第六十七話 矢守のデート
第六十七話 矢守のデート
夜の風はまだ冷たかった。
風が吹く度に、お風呂帰りの体から暖かさが奪われていく。
矢守は小刻みに体を震わせ、身を縮めた。
『もう少し厚着してこればよかった』
後悔しても遅いが、そんなに離れている距離ではない。
矢守は、で愛の荘へと足を早めた。
「矢守じゃないか」
坂道の手前。後ろから聞き覚えのある声で、矢守は呼び止められた。
振り返ってみると、安だった。
手にした買い物袋から、ひょこんとネギの頭が出ている。
「あら、安さん。こんな時間に買い物?よく間に合ったわね」
矢守は安を待って、並んで歩き出した。
「冷蔵庫見たら空っぽでな。あわてて買い物に行ったんだ。ギリギリ間に合って助かったよ」
「インスタントとかないの?」
「はは、インスタントはニガ手でね。食べないことはないけど、基本的に手作りなんだよ」
安は悪いことを知られたように、甘辛い表情を浮かべた。
矢守は「ふーん」と頷いた。
やや間があった後、
「優乃ちゃんに作ってもらえばいいじゃない」
と、突然に言った。
「そんなこと、頼めるかよ」
安は一蹴した。
「…ねぇ」
矢守は脈略なく切り出した。
「明日、どっか行かない?」
「何だ、突然に」
安は冗談かと思ったようだったが、そうではなかった。
「そう、明日」
矢守は当然のように答えた。
「いや、明日は厳し…何でお前と出かけなきゃいかんのだ」
安は返事をしかけて、思いとどまった。
「約束。忘れたとは言わさないわよ。しかも、もうホワイトデー。バレンタインのお返しの代わりにしてあげる。ついでに今月いっぱいよ」
矢守はこの前、安が口を滑らせて約束したことと、で愛の荘の解体を匂わせた。
そう言われると、安も嫌とは言いにくい。あいまいに頷くと、矢守が続けた。
「善は急げよ」
「善、なのか?」
「私にはそうなの。どこがいい?」
矢守相手に行きたくない所はあるが…。
安は半分諦めつつ答えた。
「もう、どこでもいいよ…」
瞬間、安は「あっ」と気付いた。
「いや待てっ」
言ったがもう遅い。
矢守は嬉しそうにニヤニヤした。
「『どこでもいい』、のね。何時くらいからいいの?私は晩から朝までがいいんだけど、そこは譲ってあげる」
「晩から朝までって、どういう意味だよ」
「そう言う意味よ。お風呂入ったばかりだから、今晩からでもいいのよ」
全く矢守相手に、うかつな返事をしてしまった。
「分かった分かった。じゃ、明日のお昼からでいいか?」
「いいわ。じゃそれでね」
で愛の荘に着くと、矢守はわざとらしく大きく投げキッスをして、部屋に入っていった。
今晩は厳しい予定になりそうだ。
安は気合を入れるべく、大きく息を吸った。
翌日のお昼前。コンコンと戸を叩く音で安は目を覚ました。
「安さーん」
矢守の声だった。
安はガバっと起き上がると、あわてて戸を開けた。
「すまん矢守、寝てた。今すぐ着替えるから…」
下げた頭を上げると、普段着の矢守がニコニコと立っていた。
「あら、寝起きの安さんも素敵。行きましょうか」
「行きましょうかって、顔ぐらい洗わせてくれ。それに着替えもしないとこんな格好だし、お前も…それでいいのか?」
矢守はワインレッドのトレーナーにグレー綿パン。安は厚手のボーダーのシャツにGパンだ。
二人共ヨレヨレで、まさに普段着だ。
さすがにこの格好ではと、安が言いかけると矢守は
「いいの。この格好で」
と、強引に安を連れ出した。
行き先は矢守の行きたい所だ。
一応、用心はしているが、ドコに連れて行かれるか分からない。しかも、いきなり調子を狂わされて矢守のペースになっている。
電車に乗って街に出る。
「安さん、お腹へってるでしょ」
そう言われて駅を降り、連れて来られたのは牛丼のチェーン店だった。
「ここか?」
安は矢守のセンスを疑った。
もっと雰囲気のあるお店も、周りにいくつかある。
確かにこの格好ではそういうお店には入りにくいかもしれないが、わざわざここを選ばなくてもと思う。
「ほら、安さん入って」
安がためらっているうちに矢守は、扉を手にかけて待っていた。
「あ、あぁ。すまん」
安は矢守に代わって戸を開けた。
「ふー。お腹いっぱい」
矢守はそう言うと、お腹をさすった。
安も同じようにお腹をさする。
ちょうどキャンペーで値下げをしていて、なおかつ矢守がこの店舗の特別クーポンを持っていたのだ。
普段なら並盛りで済ますところを矢守は大盛り、安は特盛りで他にも色々付けたが、支払いは驚くほど安かった。
「ね、ここで良かったでしょ」
矢守は歩きながら言った。
「ちょっと驚いたけどな」
安もふくれたお腹に注意しながら、ゆっくりと歩く。
「もうちょっといい所に行くかと思っていたよ」
「やん。この格好で入れるわけないじゃない。最初からそのつもりだったの」
