第六十八話 安と山川のホワイトデー
第六十八話 安と山川のホワイトデー
最後の欠片を口に入れ、安は頭の後ろで手を組んで、ゆっくりと寝転がった。
口の中には苦甘い香りが広がっている。
『ホワイトデーか…』
この香りの贈り主へは、普通のありものなどを返す事はしたくなかった。
『どうしようか…』
安は目を閉じて、再び考えた。
バレンタインの夜、安の部屋に優乃がやってきた。
手にしているチョコが本命なのは明らかだった。
優乃は入口で立ち止まり、ペコリと頭を下げると、キッと安の目を見てきた。
「あのっ、あのっ…」
緊張のしすぎで、それ以上言葉が出てこない。
安はあえて何も言わず、優乃が落ち着くのを待った。
優乃は何度か頑張った後、すみませんと頭を下げ、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、再び口を開いた。
「あのっ、今まできちんと伝えたコト、なかったんですが…」
優乃はチョコを安に差し出した。
「私、安さんが大好きです。これを受け取ってもらえますか」
優乃の言葉はそれだけだった。
たったその一言を言うために、どれだけ自分の気持ちを確かめ、問い直してきたのだろうか。
言葉にするのに、どれほどの勇気が必要だったか。
断る理由はなかった。
安が「ありがとう」とチョコを受け取ると、優乃は大きく頭を下げ足早に部屋に戻っていった。
チョコには何のメッセージもカードもなかった。
あの言葉が優乃の気持ちの全てだったのだろう。
『軽いものじゃないな』
安は何を返そうかと真剣に考え始めた。
だがそうだからこそ、自分の気持ちを表すこれと言うお返しは、なかなか思いつかなかった。
考えれば考える程、当り障りのないものになってしまう。
雪ならきっと「考えたら見つかるの?自分の心に聞きなさいよ」と言うだろう。
そうなのだ。しかし、自分には見えない自分もある。
安は起き上がると、雪の部屋に向かった。
「ホワイトデーね」
雪は安が入るなり言った。
まるでこっちの心を読んでいるかのようだ。
「男って、プレゼント贈る時、どんな気持ちなの?」
雪はソファに座るように目で指した。
「女と一緒じゃないんか」
安はソファに座りながら、思ったままを答えた。
「んー、そうなのかな…」
雪は少し首をひねった。
「じゃ、女の気持ちってどんなだと思ってるの?」
次のネタにでもするつもりなのだろうか、雪は再び聞いてきた。
安は聞かれて、あらためて考えた。
「基本的には自分の気持を伝えられるものを選んで、その物を依代として相手に受け入れて欲しいって気持ちだろ」
「何その辞書にでも出てきそうなのは。女がホントにそんなこと考えてると思ってるの?」
「あ、いや、まずは基本を押さえようと思ってやな」
「ならいいわ。で、どうなの」
雪の突っ込みには敵わない。
安は思ったままを言ってみることにした。
「やっぱり何も考えてないだろ。気持ちだし、体が先に動くだろ。結果的にカワイイ物選んだり、相手が喜びそうな物選んだりすると思うが」
「そうかもね」
雪は頷いて、もう一歩踏み込んできた。
「考えてないって、どういうこと?」
「さっきも言ったが、気持ちだし、心だよ。難しく言えば「選ぶ」と言う行為をしているのか、「選ぶ」になりきっているのかと言う違いだ。「選ぶ」と言う行為をしているのは、まさに「選ぶ」と言うことをしているんであって「選んで」ないだろ。一枚何かかんでるんだよ。「選ぶ」になりきっていれば、そこには何もない。つまり心だけなんだ。何かがあったから嬉しいじゃないだろ。嬉しいの原因を見てみたら、何かがあった…、分かりにくいな。お湯がかかったから「熱い」って言わなきゃと思って「熱い」とは言わないだろ。誰でも頭使わずに「熱い」って言うじゃないか。頭で判断してからじゃなくて、体が先に動いてるんだよ」
「ふーん」
雪はつまらなさそうに返事をした。
安はそれに構わず続けた。
「考えないってそういう事で、本当に贈りたいって思ってる時は考えてない。もし考えてるとしたら、贈りたいって思ってないん…」
そこまで言って、安は黙った。
今、自分の言った事は、そのまま自分に当てはまる。
今までの優乃との関係、距離はどうであったか。
自分の都合のいいように距離を取ってはいなかっただろうか。
つまり、優乃とも、自分ともちゃんと向き合っていなかったのではないだろうか?
