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第八話 四日目夜 優乃の初手料理 前編

第八話 四日目夜 優乃の初手料理 前編



 坂を降りて五分も歩くと、小ぎれいな市場がある。


 小さな個人商店が集まっているそこは、『スーパーマーケット』と言うよりは、やはり『市場』と言った方がよく似合っていた。数年前に改装したのだろう、外観、内装共に新しく、レジは一本化されていて、最近の流れに沿った作りになっていた。


 車があれば別だが、近くに大型店舗のないこの辺りでは、近くの人たちがよく利用する市場のようだ。店内は意外と人が入っていた。買い物客は、年配の人が多かった。やはり車を持っている若い人たちは、ちょっと離れた大型店舗に買いに行っているのだろう。


 初めて入った優乃は、キョロキョロしながら買物を始めた。


 店内には八百屋、年配の人がターゲットであろう地味な服が多い服屋、鍋から食器、ハエたたきまで売っている雑貨屋、惣菜屋、魚屋、肉屋、花屋があった。ここに来れば、生活に必要なものは揃いそうだ。


 物が良さそうな野菜を手に取る優乃。ホントの所、どれがいいのかなんて分からない。


 「お嬢ちゃん、どうこれ」


 八百屋のおじさんが声をかけてきた。


 「いつも三個百円の所を、今日だけ四個百五十円」


 「一個三十三円が、一個…三十…七、高くなってるじゃないですか」


 面白いおじさんだった。


 「あれ、ホントだ。お嬢ちゃんには負けたよ。はい、四個百円ね」


 話の流れで買うことになってしまった。しかし最近あまりないお店の人との掛け合いは、優乃にとって新鮮で面白かった。


 そんな調子で八百屋と肉屋と米屋を回って、優乃はレジを通った。


 八百屋のおじさんがあれもこれもとおまけをしてくれたおかげで、レジ袋が一つではすまなくなってしまった。おまけにお米五キロが入った袋。合計三袋の量と重さはちょっとキツかった。


 外に出てヨタヨタと歩きながら、優乃は元祖で愛の荘に向かった。



 「あーあ、自転車欲しいな」


 優乃は呟いた。


 両手に袋を持って坂を上るのはやはり辛かった。


 後ろにかごのあるママチャリが、優乃の頭の中でキラキラと輝きを放った。


 確かあのママチャリって電動もあるのよね。そうしたらこの坂もスイスイでしょ。後ろのかごに毎日の買物乗せて坂を上るの。あら、坂の先にいるのは安さんと山川さん。二人買物袋持って、疲れてるみたいだけどどうしたのかしら。「あら、どうしたの。安さんに山川さん」「あ、これは優乃様。我らお米を各自十キロ買ってしまい、難儀をしていた所なのです」「あらあら、二人とも無茶するからよ。いいわ、私の自転車の後ろかごにお乗せなさい。持っていって差し上げるわ」「あぁ、優乃様、もったいない。ありがとうございます」「いいえ、気にしなくていいのよ。ホッホッホッ」。きっと二人には私が慈悲のある優しくて美しいお姫様に見えてるのね。ウフフ。


 優乃はよく分からない妄想を繰り広げ、それはさらに飛んだ。


 そう言えば肉屋のおじさん。挽肉、半額にしてくれたな。「おっ、お嬢ちゃん、見かけない顔だね」「はい。こっちに引越してきたんです」「そうかい。じゃ、今日は特別サービスだ。挽肉、半額にしてあげるよ」。何て言ってたけど、何だか目線が下に行ってたもんね。やっぱりこの胸かな。ダメよっ。この胸は市場のおじさんを誘惑するためにあるんじゃないんだから。そうなのよ、お米屋のおばさんには通用しなかったもんね。まけてくれればいいのに。やっぱり女の子の胸は、好きな人のためにあるのよね。イヤン。


