第四十一話 温泉バンザイ 後編
第四十一話 温泉バンザイ 後編
食事が終わると、安と優乃、矢守の三人は外に出た。食べ過ぎで少し体を動かしたい、というのが理由だった。
山川は風呂に行くと言い、雪は部屋で休むと言う。
「雪先生、普段お酒とかコーヒーしか飲んでないのに、今日に豪華な食事して吐いてないかしら」
矢守が冗談半分に言うと、優乃が言った。
「矢守さん、さすがに失礼じゃないですか」
「そう?」
どこ吹く風だ。
「それにしても山はタフだな。同じ量食べて、こっちはすぐお風呂に入れないって言うのに、すぐ入りに行くんだから」
安は照明に照らされた庭を、いい雰囲気だな、とゆっくりと見て歩く。
その後ろを優乃と矢守がついて行く。
ここで私が石につまづいて安さんの背中にしがみつくと、安さんが振り返って『優乃ちゃん、大丈夫かい』って言って、しっかりと手を握ってくれるの。この暗さの中、照明が二人を照らす。『危ないから、僕の隣を歩きなよ、手は離さないからね』なーんて、もうっ。
そんな妄想のおかげか、優乃は石につまづいた。
「あっ」
手が安の背中に伸びる。
「ひゃっ」
だが悲鳴とともに、一足先に安の背中にしがみついたのは、矢守だった。
安はいきなり後ろから抱きつかれて、ふらふらっとしたかと思うと、矢守と一緒に転んでしまった。
「いたーい」
「あたたたたた」
「大丈夫ですか?」
優乃は何とか体勢を立て直して、二人に駆け寄った。せっかくの妄想が台無しだ。しかも安が助けを求めてくる。
「ごめん、優乃ちゃん。手、貸して」
安が苦しそうに手を伸ばした。
「ありがとう。美味しいと思って、食べ過ぎちゃったよ。体が重くて」
優乃の手を借りて、安と矢守は立ち上がった。
「優乃ちゃんに前歩いてもらいましょ。今度コケたら、優乃ちゃんにつかまるから」
「そうしてもらおうか」
安も矢守と一緒に、優乃の後ろに回った。
立場が逆じゃない。
優乃はがっくりと肩を落とした。
部屋に戻ると、雪は寝ていた。山川がお風呂から帰ってきた様子もない。優乃と矢守もお風呂に行くと言ったが、用意に時間がかかりそうだった。昼、お風呂に入っていた安は、タオル一枚持つと「先に行くよ」と部屋を出た。
途中、廊下で山川とすれ違った。
「あっ、安さん。い~いお風呂でしたよ」
山川は満足そうに拳を握り、ぐっと親指を立てた。
「だろ」
安も山川を真似て、拳を握り親指を立てた。
戸を開け風呂場に入り、軽く汗を流す。続いて露天風呂へと外に出た。
昼間と違って落ち着いた雰囲気だ。照明を足元中心に設置してあるのも、またいい。その分、夜空が映える。
これで月でも見られれば、相当贅沢なんだがな。
安は真ん中にある、大きな露天風呂に足を入れた。
奥に行けば、何とか見えそうな感じである。安はゆっくりと奥へ進んで行った。
「ほぅ」
安はため息を漏らした。
奥は広くなっていて、西の空に白い光の月が浮んでいた。
安は湯舟に体を沈めると、贅沢な月を眺めた。
先客たちもちらほらいて、同じように月を見ているようだ。
その景色を見に来たのか、奥から二人の客が露天風呂に入ってきた。
細い体で胸が出ている。立ち居振る舞いもどこなく女っぽい。
最近、そういう人も普通にいるな。でも男湯でいいのか?
安はもう一度、二人をまじまじと見た。
顔は逆光で見えないが、髪型や体型はどう見ても女性だ。
ホントに女の人じゃないのかな…女!?
安はハッとした。
昼にあった、竹製の壁がない。
混浴か!