だからチョコをもらっただけで、どうしていいか分からなくなるのではないか。
一枚かんでいるどころではない。
『そうかー。そうか』
安はもう一度よく考えてみた。
『そこからか』
小さく何度も頷く安を見て、雪は『要は変なのよね』と心の中で思った。
『情けないって言うか、お子ちゃまというか。自分が見えてないだけじゃない。結局みんな自分で答え持ってて、それに気付かないだけで。世話が焼ける』
「で、付き合って下さいって言われたの?」
「えっ、あっいや」
「好きなの?嫌いなの?」
「いやっ、どっちということは」
「じゃ、そういうことじゃないの。もういい?」
雪は畳み掛けた後、そっけなく言った。
「私そろそろ仕事に戻りたいんだけど」
これ以上いたら、雪に何を聞かれるか分からない。
しかも分かってて聞いている。
「あっ、あぁ。邪魔してすまん。もう行くわ」
安は逃げるように立ち上がると、お礼を言い部屋を出て行った。
安がいなくなってから、雪はメモ帳を取り出した。
「でも、また名言っぽいもの出たわね」
一人ほくそ笑み、それを書き込むのだった。
そのホワイトデーが過ぎて。
優乃は雪の部屋の戸を叩いた。
中からの返事に戸を開けると、珍しく矢守と二人でそれぞれの原稿をやっている。
修羅場かと足が止まった優乃に、雪が手を止めて振り向いた。
「大丈夫よ。入っていいから。何だった?」
声に切迫感はない。締め切り前ではないようだ。
矢守がいるので少しためらわれたが、優乃は用件をぼそぼそっと言った。
「明日、お出かけなんですけど、何着ていっていいのか」
こんなことを相談するのも子供っぽくて恥ずかしい。しかし、分からないものは仕方がない。
もじもじする優乃に、雪と矢守は顔を見合わせて、くすりと笑った。
「相手は男ね。じゃ、私コーデしてあげる」
「着られるなら私の服貸すわよ。靴もサイズが合えば」
二人は乗り気なようだった。
「たまには大人っぽいのにして…胸出したら?」
「タイトスカートは?…じゃ、ワンピとか」
二人、服を引っ張り出してきては合わせてみる。
着せ替え人形のようだが、楽しそうにしている二人を見ていると、こうしているのも悪い気はしない。
何着か試した後、大きなエリのついた白のウールの上着に、同じウールの黒のフレアスカート、それにヒールの高い靴にコートという合わせに決まった。
「いいじゃない」
「楽しんでおいでよ」
二人は相手が誰かも聞かずに、気持ちよさそうに言った。
「ありがとうございます」
優乃は頭を下げた。
「お礼は今晩の夕食」
「カレー希望よ」
二人はニコニコと言った。
それぐらいなら、お安い御用だ。
「今から支度してきますね」
優乃はお礼を言って、部屋を出た。
「初々しいわね」
雪が言うと、矢守は
「恥ずかしいわ」
と、甘く顔をしかめた。
「何なのかしらね、あの二人は。さっさとくっつけばいいのに」
矢守と雪は、共にため息をついた。
「そう言えば久くん仕事決まった時、会いに来たんでしょ。何話したのよ」
雪はちょっと切り込んだ。
「どうして知ってるの?秘密にしてたのに」
矢守は驚いたというより、やっぱりバレたかという顔をした。
「ここから久くんが来るの見えたし、行くトコだいたい決まってるでしょ」
「まぁ、そうだわね」と、矢守はあきらめて話し始めた。
「面接の事とか、これからドコ行くとかいろいろ熱く語ってくれたけど、あの子なかなか物知ってたからびっくりしちゃった。今はメールだけだけど、そのうち仕事場でモテ女とくっつくわよ」
「熱く語ったんじゃなくて、熱い思いを語ってくれたんでしょ。いいの?手放しちゃって」
雪は矢守の言葉を訂正した。
「私のじゃないでしょー。いやよ、もうホーリーかけられっぱなしで、毒が抜けちゃうわ」
矢守はホントに迷惑そうだ。
矢守から毒が抜けたら、きっといい奥さんになるんじゃないか。
雪はふっとそんな事を思った。
『でも面白くないわね』
雪は思い直すと
「さ、仕事するわよ」と声をかけた。
その週の土曜日。
お昼の、で愛の荘の庭にみんなが集まった。
わざわざ机や椅子を用意したのは、主催の山川だった。
久しぶりの食事会は、バレンタインとクリスマス会のお返しだ。
クリスマス会では山川もプレゼントをしたのでお返しをしなくてもいいようなものだが、性分でお返しをしないと気持ちが落ち着かないのだった。
