第二十話 日曜日のみんな
第二十話 日曜日のみんな
「ふぁ」
雪は原稿を描いていた手を休め、大きなあくびをした。
カーテン越しの朝の光はずいぶん強くなり、雪の部屋を照らしいてた。雪が原稿を描くのは、ほとんど夜から朝にかけてだ。描き始めの頃はそうでもなかったのだが、描いていくうちに夜の方が集中できることに気がついたのだ。とは言うものの、締め切り近くなれば昼夜など関係なくなるのだが。
雪は机から離れ、ソファにごろんと横になった。
「あー、プールと遊園地の資料集めて来なきゃ」
この狭い部屋にソファを入れているのは雪ぐらいなものだ。原稿机とソファ、後は押し入れタンス。これだけが家具のすべてと言ってもいいのは、物にこだわらない雪らしいと言えば雪らしい。要は実用性があればいいのだ。その点ソファは今みたいにごろんと横になって寝るのには丁度いい。その便利さに比べれば部屋が狭くなることは、何でもなかった。
すーっ、すー。
早速雪が寝息をたてている。
朝日が差し込むカーテンのすき間からは、月森の出かけてゆく姿が小さく見えていた。
月森の提げている鞄には空手着が入っていた。今日は空手の大会なのだ。
最近、安というライバルが出てきたため、月森は俄然やる気になっていた。
今までは趣味程度の練習だったと月森は反省していた。安と手合わせをしたことによって、それが分かったのだ。
もっと練習しなきゃ。
月森は空手の練習に力を入れるようになった。
その甲斐あってか、先週の神社での手合わせはなかなか惜しかった。もう少しで安に勝てていたのにと、月森は本気でそう思っていた。
あと少しね。安さんの実力を抜くことなんて、もう目の前よ。だいたい安さんルール違反ばっかりするんだから、卑怯よ。
自分がルールを教えていないことなどすっかり忘れている。
いいわ、もうすぐ安さんがルール違反しても、勝てるようになるんだから。
月森はフン、と鼻を鳴らした。
今日はその成果を見せることが出来る試合だ。半年前の大会では一回戦負けだったが、今回は三回戦までいくつもりだ。三回戦で勝てば優勝なのだ。女子の部は競技人口が少ない分、試合数も少なくなる。当然一回戦で強い人と当たる確率も大きくなる。女子は実力レベルの差が大きい。一回戦で強い人と当たれば、それで終わりである。それでも今までやってきたことを考えれば、どんな人とやっても負けるはずはない。半年前の悔しさを今日こそ晴らすぞ、と月森は意気込んでいた。
月森が行った後、次にヨレた服を着た山川が出てきた。
で愛の荘の裏にまわり、手にしていたシャベルを洗濯機の隣に突き立てた。
この辺でいいだろ。
山川はまわりをもう一度見回すと、そのまま買い出しに出かけた。
小一時間も経った頃、ホームセンターの軽トラに乗って帰ってきた山川は、荷台から荷物を下ろし再び軽トラを返しに行った。
「よし、やるぞ」
山川は戻ってくると、ぐっと気合を入れ、シャベルを手に穴を掘り始めた。
「やっかい、かけさせやがって」
独りごちる。
山川が掘っているのは、今買ってきた水槽池用の穴だった。この辺りは草が多い。夏になれば蚊がたくさん出てくるだろう。だがこの裏庭で金魚を飼えば、そこに蚊が卵を産み、その卵を金魚が食べる、そうなれば出てくる蚊も少なくなるはずだった。冬美から押し付けられた金魚をどうしようかと考えた時に、浮かんできたアイデアだった。
山川は深さ、幅共に五十センチ、長さ一メートルくらいの穴を掘ると、ひょうたん型のプラスチック水槽をはめてみた。
さすがにピッタリとはいかなかったが、良さそうな感じだった。
山川はそれを確認すると、小脇にあったコンビニの袋、昼食に手を付けた。
「何してんの」
昼食にいつもの牛乳とスナックパンを食べている所に、冬美がやってきて声をかけてきた。
「昼メシだよ」
山川は冬美に気がつくと、わざとぶっきらぼうに答えた。
冬美はあきれたように言う。
「そんなの見れば分かるわよ。私が聞いてるのは、その穴よ」
「お前こそ見て分からないのか。そこに水槽あるだろ。それを入れる穴掘ってるんだよ」
「やっぱりそうなんだ。でも何で」
山川の無愛想にも負けず劣らず、冬美も愛想があるとは言い難い。
「お前がこの前、俺に渡した金魚の池作ってるんだよ」
