第三十八話 行方
第三十八話 行方
湿り気を含んだ夏の空気が、階段を一段上がる毎に体にまとわりつくようだった。
一階から二階に上がっただけなのに、優乃の体はじっとりと汗ばんでいた。この部屋に来るのは初めてではない。にもかかわらず、いつ来てもノックする時は緊張する。以前、矢守を手伝った時の思い出が入り交じり、そうさせるのかも知れなかった。優乃は戸を前に深呼吸をし、遠慮がちに雪の部屋の戸を叩いた。
「こんにちは、優乃です」
「…はーい。開いてるわよ」
やや間を空けて、普段よりも低い雪の声が返ってきた。
修羅場なのかな?
優乃は身構えながら、そおっと戸を開けた。
ビュゥッと冷たい風が、優乃の体にまとわりついていた暑苦しい空気を吹き飛ばした。廊下とこの部屋とは全くの別世界だ。
優乃は、で愛の荘唯一の冷房の効いた部屋に入り、後ろ手に戸を閉めた。
「ん、何か用だった?」
雪はいつものソファからむっくりと顔を上げ、眠たげに顔をしかめ瞬きをした。
緊張のせいかあまり涼しさを感じない。優乃は一度頷いて言った。
「あの、安さんがいないんです」
「安が?どっか出かけてるんじゃない」
わざわざ聞きに来る程のことではない。雪は不思議そうな顔をした。そう思われるだろうと優乃は思っていた。が、聞きに来るだけの理由があった。
「はい、あの、そうなんだと思うんです。でも、ずっと帰ってきていないんです」
答えた優乃は、押さえていた不安が大きくなってくるのを感じた。
「夕方には帰ってくるわよ」
雪は伸びをして、体を起こした。
「何、深刻な顔してるのよ。大事な用事でもあったの」
「あのっ、もう一週間なんです」
優乃は思わず涙ぐんだ。
「二・三日前からは山川さんもいないんです。もしかして二人とも急に出て行っちゃったんじゃないかと思って」
雪は目をパチクリさせた。
「何、その話。一週間もいないなんて今、初めて聞いたし、全然気が付かなかったんだけど」
優乃の話に驚くと言うより、優乃の態度に驚く雪。
だが優乃は、雪が安の不在に驚いていると思った。
「雪先生も知らなかったんですか。それじゃあ安さん達、誘拐されてマグロ漁船で働かされてるとか、宝くじが当たって世界一周旅行中とか。でも可能性的には誘拐説の方が高いですよね。そうしたら犯人から電話がかかってきますよ。そうしたらどうしたらいいでしょう。警察に知らせていいんでしょうか。知らせるなって言われる前だから、知らせてもいいんですよね」
不安からかクセなのか、優乃があらぬ妄想を語り出した。
「その辺でいいわ。分かったから」
雪は手を上げて話を止めた。
「誘拐も、宝くじの可能性も全くないから。まぁあるとしたら、その辺に旅行ぐらいが関の山よ」
「でも、一週間もいないんですよ。そうならそうで、雪先生とか私に一言言ってくれてもいいんじゃないですか。あっ、二人とも黙って行ったって事は、例えば怖い人たちに追われてるとかですよ。安さんと山川さんが怖い人たちに絡まれている人を助けたとかして、逆恨みされた可能性があります。『山、すまん。この前の件で、ヤクザがこの辺をかぎ回っているらしい。俺がおとりになるから、お前、で愛の荘から出ろ。みんなにバレないようにな。みんなを巻き込むわけにはいかん』『そんな安さん。俺がおとりになりますよ。安さんが先に逃げて下さい』『いや、俺の方はもう身辺整理してある。山はまだ何もしてないだろ。それに俺が先に手を出したことだしな。これぐらいの責任は取られてくれよ。繰り返すが、くれぐれもみんなには知らせるなよ』『分かりました。安さん、お元気で』『あぁ、山もな』きっとそういう事情があって、二人とも私たちに何も言わずに出て行ったんです」
優乃が身振り手振り説明していると、突然、戸が開いた。
