第三十四話 夏の修羅 後編
第三十四話 夏の修羅 後編
夜中。蛍光灯の明かりが揺らいだ。
ん、また…。
安は困った顔で、天井を見上げた。
そうか、雪のエアコンだったか。ずっとおかしいとは思ってたんだ。夏場必要と言えば必要なんだが、で愛の荘で使うなよなぁ。
無茶なお願いだが、エアコン一台くらいで電気が不安定になる、で愛の荘も、で愛の荘だ。
「冷蔵庫に何かない?」
矢守が手を休めず聞いてきた。ペンの動きが軽い。かなり乗ってきている。
安が冷蔵庫を開けてみると、カップコーヒーやまんじゅう、他に酒の肴が並べられていた。
「これ、お前が買ってきたのか?」
不思議な取り合わせに安が聞くと、矢守が「何?」と首を伸ばしてきた。
「あらー、優乃ちゃんよ。やるじゃない」
矢守の嬉しそうな声に、山川も手を止め冷蔵庫の中をのぞき込む。
「変な取り合わせだ」
と、山川が言うと、矢守がうんうんと頷いた。
「手が汚れないものばかり。飲み物もストローで飲むものだし、ポテチとか油物ないじゃない。あ、私このコーヒーとこの細切りイカね」
安は感心した。
手に油が付くものは原稿が汚れてしまうため、お手ふきがあったとしても避けたい。油汚れは一度つくと取れないのだ。もしそこまで気がついたとしても、油の少ない酒の肴を買ってくるとは思ってもみなかった。
「今回、優乃ちゃんを食事係にして、正解だったわ」
矢守の言葉に二人も、驚きを込めて頷いた。
今回のことだけだとしても、優乃がそこまで気がつくとは思っていなかった。
「んー、このコリコリ感がたまらない。おいしー」
細切りイカを食べながら矢守が言った。
「大きいさきイカも美味しいけど、小さくても固いのっていいわー。大きければいいって言う人もいるけど、口の中がいっぱいになってきついじゃない。これくらいだとパクって食べられるし、ペロペロ出来るでしょ」
「カンベンしろよ。さきイカを口いっぱい食べる奴がどこにいるんだ。わざとか?」
安が眉をひそめながらも、笑って聞いた。
「ん、何の事?」
矢守は知ってか知らずか、とぼける。
黙っていた山川も言ってしまう。
「大きいとか小さいとか、言い方変えろよ」
「太い細いならいい?」
「それがいかんって言ってるだろ」
もはや天然だ。分かってはいるが、つい言ってしまう。
「分かった。もう好きにしゃべっていいから、話しかけるな」
安が諦めると、山川も続く。
「そう言う話は、俺たちのいない時にでも、よろしく」
「あらぁん、冷たいのねぇん」
矢守が大げさに言うと、二人は力なく笑って言った。
「それも、やめろ」
優乃のお陰か原稿は思った以上に、はかどっている。雪の原稿のため、必要以上に手を入れられないのが幸いしていた。うまくすれば、明日には終わるかも知れない。三人は少し休憩した後、再び原稿に向かった。
翌朝、ご飯にみそ汁、卵焼きのまともな朝食を食べ、原稿は素晴らしい速さで進んだ。多少の粗さはあるものの、雪のタッチを消さないギリギリの形として仕上がろうとしていた。
だが、まだ修羅場ではなかったのだ。
その日の夜。
優乃の部屋で夕食を食べながら、矢守が優乃にお礼を言った。
「今回は優乃ちゃんにお礼を言うわ。ありがとね」
『俺たちは?』と言う顔の二人を、矢守はもちろん無視だ。
「美味しい食事のお陰で、原稿も今晩中に上がりよ。一日余裕があるって素敵ー。ホント助かっちゃった、ありがと」
「そんな事ないですよ。私、ただ食事作っただけで、原稿なんて、ほんとに手伝ってませんから」
謙遜する優乃に、矢守は隠してもダメ、と言った。
「優乃ちゃんが、月森さんの塗ったベタを修正したの分かってるんだから」
「あのベタのはみ出しを修正したの、優乃ちゃんだったのか」
山川が「へーっ」と感心する横で、安が頷いた。
「月森さんが塗ったベタ、はみ出しが激しかったから修正しとかなきゃって思ってたんだけど、優乃ちゃんがやってくれてたのか。誰も修正する様子なかったから、いつの間に修正されてたのか不思議だったんだ。小人さんの仕業かと思ってたよ」
「小人さんにはまだ早いですよ。本人いないから言えますけど、ホントに月森さんのベタは激しかったですね。塗るのは早かったですよ。でも早けりゃいいってもんじゃないですよ。修正に時間がかかるんだって。ついでにコスプレで暑さがガマン出来るなら、部屋でもガマンしてベタ塗れ。エアコンの部屋がいいのは、俺だって同じだ。あいつは使えんっ」
