第三十話 おまじない 後編
第三十話 おまじない 後編
雨は止むどころか、ますます強くなっていた。
ピカッ!
ズバシャーッ!
一瞬の光と共に轟音が鳴り響き、で愛の荘の電気が一斉に消えた。
優乃は「あっ」と天井を見上げた。だが急に暗くなったせいで、目が慣れず真っ暗だ。雨戸も閉めていたので、外からの光も入ってこない。扇風機からの風も止まった。「廊下は」と、戸口の方を見たが、やはり薄明かりすらもなかった。
停電だ。
優乃は、ほっと息をついた。
良かった。帯ほどいただけの所で停電して。もし下帯もほどいて浴衣脱いだ時に停電してたら、私、下着姿で電気点くまで待ってなきゃいけなかったかも。でも、もしそうだったら安さんが「優乃ちゃん、大丈夫?」って助けに来て…。「優乃ちゃん、入るよ」「あっ、安さん。ちょっと待って」「何、どうしたの?あれ、何か柔らかいものが」「やん、安さん。そこ…」「あ、優乃ちゃん。ご、ごめん」「でも、見えないならいいです」
なーんて、イヤーン。
相変わらずの妄想をちょっとだけ繰り広げた後、優乃は安が本当に来ないかと、胸を小さく鳴らして待っていた。
すると戸が開いたような音が聞こえてきた。ドキンと心臓が破裂しそうになる。
だ、だめ、安さん。まだ、心の準備が。だって、まだ、私…。山川さんがいないからって…。
ドキドキしながら待ってみたものの、廊下を歩いてくる気配すらない。もしかしたらさっきの音も、雨の音と聞き間違えたのかも知れない。
雷がまた近くで鳴った。
ズバシャーンッ!
ひゃっ、と優乃は反射的に頭を下げた。
もう、安さん何やってるのっ。私がこんなに怖がってるのに、「大丈夫?」って様子を見に来てくれてもおかしくないのに。どうして来ないのっ。安さんが来ないなら、私の方から乗り込んでやるんだから。
自分の思い通りにならない腹いせからか、優乃は急に強気になって立ち上がった。
暗闇に目も少しずつ慣れてきて、壁にぶつからずに動けそうだった。手を出して距離を確かめつつ、慎重に歩いて戸口に着くと、そっと戸を開けて安の部屋に行った。
ノックをしてみたが返事がないので、優乃は「安さん、大丈夫ですかー?入りますねー」と小声で言って、戸を開け中に入った。しかし入ってみたものの安がいる様子がない。
あれ、おかしいな
と、思った時、急に部屋の電気が点いた。
びっくりしながら、急な明かりに目を細め周りを見たが、やはり安はいない。さすがに出て行かないとまずいかなと思った所に、安が戻ってきた。
「あれ、優乃ちゃん。どうしたの?」
部屋に入ると優乃がいたので、安は驚いて戸口で立ち止まった。相手が矢守なら夜這いかと疑うところだが、優乃ならその心配はなさそうだ。
いや、そういう心配は普通、女の子の方だよな。
安は頭をかいた。
その様子が困ったように見えた優乃は、慌てて弁解するように言った。
「あっ、あの、突然停電したので、安さん、大丈夫かなと思って」
あながち嘘ではない。
「あぁ」
安は安心したように頷いて、部屋に上がった。
「今、ヒューズ取り替えて、ブレーカー上げて来たから大丈夫だよ」
「?」
優乃には何のことか分からない。小首をかしげると、安がごめんごめんと笑った。
「優乃ちゃん達だとヒューズって知らないよね。配電盤…って言っても分からないか。ヒューズって言うのは、一定の電流が流れた時に、電化製品が壊れないように焼き切れるエナメル線みたいな物で、今は取り替えるのがめんどくさいからなくなってきたんだけど…」
あまり分かっていないように見える優乃に、安は話しを大雑把にまとめてみた。
「うーん、つまり雷が落ちて、電線が切れたから、今つなげてきたんだ」
優乃はようやく分かったという顔をして、頷いた。
「そうだったんですね。ありがとうございます。急に真っ暗になって、廊下の電気まで消えてたからびっくりしてたんですよ」
「着がえ中だったんだ」
安はそう言いながら流しに向かい、紅茶を用意し洋酒の瓶を取り出した。
「はいっ。だから余計に。あれ、でもどうして分かったんですか?」
「帯だけ、してないからさ」
紅茶に洋酒を入れながら、安は答えた。
優乃は自分が下帯姿で来たことに気付いて、顔を赤くした。
ちょっと大胆かも…。
「はい、どうぞ」
安はマグカップを二つ持って、部屋の真ん中にある小さな机に置いた。
「今日の打ち上げ代わりに、ブランデー入り紅茶」
優乃は紅茶から上がる湯気に、ブランデーの華やかな香りを吸い込んで、安と乾杯をした。
安が作ってくれた紅茶は、甘くて少し苦かった。
「はふー。ほっとしますね。でもちょっとお酒強くないですか?」
「うん、やっぱり?ちょっと入れすぎたかなって、思ってたんだ」
安は悪びれずに笑った。
優乃は安の笑顔につられて、コクコクとブランデーの強い紅茶を飲み干した。
「それにしてもよく降るね。花火の時に降らなくてホントにー」
安はそう言いながら「もう一杯作ろうか」、と立ち上がり流しの方を向いた。
「キャーッ」
雨の音にも負けないくらいの声で、突然優乃が叫んだ。
驚いた安が振り返ると同時に、優乃がしがみついてきた。
「カ、カエルが…っ」
優乃の目線を追っていくと、窓際の壁に、小さなアマガエルがちょんと座っていた。
「え?あれ、ダメなの?」
安は戸惑いながら、背中にしがみついている優乃に聞いた。
「カエル、大の苦手なんです」