 こういう時の妄想は便利なのかも知れない。優乃がイヤンなどとやった時には、いつもの長い坂を上りきって、で愛の荘の前だった。


 優乃は部屋に入ると早速料理の支度を始めた。


 昨日のうちに台所まわりは、ほとんど終わらせている。あとはガスコンロを取り替えるだけだった。


 ここに置いてあったガスコンロは、一つしか鍋の置けない丸形の、やたら重たいものだった。


 「これってコンロなの?火のつけ方分からないし、一つしか鍋置けないじゃない。煮物と炒め物別々にやれってことなの」


 ガスホースを抜いて、おいしょとコンロを下ろす。


 優乃はこの町に来て、まだ一度も使っていない真新しいグリル付きのコンロを代わりに置いた。


 「え」


 優乃の動きが止まった。


 「嘘っ。幅が合ってないじゃん」


 優乃が持ってきたものは、幅がスペースより五センチほど長かった。


 あぁでもないこうでもないと十分ぐらい格闘した後、優乃は元の丸形一つコンロに戻した。


 「負けた…。これを使いこなせってことか。で、どうやって使えばいいんだろ」


 コンロをよく見てみると、ガスホースと繋いである所に小さなつまみが付いている。


 「へぇー、これで火、つけるんだ」


 優乃は感心して、くいっとつまみを回した。


 シュー


 コンロからは小さな音がするだけで、火はつかなかった。


 「あれ」


 優乃はおかしいなと思って、つまみをひねって閉めたり、開いたりしたが、結果は同じだった。


 「…なんだろ。タマネギのような臭いが」


 だんだん変な臭いが漂ってきた。ガスの臭いだと気付くのに、時間はかからなかった。


 「キャー、ダメダメ」


 優乃は部屋の窓を全開にした。


 『民家爆発炎上』『コンロの使い方を誤ってか』『専門学校生、神藤優乃の犯行。当人死亡』


 優乃の頭の中を、明日の新聞の見出しが駆けめぐった。


 手近にあったノートを使って、懸命に空気の入れ換えをする。


 「危なかった」


 十分後、優乃は座り込んで自分をあおいだ。


 ハァハァハァ、どうしょう。安さんに火のつけ方聞きたいけど、フラれたし、冬美がとどめさしてくれちゃったから。冬美のバカ。雪先生とか矢守さんにはこんなこと聞きにくいし、話長くなりそうだけど山川さんに聞こうかな。


 どれだけ迷っていても仕方ない。優乃は一息つくと、山川の所に聞きに行った。


 コンコン


 「山川さん、います?」


 すぐに戸が開いて、山川が顔を出した。


 「あ、優乃ちゃん。何」


 「あの、ここに最初からあった、丸形のコンロの使い方が分からないんですけど、教えてくれませんか」


 山川はあれかと言う顔をした。


 「いいよ。行くよ」


 山川はそのまま部屋を出て、優乃の部屋に入ると、すぐに説明を始めた。


 「このコンロはね、ここのつまみでガスの量、つまり火力を調節するんだよ。えーっと、ライターか何か火つけるものない?」


 「え、そんなのいるんですか。ありませんけど」


 まさか直接火をつけるの。


 優乃は驚いた。


 「そうしないと、火つかないよ。昔はこう言うのが当たり前だったんだけどね」


 古いコンロを見て山川はまた嬉しそうだ。大八車といい、これといい山川は古い物が好きなようだ。


 「あの、山川さんはどうしてるんですか」


 山川もこのコンロを使ってるんじゃないかと思って、優乃は聞いた。


 「俺は前から幅の狭いコンロ使ってたからね。ここのキッチンでも持ってきたコンロ使ってるよ。そうか、ちよっと待ってて」


 山川はそう言うと部屋を出て行った。


 コンコン


 安さん、います?