よっぽど不満がたまっていたのか、山川の口調が激しくなる。
「それは私に対する当てつけ?エアコンは、雪先生と違って原稿料が安いし、単行本も出てないから買えないの」
「おい、やめろ」
冗談半分で言う矢守に、安が笑った。
「ここにエアコン二台もつけたら、ただでさえ不安定な電気が切れちまうよ」
「ここの電圧、大家に内緒で上げましょうよ」
山川が笑うと、みんなつられて笑った。
矢守は話を変えた。
「月森さんが昨日の夜、今日仕事って言って、ホッとしたわ。この中で一番付き合い長いけど、あんなに使えない人だなんて知らなかった。男を使うのは上手いけど、ペンを使うのはヘタね」
「まー、人それぞれだからな」
安が諦めるように言うと、矢守は優乃に言った。
「ベタ修正も出来て、食事もちゃんと作ってくれるのは、で愛の荘で優乃ちゃんだけよ。ホントにありがとね」
「ほめ言葉として受け取るには、ちょっと困るよね」
山川の言葉に、安も一緒になって笑った。
「全くだ。一つ言わせてもらえるなら、ベタのホワイト修正は盛り上がらないように出来るだけ薄くやってもらえると、後々いろいろ楽なんだけどな」
「安さん、それ素人に言う事じゃありませんよ」
山川はそう言ったが、優乃は頑張りますと軽く頭を下げて笑って見せた。
「この二人、マンガ描けないクセに、技術だけはレベル高いのよね。マネしちゃだめよ。優乃ちゃんは声優のプロになってね」
「はい」
優乃が首をすくめると、四人は笑いあった。
「それじゃ、後片付けお願い。最後の仕上げよ」
矢守の号令に二人も立ち上がり、気合いを入れ直した。
そして、真の修羅場が来た。
「雪先生!」
部屋に戻るなり、矢守の足が止まった。
雪が原稿を集め、手にしている。
「あ、恵ちゃん。ありがと。私の代わりにやってくれたのね。すごく助かった」
雪は頭を下げた。
「ここまで出来ていれば仕上げが楽」
「いや、仕上がったんじゃ…」
「このキャラの髪、もう一段細かいのにして二重貼りね。この影、途中からグラデにして。この服このトーンじゃなくてー」
「今からか?ギリギリまでやっても、あと一日しかないんだぞ」
安は抗議した。雪の言うとおりに直しを入れていたら、間に合わなくなりそうだ。だが雪の計算は違った。
「あと半日分あるから、三十四時間。明日の夜合わせじゃなくて、明後日の朝合わせ。三人が手伝ってくれたらいけるから」
有無を言わせず三人とも手伝うことになっている。
雪の「やる」が手直しと追加作業の嵐であることは、覚悟するしかなかった。いや、むしろ手直しや追加作業ですめばいい方だ。こだわりの雪のことだ、ヘタすれば今からでも描き直しをしかねない。昨日、ゴミのようだったのが演技では?と疑いたくなる程、目に力がある。それに何と言っても本人の原稿だ。本人がやると言えば止める理由はない。手伝わされる身にもなって欲しいと言いたい所だが、ここまで来れば乗りかかった船であった。
「今日は寝かせないわよ」
矢守が言えば「どういう意味だ」と聞きたくなるが、雪が言うと色っぽさどころか修羅の臭いしかしない。
雪は三人以上に気合いを入れて矢守の席に座り、ペンを取った。
翌朝、食事の準備をしている優乃の所に、山川がふらふらと現れた。
「おはよー」
昨夜の健康体からは想像出来ない、見るもやつれた姿だ。いつもより一段低い声で、
「朝食食べないから、ごめん。お昼もたぶん食べるヒマない。それじゃあ」
と、ぼそぼそ言って戻っていく。
優乃はとにかく驚いて、山川が戻って部屋に入ろうとする所を呼び止めた。
「何?」と振り返る山川の後ろに、ものすごい速さでペンを走らす雪の姿。ペンを休める間もなく動かし続ける矢守。トーンを切りまくっている安が見えた。
いずれも机に穴が開くくらい、目の前の原稿に集中している。
「頭、抜けたー」
ペリペリとはがしたトーンの髪の部分だけがきれいに抜けて、頭のシルエットが浮かび上がっている。
「次はどれだぁ」
そう言いながら、次のコマを探す。トーンを切る亡者のようだ。
「よし、この端切れをここに置いて…。ふふふ、このトーン使い切ったぜー」
トーンをきれいに切り抜くだけでなく、余りなく使う事にも気を使っている。亡者になっても職人だ。
