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第三十三話 夏の修羅 前編

第三十三話 夏の修羅 前編



 「キャー」


 日曜日の朝。で愛の荘の二階で、鋭く短い悲鳴が響いた。


 たまたま起きていた優乃がその声を聞きつけ、小走りに階段を上がった。


 二階に上がると雪の部屋の前で月森が、部屋の中を指して立ちすくんでいた。


 月森はすがるような目で、震える口を開いた。


 「ゆ、誘拐よ」


 「えぇぇっ」


 優乃は飛び込むように部屋の中を見た。


 ソファの上には紙が散らばり、いつもの雪の姿はない。机には描きかけのような原稿。机の下にはゴミの固まり、床には、くしゃくしゃに丸め捨てられた紙、空のペットボトルなど。とにかく雑然としていて、ひどい散らかりようだ。


 原稿があると言うことは、犯人は編集者ではない。雪の熱狂的ファンによる誘拐かも知れない。


 「どうしよう。警察?」


 月森がおびえながら、優乃に聞いた。


 そこに優乃同様、月森の悲鳴を聞きつけた矢守が、眠たそうに下から声をかけてきた。


 「何?どうしたの?」


 「あっ、…守ちゃん」


 月森が矢守に早く来てと、全身を使って手招きをした。


 「誘拐なのっ。雪先生いなくなっちゃった」


 「んー」


 寝起きのせいか、慌てる様子は少しもない。目をこすりながらゆっくりと階段を上がってくる。


 その様子にじれったくなったのか、月森は矢守が上がってくるのを待たずに、早口に説明をはじめた。


 「私がイベントに行こうとしたら、雪先生の戸の下から紙が出ていたの。何かなって見たら『八時に起こして』って書いてあったの。これよ。もう八時過ぎてるでしょ。でも朝の八時なのか、夜の八時なのか分からないから、そっと戸を開けてみたら雪先生いないの。しかも、こんなに部屋散らかってて。きっと誘拐よ。この紙、ダイニングメッセージだわ」


 「あら、ホント。でも雪先生死んだ訳じゃないから、ダイイングメッセージじゃなさそうね」


 矢守は上がってくると、『八時に…』の紙を見ながら、それとなく月森の言葉の間違いを直した。


 で愛の荘は一室でキッチンもダイニングも全て兼ねているから、「ダイニング」メッセージでも間違いではない。しかし誘拐と、死の直前に書くダイイングメッセージは、関係がない。山川がいたら一席ぶっていた所だろう。


 矢守は慌てず、何でもないように雪の部屋に入った。


 「修羅場はいつもこんなものよ」


 そう言いながら、ソファに散らばっている紙を拾い集め、軽く調べた。


 「雪先生、これ、いつ合わせの原稿?前に言ってたのならぎりぎりなのに。何かメモないの…?それにしても、寒いわね」


 今まで戸が開いていたので気が付かなかったが、すぐ前の壁にエアコンがついていて、そこから冷たい空気がガンガン出ている。矢守が立っているそこは、まさに直撃場所だ。


 「あのー、雪先生は無事なんですか?」


 落ち着き払っている矢守とは対照的に、優乃は心配そうに尋ねた。


 矢守は机の上にメモを探しながら、振り向きもせずに答えた。


 「あー、私の足下。机の下よ」


 「…あ、ホントだ。私、粗大ゴミかと思ってました」


 失礼な事を言う優乃だが、遠目では確かにゴミだ。矢守に言われてよく見れば、盛り上がったゴミのようなタオルケットのうえから、髪の毛がチロリと出ている。しかしこれだけ散らかっていれば、ゴミにも見える。本人だって文句も言えまい。