バレンタインにクリスマスと、もらったものはヒドイものだった。
特に矢守からもらったHな本は、返そうかと思ったくらいだ。(引越しの時に捨ててしまったが)
それでも何かお返しをと考えた結果、一人ひとりにではなく、みんなにお返しと言う考えに落ち着き、このボルシチになったのだ。
「ボルシチというのはロシアの郷土料理で、ビートと言う、ま、一種のじゃがいもかな、これをメインに煮込んだスープで、これが赤色をしているからこんな色になるんだけど、多くの人がトマトの色だって思っているんだよね。もちろん今日はビートが手に入らないからトマトケチャップなんだけど…」
山川は鍋をかき混ぜながら、ウンチクを語る。
それほどクドくないウンチクに、みんなもとりあえずは聞く。
もちろん本音は早く食べたい、だ。
鍋から酸味の混じったいい匂いがする。
もう出来上がっていて、今から盛り付けるところなのだ。
山川が順番に盛っていき、みんなに配る。
こうしていると、来月もここでこんな事があるような気になる。
「いっただきまーす」
「あったかーい」
「山川さんの料理久しぶりですけど、引越ししてもよく会ってたんで今、研修所にいるなんて思えないですね」
優乃が美味いと食べながら言う。
「あんな立派な家に住んで、暇だったんでしょ」
矢守がついでにツマミが欲しいわと言う。
宴会じゃないぞと言いながら、山川が答えた。
「バカ言え。あの後からすぐに会社の合宿研修だよ。今日明日と休みで無理してきたんだ。感謝してくれよ」
「この後、帰るの?」
雪がビール持ってこようかしら、と矢守に聞く。
「いや、今日は安さんのところに泊めてもらうつもりです。日帰りでは寂しいですから。あ、でも飲みませんよ。研修中で控えてるんで」
山川の答えを聞きながら、雪と相談していた矢守がビールを持ってくると立ち上がった。
「だって、このボルシチ、悔しいけど美味しいわ。山川には悪いけど、絶対ビールに合うから」
「だったらこの後、夕方からいつもの二階でやろう。それまでに買い出しに行けば、宴会パターンで行けるぞ」
山川の案に、みんないっせいに希望を言い出した。
「じゃあ、焼き鳥食べたい」
「スイーツ、欲しい」
「ボルシチ、残しておいて」
「ピロシキあるか?」
久しぶりと言っても、みんな慣れたものだ。
買い出し係や準備係など、すぐに役割りを決めて動き出す。
そして予定通り、夕方から二階のいつもの部屋で宴会が始まった。
日が沈み、月が昇る。
みんな大いに笑い、食べ、飲み、そろそろお開きにしようかと言い出した頃、山川の携帯が鳴った。
「山川さん、電話ですよ」
山川は携帯の表示を見て、表情を少し固くした。
「はい…」
返事をしたきり、小さく頷くだけで答えない。
最後に山川は感情を押し殺したように
「分かった」
と、言って電話を切った。
「安さん、すみません。片付けお願いします」
山川は落ち着いた調子で言うと、携帯を握ったまま安の返事もそこそこに、部屋を出て行った。
「OK。任せとけ」
山川の背中に声をかけ、安は優乃に聞いた。
「何だろ?」
優乃も山川を見送りながら答えた。
「電話してきたのが、多分…」
山川は車に乗った。
『あのバカッ。どうして今頃しおらしく素直になるんだ。もっと前からそうなってろ』
胸の中で毒づきながら、車を走らせる。
駅に着いて急いで降りると入り口に、今までにないラフな服装で携帯を握りしめながら、ポツンと山川を待っている冬美がいた。
山川が近付くと、叱られた子供のようにおずおずと山川を見上げた。
「優乃から聞いたの、来てるって」
その声は見た通りの細い声だった。
「来るなら言ってくれれば…」
冬美の問いに山川は毒づいたことも忘れて言い訳した。
「クリスマスとバレンタインのお返しだから」
どちらも冬美から何ももらっていない。
呼ぶ理由もなかった。
冬美はそれをどう取ったのか、頷いてうなだれた。
「…ゴメンね、何も上げなくて」
「…」
まさか冬美が、そんな事で謝ってくるとは思わなかった。
山川はしばらく黙っていたが
「いいよ、別に」
と、視線を外した。
怒っているように思われたかもしれない。
だがぶっきらぼうな口調になったのは、怒っているからではない。