矢守は、と言えば原稿をしながらTVとお話しだ。
『国会の予算案は衆議院を通りー』
「国会っていつも、あん、アン言ってHよね。それに痴話ゲンカみたいに男ばっかりで言い争ってて。誰か衆議院のやおい本って描いたら売れるんじゃないの?みんなスーツだし。与党と野党の党首同士ってダメかな」
ぽつりぽつりとしゃべる。どうしてもそう言う話にしたいようだ。
安も矢守も幽鬼のようにげっそりしている。山川もすぐにこの姿に戻るのだろう。
思わず言葉を亡くした優乃だったが、山川に
「ゆ、夕食は?」
と、かろうじて聞いた。
「あ、たぶん冷蔵庫にあるもので、何とかするから大丈夫、じゃあ」
何かが抜けたように山川は戸を閉め、ふらりと机に戻っていった。
『雪先生って、実は恐いのかも』
はじめて本当の修羅場をかいま見た優乃だった。
それから閉められた矢守の部屋の戸が開くことはなく、日が暮れていった。
寝静まった、で愛の荘に静かな音が走る。その一室の窓からはこうこうと明かりがもれ、不気味に動く人影が浮かんでいた。
「そう言う流れがある中で、今は初期の小説、カセット文庫を知っている世代も少ない」
山川がペンを動かしつつ、ぶつぶつ言っている。
「そもそもマンガは国芳に始まると言われていますが、北斎の北斎漫画と言うのも見逃せません。…BL系と言うのが江戸時代の衆道…漫画から小説、カセット文庫から再び漫画という媒体に戻ったのは…ファンタジーと言う名称も…ウィザードリィが生まれ、それに対するようにウルティマが…海外だけのものではないのです。BL系を語る上で外せない一作、『風と木の詩』。…このマンガが描かれた時代ー』
時に早口に、時に間をおいて、口から出るに任せてつぶやく。聞きようによっては面白い話なのだが、残念なことにTVの音にかき消されている。
それぞれが自分の世界にひたり、ひたすら原稿を埋めていく。誰も誰かの相手をする暇もないのだ。時々雪と短い指示のやり取りをし、時間と戦いながら腕を動かす。白い原稿に色がつく毎に、終わりが近づく。やがて東の空はぼんやりと赤みを帯び、日の出が近いことを教えてくれた。
「行くわよっ」
ガタンッと戸が開き、戸のガラスが揺れた。
雪が原稿をやっていたままの格好で出てきた。髪は乱れ、集中が切れたのかふらふらしている。
続いて中から矢守が、仕上がった原稿の束を手に「私が行くわ」と出てきた。
軽く身支度を調えている。雪よりよっぽどしっかりしている。
「タクシー呼んで」
矢守が部屋の中の山川に向かって言った。すると優乃の部屋の戸が開いた。
「もうすぐタクシー代わりの車が来ます」
優乃が部屋から出てきて言った。
「雪先生は部屋で寝てて下さい」
壁にもたれている雪を見つけ、優乃は命令するように言った。
雪は「ありがと、恵ちゃんお願い」と聞こえないくらいの小さな声で言うと、這うように階段を上っていった。
クラクションが一回、辺りに気兼ねするように鳴った。
「あれね。それじゃあ、あとよろしくね」
部屋から出てきた山川と安に後を頼み、矢守は出て行った。
徹夜作業の後とは思えない、しっかりとした足取りだった。
矢守が出て行った後、ようやく気がついたように安と山川が優乃に挨拶をした。
「あ、おはよう、優乃ちゃん」
「おはうございます」
「今の車って優乃ちゃんが回してくれたの?」
ぼーっとする頭を回しながら、安が聞いた。
「はい。昨日月森さんと話して、原稿で手伝えないなら車ぐらい用意できないかって。それで月森さんのお友達に頼んで、今朝来るようにしてもらったんです。丁度間に合ったみたいで良かったです」
「あー。月森さんも少しは役に立つんだ」
山川は素直すぎる感想をもらした。
「あっ、私、雪先生の様子、見てきますね」
優乃は安と山川にも「お疲れ様でした。休んで下さいね」と言うと、元気な足取りで階段を上っていった。
安と山川は矢守の部屋に戻って、軽く片付けを始めた。もちろん疲れてはいるが、終わったと言う安堵感がある。
山川は、ほーっと息をついて言った。
「よくやりましたよね。髪は貼り替えて二重張りにするし、影はホワイト修正の上、グラデ。描き込み倍ですよ。いつもあれ一人でやってるんですよね。アシスタント雇えばいいのにって思うのは、俺だけですか」
山川は終わったばかりの苦労を、しみじみと思い出した。