 山川は安の所に行った。


 優乃は山川の行動にあわてたが、もう遅い。


 もう、安さんの所行けないから山川さんのトコ行ったのに。山川さんのバカ。神サマ、山川さんがせめて私の名前を出さないでくれますように。


 山川の声が所々聞こえてきた。


 「…優乃ちゃんが…コンロ…火を…」


 優乃の祈りは神に通じなかった。


 山川さん、どうして私のこと安さんに言っちゃうのよ。神サマ、私の祈りは聞いてくれないの?ねぇ、カ・ミ・サ・マ。


 可愛く言っても、聞いてくれないものは聞いてくれないのだ。


 すぐに山川が帰ってきて


 「優乃ちゃん、これくれるって」


と、大きなマッチ箱を差し出した。


 「さすが、安さんだね。安さんもこの丸形コンロ使ってたよ。これで火をつけてるんだって。しかも桃印のマッチだよ。徳用マッチはこうでなきゃ」


 徳用マッチに酔ったように山川は、ぺらぺらとしゃべりながら火をつけて見せてくれた。


 「こうやって、マッチに火をつけたら、コンロのつまみをひねって素早くマッチをコンロに近づける。ほら、火がぐるっと回りながらつくだろ。つまみを全開にしてつけると危ないからね。あ、マッチは専用のカンとか用意して、そこに捨てると便利だよ。カンには水をいれて確実に消すようにしてね」


 山川は、やたらとこの丸形コンロをほめて、火を消した。


 そんなに気に入ったのなら、山川さんのコンロ、私のと交換してくれればいいのに、と優乃は思った。


 「いやー、堪能したよ。時々古い物が触れるって嬉しいね。優乃ちゃんありがとう。あ、火のつけ方、分かったよね」


 やはり、今使ってるコンロを変える気はないようだ。


 「あ、はい。分かりました。ありがとうごさいます」


 優乃がお礼を言うと、山川は嬉しそうに戻っていった。


 「はぁ」


 優乃はため息をついた。


 直接火をつけるなら、明日にでも早速チャッカマンでも買ってこようと思っていたのに、どうしてマッチが、しかも徳用が来るのよ。一体何本入ってるの。…でも使わなきゃ、悪いよね。せっかく安さんがくれたんだし。


