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第三十五話 君が袖振る

第三十五話 君が袖振る



 原稿も無事上がった数日後。優乃が街での用を終えて駅から出てくると、こっちに向かってくる雪と出会った。


 「雪先生。こんにちは。お出かけですか?」


 優乃が声をかけると、雪も珍しい所で会ったと立ち止まった。


 「あら、優乃ちゃん。そう、これから資料とトーン買いに行くところ。恵ちゃんにトーン使わせちゃったから、その分も一緒に。この前はありがとね。優乃ちゃんに陰でいっぱい助けてもらったって、恵ちゃん言ってたわよ。すぐにでもバイト代あげたいんだけど、原稿料が入ってないの。打ち上げもしたいって思ってるから、その時まで待って。で、優乃ちゃんはこれからデートなの?」


 優乃の髪型が変わっている。毛先を切りそろえ、きれいにまとまっている。さらさらになった髪から美容院のシャンプーの香りもする。


 男から見れば大して変わっていないと言うところだが、同性から見れば全然違う。雪も女なのだ。


 「違いますよぉ」


 優乃は小さく手を振った。


 「明後日の夜、お姉ちゃんと安さんと三人で、例のうどん屋さんに行く約束なんです」


 「三人で…。あぁ、たこ焼き会の時のアレね」


 まさか佳乃が律儀に、あの時の約束を守るとは思っていなかった。雪はちょっと驚きながら、思い出した。


 「はい。美容院は当日のお昼に行きたかったんですけど、予約とお姉ちゃんの予定で合うのが、今日しかなかったんです」


 「お姉ちゃんと行ったの」


 優乃は頷き、嬉しそうに付け加えた。


 「今日はお姉ちゃんのおごりだったんですよ。お昼ご飯もごちそうしてもらって、得しちゃった」


 「いいお姉さんね。私もそんなお姉さん欲しいな」


 雪がうらやましそうに言うと、優乃は「いつもは、うるさいぐらいですよ」と笑った。


 「あ、雪先生。時間はいいんですか?電車、もうすぐ来ますよ」


 「ホントだ。ありがと、優乃ちゃん。原稿料入ったら、バイト代払わせてね。じゃ、明後日気を付けて行ってきて」


 雪は優乃と別れて、切符を買いに走った。


 明後日…か。


 雪は何か思いついたのか、密かにほくそ笑んだ。



 二日後。年頃の女の子よろしく、狭い部屋に服が並べられていた。優乃の部屋ではない。安の部屋である。優乃がついてくるとは言え、佳乃とお食事である。スーツでは浮く、ジーパンではラフすぎる、と服を引っ張り出しては悩んでいた。


 結局は綿パンに麻の入った涼しげな柄シャツになったのだが、それに決めた頃には、いい時間が経っていた。


 コンコン


 「こんばんは。優乃です。安さん、いますか」


 優乃が部屋の戸を叩いて呼びに来た。


 「ん、あぁ。今行くよ」


 服選びに悩んでいたようには感じさせない。安はいつものように答えると、戸を開けた。


 「駅で待ち合わせだったね。今から歩いていけば丁度か」


 安は磨きたての控え目に光る靴を履き、優乃と一緒に、で愛の荘を出た。



 「安、行ったわ」


 「私もここから見てた。優乃ちゃんと二人って事は、現地集合ね」


 「そうすると、ここから歩いていくから…、一時間後にうどん屋ね」


 「もう少し早いんじゃない?」


 「それじゃ、三十分後にここ出ればいいわね。先に入っちゃったらその時はその時で。月森さん、呼ぶ?」


 「あの人ほとんど手伝ってなかったんでしょ。いいわ。それにいないんじゃない。山川に三十分後、出発って。よろしく」


 「OK」



 安と二人並んで歩く。駅までとはいえ、この機会を逃す事はない。優乃はもっと距離を近づけようと、考えてみた。


 他の人から見たら、私たちどう見えるのかな。


 何と言っても『おまじない』が効いているはずだ。もしかしたら恋人以上かも、と優乃は思った。


 まさか、若夫婦?って聞かれたらどうしよう。キヤッ。私が若女将で、安さんが若旦那。今日はたまの休みで、二人で散歩。『優乃ちゃん、二人で歩くなんて久しぶりだね』『はい』『優乃ちゃんのお陰で、ウチの旅館も持ち直して、大助かりだよ。いくら老舗だからって、看板だけでやっていけるような時代じゃないからね』。