「分かったわ。二人がいないのね。会議よ!」
びくっとした二人が振り返ると、矢守が自信たっぷりな様子で入ってきた。
「恵ちゃん、いきなりね」
雪は、ほっと息を吐いた。
「優乃ちゃんの声が大きかったから。だいたいの話は聞こえてきたわ」
矢守は、ここはいつも涼しいわねぇ、と雪の隣に座った。
「それで、安さんと山川がヤクザに追われてるって」
優乃の信憑性のない話を、真に受けている。
優乃は首を大きく縦に振った。
「そうなんです。これが今、一番有力な説なんです」
「ごめん。全く可能性ないわ」
雪が即座に否定した。
「でも二人がいなくなったのはホントなんでしょ。んー、じゃ私は、駆け落ち説ね。二人は禁断の恋に落ちたのよ。それで二人同時にいなくなったのね。この説なら、安さんが私の求愛を受け付けてくれなかったのも納得できるわ」
本気なのかどうか、矢守も大まじめで言う。
だが、すぐに優乃が反対した。
「そんな事はあり得ませんよ。あるとしたら、二人の結婚資金集めの方が納得できます。二人とも結婚を意識する人がいて、式を挙げようと思ったけど意外に費用がかかることが分かった。『山。マグロ漁船のバイト見つけた。半年だけど、お前も来いよ。結婚式を上げるのに充分な金が入るぞ』『いいですね。すぐ行きましょう』それで二人とも急にいなくなったんですよ」
優乃は、ふっと遠い目をした。
安さん、で愛の荘を出て行くときに、『優乃ちゃん、待っててね。きっと結婚資金を貯めて帰ってくるから』何て思ったんだ。『今はまだ何も言えないけど、帰ってきたら真っ先に君の部屋に行って、誓いの言葉とリングを渡すよ』何て…もうやだっ。そしたら私どうしよう。『そんなっ。安さん、私でいいんですか?』って言いながら…キャッ恥ずかしいっ。
途中から座り込み、一人で身もだえる優乃に、雪は治す気もないのねと、首を振った。
矢守は矢守で、負けてはいられないとばかりに対抗しだす。
「ちょっと待って。その説も信憑性に欠けるわ。私、また思いついたの」
「分かった、分かったから」
優乃と矢守の終わりそうもない妄想話に、雪がもういいわ、と止めに入った。
「二人の想像力には感心するわ。よくそんな事思いつくわね。でも今はもう一度、二人がいない状況から整理してみましょ」
雪は困ったような顔をした。
ブォン
ブルルルル…
雪の話に合いの手を入れるように、バイクの音が庭の方から聞こえてきた。
三人は窓から下を覗いた。
「あれって」
「そうね」
「分かったわ。私に任せて」
矢守は優乃と雪に向かって頷き、さっと部屋を出て行った。
「あれ、山川さんですよね」
優乃が聞いた。
「いいタイミングで帰ってきたわね」
雪は助かったとばかりに、ソファに座り込んだ。
「とにかく山川が帰ってきて良かったわ。これ以上話が変な方向に行かなくてすんだし、山川なら安のこと、何か知ってるわよ」
雪は優乃に向かって笑った。
「そうですね。ずっと何も分からなかったから、一人ですごく心配しちゃってたみたいです。ごめんなさい」
優乃はぺこりと頭を下げ、眉を開いた。
そこへ階段を駆け上がる音と共に、矢守が勢いよく戸を開け放って戻ってきた。
仁王立ちになったその手には、印籠よろしくボンレスハムが掲げられている。
矢守は開口一番、言い放った。
「やるわよ、バーベキュー!」
庭のいつもの場所で、テーブルを囲む三人。その傍らでは山川がしぶしぶと、しかし楽しそうにハムを焼いていた。
「ねぇ、もう山川の道中日記はいいから、どうして鎌倉なのか教えてよ」
矢守は、雪に同意を求めるようにビールを注ぎながら聞いた。
いつもの事なので、全員の手際はいい。あっという間に準備は終わり、早速お土産のハムを食べ始めていた。