 ちょっと困り顔の優乃だったが、困っていても料理は出来ない。優乃は気を取り直すと、まな板と包丁を用意した。


 「優乃のマジカルお料理教室ー♪」


 黙って料理をするよりも、何か言いながら作る方が楽しい。優乃は頭の中で番組を作り上げた。


 「今日の料理は、野菜炒めよ。材料は炒めて食べたいものを用意してね」


 優乃は今日買ってきた野菜を取り出した。


 「まず水で洗って、それから切ります。野菜を切る時は、大きさをそろえるのがポイントよ」


 いかにも女の子っぽいつくり声で言いながら、手際よく野菜を洗って切っていく。なかなか見事なものだ。


 「さぁ、炒めるわよ。マッチを用意して、うーん、優乃ドキドキ。マッチに火をつけて、つまみをひねって、えいっ」


 ボワワッ


 「あわッ」


 つまみを全開にしたせいで、勢いよく火がついてしまった。


 優乃は反射的につまみを閉めた。


 「こんなこともあるから気をつけてね」


 前髪が焦げた気がした。


 コンロのバカっ。


 「えいっ、もう一度」


 ボッ、ボボボッ


 今度はうまくついた。


 「えへっ。火の取扱いには気をつけてね」


 肘と膝を曲げてかわいくポーズを取る。


 「さぁて、最初にフライパンに入れるのは火が通りにくい根菜類よ。次はうーんと、今日は挽肉を入れてみましょう。はい、最後に残ったものを適当にね」


 慣れた手つきでフライパンに材料を入れていく。おそらく実家にいた時に、結構やっていたのだろう。


 「調味料は『さしすせそ』の順番よ。一番砂糖、二番塩、三番酢、四番醤油、五番味噌。頭の中で味を組み立てながら、入れていくの。今日は醤油味に挑戦よ」


 パパパパッと順番に調味料を入れていく。あっという間に出来上がりだ。


 「最後にごま油をかけて味に色をつけて、お皿に盛って、仕上げにいつものヤツを入れようね。『マジカルラブリーエッセンス』。えーいっ。はい完成」


 お皿に向かって体を反らしながら、手をいっぱいに伸ばして投げキッス。


 端から見てたら相当な赤面ものだ。


 「今日のマジカルレシピよ。材料は炒めて食べたいもの。炒める順番は根菜類からね。中でも一番大事なのは?そう、マジカルエッセンス。忘れちゃダメよ。じゃまた明日ね。優乃のマジカルクッキングでした。バイバーイ」


 微妙に番組名が変わっている。


 しかしどんな番組なのか分からないが、ここまで入り込めば本人は大満足だろう。


 優乃はいそいそと、箸を用意した。


 「あ、ご飯炊くの忘れてた」


 炒め物に夢中で、ご飯のことをすっかり忘れてしまっていた。


 「ま、いいや。コンロ一つしかないし。あ、そうだ。火の付け方教えてもらったし、お裾分けしてみようかな」


 一人で食べるにはちょっと多すぎる炒め物の量を見て、優乃は思った。


 安さん、もらってくれるかな。


 ちょっぴり不安になりながら、炒め物を二皿に盛る。


 優乃はまず山川の所に行った。


 コンコン


 「山川さん」


 優乃が呼ぶと、山川はすぐに出てきた。


 「あの、これお裾分けです。さっき教えてもらったお礼です。お口に合うかどうか分かりませんけど」


 「優乃ちゃんの手料理?ありがとう。嬉しいよ」


 山川は喜んだ。


 優乃はお皿を渡すとすぐに部屋に戻った。山川が喜んでくれるなら、安も喜んでくれるかも知れない。優乃は早速もう一皿を持って安の部屋の前に立った。


 悲しいような、ドキドキするような不安な気持ちになる。


 えいっと優乃は思いきって戸を叩いた。


 コンコン


 「ん」と声がして、安が出てきた。


 心臓が一気に高鳴った。


 「あの、これ。マッチありがとうございました。お裾分けです。食べて下さい。お口に合わなかったらごめんなさい」


 お皿を差し出しながら、優乃は一気にまくし立てた。


 「それからっ、今日は友達の冬美が変なこと言ってごめんなさい。私、止めたんですけど、冬美が何か勘違いしちゃってて、冬美に後でちゃんと言っておきましたから。冬美もごめんなさいって謝ってました。それで、それで、そのっ」


 恐くて安の顔が見られない。


 「いいよ。気にしなくて。これ、ありがと」


 安は優乃の手からお皿を取った。しかし、声のトーンはいつもより低かった。


 やっぱり、怒ってる。


 優乃はまた泣き出しそうになった。


 優乃は「それじゃあ」と言うと、逃げるように自分の部屋に戻った。


 気持ちを必死で落ち着ける。


 安さん怒ってた。私、もうダメなんだ。嫌われちゃった。…イヤッ、そんなのイヤ。諦めないんだから。今日の料理はマジカルクッキングよ。マジカルスイートエッセンスが入ってるんだから、食べたらどんな男もイチコロなのよ。


 マジカルラブリーエッセンスの筈だったが、名前が変わっていた。


 しかし料理したおかげで、変な自信がついていた。


 『優乃ちゃん、これ美味しかったよ。優乃ちゃんって料理が上手いんだ』『そんなことないです。でもお口に合って嬉しいです』『優乃ちゃんと結婚する人は幸せだね。こんな美味しい料理を毎日食べれるなんて』『もう、やめて下さいよ。これくらい誰でも作れますから』『そんなことないよ。毎日食べたいくらいさ』『えっ。だったら毎日作ってあげますよ』『それって、僕の奥さんになってくれるってことかい』。あんっ、いやんっ。そんなっ、いきなり結婚だなんて。