 妄想が始まった。今回は、安が老舗旅館の長男で、優乃と一緒に傾いた経営を任されたと言う設定だった。


 『これも優乃ちゃんのお陰だよ。ありがとう』『そんな、私はただ、安さんの役に立てればと思ってやってるだけです。安さんにそんな風に感謝されるなんて、幸せです』『いや、幸せって言いたいのは僕の方さ。優乃ちゃんと一緒になれればいいって思ってただけなのに、店まで継ぐことが出来きて』『そんな、私だって』『優乃ちゃん』『はい』。


 「優乃ちゃん、駅着いたよ。どこ行くの?」


 「はっ、はいっ。あれ、駅?」


 妄想にふけっている間に、いつの間にか駅に着いていた。折角の時間を優乃は無駄にしてしまった。


 「優乃ちゃん。ずっと考え事してたみたいだけど、よかった?」


 「は、はいっ」


 ちょっぴり後悔する優乃。


 「大丈夫です。すみません」


 安にとっては、今は優乃よりも佳乃だ。


 「待ち合わせ、ここでいいんだよね。佳乃さん、もう来てるかな」


 「そうですね。そろそろだと思います」


 優乃の言ったとおり、五分もしない間に佳乃が駅から出て来た。


 胸元を開けたクレリックカラーのシャツに、タイトなスカート姿。安の好み、直球ど真ん中だ。


 「ごめんなさい。急患が入って。待ちました?」


 「いえ、今さっき着いた所です。それよりも急患って言いましたけど、お仕事の方は大丈夫でしたか?」


 安の声が角張っている。普段通りにしようとしているつもりなのだが、すでに上がり気味だ。


 「はい。一段落着きましたので」


 「そうですか。ではそろそろ行きましょうか」


 安は先に立って、歩き出した。


 佳乃は安の隣に並んできた。


 病院のにおいだろうか、消毒薬のような香りが、安の鼻孔をくすぐった。


 それに気がついたのか、佳乃は「ごめんなさい」と謝ってきた。


 「消毒臭いでしょ。シャワー浴びて来る予定だったんですけど、その時間がなくて。普段なら香水つけてごまかすんですけど、今日は美味しいうどん屋さんって聞いたので、つけてこなかったんです」


 佳乃の気づかいに、安はぽーっとしながらも、ハキハキと答えた。


 「いえ。そんなに気を使ってもらわなくても、いいんですよ。僕、病院とか消毒のにおいって好きなんです」


 「まぁ、本当ですか?」


 佳乃は珍しいと微笑んだ。


 「そんな人、はじめてです。病院とかお医者さんに行くこと嫌がる人、私のまわりでは多いんです。あのにおいがもうダメとかも言われるんですよ。よかった。安さんが、気にしない人で」


 ホッとしたように言う佳乃の言葉に、安の胸が思わず高鳴る。


 えっ。いや、いかんぞ。落ち着け。


 さっきから胸がドキドキしっぱなしだ。佳乃の一言、一動作に何か思うところがあるのではないかと、違うと分かっていても勘ぐってしまう。


 「看護師って、体力的にも大変なお仕事って聞いてますけど、辞める人も多いんじゃないですか。佳乃さんは体、痛めたりしてないんですか」


 黙っていると、かえって緊張してきそうだ。安はとにかく話しかけてみた。


 「どこも悪くなってないって言えば嘘になってしまうけど、まだ大丈夫ですよ。肉体労働だからやっぱり腰、痛める人が一番多いですけど。体が弱い子はすぐ辞めちゃうわ。でもそう言う子も、ほとんどが本当は続けたいって言うの。人を助けたいって言う気持ちがあるから、今まで看護学校で勉強して資格も取ったのよ。そうは言っても現実は厳しいから。どんなお仕事でも同じだと思うけど…。だから私、出来るうちはやろうって思ってるの」