山川はしゃべり足りなさそうにビールを含み、ハムを裏返した。
「だからその話を今、してるだろ」
「全然、そんな話になってないじゃない。要点だけ話してよ、要点だけ」
「だから要点って言われても、特に理由がないんだって。あえて言うなら、安さんが京都行ってくるから自転車貸してって言ったから、じゃあ俺は鎌倉だなって。それだけの理由だよ」
「最初からそう言いなさいよ」
無駄話を聞いたわ、と矢守はビールを喉に流し込んだ。
「ところで安はどうして京都なの?しかも自転車で」
続いて雪が聞いてきた。
「いやそれは聞いてないんで分からないですね。それは安さんに聞いてもらわないと」
すると、矢守が意外そうな顔をした。
「山川と安さんが駆け落ちしたって噂があったんだけど。一緒じゃなかったんだ」
「当たり前だろっ。どんな噂だよ」
山川は笑えない冗談だとばかりに答えた。
だが矢守はそれこそ意外だと言う顔をする。
「安さんとラブじゃないの?」
「俺はノーマルだっ」
「そっち系の本持ってるんじゃないの?」
本気か冗談か分からない。
山川はもちろん全否定だ。
「持ってるわけないだろっ」
「じゃあ、普通にエロ本もってて、するんだ」
流れで一瞬開きかけた口を慌てて閉じて、山川は答えた。
「あた…、待てっ。お前何聞いてんだ。だいたい『する』って何だ、『する』って」
「健全な女子としては、当然の興味よ」
すまし顔で言う矢守。
「まぁまぁ、そのくらいでいいでしょ」
「どこが健全だ」と言う山川をとどめ、雪は矢守と目で笑いあった。
「とにかく山川は、『美男におわす釈迦牟尼』に会いに行った訳ね」
雪は山川の好きそうな言葉を選んだ。
思った通り、山川の目がキラリと光った。
「おっ。与謝野晶子ですか。いいですね。『鎌倉や 釈迦牟尼なれど御仏は 美男におわす夏木立かな』雪先生、いいところついてきますね。与謝野晶子と言えば…」
「みだれ髪よね」
矢守がニヤリと言う。
「山川、安さんとみだれ髪の仲なんでしょ」
「えーい、その話はもうやめろっ」
山川はわめいたが、矢守はどこ吹く風だ。
「じゃあ、おかわりのハムよこしなさいよ」
「さっきからスキあればパクパク食べやがって。いいか鎌倉ってのは、日本のハム発祥地の言われている伝統ある土地なんだぞ。そのハムをむやみに…」
「そうなんだ。じゃあ味わって食べてみるから、ちょうだいよ」
言いながら、網から直接奪っていく。
「ちくしょー。俺、ほとんど食べてないのに」
「まだ自分用があるでしょ。持ってきなさいよ」
踏んだり蹴ったりだ。
「根こそぎ、食い尽くす気かーっ」
文句を言う山川に、矢守は正面切って反論した。
「あんたねぇ。文句言ってるけど、優乃ちゃんと私たちがどれだけ心配したと思ってるのよ。一階で女の子だけの夜ってものすごく怖いんだからね。しばらく部屋空けるなら空けるで、一言言っておいてくれてもいいんじゃない。変質者でも来て襲われたら、あんたの責任でもあるんだからね。ハムぐらい快く食べさせなさい」
「どんな理屈だ。だいたい襲うのはお前の方じゃないのか」
「私が襲うのは、安さんだけよ。成功したことないけど」
自慢にならない自慢をする矢守。
「お前が言うと、違う『セイコウ』に聞こえるな」
「何でもいいけどね、私は愛のない行為はしないわ」
「なのにいつも泣くのか?」
少し言い過ぎたかと思ったが、矢守は気にしていないようだった。
「いつも本気だからよっ」
「お前の本気はいくつあるんだ?」
それがフラれる原因ではないかとさえ、思えてくる。
「それを言うなら、男だって一体いくつあんのよ。あっちこっちに手出して。この前の男なんて浮気の言い訳に『恋愛って言うのは、恋と愛の組み合わせだから、一人だけって事じゃないんだよ』って言ったわよ。ふざけんじゃないわよっ」