どこから入ってきたのか分からないが、で愛の荘ならどこからでも入って来れるだろう。
安は優乃に「ここにいて」と言って、窓際に行って両手でカエルを包んで捕まえた。そして肘で窓を開けると、パッとカエルを外に投げ、素早く窓を閉めた。窓を閉めた後、安は窓に向かったまま指で空中で横二本、縦二本の線を描いて、その下に波線を描いた。
「これで大丈夫だよ」
安は手を洗ってまだ立ったまま体を固くしている優乃を座らせ、もう一杯ブランデー入りの紅茶を作った。
「僕も小さい頃、カエルが苦手でさ」
優乃の前にカップを置き、安は残っていた紅茶を飲みながら、落ち着いた声で言った。
「トノサマガエルだったか、イボガエルだったか忘れたけど、はじめて見たとき恐くて泣いちゃってね。母親の足にしがみついたよ。今は平気になったけどね」
安は小さかった頃の自分を笑った。
「その時に母親から教えてもらったのが、さっきのおまじない。鳥居を描いて、その下に天敵を描くとそれが来なくなるんだ」
安はもう一度、優乃の目の前で鳥居を描き、その下に波線のヘビを描いて見せた。
「安さんもそんな頃があったんですね」
優乃はようやく小さく笑った。優乃はまだ震える手で紅茶のカップをつかみ、ゴクリと飲んだ。
「ケフッ、コホッコホッ」
優乃はいきなりむせた。
「ちょっ、ちょっと安さん、これ」
むせている優乃を、安は楽しそうに見ている。
「これ、ブランデー入り紅茶じゃなくて、紅茶入りブランデーじゃないですか」
「それくらい濃い方が、緊張が取れるかなって思って」
安はいたずらっぽく笑った。
「え?あ…ほんとだ」
優乃は安に言われて、さっきまで固まっていた体が、少しほぐれている事に気付いた。
「私、すごく緊張してましたね」
優乃は大きく息を吐いた。
と、優乃の視界の隅で、緑色の何かが跳ねた。
「キャー」
優乃は再び悲鳴を上げた。
安は素早く立ち上がり、それをつかまえて、安心したように小さく笑った。
「優乃ちゃん、今度はバッタだったよ」
安は指でバッタを挟んで優乃に示すと、窓からポイッと逃がしてやった。
「今日は何か変なお客が多いな。バッタの天敵はカエルか?それとも小鳥か、猫もつかまえてるよな」
安はそう言いながら、鳥居の下にカエル、鳥、猫の形を指で描いていった。
「あの、安さん…」
優乃は自然と体が固くなってしまうのを感じながら、震える声で言った。
「私の部屋、見てもらえませんか。何だか恐くなってきて」
さっきまで部屋にいて、何もいなかったのだから大丈夫の筈だが、もしかしたらと思えてきたのだ。
また緊張してきている優乃に、安は「いいよ」と努めて明るく言って、優乃の部屋に行った。
「ちょっとごめんね」
安は戸口に立ちつくしている優乃に言うと、部屋に上がった。
そう言えば優乃ちゃんの部屋に上がるのは、これがはじめてか?
そう思うと、安はちょっぴりどきどきした。部屋は小ぎれいに片付けられていて、浴衣の帯がほどき置かれていた。
あんまりじろじろ見ない方がいいかな、と安はとりあえずぐるっと部屋を見回し、カエルもバッタもいないことを確認し、窓際に行って例のおまじないを描いた。
「何もいないよ。それにカエルと、バッタ除けしておいたから」
何とか優乃の緊張を解こうと言ってみたが、優乃は体を小さく縮めて、お礼を言うだけだった。
安は、何とかしてあげたいと思ったが、すぐにはいい考えも思い浮かばなかった。
「それじゃあ、戻るよ」と言って戸口に近付いた時、安は目を伏せて立っている優乃の額に、そっと唇を当てた。
突然の感触に驚く優乃に、安は照れたような笑顔で言った。
「緊張を解くおまじない。子供の頃、母親にしてもらったんだ。優乃ちゃんにも効くといいけど」
安は優乃に背中を見せて、スリッパを履いた。
安さん、照れてるみたい。
優乃は安の恥ずかしそうな背中をみて、緊張がすっととけていった。
「矢守とか月森さんに見つかると、何言われるか分からないから」
安は照れているのか、優乃から視線を外しながら言い訳のような事を言って、出て行こうとした。
「ありがとうございます」
優乃は一瞬ためらった後、「安さん」と呼びかけた。
チュッ
振り返った安の頬に、エイッとばかりに近付けた唇。
頬に柔らかい感触と可愛らしい音。安はびっくりして優乃を見た。
「私からもおまじないです。おやすみなさい」
優乃は嬉しそうに耳まで真っ赤にして、安を押し出すように戸を閉めた。
安は廊下で立ち止まったまま、頬を押さえた。柔らかい感触は、しばらく消えそうになかった。
一体何のおまじないなのか。優乃の額にキスをしたお礼なのか、何なのか。答えは見つかりそうになかった。
「ブランデー、入れすぎだったかな…」
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次回予告
「あの、お名前は?」
「あら、からかってなんかいないわよ」
「山川っ…さん」
「安さん、風邪?」
照りつける暑さは夏の特権
何もかも飛ばしてしまいそうな日射しが、いつもの庭に降り注ぐ
こんな人が、こんなに近くて遠くにいたなんて
かわいい人
この人は私のこと、どう思っているんだろ?
この鋭さには、まいるな
入り混じる思いに、隠したい本心
上手く出せない気持ち
それでも分かって欲しいこの胸の奥
次回第三十一話 お姉さん 前編
「私、海に行きたい」