 佳乃の言葉にはは少し陰があった。


 「そうですか…」


 安は小さく答えた。


 一緒に看護師になった友達仲間が、何人もいろんな事情で辞めていったんだ。みんなと一緒にやりたかったんだろうな。


 佳乃はそんな事を思っている安に何か感じたのか、明るく言った。


 「ごめんなさい。何か深刻な話しちゃったみたい。でも、病院だから感じられる嬉しさも多いんですよ。患者さんが元気になる姿を間近で見られるのは、私たちの特権ですから。いけない、今日は優乃がお世話になってるお礼でしたね。病院の話はまた今度に」


 安も明るく笑って応えた。


 すると優乃も間から入ってきた。


 「そうですよ。今日は高いもの食べましょうよ。お姉ちゃん、時々同じ科の先生にたかってるんだから。たまには逆にたかられないと」


 「そうなんですか」


 『たかってる』と言う言葉と、佳乃のイメージが結びつかなかった。だが、看護師が医者にたかるというのは、話として聞いたことがあった。


 「はい。時々みんなでお寿司とか焼き肉たかるんです。ただ(めし)って美味しいんですよ」


 佳乃はころころと笑った。


 おかしそうに笑う佳乃を見ていると、何でも許せてしまう。


 「ただ酒もじゃないんですか」


 安も一緒になって笑った。


 頷く佳乃に「もう」と怒りながら、優乃もやっぱり笑った。


 いつの間にか緊張も取れ、三人で話し歩いているうちに店に着いた。


 相変わらずのお品書きを横目に、店内に入る。


 奥の座敷に通され、大きな机の席に案内された。奥の壁際に安、隣に佳乃、向かいに優乃が座った。


 座敷と言っても個室ではなく衝立(ついたて)に仕切られ他に二つ、机があったがいずれもあいていた。壁の乳白色と障子窓の木枠の黒、障子紙の白とが明るく、落ち着いた雰囲気を作っていた。


 白磁の湯飲みにお茶が注がれ、三人の前に出された。


 「ご注文が決まった頃に、参ります」


 着物姿の店員が去っていくと、佳乃がお品書きを見ながら聞いてきた。


 「この夜の竹定食って言うのでいいかしら」


 ごちそうになるのに文句は言わない。安がそれで、と言うと佳乃が


 「安さん。お酒、大丈夫ですか」


と、お酒と書かれている所を示した。


 「ええ」と安が頷くと、注文を聞きに来た店員に佳乃は定食とは別に、冷酒を一本頼んだ。


 「安さんは、ただ酒好きかしら」


 佳乃はいたずらっぽく笑った。


 安は照れるように、頭を振った。


 「いや、ただ酒もいいんですが、僕は自腹の方がいいですね。ただ酒だと何故かあまり飲めないんですよ。変わってるかなとは、思うんですけどね」


 「まぁ、それなら私が全部飲んじゃうんだから」


 面白い人、と佳乃は付け加えた。


 いい雰囲気になってきた所に、見知った三人が店員に連れられてやって来た。


 「あら、安さんたち」


 わざとらしく驚いた様子で、矢守が言った。


 「来てたの」


 雪も同じだ。


 雪は店員に、「一緒で」と言うと、さっと優乃の隣に座った。


 店員は困った様子で安と佳乃を見たが、安が「いいですよ」と言うと、頭を下げ戻っていった。


 「今日、この前の原稿の打ち上げ会なのよ。急に決めたんだけど、安と優乃ちゃんいなくて困ったわ。全員の都合のいい時なんてないと思ったから、結局三人だけで来たの。まさかここにいるなんて、奇遇ね」