「まだ生きてたんだ。どうせすぐ死んじゃうんだから、そんなの作らなくてもいいのに」
そんな言い方はない。山川が言い返そうとした時、冬美はぼそっと付け加えた。
「でも、ありがと」
ちょっと、はにかんだようにも見えた。
「がんばってね、バイバーイ」
きっと優乃と遊ぶ約束でもしているのだろう。ほんの少し甘い香りを残して冬美は、で愛の荘に入っていった。
「かんべしろよ」
山川は前にも言った覚えのある言葉をつぶやいた。
デザートのケーキを食べながら、冬美が言った。
「これで美味しい紅茶があったら、言うことなしだね」
「ごめん冬美、パック紅茶しかなくて」
優乃は香りのない紅茶を飲みながら謝った。
今日の昼食はサンドイッチとケーキだ。どちらも冬美が買ってきてくれたものだ。冬美は美味しい店をよく知っている。その分、値は張るのだが、美味しいんだから気にしない。
「そうだ。今日、美味しい紅茶買いに行こうよ」
砂糖の甘さだけの味気ないこの紅茶では、美味しいケーキも安物のように感じてしまう。やはり美味しいものは美味しく食べたい。冬美の提案に優乃も賛成した。
「うん。そうしよっか」
今日の予定は街に出て、ウインドーショッピングのはずだった。しかしどうせ見るだけで帰ってくるよりも、何か買うつもりで街に出た方が面白い時もある。
早速どこのお店がいいかなと冬美が話し始めた。
もしここに山川がいたら、きっとうんちくを語り始めただろう。
紅茶は茶葉も大切だが、出し方がもっと大切だ。まず紅茶器セットをそろえて…。
しかしそんな話を聞いても、冬美も優乃もティーポットだって買わないだろう。本格的にやってもらうのは好きだが、自分で手間のかかることはしたくない。手軽に美味しくが一番なのだ。
「ねぇ、山川さんだったら紅茶器セットとか、持ってそうな気がする」
優乃が言うと冬美も大きく頷いた。
「あぁー、持ってそうよね。でも貸してなんて言ったら、一時間くらい話しそうだし、結局自分で紅茶、淹れそうじゃない」
聞いていた優乃にも、その情景がありありと浮かぶ。美味しい紅茶は嬉しいが、長い話はありがた迷惑だ。
二人は山川の話で盛り上がった。
お昼ご飯のサンドイッチとケーキがこなれた頃、二人は後片付けをしてウインドーショッピングと紅茶屋さんめぐりに出かけた。
「山川さん、行ってきます」
優乃は裏庭にいる山川に手を振った。
冬美も一緒に小さく手を振る。
「気をつけて」
山川も二人に手を振った。
二人は、で愛の荘を出て、坂を下りた。
「山川さんって、外で何か作るの好きなのかな」
優乃が冬美に聞いた。
「そうよね。何か池作ってるって言ってたし。マメよねぇ」
感心するように頷く冬美。
「池って、何の池作ってるんだろ」
不思議そうに聞く優乃に、冬美はさらっと答えた。
「先週、私があげた金魚用の池作ってるんだって。優しい所もあるのね」
「ふーん…」
優乃は探るような目で、ちらっと冬美を見た。
掘った穴を修正し、プラスチック水槽を埋め込む。地面から十センチ程度高くなるように埋める。雨が降っても土が入り込まないようにする工夫だ。排水用の穴が横についているので、水があふれ出す心配はない。
「よーし、いけるな」
山川はシャベルを手に、隙間に少しずつ土を入れて固めていった。
「山川、何やってんの?」
しばらくすると、矢守が廊下の窓から顔を出してきた。
「山川って日曜日必ず何かやってんのね。そう言う性分なの?それとも何かしないと死んじゃう体質とか」
「どんな体質だよ。たまたま最近重なっただけだ」
山川は手を止めて顔を上げた。
「へー、その池に片屋根つけるのね」
池とその横に積んであるビニールトタンを見て、矢守は言った。なかなか勘がいい。
「よく分かったな。あとそれ作って直接ここに雨が入らないようにして完成だ」
自信の案なのだろう。どこか自慢げだ。
それを聞いて矢守が、えっと目を大きくした。
「それで完成なの?空気入れるとか水の循環しないの?どうせ金魚とか何か入れるんでしょ、電源近いんだし屋外用の水循環器買ってきてつけた方がいいわよ」
山川はそう言われて、気付いた。
「お前、普段エロ魔人のくせに、こういう所でいい事言うな。気がつかなかったよ」