 近くに来た優乃が風を受けて、小さく身震いした。


 「雪先生の部屋って、エアコンがあるんですね」


 驚きの目でエアコンを見る。


 「で愛の荘、唯一のエアコンよ」


 月森が、知ってるのは私一人よ、とばかりに言う。


 「これだけ効かせると、かえって風邪引きません?雪先生って暑がりなんですか?タオルケットだけでは寒いですよ」


 優乃は矢守に聞きながら、机の下の雪にタオルケットの上からそっと触れ声をかけた。


 「雪先生、ソファで寝ませんか。雪先生っ」


 最初は弱く、最後は強くゆすってみたが、雪は「うーん」とうなるだけで起きない。


 優乃は首をかしげタオルケットを肩まで下ろした。


 雪の顔色がおかしい。熱っぽく苦しそうな表情だ。


 優乃は雪の額に手をあてた。


 「すごい熱。矢守さん、雪先生、風邪ですよっ」


 「本当っ?」


 矢守も雪の額に手を当てる。優乃の言うとおり熱がある。これだけ熱が高いと、原稿どころではない。雪じゃなくても、机の下にだって倒れ込むだろう。


 「これ、メモなの?」


 月森が床に散らばっていた原稿の中から一枚、何か書いてある紙を見つけて矢守に渡した。


 矢守は数字や文字とは思えない記号の書いてあるメモを、じっと見た。


 「ちょっと待ってて…。今日が…、で、締め切りが…えっ、ちょっと待って、だめじゃないっ。緊急事態、みんな呼んでっ」


 矢守が鋭く声を上げた。


 「このメモによれば、締め切り明後日の夜よっ」


 「そんなの良く解読出来たわね」


 さっぱり読めない文字に、月森は感心した。


 優乃は締め切りが明後日と聞いてみんな、と言っても安と山川の二人だが、を急いで呼びに行った。


 矢守は一人下唇をかみ、「任せて」と小さく頷いた。


 すぐに優乃が二人を連れて戻ってきた。


 「おぅ、雪が倒れたって?」


 安が気持ち慌てながら聞いてきた。


 矢守はくるりと向き直って「そう」と答えた。


 「雪先生の原稿の締め切りが明後日の夜なの。悪いけどみんな今日から三日間、予定をキャンセルして手伝って」


 「いきなりムチャ言うな」


 「分かりました」


 「明日明後日はバイトがっ」


 「えーっ。雪先生の原稿さわっていいの?ホント?」


 突然の頼み事に反対する安と山川。夏休みのせいか聞き分けのいい優乃。雪の生原稿がさわれて嬉しい月森。


 四者四様の反応の中、反対する安と山川に矢守は言った。


 「ムチャは承知の上よっ。でも今回のこの原稿、雪先生が今よりメジャーな雑誌に載せる、とっても大事な原稿なの。このメモの一番下見て。『恵ちゃん、助けて』って書いてあるでしょ。雪先生、熱がある中、限界ギリギリまでこの原稿やって、最後にこのメモに私に助けを求めるメッセージを書いて倒れたんだわっ。これは雪先生のダイイングメッセージよっ、死んでないけど。雪先生の遺言を無視するつもり?だいたい私が頼られるのなんて、十年に一度あるかないかよ。その私が頼んでるんだから、手伝ってもらうわっ」


 どうにも説得力に欠けるが、勢いだけはある。雪の大事な原稿を任せてもらえるのだ。矢守は同じマンガ家として雪から頼られ、ものすごく嬉しいのと同時に責任感を感じていた。メモの『恵ちゃん、助けて』の文字が、矢守の気持ちに火を点けていた。


 「じゃあ、明日はバイトあるから、今日だけでいいなら」


 その火を消すように、山川が仕方なさそうに言った。


 だがその仕方なさそうな感じが、逆に矢守の勢いをつけてしまった。


 「何聞いてるのっ。雪先生がメジャーになれるか、なれないかの瀬戸際よ。人、一人の人生かかってるのよ。山川は雪先生の一生を台無しにするつもり」


 そうまで言われたら、山川も黙ってはいられない。


 「俺の生活はどうなるんだっ」


 三日もただ働きは出来ない。バイトだって簡単に休むわけにはいかないのだ。山川は人の人生より、まず自分の生活だと迫った。


 「人生と生活、どっちが重いと思ってるのよっ」


 矢守も負けじと言い返した。


 「人生と生活?」


 山川は思わず考え込んでしまった。


 よし、まず人生と生活の関係を整理しておこう。人生は生活の積み重ねで成っている。つまり人生が生活を内包している訳だが、単純に人生が重いとは言い切れない。生活なくして人生はないのだからな。そして大事なことは、他人の人生があって、自分の生活があるという事だ。そしてまた、自分の生活も他人の人生に影響を与えている。つまり、人生と生活は簡単には重さを語れないのだ。と言っても、矢守がここまで深く考えて聞いているのか?もっと単純に考えた方がいいのではないか?