 雪はもっともらしい理由をつけ、安と優乃の分は別にやるから、と言った。


 ふと視線を移すと、山川が小さく片手をあげ、安に謝っていた。


 そう言うことか。


 雪は何かで今日のことを知ったに違いない。計画的じゃ仕方ないと安は諦めた。むしろこの方が、佳乃を変に意識しなくてもすむかも知れない。せっかくいい雰囲気になってきたのだが、安は無理にいい方に考えることにした。


 雪たちにもお茶が出され、夜の梅定食の注文を聞き店員は下がっていった。


 「偶然ですね。原稿の打ち上げって言いましたけど」


 そう聞く佳乃に、雪が答えた。


 「ちょっと前に私の原稿、みんなに手伝ってもらったの。その回は特に大事な原稿で、落ちる寸前にみんなが助けてくれたから間に合ったの。だから今回は奮発して、ここで打ち上げ。佳乃さん達は?」


 「私たちは、たこ焼き会の時の約束よ。優乃がお世話になってるから」


 「私も優乃ちゃんのお世話しておけば良かったわ」


 佳乃の隣で矢守が、残念そうに言った。


 「お前は人の世話より、自分の世話だろ」


 向かいにいる山川が突っ込んだ。


 「じゃ、山川。私にいい男紹介しなさいよ」


 「どんな流れだよ」


 山川のツッコミにかまわず、矢守は続けた。


 「そうね、包容力があって、優しくて、私が料理しなくても作ってくれる人で、炊事洗濯もやってくれる人。顔もそこそこなら身長は気にしないわ」


 「妥協してるの身長だけですよ」


 優乃が笑った。


 「どうせ結婚するなら、それぐらいの人がいいわ。理想は自由なんだから、夢ぐらい見させて」


 「夢見るのは乙女の時だけよ」


 雪がからかい半分に言うと、山川も追い打ちをかける。


 「お前、乙女時代があったのか?」


 「今もそうよ。結婚するまで女は、みんな乙女なの。結婚したら本当の女に変わるんだから」


 妙に毅然(きぜん)として言う。矢守なりの理屈があるのだろう。


 「矢守が言うと、どうしても違う響きを感じるな」


 安が苦笑すると、みんなも頷きながら笑う。


 「じゃあ、この中で一番大人っぽい佳乃さんに、理想聞いてみましょ」


 矢守はわざとすねた様子を見せ、佳乃に聞いた。


 「そうねぇ」


 佳乃はちょっと考えてから、理想ならと付け加えて言った。


 「やっぱりお互いの気持ちね。容姿は年と共に変わるでしょ。私だっておばちゃんになるし、気にしても仕方がないところだと思うの。二人で暮らす以上お金は必要だけど、男の人一人に働いてもらって、私は家でって言う考え方の人はダメね。そう言う考え方は最近の考え方で古いと思うわ。だって農家ではそうはいかないでしょ。だったらそう言う考え方は都市の、しかもサラリーマンの考え方でしかないと思うの」


 思っても見なかった答えに、一同は驚いた。


 その中で山川は身を乗り出して、相づちを打った。


 「そうなんですよ。『最近の考え方で古い』って言うのは言い得て妙です。女は家、男は外って言うのは、おそらく江戸時代の武家の考え方、生活様式だと思うんです。武家は藩から一定の石高(こくだか)、即ち給料をもらって生活していました。サラリーマンそのものですよ。この考え方を戦後、誰かが適用したんですね。佳乃さんの言うとおり農村に目を向けてみて下さい。田おこしは男、田植えは女が労働の中心でー」


