夢のあと
レモンは幸せの匂いだ、と思う。
眠たい頭でそんなことを考えながら、私は毛布をたぐり寄せる。
部屋はちょうどいいくらいに薄暗くて、ランプのぼんやりとした光が壁をベージュに塗りあげている。
目をつむると色々な音が聞こえる。
車輪が夜道を削る音、酔って調子に乗っちゃった若者たちの楽しそうな声。
そして蒸気の噴出音。
すっぱい柑橘の匂いが部屋全体に沁みわたって私は、ああ幸せだなあ、と満足をする。
どんなにちっぽけでくだらなくたって、私にとってそれは確かな幸せだ。
暖かい部屋があって、柔らかい毛布があって、大好きなレモンにしっとり包まれて、夜の雑音と共に私は眠る。
どんなに目の冴える夜でも、ここにおさまれば自然と微睡んでくる。まるでここだけがなにか、べつの空間のように。
なんとなく、学生の頃の居眠りを思い出す。
優しい陽射しの午後、ちょっと頭の薄い非常勤の先生の声を聞いていると、そいつは突然やってくる。
一度目をつむったらそのまま。気がつくと筆箱が床に落ちていて、真っさらなノートには幾何学的なペンの走りあとが残っている。
口の端のよだれを拭って、「やっちまった」なんて思う頃にはもう遅くて、あみの破れかかったスピーカーからぐわーんとチャイムが鳴り、私は寝ぼけた頭をくらくらさせて、こぼれた文房具たちを拾う。
そんな感覚に、どことなく似ている気がする。
元来さぼり性の私は、中学生の頃にはもう既に居眠りのとりこになっていた。
午後の授業はもうほとんど起きてられず、体育でさえさぼって保健室で寝ていた、と思う。
もちろん、成績はぽんこつで、よくもまあこの年まで苦労しなかったものだと感心するくらい。
そんな出来損ないのアホだった私に比べると、彼女はまさしく完璧だった。
普通こういうのって姉の方が優れているもんなじゃないかしら、なんて思っていても、彼女は私なんかよりずっと優れていた。
顔は綺麗できゅっと整っていて、頭も良くて、スポーツは小さいながらもバスケットボールをやっていた。
本当に姉妹か?なんて言われることもあったし、自分でも思うくらいだったけれど、私に劣等感はそんなになかった。
劣等感を抱くには、あまりにも違いすぎたし、私は純粋に彼女が好きだった。
運動したあと、汗ばんだ額をみせてニコニコ笑う彼女の、なんとも無垢な笑顔を見て私は幸せだった。
それは、真夏、冷たい水に顔をつけたみたいな、かんかんに火照った体をばしゃっと冷やすような感覚によく似ていた。
真夜中、なんだか怖い夢を見たような気がして、ふと目が覚めた。
部屋はしっとりとしていて、私の気の緩んだ身体が少し汗ばんでいた。
私は、なんの夢を見ていたんだっけか…と考えて、ゆっくり天井を見回した。こういう夜中に見る夢はたいがい悪夢で、それもだいたい思い出せないことが多い。
結局、何も思い出せなかった私は静かに布団をはいで、起き上がった。
私は一度目が覚めてしまうと、二度寝は出来ないタイプなので、無理に寝ようとしても仕方ない。すっかり冴えた目と頭をくるくる回して、私は私だけの幸せに満ちた部屋から出た。
全てが寝静まった家は、どことなく独特の雰囲気がある。
つい数時間前までは忙しなく動いていた台所の食器たち、パタパタと音を立てて歩くスリッパ、引きずられる椅子、そんなもの全てがしんとして、糸を切られた人形みたいにばらばらになって、横たわっている。
外から漏れてくる青っぽい明かりを頼りに、私はがらんどうのリビングを歩き回る。
怖がりな私には、いろんなものが見える。
カーテンの隙間から誰かが覗いていたり、真っ黒なテレビ画面に仏頂面のキャスターが映っていたり、透き通ったグラスの底には歪んだ悪魔みたいな私の顔が見える。
そう見える。
そう見ている。
怖いことばかり考えていたら、背筋のど真ん中をぞくぞくぞくっとしたものが通っていって、もっと怖い気持ちになる。
私は身震いして、濡れた唇を拭って、さっさと部屋に戻ろうと階段を上ろうとすると、奥の部屋から物音が聞こえた。
のれん越しに覗くと、奥の小部屋からゆるい褐色の光が見えた。
誰かまだ起きているのか、にしても随分照明が暗い。
私はしばらく黙って、耳の先をぴんととがらせて、誰だろう、誰かしら、と脳みそをフル回転させていた。
本当はそんなことしなくても、わかっていたのかもしれない。
数分たっても、がさがさとした物音は止まなかった。
私は腹をくくることにした。
夜中も真夜中。おっかなびっくりの好奇心を握りしめて私は、明かりの灯った部屋にそっと入っていった。怖がりの私が、普段なら絶対にしないことだ。
その部屋は元々は、子供部屋のつもりだったらしい。でも狭くるしいのがなんだか気に食わなくて、姉妹揃って使うことを嫌がった。
それでいつの間にか「物置もどき」になってしまっていた。
積み重なった雑誌の束とがらくたの入ったかごに挟まれて、彼女はいた。
押入れを全開にして、敷きつめられたプラスチックの衣装棚を漁って。
「なにしてんの?」
私はその光景が至極当然であるというように、ごく普通に聞いた。今考えればちょっと恐ろしいこと。
「…探し物。」
彼女もまた、当たり前のように返事をした。
それが動転しかけた私の心を真っさらに落ち着かせてしまった。
「探し物?なにを探してんのさ。」
彼女は下に向いた顔を一旦上げて、ぼそりと言った。
「ぬいぐるみ。」
「ぬいぐるみ?」
「うん。」
すると彼女はまた下を向いて、なにやらし始めた。
「もしかして…もふもふさんのこと?」
私は自分で口に出しておいて、すごく恥ずかしくなった。
「…うん。」彼女は少し間をおいて言った。
もふもふさんは彼女が小学生に上がったくらいの頃に母さんが買い与えたものだった。
デフォルメしたキャラクターを縦ににゅっと伸ばしたような形をしていて、強がりで寂しがり屋だった彼女の良い友達になった。
中学生になっても彼女はそれを抱いて眠っていた、らしい。
私はそれをよくからかった。
「そういえば、あれ捨てちゃったんだ…。」思い出した。
彼女のものを整理している時。見つかったそれは埃っぽくて。鼻をあてると少し、太陽とよだれの匂いがした。
ずっと握っていたから。手の先に詰められた綿はすっかり無くなって、くちゃくちゃのうすらべったい布になっていた。
私は残そうといった。母さんは首を振った。
そういうのは、残っちゃうから。
物と一緒に、いろんなものが。
そう言って何処かに持って行ってしまった。厳密に言えば、捨てられたかどうかは分からない。
「ごめん。」私は言った。
彼女はこちらを向かずに、いいよ、別にいいよ、と言った。
「想い出が欲しかっただけだから。
でも、これでいい。」
彼女はそう言った。
「ごめん…」
部屋は静かになった。
何処かでぱちっと音がした。
目が覚めると顔はべたべたに濡れていた。口の端が酸っぱくなるそれはたぶん、涙だった。
切なくてどうしようもなかった。
理由はよくは分からない。
それからしばらくして、私はぬいぐるみを二つ、買ってきた。捨ててしまった想い出と、似たようなやつ。
一つは「物置もどき」に。
もう一つは私のベッドの真横に。
私は今でも見続ける。静寂の真ん中で。
大好きなレモンが、はじけた気がした。