 一方矢守は、すでに安にターゲットを移していた。


 「安さん。今まで雪先生に世話になってきたんでしょ。隠してもダメ。聞くところは聞いてるんだから。あれだけ世話になっていて、雪先生がピンチって時に助けないなんてどう言うつもり?日頃の恩返しでしょ。嫌って言うなら聞いたこと、あることないことバラすわよ」


 「待て待て、手伝わんとは言ってないだろ」


 バラされて困ることはない筈だが、矢守のことだ何を言い出すか分かったものではない。


 安はひとまず話題を変えてみた。


 「こっちはいいとしても、山はどうする。仮に三日かかるとして、バイト代も出ないんじゃ、それこそ生活厳しいぞ」


 「三日ぐらいガマンしなさいよっ、て言いたい所だけどそこは任せて。ちゃんとバイト代出すから」


 「ホントか?」


 「雪先生が、たぶん」


 矢守は出した腹をすっと引っ込め、うやむやの内に作業に入ってしまおうとたたみかけた。


 「雪先生が助けてって言ってきたんだから、経費はちゃんと出るハズだし、出してもらうから安心して。それよりも今は一刻を争うから、優乃ちゃんも月森さんもお願いね」


 矢守に頼まれて月森は、はしゃいだ。


 「うわーっ。イベントより面白そう」


 「早く終われば明日の朝にも解放するから」


 明日の朝にも解放、と言っても、どれだけ手を入れるのか分からない。人の人生がかかってる原稿だ。ヘタに手を入れてタッチが変わってはまずいし、手抜きに見られてもいけない。それでもそう言われれば、嘘でも「早く終わらせてやる」と言う気にもなってくる。


 「今日から三日間でこの原稿上げるのよ。他に原稿がないか探して」


 矢守はまだ散らばっていた原稿を集めさせ、全体の進行を確認した。


 「主要な所はペン入ってるわね…。月森さん、トーン探して」


 「勝手に探してもいいの?」


と、聞く月森に「雪先生、倒れてるから」と家捜しをさせる。


 家捜しと言っても大して家具もない。すぐに月森が「ここにあったわ」と机の引き出しから二・三枚取り出して見せた。


 「ありがと。…ん、何これ?この使えない柄トーンは。しかもこっちは九十番じゃない。こんなの雑誌の印刷に出ないでしょっ」


 引き出しを引っかき回し、トーンを取り出して確認するが、今回使えそうなものがほとんどない。


 考える矢守の横で、月森は雪の生原稿が見られて嬉しそうだ。


 矢守はきっと顔を上げた。


 「今から私の部屋で仕上げるわよっ」


 「えぇっ!?」


 山川が驚いて、眼を白黒させ自分の世界から戻ってきた。いつの間にそうなったのか。自分もすでにメンバーに入っているらしい。しかもよりによって矢守の部屋で。


 矢守が「私の部屋」といった途端、知らぬが仏の月森を除いて、三人の顔に影が入る。ないやる気もさらに激減だ。あの時のイヤな思い出がよぎる中、優乃がみんなの思いを代弁すべく、口を開いた。


 「あのっ、雪先生を矢守さんの部屋で寝かせて、私たちはこのエアコンの効いた部屋で原稿やったらダメなんですか?」


 「ダメッ」


 矢守は即答した。


 「この部屋でやるより、私、自分の部屋でやったほうがやりやすいし、仕切りやすいの。そんな顔しても駄目だから。それに雪先生を下まで運ぶの?エアコンの効いたこの部屋で寝かせておいた方がいいに決まってるでしょ」