「何よ、少しは見直したって言いなさいよ。今のアドバイス代は体で払ってね」
「体ってアシかよ。もう許してくれ」
山川はこの前の徹夜作業を思い出して、顔をしかめた。
矢守も気付いて、ふふっと笑った。
「冗談よ。その代わりまたみんなでパーティーしよっ。その時は料理よろしくね」
矢守はそう言うとバーイと手を上げて、部屋に戻っていった。
山川もありがとよ、と手を振り、片屋根作りに入った。
四角い木枠を作って、青いビニールトタンを釘で打ち付ける。水槽を半ば覆うように斜めに地面に刺す。倒れないように左右に支えをつければ終わりだ。
山川は手際よく手を動かして片屋根を作っていった。
で愛の荘の庭には草が繁り、小さな白い花、青や黄色の花が所々に咲いていた。優乃が作った花壇の草花も毎朝、優乃が水をやるおかげで元気に育っている。今年は雨が少なく晴れの日が多い。夏は目の前だ。暑くなりそうな予感がする。
雀が三羽、で愛の荘の庭に遊びに来た。追いかけっこをしたかと思えば、草の中で虫を探したりもする。もう一ヶ月も経てば、雀も草に埋もれて見えなくなってしまうだろう。それともそんな風になる前に山川や、安が草刈りでも始めるだろうか。誰かがやれば、きっとみんな手伝うだろう。
そよそよ吹く風にまじって、雀たちはどこかに飛んで行っていた。
優乃も帰ってきた夕方。山川が片屋根の仕上げをしている所に、一人で冬美がやってきた。手に何か持っている。
「ふーん、こんな風になったんだ」
挨拶代わりに水槽を覗きこんで言った。
水槽には猫対策と思われる粗い網がかぶせてあり、水面には二・三の水草、水の中には金魚が元気に泳いでいた。
「まぁな」
山川はぶっきらぼうに言ったつもりだったが、やはり得意気な感じが出てしまった。
そんな山川に、冬美は手にしていた包みを渡した。
「はい、これ上げる。いるんでしょ、水、循環するやつ。家にあったからわざわざ持ってきてあげたわ」
押し付けがましく言っているようだが、どこかかわいかった。
一応、悪いと思ってるのかねぇ。
山川は思わず笑ってしまった。
「ありがと。ちょうど買いに行かなきゃと思っていたところだ。助かったよ」
冬美は気にしないで、と言うとすぐに帰っていった。で愛の荘に入らなかったところをみると、本当にわざわざ持ってきたようだった。
「ま、ありがたく使わせてもらいますか」
その場で冬美を見送ると、山川は包みから循環器を取り出した。
「おい、かんべんしろ」
包みから出てきたのは、家庭用の小さな循環器だった。
「大きさ見て判断してくれよ」
この水槽には、焼け石に水という感じではないか。
「ないより、マシか」
山川は苦笑いをして、取り付けにかかった。
冬美が帰った後、しばらくして月森が帰ってきた。鼻歌交じりで嬉しそうだ。
今日の試合。優勝は出来なかったが、敗者復活戦を経て三位になったのだ。
一回戦で優勝者に当たらなければ、二位だったわ。もう、安さんには負けないわ。今度は優勝よ。
月森は上機嫌で、で愛の荘に入っていった。
日が沈みかけていた。夕方前には終わるかと思っていたが、冬美の循環器もあって、意外と手間取ってしまった。
山川はもう一度、一息つくと周りを片付けて部屋に戻り、今日の汗を流しに風呂屋に向かった。
月がのぼり、夜の帳が降りる。
安はいつもに似合わぬしゃれた格好をして、で愛の荘を出た。よく磨いた靴が外灯の明かりを反射する。
坂を下りていく安の歩みは、いつもより静かだった。
きれいに折り目の付いたパンツに、クリーニングから戻ってきたばかりのようなピシッとしたシャツ。その上にジャケットを羽織っている。シックな印象だ。
安はいつもの駅に行くと切符を買い、街行きの電車に乗った。
街の中心から丁度外れた所に、そのバーはあった。
そう古くはないマンションの一階。隣にはしゃれた喫茶店と小料理屋が並んでいる。
木製の分厚い扉には、小さなステンドグラス調の飾り窓があったが、中はうかがえなかった。軒からさすハロゲンライトの明るい光だけがこの店を主張していた。
安はきしみ始めた扉に手をかけ、店に入った。
店の中は薄暗かったが、他のバーと同じように黄色い薄明かりに満たされ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