 「お待たせしました」


 山川の話は、店員が運んできた料理に消されてしまった。


 懐石料理のような手の込んだ料理が、小型の朱の重箱に二段三段に重ねられている。隣には削り立ての花鰹がふわりと盛られたうどん。値段もただ取っている訳ではないと、納得だ。

 出汁(だし)の効いた味が、またたまらなく美味しい。


 一杯、酌を誘われた安は、佳乃に酌を返した。気になる佳乃から酌をされたせいか、お酒も美味しかった。料理の邪魔をしない軽めなコク。と言って端麗ではない。「お酒」としては物足りないが、料理との相性はうまく合っていた。


 安が一杯飲む間に、佳乃は二杯飲んでいた。


 ほんのりと酔った安に対し佳乃は、首もとまで桜色に染まっていた。


 それでも佳乃は涼しげに「美味しい」とお酒にも、うどん、料理にも舌鼓を打っていた。



 食べながらみんなで原稿の時の様子や、優乃が雪を看病した事、優乃の料理が美味しかったことなど話した。その席で優乃が佳乃に電話をし、風邪の時の看病の仕方を聞いた事も分かった。


 間接的に佳乃も原稿の手伝いをしたことになる。


 「でも、直接手伝ってもらった人にしか、おごらないわよ」


 雪が冗談めかして言うと、佳乃はちょっと考えて言った。


 「それじゃ今度看病しに行くわ。また風邪ひいて」


 「私はいいけど、みんなが嫌がるわ」



 折角の機会を雪たちに邪魔されてしまった安は次を、と頭をひねっていたが、いい案は浮かんでこなかった。


 無情にも食事の時間は終わり、佳乃と雪は別々に支払いをし、外に出た。


 お酒のせいか、佳乃の足下は少しふらついていた。


 「美味しかった。先生ごちそうさま」


 矢守は雪にお礼を言った。


 「それじゃあ、また今度ね」


 で愛の荘組と佳乃はここで別れ、帰ろうとした。


 「あ、安。あんた佳乃さん駅まで送って行きなさいよ。佳乃さん、足下あやしいわよ。よろしくね。優乃ちゃん、行こ」


 雪はさっぱりと言って、すこし強引に優乃を連れて歩いていった。


 思いがけなく佳乃と二人っきりにされた安は、呆然としてしまった。


 「行っちゃいましたね」


 佳乃は安に微笑みかけた。


 「少し休んで行っていいですか?美味しかったから飲み過ぎちゃったみたい」


 佳乃は安の腕につかまった。


 佳乃の温かくやわらかい肌の感触に、安の体温が急上昇した。血の巡りが倍の速さにでもなったようだ。


 そんな安に気付いてか気付かずか、佳乃は少し辛そうに付け加えた。


 「公園とか、近くにありません?」


 みんながいるうちは、気を張っていたのだろう。


 安は「歩けます?」と短く言うと、佳乃をしっかりと腕につかまらせ、たかぶる血を押さえつつ、佳乃の歩く速さに合わせゆっくりと公園に向かった。



 近くの公園に着くと佳乃をベンチに座らせ、安は小走りに近くの自動販売機で缶コーヒーとペットボトルのスポーツドリンクを買ってきた。


 安は隣に座り、「これを」と蓋を開けペットボトルを渡そうとした。


 すると佳乃が


 「ごめんなさい、…酔ったみたいです」


と、安の肩にもたれた。


 触れるほど近くに佳乃の唇と、ワイシャツの襟元からのぞく胸元があった。


 安の腕が、自然に佳乃の肩へ伸びた。


 キキーッ


 遠くで車の急ブレーキの音がした。


 反射的に安は動きを止め、音のする方に顔を向けた。


 佳乃は音が聞こえなかったように、安の肩に頭を預けていた。


 「大丈夫ですか」


 安はそっと腕を引きながら、気持ちを落ち着けるように尋ねた。


 あまりにも危険な状況に、心の葛藤が続く。


 佳乃はこくりと小さく頷いた。


 「少し休めば。もう少しだけ」


 今しかない。


 せき立てる心に、安は負けそうになった。


 「ごめんなさい」


 佳乃がその時、もう一度つぶやくように言った。