お風呂のせいではなく、汗がどっと吹き出す。
冷静さを装いながら周りを見ると、シルエツトが男だけではない。明らかに女性のシルエットもある。
安は落ち着けと、目を閉じた。
いかん。まずは落ち着け。別にどうって事態じゃない。女性も知っていて入ってきているんだ。ここで変な動きをすれば不審者になってしまう。
安は湯舟に体を深く沈め、とにかく心を落ち着かせようとした。
「見て。月がとってもきれいですよ」
お湯の音が近づいたかと思うと、そばで声がした。
「本当ね。あ、すみません。ユノちゃん、後ろに人がいるわよ」
「すみません、気付かなくて」
ユノ、ちゃん?ゆの…。
謝る女の人の声に、安は恐る恐る上目遣いで目を開けた。
「!!優乃ちゃんっ…に、矢守っ」
安はびくっと体を震わせると絶句した。
優乃と矢守も声を飲み、顔を上げた先客が安だと分かると、とっさに両手で体を隠してドボンッと湯に沈んだ。
静かさを破る音に、視線が集まる。
安、大ピンチ。優乃、矢守も大ピンチだ。
三人が他の客の視線に気付くと、とにかく大きな音を立てないように小さく固まった。
「おい、矢守。どうしてここにいるんだ」
「どうしてって、安さんもでしょ」
「そうか。そうだな。そうだ」
安は混乱の中、とにかくこの場から逃げようした。
「分かった。こっちはもう十分に入ったから、先に出るわ。うん。月でも見ててくれ。いい月だよ。ごめん」
安は矢守と視線を合わさずに言うと、体を沈めたまま、ゆっくりと歩き出した。
「待って、だめっ」
優乃が、安の背中越しに肩を強くつかんで止めた。
「安さん行ったら、私どこに隠れればいいんですかっ。男の人、あっちにもこっちにもいるんですよ。みんなが出るまでいなきゃダメですっ」
声を押し殺しながら、必死で引き止める。安の肩に優乃の爪が食い込んで痛い。
「みんな出るまでって、わ、分かった。分かったから、お互い落ち着こう。それから肩の手、離して大丈夫だから。逃げないから」
安がわずかに首を動かすと、優乃がすかさず言った。
「こっち見ないで下さいっ」
かなり感情が高ぶっているようだ。
「ごっ、ごめん」
「見ました?」
「いや、見てないよ。見て、いない。大丈夫」
「大丈夫じゃないです。私、スタイル悪いしー」
「いやっ、スタイル良かったよ。優乃ちゃん、自信持っていいよ」
泣き出しそうな優乃の声に、安は慌ててフォローを入れた。
「見たんだっ」
「いやっ、あのっ、見たんじゃなくて、目に入ったんだ。まさか優乃ちゃんとは思わなかった」
逆効果だ。
「ちょっと、私に対する評価はないの?」
今度は矢守から不満の声だ。
「矢守は、目に入らなかったんだって」
「きぃー悔しいっ。見る価値もないってこと」
「普通だったよ、普通」
つい、言ってしまう。
「普通って何よっ。見たんじゃない」
二人からいじめられて、逃げる隙もない。
「…もういいわ。安も男なんだから、優乃ちゃん許してあげて。いじめるのもこれくらいにしてあげましょ」
「いじめてなんか、いませんっ」
優乃はまだ気が張っている。
優乃は安の背中に隠れ、周りの人の視線に入らないようにしている。
矢守も当然、安の視線に入らないように肩より後ろだ。
「あのさ、優乃ちゃん。壁のほうを向いて、壁伝いに移動していけば、見られずに出られるんじゃないかな」
「そんな事したら、出る時、おしり見られちゃうじゃないですか」
「おしりぐらい、いいじゃない。みんな知らない人なんだし、堂々としなさい」
矢守が言う。
「ダメですっ。じゃあ、矢守さん出て下さいよ」
「いいの?じゃ、行くわ」
「待って」
優乃は矢守を引き止めた。
「もう、どうしたらいいんですかっ」
優乃が混乱気味に言う。
「お尻の覚悟決めればいいのよ」
矢守は平然と言う。
「それが嫌だから、困ってるんじゃないですか」
優乃のテンションは、なかなか下がり切らない。
照明が点いているとは言っても夜だし、背中に隠れてなくても、お風呂の中に入っていれば見えないんじゃないかな。