 確かにその通りだ。いつもからは想像できない矢守の姿に、


 「お前、別人か?」


と、安がつぶやく。


 「いい、状況をもう一度整理して、これからの予定を言うから」


 矢守は、采配を振った。


 「締め切りは明後日の夜。今から二班に分けるわ。買い出し班とアシスタント班よ。買い出し班は今から書く番号のトーン各五枚ずつ買ってきて。他のトーンは私のと合わせてなんとかするわ。買い出し班は山川と優乃ちゃんお願い。トーンと食べ物ね。分かってるとは思うけど、チョコとか手が汚れるものはダメ。画材屋までちょっと遠いけど、山川、自転車で優乃ちゃん乗せて行ってきて。安と月森さんは私の部屋でベタとペン入れ、貼れる所のトーン。雪先生の人生かかってるんだから、やれるところまでやるわ。明後日合わせの予定よ」


 矢守は引き出しからトーンをごっそりと取り出すと、必要な物を抜き出し始めた。


 「それなら」と、月森が手を上げた。


 「私、山川さんと買い出しかわります。足なら今すぐ呼べるから」


 言いながら携帯電話を手に電話をかける。


 「あ、私。今から行くから待ってて。もう来てるの?ありがと」


 月森は電話を切ると、優乃に言った。


 「荷物置いてくるわ。優乃ちゃん場所のナビ、よろしくね」


 廊下に置いてあったカートを引き、部屋に戻る。


 「…今日、イベントだったのか」


 山川のつぶやきに、安が遠い目をする。


 「足って、足なんだろうな」


 可哀相に、と言う言葉が出かかる。


 「お待たせ。それじゃ行ってきます。優乃ちゃん、行こっ」


 月森は矢守からメモを受け取り、この状況を感じさせない素敵な笑顔を残して、優乃と買い出しに行った。


 「足に同情するヒマないのよ」


 すでに準備を終えた矢守が、声をかけた。


 諦めの息を軽く吐き、安は雪をソファに寝かせて、山川と矢守の部屋へと下りた。


 「だいたいあの部屋、寒すぎですよ。一階の方が暑いってどういうことですか」


 山川のつぶやきに苦い笑いを浮かべながら、安は答えた。


 「夏は原稿の大敵だからな」


 「夏は敵なんですか?」


 「あぁ、汗が原稿に落ちると、紙がゆがむだろ。ペン入れたところに落ちたらにじんで、ヘタしたらそのコマ全部描き直しだ。だからどこのマンガ家も、夏にはエアコン全開なんじゃないか。ここに一人例外がいるけどな」