矢守の怒りに、
「その通りですっ」
と突然、今まで黙って小さな瓶から水を飲んでいた優乃が叫んだ。
「恋愛って言うのは、そんなんじゃありません」
「優乃ちゃん、酔ってる?」
優乃の赤い顔を見て、雪が聞いた。
「酔ってません。私、水しか飲んでませんよっ。あぁ、ハムも食べてました、すみません」
「水って、その瓶、私が後で飲もうと思ってた『如水』じゃない」
雪が目を見開く。
「そう、『浄水』です。最初ちょっとお酒っぽい味がしましたが、美味しいお水でしたよ。水が美味しいとハムも進むんですね。ごちそうさまでした。まだ食べますけど」
「『浄水』じゃないわよ、『如水』よ」
雪はひったくるように瓶を手にしたが、すでに空っぽだ。高さも20センチぐらいしかないのだ。元から量も少ない。
「黒田如水か?戦国武将の」
「戦国武将な訳ないでしょ。お酒よっ」
山川のボケに、雪は怒鳴り返した。
しかし優乃は、そんな雪よりも大きな声で語り始めた。
「そんな事はどうでもいいんですっ。恋愛の話ですよ、恋愛の。恋愛って言うのはまず、『恋』と書きます。次に『愛』です。いいですか、まず恋があるんです。恋とは、一人で思う気持ち、そう片思いですよ。そしてその人と一緒になる。付き合ったりすることを『恋愛』と言うんです。そして、最後に恋がなくなり『愛』が残るんです。つまり愛は両思いの事を言うんです」
「妄想にしては、それなりに筋が通ってるわね」
「穴は多いが、一つの理屈だな」
と、矢守と山川。
雪はお酒に未練があるのか、瓶を見たまま無言だ。
「それはいいんです。大事なのは、どうして安さんも山川さんも一週間も留守にするのに、私たちに何の一言も言ってくれなかったんですか。私たちがどれだけ心細かったか、心配したか分かってるんですか」
優乃が一調子声を上げて、山川を責めると矢守も同調した。
「そうよ。私たちがどれだけ心配して、あぁでもない、こうでもないと話し合ったか」
「いや、ごめん。安さんがもう先にみんなに言ってると思って。それに急に思い立って何の計画もしてなかったから」
二人の勢いに押されて、山川はとりあえず謝った。
「急に思い立ったからとか、安さんがとか、そんな事が問題じゃないんです。いいですかー」
「その当人が帰ってきたみたいよ」
雪の無表情な言葉に、全員が振り向いた。
安が疲れ切った様子で、自転車をこぎながら帰ってきた。
「安さんっ。どこに行ってたんですかっ」
優乃は立ち上がって、怒った。
安はすぐ前まで自転車を寄せると、苦しそうに息をしながら謝った。
「ごめん」
優乃は怒りはしたものの疲れ切った安の姿を見ると、途端に涙目にすらなって心配し出した。
「安さん、大丈夫ですか?汗びっしょりじゃないですか。ケガありませんか?どこまで行ってきたんですか?本当に自転車で京都まで?あっ、お腹減ってませんか?今、ハム焼いてるんです。山川さんの鎌倉土産です。一緒食べましょう。先に着がえてきた方がいいですか」
だが、今度は優乃に変わって雪が声を荒げた。
「安っ。どこに行ってたのよっ」
安は戸惑ったように答えた。
「えっ、あ、何?」
「何じゃないわよ。あんたねぇ、一週間も留守にするなら一言言ってったっていいんじゃない。優乃ちゃんがどれだけ心配したか、分かってんの。楽しみにしてた私の『如水』を、飲み尽くすぐらい心配したのよ」
「その辺はよく分からんが、すまん。急に思い立ったから」
「急に思い立って自転車?日帰りの距離じゃないでしょうが」
「ごめん。悪かった」
安は雪の勢いに押され、謝った。
「雪先生、安さんこうして謝ってるし、先に着がえさせてあげましょう」
優乃がおろおろしながら間に入ったが、雪は首を横に振った。