カウンターに十席、奥に机が一脚。小さな店内だ。
安はカウンターの扉よりの席に座った。奥の端の席には恋人同士と思われる男と女が座っていた。
安は思わし気に横目で、二人を盗み見た。
カウンターの奥から、店のマスターが暖かいおしぼりを差し出した。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
安は視線をマスターに向け、こんばんは、と目礼をしておしぼりを受け取った。
「いつもので、よろしいでしょうか」
三ヶ月以上は来ていないはずだ。だがマスターは安も、安がいつも注文するカクテルも覚えていてくれたようだった。
安はそれでと頷き、ゆっくり手を拭いた。
カウンターに両肘をつき、じっと空中を見つめる。端の二人から楽しそうな笑い声が漏れてきた。
安はそれを無視するように、独りじっと待った。
ミキシンググラスにお酒を入れステアする音。カクテルグラスに注ぐお酒のわずかな香り。
マスターは以前と変わりない手つきで、安の前にカクテルを置いた。
ギブソン。
それがこのカクテルの名前だった。辛口のドライジンをベースに、ベルモットを少し入れてかき混ぜる。有名なドライマティーニと同じ材料だが、ギブソンはマティーニがオリーブを入れる代わりに、小さなパールオニオンを入れる。
バイカル湖に沈む真珠みたいね。
そんな詩的な表現を、安は思い出した。
透明度が世界一のバイカル湖。このカクテルもまた何の色も付いていない無色透明だった。
湖の底に沈んだ真珠は、グラスの向こう…手の届かない所にある。
安がゆっくりと半分程飲み終えた時、マスターがすっと白い封筒をカウンターに差し出した。
「これをお預かりしました」
安は驚きと不安が入り交じったような目つきでマスターを見上げた。
「先日お一人でいらっしゃいまして、お客様がいらっしゃいましたら、これをお渡しして欲しいと頼まれました」
マスターが静かに言った。
「他に何か」
言っていなかったか、と安は聞いた。
「ただ、それを渡して下さいと」
安は再び封筒に目を落とした。
安の心が封筒と同じ色に染まっていく。
真っ白な封筒の表には安の名前が、裏には同じ手で〆の印だけ書いてある。見慣れた筆跡だった。
びり
安は止まってしまった心のまま、ゆっくりと封を切った。
白い紙が一枚、淡々と事実だけを語っていた。
安の白くなった心に、手紙の文字が一文字ずつ移されては消えていく。
安はじっと目を閉じた。空しさにも似た、うつろな思いだけしか感じられなかった。
安は手紙を封筒にしまい、ゆっくりと息を吐いた。
いつの間にか安から離れていたマスターが、心配そうな視線を投げかけてきた。
安は大丈夫だと言うように、口元に笑みを浮かべて頷いてみせた。
「ありがとう。ごちそうさま」
安は立ち上がり、カクテル代を机に置いた。
マスターはすっとカウンターから出ると、扉を開けて安を見送りに出た。
安はチラと店内を振り返り、自分が座っていた左隣の誰もいない椅子を見た。
店の奥の楽しそうな会話、カウンターの飲みかけのギブソンが安の背中を強く押した。
ギブソンに沈んだパールオニオンは、安の唇に触れることなくグラスの底に沈んでいた。
「ありがとう」
安はマスターとすれ違うとき、もう一度お礼を言った。
「いえ、また来て下さい」
マスターの気遣わしげな声に送られて、安は外に出た。
空はいつの間にか、小雨を振らせていた。
ジャケットに首を埋める安。よく磨いた靴が、雨に濡れていた。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
次回予告
薄明かりの中に漂うピアノトリオ編成のジャズ
ドラムが静かなビートを刻み
ベースが体を心地よく揺らす
流れるピアノの旋律
静かに始まった曲は、消えるように終わる
そんなまぼろしの物語り
安、何言ってんの。早く次回予告して
雪、こっちが渋く決めようとしてるのが、分からないのか
あんた、今のが予告になると思ってんの?早く目覚ましなさいよ
次回第二十一話 雪のチケット 前編
雪のチケットは危ないバラの香り
それ、ウソだから