冬美の変わり様に、戸惑っているのだ。
どんな顔を、態度をすればいいのか困ってしまう。
山川がかける言葉に迷っていると、冬美がぼそりと言った。
「…どっか行きたい」
突然のそのワガママが、今の山川には可愛く聞こえた。
「ん、分かった。乗って」
少し気が落ち着き、嬉しかった。
山川は冬美を助手席に乗せ、車を走らせた。
車は郊外に出た。
流れるカーラジオの中で、二人に言葉はない。
一時間ほど飛ばした所で、山川は小高い山の上にある一軒の家の前で車を止めた。
海の音が遠くに聞こえるが、街頭も少なく月明かりだけでは周りもよく分からない。
しかし山川は、
「ここ、親戚と共用の別荘」
と、言葉少なく言うと、先に降りてその家の裏に回った。
冬美が足元を気にしながら月明かりを頼りに玄関に立つと、山川が小さな金属音ー鍵を手に戻ってきた。
鍵を開けて中に入る。少しだけホコリのにおいがしたが、それほどではない。
「正月とか夏休み、みんなここを使うんだ。ちょっと休んでいこう」
山川は電気を点けながら、一階のリビングに案内した。
きれいに片付いている別荘だった。二階にもいくつか部屋があるらしいが、小ぢんまりとした印象だった。
冬美と山川はしばらくソファに座り、小さな波音に耳を澄ませていた。
「食べ物も飲み物もないんだ。コンビニは遠いし、水は出るけど、だからー」
山川が「帰ろうか」と腰を浮かせた。
「いいの」
冬美が山川を止めた。
「今日は…帰りたくない」
小さい、しかしはっきりと分かる声で、山川に言った。
そういうつもりで連れてきたのではない。
山川は視線をそらしつつ、曖昧に頷いた。
「ちょっと…」
山川はそう言って部屋を出ると、二階に上がった。
「ええっ!!」
で愛の荘の二階には、山川の帰りを待つという名目で、四人がひと通り片付け終わった後の二次会を開いていた。
驚きの声を上げたのは、優乃から話を聞いた三人だ。
「山川と冬美ちゃん、別荘でお泊り?ホント?」
矢守が確認してくる。
「はい。山川さん、冬美が帰りたくないって言うから、困ってるって。だけど今から私たちが場所も分からない山川さんの別荘に行ける訳でもないし、冬美がそう言うんだからいいんじゃないですか。それに冬美にそんな事言わせて、こっちに連れて帰ってきたらどうなるか。その前に無事に帰ってこられるかどうか分かりませんよって言ったら、山川さん、そうか…ってあきらめたみたいです」
「事件ね。会議よ」
矢守は明らかにワクワクしている。
「大丈夫だろ…多分」
安は山川に同情する。
「別荘に二人でお泊りか…」
優乃は相変わらずの妄想を巡らせた。
『二人きりの部屋、遠くから波の音が聞こえてくる。目の前には海に沈んで行く夕日。二人の間に言葉はない。キラキラときらめく海が二人の言葉だから。やがて三日月が昇り、海を照らして夕日とは違う言葉を二人の間にささやいてくる。フクロウの優しい鳴き声が、二人の距離を縮める。静かに触れ合う暖かさと共に、時がとけていく。唇が重なり、抱きしめる腕に力が入る。優しい手のひらが素肌を滑っていく。互いの素肌をさらして、ついに二人は結ばれる…。ーチュンチュンとスズメの鳴き声に目を開ければ、白くさわやかな朝。昨日のぬくもりは隣に笑顔で迎えてくれる』
優乃は恥ずかしそうにクネクネと体を動かす。
そんな優乃を気持ちよく無視して、こっちはこっちで盛り上がる。
「冬美ちゃんの女王様姿しか、想像できないわ」
と、矢守が言えば、雪も色々想像しているのかニヤつく。
「意外と逆だったりして」
「キャー、山川が?!見てみたーい」
こうまで勝手に想像されて盛り上がっているとは、山川も思っていないだろう。
『山川、頑張れ』
安は自分でもよく分からない応援を、山川に送るのだった。
階段を降り、一階に戻った山川は、ソファで小さくなっている冬美の背中に向かって言った。
「いいって。許可取ったから」
いかにもそんな電話をしてきたように、山川は言った。嘘だった。
電話で優乃に聞いたと言ったら、冬美が傷つくと思ったのだ。
冬美は「うん」と、まるで自分に言い聞かせるように頷き
「でも、何もしないでね」
と、付け加えた。
するもしないもないと思いつつ、何と答えていいのか分からず山川は
「…はい」
と、返事をし冬美と同じソファに、しかし間を置いて座った。