なる程。いい服を着て牛丼屋では、入ったこっちがさみしい。この格好ならここら辺が丁度いい。
安はようやく、普段着で来た訳が分かった。
「次は買い物付き合ってね」
矢守は「ちょっと歩くわ」と言った。
お腹いっぱいだから、腹ごなしも兼ねて、という事らしい。
歩くのは安も嫌いではない。
逆に今また車や電車に乗れば、徹夜明けでほとんど寝ていないこともあって、すぐに眠ってしまいそうだ。
空は晴れてちょっと寒いが、歩くのも気持ちいい。
安は他愛のない話をしながら、矢守について行った。
次に矢守が連れてきたのは、大型のショッピングセンターだった。
平日にもかかわらず、店内はそれなりに人がいる。
安は矢守が何か買うのかと思っていたが、特別目的がある様子ではなかった。
服や雑貨を見たり、ゲームセンターで遊んだり。
何となくデートっぽいが、ごく日常のような感じもする。
「そろそろいい時間ね。安さん、行こうか」
コインゲームのコインが尽きた所だった。
「行こうかってどこだ。まだ早くないか?」
矢守の「行こうか」に安は一瞬ピクリとした。
警戒しているせいか、ついソレ系の反応が出てしまう。
矢守はそれに気付いたようで、顔を赤らめた。
「やっだー。安さんそんなに私と行きたいの?ホントなら行ってもイ・イ・ケ・ド。今はダメよ。下の階で食材買うわよ」
「そ、そうなのか。分かった」
安は自分の過剰な反応を恥じながら、矢守の買い物に付き合った。
野菜や肉を買って外に出る。
外はまだ明るかった。
買い物袋を手に電車に乗り、いつもの駅で降りた。
「ごめん。ちょっと寄り道してっていい?」
矢守は安に尋ねた。
今日は矢守に付き合う日だ。こくりと頷く。
食材の入った買い物袋を下げて、一緒に歩く姿はデートの様子ではない。
いろいろ覚悟を決めつつも、短い時間ながら対策もそれなりに考えてきただけに拍子抜けだ。
『その方がいいんだが』
そう思うと、急に眠気が襲ってきた。
昨日の今日のデートで、普段はしない夜通しの仕事をしたからだ。
眠気を感じながらついて行くと、気が付けば公園だった。
そう言えば、ここには月森と来た事もある。
あの時は誰かの悲鳴に月森が腰を抜かし、無意味な試合が避けられた。
『そうか、あの時もデートか』
ぼーっとしながらそんな事を思い出していると、矢守が「ちょっと休憩」と木陰のベンチに座り、安も隣に座るように言った。
買い物袋を脇に置いて座り、ふぅと息を吐く。
「いい風ね」
矢守の言う通り、眠気を誘う緩やかな風が吹く。
自然と目が閉じる。
矢守が何か言っている。
その声が子守唄のように、安の意識はすーっと消えていった。
…。
んんんんー んんー♪
安らかなハミングに髪を撫でる感触。
安はハッと目を覚ました。
どれくらい眠っていたのだろうか。
自分の手が目の前にあり、誰かの膝を触っている。
何だ?と頭を回して、気が付いた。
ひざ枕だ。
見上げると、矢守の顔。
安はガバっと起きて謝った。
「すまん、矢守」
矢守はニコッと返し、一人フフフと笑った。
「いいの、いいの。気にしないで」
「いやホントすまん。寝るつもりはなかったんだ」
安はもう一度、頭を下げた。
「安さんが寝ている間に、イイコトいっぱいやらせてもらったから」
「えっ?!何をだ?」
「私だけのヒミツ。うふふ」
矢守は両手で口を小さくふさぎ、とても嬉しそうに笑った。
ひざ枕くらいでこんなに喜ぶはずがない。
何か意味がありそうな気がする。
安は不安になって、いくつかの可能性を考えてみた。
『口を押さえるって事は、キスされたとか?顔?頬?まさか口に?いやいや、ひざ枕状態でそれは難しいだろ。待てよ、いつの間にひざ枕だ?ん、逆にこっちが倒れ込んだ時に何かしてしまったのかも。それをネタに何か言うつもりか?そうなると記憶がない分、何を言われても認めなければ…いや、それにしても大した事はしてないと思うが…。』
安が一人でうなっていると、もう席を立っていた矢守が呼んだ。
「安さーん。いつまで座ってるの。帰るわよー」
「お、おう」
今日は矢守に振り回されっぱなしだ。
安は立ち上がって、矢守を追った。
で愛の荘に帰っても安は解放はされず、矢守の部屋に呼ばれた。
「夕食作るから、食べていってね」
矢守が台所で用意しながら言う。
食材を買った時に量が多かったのは、最初からこのつもりだったのだろう。
手慣れた手さばきで、包丁を使い、炒めものを作る。
安が手伝おうとしたが、「座っていて」と言う。
「大丈夫か?」
「変なもの入れないわよ」
軽い冗談も飛ばしつつ、楽しげに料理を作る矢守を見ていると、こういうのもいいかなと思う。
しかし山川に比べ食材の切り方は荒いし、調味料もテキトーだ。
そう言えば矢守の手料理を食べた覚えがない。