 優乃が一人で照れまくってる所に、山川がお皿を持ってきた。


 コンコン


 「優乃ちゃん、いる。ごちそうさま。お皿返しにきたよ」


 優乃は赤くなった顔を、急いで落ち着かせて戸を開けた。


 「いやー、優乃ちゃん、これ美味しかったよ。優乃ちゃんって料理が上手いんだ」


 「そんなことないです。でもお口に合って嬉しいです」


 「こんな美味しい料理を毎日食べれるなんて、いいね」


 「もう、やめて下さいよ。これくらい誰でも作れますから」


 「そんなことないよ」


 さっきの妄想とよく似た展開だ。


 マジカルエッセンス、山川さんにも効いちゃった。


 「今度は俺の番だね」


 え?


 山川が挑戦的に言った。違う展開だった。


 「俺の得意のミートソース作ったら持ってくるよ。タマネギをオリーブオイルで四・五時間かけて、じっくりと炒める自信作だから」


 「は、はい」


 優乃の料理が、山川の料理魂に火をつけてしまったようだ。


 「よーし、久しぶりに腕をふるうか。あ、優乃ちゃん美味しかったよ。おやすみ」


 山川はもう一度「ごちそうさま」、と言うと楽しげに戻っていった。


 「どうして、こうなったんだろ」


 優乃は呆然とお皿を持って立ちつくした。



 安の夕食は、野菜炒めとシチューだった。


 本当は野菜炒めだけの予定だったのだが、野菜の量が多かったので急きょ、その余分でシチューを作ったのだ。


 野菜炒めだけでも十分だったが、安はシチューも無理にお腹に納めた。今日、冬美に言いがかりをつけられて気分が悪かったのだ。やけ食いだっった。


 「はー、ちょっと動けん」


 大の字になって寝ころんでいた時だった。


 コンコン


 「ん」と安は立ち上がって、戸を開けた。


 外には優乃が野菜炒めを持って立っていた。


 「あの、これ。マッチありがとうございました。お裾分けです」


 お昼のことを気にしているのだろう、優乃は小さくなっていた。


 一気にまくし立てて、謝ってくる。


 「いいよ。気にしなくて。これ、ありがと」


 安は優乃のお皿を取って、お礼を言った。お腹がいっぱいで声も出しにくい。お裾分けは断りたかったが、断ったら打ち上げ会の時みたいに、泣かせてしまいそうだった。また冬美が怒鳴り込んでくるのは、カンベンして欲しかった。