見ると冬美が小さく震えている。
三月半ばを過ぎたと言っても、夜はまだ寒い。
山川自身は変に緊張して、寒さを感じていないが、そのままにしておくわけにもいかない。
山川はもう一度、立ち上がった。
男の人と過ごす夜は、実は初めてだ。
『でも、もう子供じゃない』
冬美はつぶやいた。
山川は、何かしてくるのだろうか。
いや、それよりも自分は本当のことを言えるだろうか。
冬美は唇をきゅっとひきしめた。
『あれからずっと考えてきて、決めたんだから。ちゃんと言える。この人は他の人と違うって知ってる。でも…』
冬美の頭と心が混乱している所に、後ろからふわっと何かがかけられた。
毛布だった。
「寒かったよね。気が付かなくてゴメン」
山川はそう言うと、もう一度丁寧に冬美の肩からかけ直し、自分もソファに座って毛布にくるまった。
『ありがと』
と言う言葉が、出そうで出なかった。
冬美は、コクンと頷くのが精一杯だった。
体の震えは止まらなかった。
『寒いわけじゃないのに』
冬美は肩を縮め、視線を落とした。
すると後ろから、柔らかく力強い何かが自分を包んだ。
山川だった。
身を預けると、体の震えが止まっていた。
何だか分からないが、涙がにじんだ。
振り返ると、山川は困ったような顔をしていた。
「何もしないでね」
いつもの口調になっていた。
体は山川に預けたままだ。
冬美は言いたかったことを、ホントのホンネを語り始めた。
翌日の昼前。
山川の車に乗って、で愛の荘に着いた冬美を見て、最初に迎えた優乃が驚いた。
すっぴんでTシャツ姿。
今まで見たことない姿だ。
優乃は驚いて言った。
「冬美が男の人の前で化粧なしなんて、初めてじゃない!?」
冬美はそれに笑顔で答えた。
車を降りてきた山川に、続いて迎えに出た安が近寄った。
「何かあったのか?」
「なかったんですけど、あったのかな?ツンデレの良さが分かったかも知れません」
山川の顔にはテレが混じっていた。
「美味しかった?」
いつの間にそばにいたのか、矢守がいきなり聞いた。
「食べてない、一口も!」
山川は強く言った。
「んふ。あやしい、あやしい」
矢守は嬉しそうにニヤついた。
「今は、そう言うコトにしておいて上げる。でもどうせ食べるんなら、私も食べてみない?」
「何でだよ!」
「コ・ン・イ・ン…」
「だから食べてないって」
「ムキになって言うところがあやしいじゃない」
その時には出ていた雪も混じって、一緒に笑った。
「しかし驚いたな。冬美ちゃんがあんなに変わるなんて」
優乃とキャッキャッと笑う冬美の様子を見て、安が首をかしげる。
「女は変わるのよ」
雪は当たり前だとそっけなく言うが、微笑んでいる。
「男だってそうでしょ」
ダメ押しに言われる。
安は山川に助けの視線を向けた。
「変わったんですかね?」
山川は笑いながら頭をかいた。
『私も変われるのかな』
冬美と話しつつ、安たちの会話も聞いていた優乃は、そう思うのだった。
「山、カレー出来てるから、昼食べて行けよ。準備手伝ってくれ」
「はい。冬美ちゃんも手伝って」
山川が声をかけると、冬美は振り返り、優乃と軽い足取りで近づいてくる。
「それじゃあ、昼食べながら、ゆっくり話を聞かせてもらおうかな」
「ホントに、何にもありませんって」
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
次回予告
安さん、ここだけの話なんですが、女の子のワイシャツ姿っていいですね
ん、どうしたんだ?
実は寝る時に冬美ちゃんがパジャマないのって言ってきたんで
車に仕事用のワイシャツがあるけど、代わりにそれでいい?って聞いたんです
ほう、そしたら?
はい。そうしたら、それでいいって
それで?
それで貸したら着たんですよね、当たり前ですけど
男と女で体格の違いもあるんですけど
冬美ちゃんが俺のワイシャツ着たらブカブカなんですよ
アレは危険ですよ
ツボにハマります
だまされます
だますって何よ
冬美ちゃんっ、…いたの?
いて悪い?
「やりたい放題だね」
「安さん。指切りしましょう」
「お嫌いですか?」
次回第六十九話 引越し前の告白
あっ、次回は優乃ちゃんと安さんの話です
ごまかしてもダメよ
で、だますって?
…ゴメン