安はそう思ったが、今の優乃の状態を考えると、お風呂に沈んでいる以外になかった。
「ここって、矢守が選んだんだってな」
安は正面を向いたまま、矢守に尋ねた。
「そうよ。雑誌見ていて、いいなって思って選んだの」
「…知ってて選んだんだろ」
安は含みのある言い方をした。
「そうよ」
矢守はあっさりと認めた。
「いい宿でしょ。ご飯は美味しい、お風呂は素敵、私も素敵。文句ある?」
「まさか混浴とはな」
やられたよと、安は認めた。
「お前が素敵かはどうかは別だが」
「一言多いじゃない。でも優乃ちゃんに、夏の思い出作ってもらおうと思ったのよ」
「混浴なんて聞いてませんっ。ハメられましたっ」
優乃は恥ずかしがりながら、怒って安の首筋を叩いた。
「いたっ」
「安さん、こっち見ないで下さい」
安は少しも動いていない。
とんだとばっちりね、と矢守は笑って視線を移した。
「あっ、見て。左の方のカップル。お風呂の中は見えないと思ってイチャイチャして。触ってるのバレバレよ。体の向きが不自然じゃない。肩も動いてるし」
「あっちもそうだぞ」
安はそう言いながら、左を向きかけてやめた。向けばまた優乃が騒ぎ出すかも知れない。
「矢守さんも安さんも、どうしてそう言うの見るんですかっ」
「目に入っちゃうのよね。それにこれも大切な資料なんだから」
そう言われると優乃も口出ししにくい。
「ここ、資料の通りね」
矢守は一言付け加えた。
「お前の言う資料って、仕事の資料だよな」
「そうよ。見たい?」
「いや、いい。悪かった」
矢守の返事に安は納得した。
その手の資料に載る温泉だ。お金さえあれば、それを目当てにやって来るカップルもいる訳だ。
「密着度100%って書いてあったけど、嘘じゃなかったわ。ねぇ、本当は知ってたんでしょ?」
矢守は不思議そうに聞いた。
「知らなかったって。矢守企画だから、もっと調べておけばよかったよ」
安は、げんなりと答えた。
「ところで優乃ちゃん。さっきから見てると、出ていく人より入ってくる人のほうが多いんだけど、まだ待つの?」
「当たり前です。矢守さんも一緒にいてもらいますからねっ」
怒りと恥ずかしさで、優乃のテンションは下がらない。
「優乃ちゃん。もう少し抑えて話さないと、周りに迷惑よ」
矢守は近くの人に見られていることを、目で知らせた。
「キャッ」
優乃は小さく叫んで、さらに隠れるように安の背中につかまった。
「あ、あの、優乃ちゃん。背中につかまるのはいいんだけど、胸が…」
安は戸惑いながら言うと、矢守が割って入った。
「ちょっと優乃ちゃん。どさくさに紛れてくっつきすぎじゃない。それ、何のアピール?それありなら、私もやるわ」
その言葉を聞いて、安は逃げ出した。
「やっぱり出るわ」
「行かないでくださいっ」
優乃はすぐに追いつき、必死に引き止めた。
一時間後。ふらふらになりながら、三人が帰ってきた。
「お帰りなさい。みんな長かったですね。仲良く、いいもの見れました?」
机を挟んで、山川と雪がサシで飲んでいた。もちろん山川はトマトジュース、雪はお酒だ。
「見た見た。このネタは使えるわよ」
体力が落ちているはずなのに、矢守が元気に答えた。
「参考までに聞かせて」
雪が身を乗り出してきた。
矢守は雪の隣に座って、さっき見たばかりのカップルの話をした。
「あれはね、見られるかもしれない緊張感と、見られていないって言う安心感のバランスが、大胆にさせるのね。窓から顔出して、やっているようなものね」
「なるほどね。いいネタだわ。ありがと」
「エロ話を真面目に聞くのは…」
山川が真剣に聞く雪に、複雑な表情を浮かべる。
「雪先生、今から入って来ればいいじゃない」
矢守は布団に移動した。
「私は朝、行くわ。混浴じゃないし。今日は、ここの部屋風呂で満足よ」
「せっかくの現地資料なのに」
矢守は布団にもぐり込んであくびをした。
「朝、混浴じゃないって雪、知っていたのか」
窓際の椅子に座って、休んでいた安が聞いた。
雪は温泉の案内を広げた。
「ここに、この時間は混浴って書いてあるじゃない。山川も知ってたわよね」