 料理を受け取ると、優乃は顔を伏せたまま戻っていった。


 そんな態度を見せられては食べないわけにはいかない。安は再び箸をとって、優乃の料理に立ち向かった。


 味は決して悪くなかった。むしろ美味しかった。


 しかしお腹いっぱいの時に食べる料理は辛い。それでもと全部食べて、お皿を洗い、優乃の所に持っていった。


 とても前を向いて歩けなかった。前を向くとお腹が張って吐きそうだった。


 「優乃ちゃん」


 戸を叩いて、優乃を呼んだ。


 中では洗い物をしている音がしていた。


 優乃が手を拭いて、いそいそと出てきた。


 「これ、ありがとう。美味しかったよ」


 自然と伏目がちになってしまう。


 精一杯明るく言ったつもりだったが、自分で聞いても暗い響きだった。しかし、言い訳するだけの気力もなかった。


 お皿を渡して、「それじゃ」と言うと、安は優乃の返事も待たずに戻っていった。


 「あーっ」


 安は部屋に戻ると倒れ込んだ。もう身動きも出来なかった。


 そう言えばあいつ、料理下手だからな…。サンドイッチと目玉焼きはうまいんだが。連絡、したほうがいいんだろうな…。


 ふうと息を吐き、安は天井を見た。


 動けないほどお腹はいっぱいなのに、どこかに穴が開いているような寂しさを感じていた。


 ラップしておけばよかった。


 ふと、後悔した。


 「いいっ。もう寝る」


 安は無理に目を閉じ、眠りの世界に入っていった。



 ポツン


 優乃は閉まった戸の前に、安から返してもらったお皿を持って立ちつくしていた。


 安さん、まだ怒ってた。私と目も合わせてくれなかった。美味しいって言ってくれたけど、美味しそうじゃなかった。すぐに帰っちゃって私の話、聞いてもくれなかった。


 優乃はどんどん落ち込んでいった。さっきまでの自信はまったくなくなっていた。


 コンコン


 「優乃ちゃんっ」


 山川の声がした。


 優乃はのろのろと戸を開けた。


 山川は勢いよく部屋先に入ってきた。


 「明日、バイトの休み取れたから。ミートソース作るねっ」


 身振り手振りを交えて、嬉しそうに話す。


 「お昼には間に合わないから夕食にね。スパゲティは自分好みの太さを茹でて用意しておいて。優乃ちゃんには負けないぞっ」


 妙な対抗心を燃やしながら、いつもより親しげに話しかけてくる。料理人仲間、ライバルとでも思っているのかもしれない。


 嬉しそうな山川を見ているうちに、今日も元気が戻ってきた。


 「山川さん、ありがと」


 優乃は山川を見つめた。


 山川がちょっと赤くなった気がした。


 山川は「じゃ、楽しみにしていてね」、と言うと元気に戻っていった。


 優乃は安から返してもらったお皿をしまうと、明日の授業の準備をした。


 明日のミートソース、楽しみだな。



 昼過ぎ、今日も学校が終わった後、優乃と冬美はファーストフード店で昼食をとった。今日も夕方から冬美は彼とデートがあると言うことだったので、二人は一緒にウィンドウショッピングに行って時間をつぶした。


 優乃としても毎回、で愛の荘に来られるのは困るし、冬美も昨日の今日で、安と顔を合わせたくはなかった。



 夕方になり、待ち合わせ時間近くなった頃、二人は駅に行った。


 冬美と彼の待ち合わせがここだったらしく、ここから電車に乗って帰る優乃にとっても都合のいい場所だった。冬美の彼はまだ来ていなかった。


 「ねえ、昨日の安って人、あれからどうした」


 冬美は昨日安にあんな風に言ってしまったので、後で優乃に迷惑がかかってないかと気になっていた。


 「う、うん、何もなかったよ。あの後で山川さんが、私のこと元気づけてくれて助かっちゃった」


 「山川さんって、男の人?」


 確か昨日聞いたような気がしないでもなかった。


 「うん、前に会ってるんだけど覚えてないかもね。山川さんもいい人なんだ。今日、ミートソースを作ってくれるんだって。冬美も来たらいいのに。デートじゃ仕方ないか」


 優乃の笑顔を見て、冬美は内心ムッとした。


 何、どういう事。山川って誰よ。引越したばかりなのに、二人の男が優乃のこと気にかけてるの?私より優乃の方がモテるってこと?優乃の方が私より胸が大きいから?