「優乃ちゃんが良くても、これだけは言わせてもらうわ。安っ、お土産っ」
珍しく怒っている雪にちょっぴりドキドキしていた山川が、オチはそれですかと突っ込んだ。
「楽しみがなくなった今の私には、食べることとお土産しか残されてないのよ」
言うだけ言って気持ちが落ち着いたのか、雪は空の瓶から手を放した。
だが、安が自転車のカゴから袋を取り出そうとするのを、雪は止めた。
「もういいわ後で。先に着がえて来て。汗くさいしあんたもさっぱりしたいでしょ」
「ごめん。お待たせ」
着がえてきた安が声をかけた。さすがに疲れた様子で、すまん座らせてくれと、空いている雪の横に座りこんだ。
「あれ、シャワーでも浴びてきたの?」
雪はこざっぱりした安に気付いて、尋ねた。もちろんシャワーなんてしゃれた設備はここにはない。
「裏で水浴びてきた」
その言葉に、すかさず矢守が反応した。
「まさか、裸でっ。しまったわ。襲いに行けばよかった」
「あー、はいはい」
と、山川。
「あんた本当に自転車で京都まで行ってきたの?」
雪が聞くと、安は頭をかいた。
「いゃまぁ、一応。途中で挫折して、そこから電車だったけどー。それよりも、お土産ー」
安が言葉を濁しながら紙袋を机の上に置くと、矢守が素早くあさった。
「こんなに心配したんだから、お土産もいっぱい…三つしかないじゃない。山川の分はナシね。あっ、沢庵あるじゃない。私これでいいわ。ん、三年物じゃない。これって味はすごくいいけど、ハリがないのが残念よね。味だけじゃなくってハリもあるとお口に入れたときに、あぁんって感じになるのよね。やっぱり若さと太さは一つの武器ね」
「他に言いようがないのか」
山川が紙袋に手を出しかけると、矢守はその手を叩いた。
「山川の分はナシって言ったでしょ」
「俺の分のハムまで食べておいてか。なら沢庵半分寄こせ」
山川の言い分を聞き流し、雪が次に手を出す。
「私これで許してあげる」
雪はゆず大根の袋を取りを出して言った。
「これ冷やして食べると美味しいのよね。残りは和菓子っぽいの…ん、これは何かしら」
雪はもう一つ小さな白い紙袋を見つけ、中を開いた。
「これは優乃ちゃん用ね。良かったわね山川、ちゃんと山川の分もあったわよ」
雪は残っていたお土産を山川に渡した。
「残り物ですか。でも残り物には福があると…これは八つ橋の…皮、ですか。どうして皮だけなんですか」
「いや、俺あんこがダメなんだ」
安は申し訳なさそうに言った。
「安さんが食べる訳じゃないですよ」
どんな理屈ですかと言う山川に、雪が頷いた。
「ほんと、考え方が自分中心ね。いつもならもうちょっとマシなのに。こういう時って大体パターンが決まってるのよ」
雪は安の反応を見るかのように、一呼吸置いた。
「あんた、自分探しに行ったんじゃない」
雪にねじ込むように言われ、安は慌てた。
「ばっ、バカッ。今時、んな事するかっ」
「そうよね。そんな年頃過ぎてるわよね」
「当たり前だ」
「じゃ、どうして?」
どうしてと聞かれ、安は口ごもった。
「ん、まぁ。何となくだ」
言っては見たものの、自分でも答えになっていないのが分かる。だが、それが一番答えに近かった。
「ふーん」
雪は疑わしそうな顔をして頷いた後、ズバリと一言投げかけた。
「失恋でしょ」
ドキッ
『失恋』の一言が、佳乃を思い出させ、一瞬胸が痛んだ。
「そんな訳ないだろっ」
つい声が大きくなってしまう。
「安さん、失恋したんですか?」
山川が信じられないような顔をして、雪に聞いた。
「この男、よく失恋するのよ。惚れっぽいのね。大抵告白もしない片思いだけどね」
「片思いで失恋って、よく分かりませんが、好きだった芸能人が結婚するようなものですか」