「えぇ、もちろん。脱衣所にも張り紙がしてありましたよ」
安は嘆いた。
「出る時、気がついたよ」
「そんな言い訳して。ま、いいわ。飲みなさい」
「もう少し休ませてくれよ」
安は手を振った。
「私がわざわざ持ってきたお酒よ」
雪がグラスにお酒を注いだ。
「ちょっと置いておいてくれ」
安は一息吐いて、椅子に背中を預けた。
「安さん、大丈夫ですか」
反対側に座っていた優乃が、眠たそうな目で聞いてきた。
「大丈夫だよ」
安はそう言うと、えいっと体を起こし、雪の隣に移動した。
「で、どうだったのよ、三人の混浴は?」
雪は目を細めてうかがった。
「まいったよ」
安はそう言うと、手短に事の次第を話した。
「出ようとしたら、引き止められるんだから」
「でもこれで矢守の夜這いは、ありませんね」
「今晩なら、抵抗できなかったがな」
アブナイアブナイ、と安は力なく笑った。
「行ぐわよー」
低いダミ声で、矢守が言った。
「お前、起きてたのか」
「ぐふふ、いいこと、聞いたわ」
「襲いに来る元気があるのか」
そう聞いた時には、矢守は再び眠りに落ちていた。
「なんなんだ、こいつは」
安は机に両肘をついた。
「でも、いいものも見れたんでしょ」
布団で倒れている矢守を尻目に、雪は尋ねた。
「後ろにいる二人が気になって、それどころじゃなかったよ。のぼせて倒れそうだったし」
「山川はどうだったの」
「えぇ、もちろん。欲を言えば、もう少し若い方が良かったですけど」
「山川の方が健全ね。安、あんた仙人のマネしてんの?」
「お前だって、その年で枯れてるだろうが」
「私の精力は、原稿に注入されてんの。読んでみなさいよ」
「そういうのは、山に任せる」
山川は突然振られて、あせった。
「ダ、ダメですよ。あの手のものは生理的にダメなんです」
「よく知ってるのね」
山川は冷や汗でも出しそうだ。
「だけどな、縁ってものがあるだろ。お前は縁なしだが」
「うるさいわね。あんたは縁あるじゃない。向こうが寄ってくるんだから、一度は受け入れたらどうなの。あんたの理想はどうなってんのよ。理想に合う自分なの?」
「そうポンポン突っ込むな。こっちも好みはあるんだよ。これでも妥協してるつもりだよ」
「好みが変よ。歳相応の人選びなさい。着いて早々、ここの女将に目キラキラ光らせて」
雪はまだ言いたそうだったが、立ち上がって窓を開けた。
「一度冷ますといいかもね。熱を上げ過ぎると、倒れちゃうから」
温泉の夜風は、のぼせた体に優しかった。熱かった体が気持ちよく冷えていく。
「何かあってもなくてもいいけど、これが夏の思い出じゃねぇ」
「酔っぱらいは、時々鋭いことも言うから怖いな」
安も立ち上がると、椅子で気持ちよさそうに眠っている優乃のところに行った。
安の気配に気付いたのか、優乃はうっすらと目を開けた。
「安さん、…大丈夫ですか」
眠たそうに、声にならない声で聞く。
「ごめん…いろいろ」
安の声が聞こえたのか、優乃はこくんと頷いた。
安は優乃の上体を起こすと、脇とひざ下に手を入れて抱き上げた。
「あ、おひめ…さま…」
優乃が目を閉じたまま何かつぶやいた。それ以上、言葉が続かなかった所を見ると、半分夢でも見ているのかも知れない。
安は、嬉しそうに笑う優乃を布団に寝かせた。
優乃ちゃん、いい夢でも見てるのかな。
安は微笑むと机に戻った。
「ま、飲むか」
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
次回予告
夏の終わりは、秋の始まり
寄ってくるのは、タイプじゃない者ばかり
どうしてもっといい人が来ないの?
そんな事を言っている優乃、冬美と久は違います
が、そんな優乃一筋の久に恋の変革?
「指令を与えるわ」
「私、一〇人目」
「何言ってんのよ。簡単でしょ」
「久ちゃん、好きな人っている?」
「お姉さんに話せないこと?」
秋は紅葉、散る季節
人の別れの季節ではないけれど…
次回第四十二話 六人目の男子
「あのお兄ちゃん、電柱見て笑ってるよ」