安は山川とは反対に首を横に振った。
「いや、その話は今はやめよう。夢に見そうだ」
「そうですね。ははは」
山川も同じ予感がしたのか、力なく笑った。
「寝る前に、雪の様子だけ見ておくか」
部屋を片付けると安は山川を誘って、雪の部屋に行った。
コンコン。
軽くノックして雪の部屋に入ると、ソファで寝ている雪を優乃が看病していた。
「今、寝たところです」
優乃は静かに、と身振りで示した。
「やっぱりまだ熱があったんですね。一日で回復するなんておかしいと思ったんですよ。今、お薬飲みましたので、多分大丈夫だと思います」
見ると机の上に大きなペットボトルでスポーツ飲料とトマトジュースが置いてある。二つとも半分以上減っている所を見ると、看病は一昨日もやっていたのだろう。
安と山川は互いに顔を見合わせた。
「あ、もう少し様子見たら私戻りますから、安さんも山川さんも、部屋に戻って下さっていいですよ。二人とも徹夜で相当疲れてるんじゃないですか」
今までにない様な気遣いに、二人ともびっくりだ。
「あ、うん。ありがとう。あとお願い」
よろしくと二人は驚きながら部屋を出た。
「意外でしたね」
階段を下り、部屋の前で山川がつぶやいた。
安も黙って頷いた。
「今回、矢守は頑張りましたよ。あいつがやらなかったら、確実に原稿落としてたと思います。さっきも一番しっかりしてたし。雪先生に原稿持って行かせていたら、せっかく上がった原稿、編集部まで持って行けたかどうか。でもそれはそれとして、優乃ちゃん陰で頑張ってくれたみたいですね」
安がぼそぼそと相づちを打つ。
「そうだな。月森さんのベタ修正もそうだし、食事もだな。まぁ、食事は月森さんも手伝ったかも知れないけど、さっきの車の手配も優乃ちゃんが思いついたような感じがしたしな」
安も自分で言いながら、感心していた。
「雪の看病も一昨日からしてたみたいだな。あぁ、それで雪が一日分回復したのか。お陰でこっちは修羅場、見たな」
安はやっと気がついた。
「えぇ、俺もどこまで優乃ちゃんがやったのか分からないですけど、今回は確かに優乃ちゃんも、殊勲者ですよ。見直しました」
「あぁ。優乃ちゃんって、実は陰で働くタイプだったんだな」
「そう言えば、洗濯機の屋根もそうでしたね」
二人は今までの優乃を振り払うように、首をゆっくりと横に振った。
「そう言う意味では、日本的な大和撫子ですね」
「どうして、そう見えないんだろうな」
大和撫子のイメージと優乃が、どうしても重ならない。二人は共に小さく笑った。
「そろそろ寝るか」
安が言うと山川も頷いた。
「そうですね。そう言えば今回の主人公、変なキャラでしたね」
もう少し話したいのか、山川が話を振ってきた。
「そうだったか?作業に集中してて全体がよく分かってないんだが」
「主人公が、お好み焼き屋のバイトを始めたって設定なんですよ。それがキャベツを上手く切れなくて何度も叱られるんです。それを見ていた別の先輩が、店が終わった後、キャベツの切り方とか個人的にいろいろ教えるんです」
「キャベツの切り方…ねぇ」
「主人公には別に好きな奴がいるんですけど、奥手でウブなんです。だからさっきの先輩に食べられちゃうんですけどね」
「奥手で…」
「新しい味のお好み焼きを作ろうとして変なものは作るし、好きな奴の前で、過去の男の話されるし、空回りするし。BL系ってあんな設定でもウケるんですかね。あ、長話になっちゃいますね。もう寝ましょう。お休みなさい」
山川はそう言うと、大きく伸びをして、自分の部屋に入っていった。
何か腑に落ちないものを抱えて、安は部屋の戸を開けた。
「…モデル、俺か?」
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次回予告
人、男、女
そして、恋
いつの時代にも恋は生まれ出で、息づいていた
例うれば真珠色の薔薇の吐息
朝霧に濡れる草花
一粒のしずくに、彼の人へのため息
ちょっと安、何言ってんの?
胸の隙間に吹く風は
幾年の昔より続く、焦がれる心
これほどの切なさを経て、なお届かぬ遠さ
胸、締めつけらるる思ひ
わが衣手は露にぬれつつ
頭、打ったの?
次回第三十五話 君が袖振る
薔薇色のトゲは、刺さらない
あんた時々、くさいぐらいキザよね