「そんなものじゃない。本人じゃないから分からないけど」
雪に向かってうんうんと頷く山川に、安は言った。
「おいおい、勝手に決めつけるなよ」
だが安の言葉は、山川の耳に入らなかったように、訳知り顔で語り出した。
「かの西行も出家の理由は失恋だったとか。西行は旅で生涯を終えましたから、例え片思いと言えども、失恋が一人旅の理由にはなりますよ」
「いや、だからそうじゃないって」
安はもう一度、否定した。
すると今度は矢守が、分かってるわと語り出した。
「山川、安さんはね、失恋で旅に出たんじゃないの。私との式場を京都まで探しに行ってきたのよ。安さんは失恋してやっと私の愛に気付いてくれたのよ。それぐらいすぐにー」
「それだけは、ない」
安はキッパリと言った。
「バカッ。嘘でもいいからホントって言うのが、男でしょ」
山川が安に変わって首を振る。
「お前には間違っても、そんなこと言えんなぁ」
「あんた、それでも男?」
横で言い合う山川と矢守を置いて、雪は残っていたお土産を取り出した。
『美守』と書かれたお守りだった。
「これは優乃ちゃん用でしょ。これだけ特別?」
またもねじ込むように言う雪に、安は押し返すように答えた。
「いや、優乃ちゃんに、良縁があるように」
「これって『うつくしまもり』読むんでしょ。女性専用だって。八坂神社だった?」
意外と詳しい矢守。
「ん、あっ、そうみたいだな」
「安さん、八坂神社は良縁の神様ではありませんよ」
「えっ、そうなのかっ」
首をかしげつつ説明する山川に、安は驚いた。
「えぇ。京都で良縁と言えば、清水寺にある地主神社が有名所ですよ。確かに八坂神社には『恋みくじ』って言うおみくじがありますけど、縁結びの神社ではないんですよ。まぁ、神社つまり、神様そのものが特定の利益しか与えないわけではないので、ダメではないんですけどね」
「そうだったのか…」
残念そうに呟く安を無視して、矢守が元気に言った。
「いいじゃない。とにかく優乃ちゃん用にって事で。…あれ、優乃ちゃん…寝てるわ」
すやすやと寝息をたてて寝ている。
「ぐっすりね。私の清酒『如水』が効いたのね」
雪が虚しく言った。
「こうなったら飲むわよっ」
雪はその虚しさを振り払うように言った。
「安っ。優乃ちゃん部屋に連れて行って。はい、これお守り。忘れずにね。山川っ。ハムまだ隠してるでしょ。他にも食べるもの持ってきなさいっ。恵ちゃんビールとかもうないの?」
雪がヤケになったように指示を出している。
安はそんな雪を尻目に、優乃を起こして肩を抱き、部屋に連れて行った。
優乃の部屋に入り、そのまま寝かせると優乃は
「あ、安さん。ありがとうござー」
と、お礼もそこそこに、すぐにまぶたを閉じた。
外から雪の声が呼ぶ。
「安っ。氷持ってきてー」
「分かったー」
安は立ち上がり、外に向かって返事をした。
壁に掛けてあった服を優乃に掛け、その赤くなった寝顔を見つめた。
安は優しくその髪を二・三度なでた。
「自分でも、よく分からんよ」
安は困ったように小さく微笑んだ。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
次回予告
こんにちは。安です
あいつら、自分が有利な立場にいると分かったら
いっつも容赦ないからな
一人旅がそんなに悪いか?
ちょっと日にちかかるんだから、一言言っておけばよかったとは思うが
いや、反省はしてるんだ…
そんな訳で、次回の予告です
次回は、山川と雪が豆腐をめぐって対決
豆腐は味か食感か
木綿か絹ごしか
もちろん山川のウンチクファンのみなさんに
いつもの用意してありますよ
え、いらない?
次回第三十九話 お豆腐対決
そう言えば自分用の京都土産、買ってなかった…