 「私のこと?そういう貧乏マンガ家は手の下にタオルやティッシュを敷いたり、凍ったペットボトルを足の下に敷くの。頭使うのよ」


 矢守は部屋の戸を開けて言った。


 「ちなみに私の部屋は扇風機」


 矢守は部屋に入ると、二人に机の配置の指示を出し、TVをつけた。


 その動きに、安と山川がびくっとする。


 「矢、矢守ちよっと待てっ。今回は流すのやめよう」


 安がすかさず止めに入った。


 「映像でノリを作るの。安も山川も女の人、嫌いじゃないんでしょ」


 そう言われて、山川は思わず顔を赤くした。


 「お前と見るのは嫌いだ。だいたいそう言う問題じゃないだろ。お前は良くても、こっちのノリが悪くなる」


 「矢守の原稿ならガマンもするが、雪の原稿だろ、頼む勘弁してくれ」


 二人が必死に言ってくるので、矢守も少しは考えはじめた。


 「そう言われてもねぇ」


 矢守の口調が少し鈍ったところを、すかさず山川が押した。


 「分かった。TVだけにするなら、明日、明後日のバイト休み入れる。安さんも予定あけますよね」


 これであの時の再来が防げるなら悪くない。安も乗り気はしないものの頷いた。


 「優乃ちゃんだって、あれが流れてたらノリは悪くなると思うぞ。月森さんだってどう思うか分からないのに、今回は全員の協力が必要だろ。矢守もある程度はガマンしてくれ」


 二人にそう言われても矢守はしばらく渋っていたが、全員の協力が必要なのは確かだ。それにこの二人が抜けられては困る。矢守は仕方がないとDVDの電源を消した。


 ふぅーっ、と二人は大きく息き、肩の力を抜いた。



 昼を回った頃、優乃と月森が帰ってきた。


 「遅くなりました。買い出し行ってきました」


 優乃がすみません、と申し訳なさそうに言うのと反対に、月森は上機嫌だ。


 「車出してもらったから、ランチして来ちゃった。遅くなってごめんなさいね」


 月森は時間がない事を、すっかり忘れているようだ。


 『もてるからって、何でも許されると思うな』


 『笑顔で許されるのは今だけだっ』


 安と山川は心の中で叫んだ。


 一方矢守も手を休めず、不機嫌に指示を出した。


 「ありがと。早速で悪いけど、二人ともベタお願い。そこの机に置いてある原稿の×打ってある所全部」


 部屋を入ったすぐの所に小さな机が二台あり、向かい合わせで座れるようになっている。


 「矢守さん、これと、あと冷蔵庫借りますね」


 優乃は頭を下げて持っていたトーンの束を矢守に渡し、一緒に買ってきた食べ物を冷蔵庫に入れた。


 先に座った月森は原稿を見て、嬉しそうにはしゃいだ。


 「うわーっ。雪先生の原稿なんて緊張しちゃう」


 「ペン、いくつか置いてあるけど、他にいる物があったら言って」


 山川が隣から、いいから早くやって、と声をかける。


 その山川に矢守が、今受け取ったばかりのトーンを渡し、指示をする。


 「それでは、やりましょうか」


 月森は優乃が座るのを待って、にっこりと笑った。


 『月森さん、状況分かってます?』と言えない代わりに優乃は、


 「遅れた分、急いでやりましょうか」


と、空気が読めない月森を促した。


 ふと見るとTVはついているが、映像は流れていない。優乃は小声で隣の安に聞いた。


 「安さん、今日は例の、流れてないんですね」


 「山川と二人かがりで必死に止めたんだよ。今回はTVだけで勘弁してもらった」


 安が疲れた声で答えると、優乃は「そうだったんですか」と胸をなでおろした。


 「良かった。DVD流れてたらどうしようって思ってたんです。ありがとうございます」


 「DVD、つけていいですよ」


 安と優乃の会話が聞こえたのか、月森が知らない怖さで大胆な発言をする。


 慌てた安が、矢守に答える暇を与えずに言った。


 「そう、DVDとか映画って、つけるとつい見入って原稿に集中出来なくなるから、今回はTVだけにしたんだ。でも締め切りも迫ってるからTVも見ないように、音だけ聞いて」


 「あ、なるほど。そうですね。締め切り近いんだし、急いでやらないとダメですものね。みなさん、TV見たらだめですよ」


 まるで自分が仕切っているかのように言う月森に、一瞬血が上りかけた三人だった。



 扇風機は原稿やトーンが飛ばない程度の強さでしか動かせない。窓を全開にして、部屋の戸も開け放って風を通すが、小さな部屋に五人だ。扇風機の力では空気も思うようには流れてくれない。