もしかしたらテキトーに見えて、意外と美味しいのかも知れない。
「冷蔵庫にビール入っているから、出しといて」
矢守がフライパンを振りながら言った。
安が机を拭き、グラスやビール、皿を用意する。
さすがに炒めものだけあって、出来るのは早かった。
安が用意した皿に、盛り付ける。
肉や野菜がたくさん入った、もやし炒めだった。
グラスにビールを注ぐ。
「安さん、今日はありがと」
「いや、大したことしてないが」
「いいのよ。うふふ」
公園のことを思い出させるように笑うのが矢守らしい。
乾杯とグラスを合わせ、喉に流す。
一日歩いたせいか、ウマイ。
「私の料理も食べてね」
インスタントじゃないわよ、と矢守は安に勧めた。
初めて食べる矢守の料理。
もしかしたらインスタントの方が良かったと、後悔するかも知れない。
安は箸を取り、矢守が見つめる中、一口くちにした。
「どう?正直に言ってみて」
もやしの食感はいいが、全体的な味が…。
「ん、んんー」
安は言葉を探した。
「ん、うまく、ない。うん、ウマくない」
美味しいとは言えない味だ。もやし以外に入っている食材のバランスもイマイチだ。
「もー、ホントに正直に言うんだから」
お世辞でも「美味しい」と言って欲しかったのか、矢守は少しふくれた。
「正直に言えって言っただろ」
「美味しいかまずいか、私を食べなさい!」
「断る!」
「もうっ」
結局いつものパターンになったが、何故か安心する。
二人で笑いあった後、矢守がしみじみと言った。
「ありがと。二人で食事した方が、一人よりまずくても美味しいわ」
「こっちもだ。ありがとう」
安と矢守は美味しくない、でも美味しい夕食を一緒に食べた。
夕食を終え、食器を片付けると、矢守は安を解放した。
「今日は遅くまでありがと。これで思い出も出来たし、バレンタインのお返しももらった事にしてあげるわ」
「微妙な言い方だが、ま、いいよ。こっちこそ、今日はありがとな。夕食悪くなかったよ。ごちそうさま。ビールで酔わされて、襲われるかと心配していたが、いらん心配だったな」
「しまった。その手があったのね。何だったら泊まっていってもいいのよ」
「はははっ。また今度な、とは言わんぞ。ご遠慮申し上げます」
「ふふっ。それがいいわ。じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
安は戸を閉め、自分の部屋に戻っていった。
デートという事だったが、デートと言うにはおかしな一日だった。
矢守は一人になると、ほっとして座り込んだ。
『いい日、だったな』
矢守は一日を思い出した。
最初からデートらしいデートをするつもりはなかった。
着飾った所で、お互いによく分かっている仲だ。そんな薄っぺらな一日よりも、もっと日常、当たり前の一日を、安と二人の当たり前の一日を過ごしたかった。
だからよくあるデートスポットにも行かず、もし付き合っていたらこんな風になっていただろう一日を選んだのだ。
安は警戒しながらも、何も言わず付き合ってくれた。
嬉しかった。
『これで文句言ったら、バチが当たるわ』
こんな一日が持てるなら、ここの解体も悪くはなかった。
『お世話になったな』
矢守は布団を敷くと、今日を大切に抱いて眠りについた。
眠気を誘う緩やかな風が吹く。
公園の木陰のベンチ。夕日の木漏れ日が美しい。
安が突然に、こっくりこっくりと体を揺らし始めた。
見ると目を閉じて眠っている。
『疲れちゃったのかしら』
起こそうかと迷っていると、安の体が肩に寄りかかってきた。
矢守はそのままゆっくりと、安の頭を自分の膝に誘導した。
安は目を覚まさなかった。
『こうするの、初めてね』
矢守は小さな声でつぶやき、安の髪に触れた。
「こんな時間が、ずっと欲しかったのに。バカ」
安は気持ち良さそうに眠っている。
緩やかな風は、矢守の髪をそっととかしていった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
次回予告
みなさん、こんにちは
前回に引き続き、矢守でーす
男ってホントにチョコ欲しがるわよね
あれはね、私が考える所
甘えよ
子供が親に、自分を見ていて欲しいって言う
あの特別扱いして欲しいって言う甘え
言ってみれば親代わりなんだから
三倍返しくらい当たり前よね
ちょっと待て矢守
あら、山川
いろいろ言いたい事はあるが
あえて何故三倍返しかと聞きたい
バレンタインのも三倍なら
婚約指輪も三ヶ月分?
何でそんなに男が三倍も三ヶ月も貢がなきゃいかんのだ
なら私、指輪も何もいらないから
ここにハンコだけ押して
コン・イン…そんなものに押せるかーっ
「初々しいわね」
「もう子供じゃない」
「意外と逆だったりして」
次回第六十八話 安と山川のホワイトデー
女は賢く生きなきゃ




