あの庭で、兄の手を握った瞬間から。
回廊を走る騎士達の逼迫で、もう本当に終わりなのだという感慨が腹の底から込み上がってくる。足早に城の中央広間へ踏み込むと、最後に残った騎士達が一斉に自分に軍式の敬礼を行った。
みな自分の為に行動せよという命令は昨晩出してある。だからここにいる者らはみな、自分が背負う正統シタルキアとやらと心中なのだ。
「そなたらの忠誠を嬉しく思う」
彼は出来るだけ淡々と言った。
「王陛下は既に脱出されておるが我々がここで少しでも長く持ちこたえることこそ、陛下の御身に一層の安全をもたらすものである。そなたらのことは陛下にも必ず伝わる。ゆえに最後まで誇りを持ち名誉を保て」
歓声はないが、敬礼にした剣を持ち替えて全員が鞘を捨てた。彼も剣の留め金を外し、鞘を床へ落とす。その小さな音が広間に一瞬響き、直後に扉が叩き壊されてどっと兵士が乱入してきた。
双方から咆哮があがる。敵をみればあとは殺し合うだけの、流血の時間だ。
彼は吠えた。それは人生で最初で最後の雄叫びであった。
剣を振り上げたとき、自分が笑っていることに唐突に気付き、歓喜のあまりに彼はまた笑った。
旧王国歴190年春、ラストレア
庭は潰して下さい、と彼女は言った。自分が兄に王族礼を取る横で、誰にも聞こえないように囁かれた最後の言葉であった。
彼が顔を上げると兄の隣で彼女は真新しい金赤のドレスを着て、じっと彼を見ていた。美しくはあるが他の妃らの手前、出来るだけ大人しい色を身につけていた彼女の切れるような鮮やかさは確かに自分への非難だった。
「また夏には会おう」
兄が言って背を返した。夏は全貴族会議がある。その時また二人の時間を取りたいと思い、そこに彼女はいるのだろうかと思う。どちらであっても不服は無い。兄の為に全て差し出して構わないし、兄の為に全て耐えて歪めることを怖れてもいない。
自分が怖れるのは気高く誇り高く傲岸不遜の塊のような兄が、重責と重圧と抑圧に身を折って崩れ落ちていくことだけだ。だからそのためには何でもする。
そして自分の覚悟を兄は受け取った。だから自分と兄は永久に離れない。いつまでもいつまでも見つめあって生きる。それを思うと嬉しさのあまりに背が震えてくる。兄が彼女を連れて去る時、恐らく自分は陶然と微笑んでいた。
庭は潰して欲しいと彼女は言ったが自分にはその気は元から無かった。兄へ差し出しはしたが彼女を思う気持ちとはまた別の話だ。
彼には手入れの方法が良く分からなかった。彼女がやっていたことを記憶から探してやってみたが、いちいち調べることも多い。が、彼女の残り香がいつもそこにある気がしてやめようとも思わない。寂しげな枝の隙間や葉の陰に彼女の残像もまだ鮮やかに残っている。
けれどこの年の林檎は良くなかった。どれも小さくて囓ると酸い。自分の手入れが悪いのだろうかと思うがこの庭には他の誰も入れたくない。仕方なしに本を読んでは試してみたが、自信は無かった。
けれど次の春、彼女がいない庭で花は一斉に咲いた。白く慎ましやかな花が開くとささやかに甘い香りが庭一面に漂って、胸の奥まで満たされる気がした。
嬉しくて嬉しくて、自分は庭でうずくまって泣いた。それは全てほどけて過去へ贈る涙だった。突き刺さるようにただ、寂しかった。
そして兄の幸福と、彼女の幸福を強く願った。