 「あー、もうダメ。暑苦しい。倒れそう」


 先に根を上げたのは月森だった。そう言いながら、狭いスペースに寝転がる。


 「コスプレだったらガマンするのに。お腹空いたー」


 「ベタ、あと何枚?」


 矢守が机の上の時計を見て、振り返った。


 「これ入れてあと二枚です」


 優乃が手を止めて答えた。


 「まぁまぁのペースね。それじゃあ、それはあとでいいから、二人で夕食作ってきてくれない?」


 緊急事態とはいえ、昼抜きでさらに夕食抜くのはつらい。昼食を食べてきた二人とは違うのだ。


 二人はペンを置き、矢守が安と山川に進行状況を聞くのを背中に、部屋を出た。



 こんな事もあろうかと、さっきの買い出しで食材も二日分買っておいたのだ。優乃は自分の部屋に戻ると冷蔵庫を開けて、肉、野菜を取り出した。


 『みんな、お腹空いてると思うから、早く出来る炒め物にしよ』


 優乃は月森に、ご飯をかしてもらおうと頼んだ。


 「三合までしか炊けないから、三合でお願いします。お米ここです」


 「任せて」


 月森は自信たっぷりだ。


 「私こっちで野菜とかお肉切ってますから、月森さん先に流し使ってお米洗って下さい」


 優乃は部屋の真ん中のテーブルに移動した。


 すると月森が「えっ?」と立ち止まった。


 「これ、無洗米じゃないの?」


 月森の意外な質問に、今度は優乃の方が戸惑う。


 「え、えぇ。だから洗ってもらわないと」


 「何回洗うんだったっけ?」


 月森が真顔で聞いてくる。


 「えっ?」


 優乃が目を白黒させた。


 「え、あ、あの。何回、と言うよりも、洗った水がある程度澄んでくるまで、ですけど」


 「そうね。思い出したわ。大丈夫、洗剤で洗うとか言わないから」


 月森の株がどんどん下がる優乃だった。



 一時間後。食材の大きさや、炒める順番、味付けなど、嫁、姑のごとき一悶着はあったものの、何とか無事に夕食が出来た。盛りつけを月森にお願いし、優乃は矢守たちを呼びに行った。


 「皆さん、お待たせしました。ちょっと時間的に早いですけど夕食出来ました。先に食べて下さい」


 「優乃ちゃん、ありがと。それじゃ遠慮なく、食べさせてもらうわ」


 矢守はふーっと息を吐いて、ペンを重たそうに置いた。


 「安も、山川も行くわよ」


 矢守の声に二人も返事をし、顔を上げた。


 「私、今の内にさっきの残りのベタやってますから」


 優乃は残っていた原稿の前に、腰を下ろした。


 「よろしく」と、三人は出て行った。ほんの数時間ですっかり職人の顔つきだ。


 廊下から三人の話す声が聞こえる。


 「そっちはどうだ」


 「ペンがまだ重いわ。人のタッチだから、出来るだけ似せようとして、まだ力が入っちゃってる。でももうすぐ慣れるわ。そっちこそどう?」


 「勘は戻った。これからペース上がるから」


 「指定は上がってる?」


 「サブキャラがあと二人入るけど、すぐに出すわ」


 優乃は少しでも役に立つようにと、ペンを取った。



 ご飯と炒め物だけのシンプルな夕食だが、時間のない今はそれで充分である。ソース味の炒め物も、山川が頷きながら食べている。それなりにいい味なのだ。


 「月森さんは、明日仕事?」


 矢守が最後のお茶を飲みながら聞いた。


 「はい。ごめんなさい。もっと手伝いたいんだけど」


 月森は申し訳なさそうに、頭を下げた。


 山川が小さくガッツポーズをする。


 「いいのよ。仕事じゃ仕方ないから」


 『俺たちは?』と言う顔をする山川と安を、矢守は無視だ。


 「大丈夫。この三人でなんとか出来るから。優乃ちゃんには食事係になってもらうわ。そうしてもらった方が助かるし。伝えておいてくれる?よろしく。続き行くわよ。ごちそうさま」


 月森が来られないことに密かにほっとして、矢守たちは立ち上がった。


 部屋に戻ると優乃の姿はなく、ベタの終わった原稿が、矢守の机にあった。


 買い出しかしら。


 矢守は軽く思いながら、原稿をチェックした。


 ん?これ、確か月森さんに…。ふーん。


 矢守はやるわね、と小さく笑みを浮かべ、気合いを入れるように腕まくりをした。



★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★



次回予告



 こんにちは、矢守です


 月森さんも優乃ちゃんもいなくなって、私一人に男が二人


 雪先生の原稿のお手伝いと言っても、ウフフフ


 ダメッ、ここから逃さないわ


 私がいいって言うまで、シテもらうんだから


 あら、雪先生も一緒にシちゃうの?


 雪先生も頑張るんだから




 「ペロペロ出来るでしょ」



 「今日は寝かせないわよ」



 「次はどれだぁ」



 「あー、月森さんも少しは役に立つんだ」




 次回第三十四話 夏の修羅 後編



 矢守、そう言う予告の仕方やめろ

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