 「あっ、もう電車出ちゃう。冬美、また明日ね」


 優乃は小走りに改札を抜けていった。


 「お待たせ。今の子、友達?」


 入れ違いに冬美の彼氏が来た。


 「紹介してくれればいいのに」


 優乃を追っていた彼の目線を、冬美は見逃さなかった。


 「今度、紹介してあげる。可愛かったの?」


 トゲのある聞き方だったが、彼氏の方は気が付かず、悪気もなく答えた。


 「いや、出るとこ出ててスタイルいいな思っただけ。カワイイのは冬美に決まってるって」


 最後まで冬美は聞いていなかった。


 「帰る」


 冬美は冷たく言った。


 「おい、どうした。何か悪いこと言った?」


 「いいの。今日用事があったの思い出しただけだから。ついて来ないでっ」


 改札を通るとき、冬美はビシッと言った。


 これ以上つきまとうと刺されかねない雰囲気に、彼氏はおとなしく引き下がっていった。


 優乃よりも一本遅い電車に乗って、冬美は、で愛の荘に向かった。


 何よみんなムネのことばっかり。そんなに優乃がいいのっ。こうなったら安も山川って人も、私の味方にしてやるんだから。



 優乃は駅を降りると市場に向かった。今日のミートソース用のスパゲティを買わなくてはいけない。


 クリーム系のソースだったら細めだけど、ミートソースなら太めのスパゲティよね。


 山川の手料理にわくわくしながら、デザートもカゴに入れ市場を回る優乃だった。



 一方、冬美は駅を降りると真っ直ぐに坂を上って、で愛の荘に向かった。


 優乃の部屋は昨日聞いて分かっている。冬美は、で愛の荘に着くと、優乃の部屋の戸を叩いた。


 コンコン


 …


 優乃はいないようだった。鍵もかかっている。


 と、奥隣の部屋から、料理のいい香りが流れてきた。


 あ、ミートソースね。そうするとこの奥の部屋が山川って人の部屋ね。


 冬美は躊躇せずに、山川の部屋の戸を叩いた。


 コンコン


 「はい。あ」


 山川が出てきて、冬美を見て動きを止めた。


 この子、ニガ手だ。


 冬美は山川をジッと見つめた後、ニッコリと笑った。


 「山川さん、こんにちは。山川さんのこと優乃から聞いてます。とっても優しい人だって。今日優乃のためにお料理作るって聞いたんですけど、私も一緒じゃダメですか」


 最後はちょっと悲しげな顔をして見せた。


 冬美の経験から言えば、これでダメと言う男はいなかった。もしかしたら安はダメ、と言うかもしれないが。


 さらに冬美は、優乃が帰ってきてないので、ここで待たせて下さいともお願いした。


 断わりにくいな。でも、この子と一緒にいるのはイヤだな。


 山川は嫌々「いいよ」、と返事をした。


 「あ、そうだ」


 山川はすぐにいいことを思いついた。


 「安さんの部屋で待ってて。今、俺料理してて、君のこと相手してあげられないから」


 冬美はニコッと笑った。


 「君じゃなくて、冬美ですよ、山川さん」


 自分の名前を呼んでくれない男に、自分の名前を呼ばせるのは、味方につけるテクニックの一つだ。さらに相手の名前も呼んで、こっちの好感度も上げさせる。


 冬美はそう信じていた。


 「うわぁ、いい香りですね。噂のミートソースですよね。ちょっと見せて下さい」


 冬美は、山川の了解もとらずに、部屋に上がった。


 鍋の前に立った山川にぴたっと寄り添って、中をのぞき込む。


 「すごく美味しそうですねっ」


 山川の方を振り向いて、ダメ押しの笑顔。


 これで落ちたわ。


 冬美は思った。


 「じゃ、山川さんの言った通り、安さんの所に行って待ってますね」


 男の意見に従順な所も演出しつつ、冬美は安の部屋に行った。



 あの子。


 冬美が行った後、山川は思った。


 あぁやって、男に手を出して遊んでるんじゃないか?あぁ言うのは生理的に受け付けないな。ますますニガ手になってきた。


 冬美の作戦、逆効果だった。



★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★



次回予告

 


 安さんってやっぱり怒ってるの


 手料理食べてくれたかな


 私、安さんに嫌われたくない


 でも山川さんがいるから


 だめっ、山川さんもいいけど、安さんも


 二人に嫌われたら住みづらくなっちゃう


 でも…、やっぱり…



 臆病な乙女心に、次々とトンデモナイ出来事が



 「それじゃあ、スパゲティ茹でておいて下さいね」



 「冬美ちゃんって意外と可愛いんだね」



 「矢守は来ないんですか」



 次回第九話 優乃の初手料理 後編



 山川のマジカルクッキングで


 冬美がライバル?

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