 佳乃の辛そうな表情とその一言が、安の心を静かに鎮めた。


 チャンスかも知れない。しかしこういうやり方は安の(しょう)に合っていなかった。佳乃の気持ちはどうなのか。そう考えた時、安の心は落ち着きを取り戻していた。


 「ふぅー」


 あまりにも優しい息を吐き、安は缶コーヒーの蓋を開けた。


 コーヒーは苦かったが、やわらかく体にしみた。


 肩に佳乃を寝かせながら、安は時間をかけてコーヒーを飲み干した。


 月は左側にきれいな弧を描き、右側に柔らかく影を落としていた。


 佳乃の手が、安の袖をつかんでいた。


 「ー野守は見ずや、君が袖振る」


 そんな句が口をついて出た。


 「何て意味なんですか?」


 佳乃がそっと頭を上げて、安を見た。


 笑いかけているようにも、辛そうにも見えた。


 佳乃にそんな表情をされると、胸が焦がれそうだった。


 「いや意味なんて…、何となく口をついて出ただけです」


 安は精一杯笑いかけた。


 佳乃は静かに体を寄せると、安の手に手を重ねた。


 重ねられた左手に、安は静かに光る細身の指輪を見た。


 安の胸に突き刺さるような動揺が走った。


 佳乃は優しげな顔をしていた。


 安の中でためらいと憧憬(どうけい)、嘆きと安らぎ、それらの気持ちがない()ぜになっていった。


 「優乃のこと、お願いしますね」


 やわらかな言葉とは裏腹に、安は身が切られるようだった。


 木々の影が暗闇に姿を隠した。


 安はその薬指から目を離し、新しく息を吸い込むと、泣きそうな、それでも笑っているような何とも言えない表情で答えた。


 「もう酔いは醒めましたか?」


 これをどうぞ、と安はペットボトルを差し出した。


 「僕も酔ってたみたいですけど、もう、大丈夫です。行きましょうか。駅まで送ります」


 安は完爾(かんじ)()んだ。


 佳乃はペットボトルを受け取り、たおやかに立ち上がった。


 「ふぁっ」


 そして一つ、大きな欠伸(あくび)をした。


 「いやだ。私ったら」


 恥ずかしそうに手を当てる佳乃に、安は言った。


 「いい夢、見れました?」



 駅に着くと、安はやはり微笑みながら佳乃に言った。


 「電車、乗り過ごさないで下さいね」


 「はい。安さんも気を付けて帰って下さい。ありがとうございました」


 佳乃は丁寧にお辞儀をした。月のように明るく、静かだった。


 「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」


 安も頭を下げた。


 「僕もいい夢、見れました。さようなら」


 安は手を振って、電車の待つホームに消えていく佳乃を見送った。



 坂を上り、で愛の荘に帰る。


 風が安の体を通り抜けた。湿り気を帯びた風に、安は立ち止まった。


 雲間に隠れゆく月を、安は仰ぎ見た。


 「山のあなたの空遠く、かー」


 何もかもが、とけていく夜だった。



★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★



次回予告



 悲しみに追い打ち


 フラレた安に神の試練か?



 「優乃ちゃん、金属バット?」



 「お前…、台無しだな」



 「い、いや、好きだよ。好き、好き」



 「私を奪ってー」



 安の心に平穏は訪れるのか


 次回…


 ちょっと待って下さい。久です


 次回の話は安さんよりも、ぼくの話です


 一つ聞いて欲しい、分かって欲しいことがあるんです


 人気だけが、視聴率だけが作品の善し悪しなんでしょうか?


 そうではない筈です


 そもそも視聴率とはー



 次回第三十六話 フラレンジャー



 ぼくに、もっと語らせて下さーいっ

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